★★衝突★★


 「うるせえ。」
 低く噛み殺した男の声が耳に届いた時にはもう遅かった。
 亮は、絡みつく組の若手達の腕を振り解き、一足飛びに事務所の奥の偉そうに幅の張った机の上に飛び乗っていた。
 睨み付ける三白眼の鋭さも、いつもはぞっと竦む男の存在感も、微塵も気にならない。
 太い首に腕を回し、襟首を掴んで引き寄せる。ピクリとも動かぬ男の体の代わりに、亮の体の方がずるずると引き寄せられた。
 
 沙門。
 亮の知る、この新宿での唯一の組幹部。
 ケツ持ちなどと呼ばれる、飲み屋の用心棒達の親玉。だがその用心棒は、ボディガードと言う意味とは違う。身を挺して守ってくれる防波堤とは違うのだ。
 彼らの得になる範囲で、イザコザを遠ざけるだけの存在。後一歩で上れる階段で、ほんの少しだけ後を押してくれる、言葉通りケツ持ちと言うだけの存在だ。
 彼らの損になる時は、躊躇もなく身を翻す。いつでも背を向ける。害になると判断された場合には、迷いもなく決着を付けに来る、油断のならぬ存在なのだ。この場合の決着とは。
 死だ。
 「カナ、殺ったな」
 「ああ?」
 「カナ、殺ったろう、沙門。」
 襟首に食い込む手は、傍目にも分かる程ガクガクと震えていた。恐怖で震えているのではない、抑えかねた怒りの為に震えているのだ。
 もっとも、今の青年の頭の中には「抑える」等という考えは微塵もない。吹き出す怒りの炎に操られて、感情で動いているに過ぎぬ。
 社会的生物としての凡ての計算を失って、ただの情動に突き動かされているだけだ。情動、怒り。だがそれは、男達には何よりもの説得力があった。
 事務所にわんさといる若手達が、誰一人として自らの頭に組みかかる青年を止められず、無意識の内に青年の前に道を作り、若頭に暴挙を働くチンピラの動きに身を固めている。その理由は青年のその情動だった。
 情動。怒り。
 青年の、周りも自身すらも省みぬ程の怒りが、その場の時間を止めていた。
 「俺がそんな雑魚を知るかよ。」
 沙門はその呪縛に囚われない。
 青年の行動に眉をしかめるだけで、若手達のように身を固める事もない。ただうざいと言わんばかりに、近付く青年の額を軽く押しやって、いつものリズムで紫煙を吐く。燃えるような瞳が遠慮無しに突きつけられるのが、却って新鮮だった。
 「………まぁ、例え知っていたとしても、だ。」
 突きつけられてくる真っ直ぐな怒りの瞳。物怖じしないのは面白い。無鉄砲なのも面白い。だが食いついて来る物は凡て敵だ。肉食獣の判断は、単純で明快、そして絶対なのだ。
 「それがどうした。」
 
 言葉とほぼ同時だった。
 獣の咆吼が上がった。
 沙門と比べて細く、小さい亮の体のどこからそんなパワーが出たのか分からない。机の上に仁王立ちになって沙門の巨体を引き上げると、そのまま壁に叩き付ける。体毎、壁まで飛んでそのまま絡みつく。
 「返せ!!」
 ばちん、と青年の拳が顎に当たる。うざったくて拳を受け止めるが、全くその意を介さぬ拳が次々に飛んで来る。沙門は側で立ち竦む若手に亮の体を放り投げた。
 やっとけ。
 そう言う意味だったが、若手が気づいて青年の体を留めるよりも、青年の動きの方が早かった。
 「返せ! カナ返せ、沙門!! でねーなら手前ェ、殺す!!」
 金髪の縁取りの中で、両の瞳が歪む。全身でがむしゃらに食いついてくる。渾身の拳に、沙門も身を翻した。
 突進してくる亮の動きに合わせてその頭を掴む。動きに逆らわずに、そのままの方向に押し出す。先にあったのは素っ気ない窓ガラスだった。
 
 事務所は三階にある。
 体当たりの勢いを殺さず、沙門が加勢した力に窓ガラスが保つ訳もない。バン、と鈍い衝突音の後に、薄い壁が砕け散る音が辺りに広がった。
 
 勢いに流された二つの体が、大きく窓枠の外に傾ぐ。
 窓枠に手を突き、体勢を整える沙門とは逆さに、押し出された金髪の頭は留まる事無く、窓の外へと加速する。緩い弧を描いて、重さのままに頭を下にしてゆっくりと、煌めく欠片と共に窓の外へ消えて行く。
 人通りの多い昼日中の新宿の街の片隅で、通行人達の黄色い悲鳴が上がった。
 

