Love
Sick
僕は貴方の家来

 

煙草の煙


 「煙草を止めろ、禁煙しろ。副流煙のほうがキツいんだ。俺の身にもなれ。」
 それが仁木の口癖だと言っても良かった。
 例えそう言っても耳に留める男ではないのを良く知った上で繰り返される、レクリエーションの様な小言。それに沙門は返事もしなければ反応もしない。
 それが事務所や乗り慣れたベンツの中で交わされる二人の会話で、仁木にも深い意識はなかった。
 

 何でこんな事になったのか。
 沙門と仁木は、今現在二人きりで、電気の消えた地下駐車場に居る。
 いや、正確には二人ではない。人数は三人…か、それ以上だ。沙門と仁木と、銃器を持った敵。
 硬直状態に陥ってから、早くも数分が経とうとしていた。
 いつものように、取引相手とうち合わせをした帰りだった。地下駐車場に留めたベンツに戻ろうと、エレベーターを降りてほんの十数歩、歩いた所だったのだ。
 ふと見下ろした自分の靴の紐がゆるんでいた。直そうと思って身を屈めた瞬間、後ろで金属音がした。
 音の方へ目をやると、エレベータの扉のちょうど真ん中辺りが何かの衝撃に凹んでいた。瞬時にそれが何か分かりかね、正体を確かめようと立ち上がる仁木の頭を大きな掌が掴んで引き下ろす。その殆ど同時だった。
 続けざまに金属音が響き、辺りの灯りが一斉に消えたのは。
 
 灯りの消えた地下駐車場は、下手なお化け屋敷よりタチが悪い。
 柱の影に二人で並んで蹲ったまま仁木は心中で舌打ちをした。
 打ちっ放しのコンクリと、むき出しのパイプに柱。床に等間隔に置かれた車止め、そして大小形もまちまちな車達。視界に有るのは闇だけだと言うのに、障害物は至る所にあり、下手に動くとぶつかるだけで良い事はない。
 第一。その音が相手に聞こえれば、こちらの居場所を気取られる事になる。動けなかった。
 
 ふ、と横に煙草の煙が漂った。
 こんな時まで煙草か。そう言おうとして諦める。声を聞かれても終わりに違い有るまい。助かった後に幾らでも小言は言える。まずは現在の状況を何とかするのが先だ。
 沙門が横で溜息を吐いた。
 「うるせぇな。」
 足下に押しつけて消す。その声に仁木が息を呑んだ。
 思わず横の男の腕を握り締めると、しばし間をおいてその腕が笑いに揺れた。
 「阿呆。声ひそめる意味があるかよ。野郎は暗視野スコープ付けてるぜ。」
 
 何故だ、と言えずに押し黙ったままの仁木の横で、沙門がくすくすと笑いを零す。
 最初の銃弾は、灯りの下だった。いや、凡ての銃弾は灯りの下だった。と、そこまで考えて首を振る。悔しいかな、こうした時はいつも沙門の方が頭の回りは早い。
 「確かにな。奴ら二人以上だ。着弾と同時に駐車場のブレーカーを落としやがった。この暗闇は最初から計画通りか。となればスターライトスコープかノクトビジョンは必携だ。」
 20m程先に、「非常口」の緑の灯りが見える。非常口だけは別に電源を取っている事から、人為的な暗闇だと証明がつく。この一帯が偶然に停電になった訳ではないのだ。
 懐のベレッタM92Fを右手に握るが、何も見えないのでは使いようが無い。良い策も思いつかなかった。
 「ベンツまでどれくらいだ。非常灯の手前だったな、停めたの。」
 「非常灯の一個手前の柱だ。カードキー、ここから届くか。」
 仁木は懐を探って車のキーを取り出す。電磁式のカードキーは、上手くすれば20m近く届く。だが、場所が悪いのか、どうボタンを押そうが開錠の電子音は聞こえなかった。
 いくら目を凝らして周りを見渡しても、仁木に見えるのは闇と、精々非常灯の周りだけである。溜息をつく脇で沙門が動いた。
 「そいつを構えて祈ってろ。鍵を貸せ。」
 どうする、と聞く間も無く沙門は側を離れていた。微かな気配でそれが何となく分かる物の、目視で確認した訳ではない。覚悟を決めるが吉だと仁木は思った。ベレッタをかざすが、気休めである。視野が闇のままの人間に銃は過ぎた武器としか思えなかった。こちらは見えずとも、相手には良く見えているのだと言う現実に胸が悪くなる。
 
 パキ。
 不意に右耳の脇で音がしてそちらを向いた。何者か、生きて蠢く物の存在を感じて銃を向ける。だが、それが沙門だとは言い切れずに銃を向けて止まる。と、唐突に目の前に光が点った。
 