★★★★★★★★★


 穂邑は、騒ぎを聞きつけたその足で、直ぐに鷹野羽組の事務所に向かった。
 直情径行の亮が、回りくどい手を思い付く訳が無い。事件が起きたら、真っ直ぐにその核心に飛び込む人間なのだ。そこに、自分の身が危ないとか、騒ぎを起こしては損だとか言う打算が忍び込む隙はない。
 昨日からのゴタゴタでその場に居合わせた光と川上に、事情も説明せずに来いと叫んだ。いや、説明は要らなかったのだ。いつも冷静な穂邑が、顔色を変えてKIDを飛び出すだけで、二人が着いていく理由としては充分だった。
 ビルの足下まで辿り着き、いよいよ、と言う時だった。目指すビルの敷地内に踏み込み、真っ直ぐにビルの中に飛び込もうと言う、まさにその時だったのだ。周りの通行人達が叫び声を上げたのは。
 
 確かに、ビルの中の騒ぎ自体は、大分前から彼らの耳にも届いていた。
 大通りとは言えぬ通りに入った途端、そう大きくはないビルの三階の窓から、人の叫び声と、がちゃがちゃと何かをかき混ぜる雑音が漏れ出ていて、道行く人々の足を微かに鈍らせていたのは確かなのだ。
 穏やかな冬の日には、全く不似合いな騒ぎだったから、道行く人々の耳に突き刺さり、その視線を集めるのは仕方ないと言えた。だが、それだけだった。
 正体の知れぬ、ビルの中の小さないざこざ。周囲の人間にとっては、それだけの物に過ぎない騒ぎだった。それ以上の何物をも、その場の人々が想像していた訳ではない。何かの結末を求めていた訳では、更にないのだ。
  
 だが、結末は三階の窓から不意に姿を現した。
 唐突に、全く唐突に、凄まじい破裂音と共に、それは窓を突き破ったのだ。
 
 三人はその情景に凍り付いた。
 見慣れた大柄の男が突き出した腕の先に、縫いつけられて窓から現れた人影は、彼らが求めていた同僚のそれに違いなかった。陽の光に透けて白く光る髪の軌跡がゆっくりと下向きの弧を描く。もはや止めるべくもなかった。
 凍り付いた視線の先で、妙にゆっくりと、オレンジ色のパーカーが宙を泳ぐ。
 自らの身に起きた異変に気付いたのか、金色の頭が、庇うようにして丸められる肩の中に沈む。途端、体が左に傾いだ。妙にゆっくりした動きに見えたが、時間としては恐らく一秒もかかっていないに違いない。
 息を詰めて見つめる彼らの目の前で、人影が着地したのは、冷たいアスファルトの路面ではなかった。
 バン、と険しい音と共に、その体が着地したのは、大きなトラックの上だったのだ。
 アルミ色のコンテナを積んだ4tトラック。丈高いその背中が、降りかかる煌めきと共に、オレンジ色のパーカーを受け止めた。
 
 どうなったのか、亮自身も瞬時に分からなかった。
 ただ、沙門に絡みついた筈の体が唐突に支えを失って、後頭部に鈍い衝撃が来たと思ったら、風景が変わっていた。
 事務所が青天井になって、独得の浮遊感が有った。
 やばい、と感じるより先に、体の方が頭を守った。両手で頭を庇って、丸まったとほぼ同時だったろう、体の左側にどしんと衝撃が来た。
 自分を包むようにべこべこと、何かが音を立てて凹む。決して柔らかくはないその物が、亮の代わりに壊れてくれた事が、地球の重力を心持ち和らげる。だが直ぐ、足りないクッションの反動が体を貫いた。
 心臓が跳ね上がる。胃の辺りに反動が来る。がぁん、と世界が歪んだ。肩の周りで、バキン、と妙な音が響いて、痛みが背骨に抜ける。無意識に声が出ていた。
 堅い頭蓋の中で、柔らかい脳が揺さぶられる、唐突な移動と重力に脳の中の一部が去血状態に陥る。視界が霞んだ。自分の喉が上げる、妙な叫びとも呻きともつかぬ雑音が、どうにか意識をつなぎ止める。
 鼻の中に血の臭いが充満した。それが却って意識を呼び起こした。冗談じゃ無い。
 