 「ぅあっ!」
 聞き慣れぬ声だった。顔を押さえる人影が一瞬の光の中に浮かび、同時に大きな人影が現れて、その首を掴んで引き落とした。あっという間に闇に戻る視界の中に、男の潰れたうめき声と、大きな物が床に落ちる、どさりと言う音が響いた。
 状況が分からずに固まる仁木の左手首を誰かが取る。掌の大きさから、相手が沙門とは分かったが、状況はまだ呑み込めなかった。
 「沙門さん、あんた、目が見え……」
 「もう慣れた。」
 嘘だろう。
 思いながらも動きに従う。ほんの数歩走ると、開錠の電子音が前方で鳴った。ようやっと状況が見えて来る。
 最初に聞こえた、パキ、と言う音はマッチだ。沙門が恐らくは仁木の周りに撒いたのだ。
 暗闇にうろたえる仁木を面白がって敵が近づけばそれを踏む。そうすれば仁木も反応すると言う計算で撒いた仕掛けだ。敵は沙門の思い通りに近づいた。その仕掛けを踏んで、その音に反応する仁木に驚き……その隙を狙った沙門の返り討ちにあったのだ。
 沙門がしたのは、暗視野スコープを着けた相手の前に光を突き出す事。恐らくはあの光は、最近流行のジェットライターだ。そうでなければ、普通のライターであそこまでの明るさはない。
 仁木は小さく舌を打つ。沙門にベンツに引きずり入れられながら、心中で大きく舌を打った。
 鍵を差し込んでエンジンをかける。思い切りライトを高めにしてアクセルを踏む。暗闇の中に唐突に溢れる光の所為で、スターライトスコープが全部イカれてくれれば万々歳だ。
 微弱な光を高い電圧をかけた光電倍増管を通過させて増幅(パッシブ式)し、映像化するのがスターライトスコープの特徴だ。唐突な光は倍増管が飛ぶ。スターライトスコープを着けた敵に対する最も有効な攻撃は光なのだ。
 「行くぞ、舌噛むなよ。」
 乱暴な発進にタイヤが唸る。ギュルギュルと路面とこすれて悲鳴を上げる。沙門は構わずアクセルを踏んだ。
 ベンツの後を追って、幾つかの弾丸がベンツのボディにぶつかる。複数の種類の発射音が追いすがる。
 振動の中で見上げた運転席の沙門の顔は、楽しそうに笑っていた。
 
 騒々しかったのは、僅か2分程だった。
 駐車場も出口近くになると、もうバックミラーに異様な影は無く、耳をつんざく金属音も無かった。良いとは言えない火薬の香りも、息が詰まる程の緊張感も、そこには何もなかった。
 駐車場を抜け、夕暮れの渋谷に出た時も、後に縋る影は見あたらなかった。たった今までの状況が信じられぬ程、そこはいつもの街だった。全くいつも通りの街だった。
 目眩がして、座席にずり落ちる。眼鏡を上げるのも忘れて深く溜息を吐く。
 「へたってんじゃねぇぞ、ドクター。」
 からかう様な声に、中っ腹で運転席を見上げる。そこには既にいつも通りの顔で、ステアリングホイールを操る沙門が居た。右手でステアリングホイールを握ったまま、左手で胸元を探る。見慣れた沙門の仕草だった。
 「あんた、俺を囮にしやがったな。」
 沙門が皮肉な笑みを浮かべる。お前でも分かったのか?と、その笑みは聞いていた。
 「銃を持った俺を囮にして、奴を呼び寄せやがったな。もし相手が近寄って来なかったらどうするつもりだった。」
 沙門は相手が近寄って来ると確信していたのだ。その判断理由は仁木にも分かっていた。
 襲撃者の人数は結局の所定かではなかったが、少なくとも二人以上で、狙撃手は相当な自信家である。しかも組んで間もないチームで、お互いに意志の疎通は上手く行っていない。そこまでは仁木にも断言できた。なぜなら。
 最初に放たれた銃弾が、まだ駐車場が明るい内だったからだ。
 どう考えても合理的なのは、消灯後の射撃である。駐車場が消灯され、戸惑う瞬間を狙って狙撃するのが正しい。もっともスマートなやり方は、暗くなった瞬間に大男を撃ち殺すやり方である。そう、大男を、だ。
 沙門を。ターゲットは沙門であった筈だ。
 狙撃手はこう考えたのだ。灯りを消す前に仁木と言う従者を撃てば、標的は苦しむだろう。暗闇の中で逃げまどう姿はさぞや面白かろう。
 狙撃手はその逃走劇を見たい為に、消灯前に仁木を撃ったのだ。所が、その初弾が外れた。初弾が外れた事から歯車が狂ったのだ。
 「運が良かったな、ドクター。」
 沙門が煙草を咥える。仁木はその手からライターを奪った。
 
 狙撃手のスターライトスコープを一時的にでも麻痺させたライター。小型のジェットのように、ボタン一つで火を吐く流行の小物。冗談じゃねぇぞ。
 マッチのブービートラップに、ライターの目つぶしだと。俺は、奴の喫煙道具に命を救われたって事になるじゃねぇか!!
 悔し紛れに沙門の煙草に火を差し出す。にやりと笑ったままの口元がその火を受け取った。
 「美味ぇ。」
 全く冗談じゃないぜ。
 「副流煙の方がキツいんだ。……大概にしとけ。」
 勝ち誇ったような沙門の笑み。遠く前方を染めるのは、オレンジ色の夕焼けだった。

BBS初出  2003.02.23〜27