 「うああああああ !!」
 トラックのコンテナの上から振り降りてくる叫びに、その場の人々は驚いて駆け寄った。震動に驚いた運転手が、コンテナ後部についた梯子から上に登ろうとした時に、コンテナの上で人影が持ち上がった。
 落ちる際に傷付けたのか、それとももっと前に傷付いていたのか、赤でまだらになった金髪頭ががばっとばかり持ち上がる。片脚を引きずるようにして後部に移動し、梯子に捕まる。運転手は慌てて飛び降り、よろめく彼の体を支えた。
 「亮 !!」
 聞き覚えのある声が、自分の名を呼んでいるように感じたが、気にかけている余裕はない。目指す敵は、何事もなかったように窓枠に寄りかかったまま、紫煙をくゆらせ、眼下の亮を眺めているのだ。亮は、体を支える運転手の、労務者独得の厚ぼったい掌を振り払った。
 
 冗談じゃねぇ。
 立場が逆じゃねぇか。たたっ殺してやると口走ったのは自分で、掴みかかったのもこちらが先だ。理があるのもこちらで、叩き伏せられねばならぬのは、奴の方だ。
 奴の。
 沙門の方ではないか。
 足を踏み出すと、鋭い痛みが下肢を駆け上った。ついよろめいて立ち止まる。見上げる先の男が、見限ったように窓から姿を消す。頭に血が上った。
 「手前ぇ、沙門 !! ブチ殺す !!」
 駆け寄った穂邑達三人の目の前で、亮は踵を返した。三階の窓を見上げていた視線を入り口の階段に移して、視線の動きそのままに身を翻す。慌てて光がその肩を捕らえた。
 「亮 !!」
 唐突に封じ込められた動きに抗って、亮が腕を振り回す。何事かと集まり始めた野次馬の中で、川上が光に加勢する。穂邑もその胴に飛びついた。
 ぐにゃり、と不自然に沈むあばらを避けて、腰に腕を回す。腕の中の獣は、思うように動けぬ体に腹を立てて、雄叫びを上げた。
 「沙門 !! 出て来い沙門、手前ェだ。手前ェがカナを殺りやがったんだな !! 
 うおぉらあぁぁあああああああぁぁ、出て来い、沙門んん !!」
 
 「救急車 !! 救急車呼んでくれっ!!」
 穂邑の頭の上で、光が叫ぶ。その声にすら反応して暴れる体を、三人がかりで押さえつける。野次馬の内の一人が、携帯に助けを呼ぶ声が、雄叫びの合間に三人の耳に届いた。
 「亮、落ち着け! 亮 !!」
 叫びの隙間にそれぞれが耳許に叫ぶ。正気を失って燃え上がる青年の心の隙間に、必死になって呼びかける。
 明らかに傷んでいる体が気にかかった。今だけではない、これから先の、青年の身も気にかかった。凡ての常識を無視して、がむしゃらに獲物を求める獣の行き着く先が恐ろしかった。
 「亮、しっかりしろ。落ち着け、落ち着け !! ―― カナさんの後を追う気かよっ !!」
 体が重かった。夢の中で走っている時のように、幾ら力を入れても、足は思い通りにならなかった。じれったくて躍起になるのだが、不意に重さに耐えかねて膝が折れる。がくん、と体が沈んだ。
 地面に崩れ落ちて、痛みの余りその場に蹲る。柔らかく体を支える何本かの腕と、耳許で叫ばれていた言葉の意味に、亮はこの時、初めて気付いたのだ。
 冗談じゃねぇ。
 「カナ……」
 三人分の腕が頭を掴み寄せる。腕の持ち主達が誰なのかが、ぼんやりと頭の中に入ってくる。
 獣が息を吸い込む。その後に吐き出されたのは、嗚咽とも咆吼ともつかぬ、叫びの奔流だった。
 

★★★★★★★★★


 「おい………」
 徐々に元の動きを始める事務所の中で、不機嫌そうな声が呟く。
 座り慣れた椅子の上で騒ぎを面倒そうに聞き流し、大きくなる救急車のサイレンの中でゆっくりとスーツの上着に腕を通す。
 野次馬が集まるような騒ぎともなれば、必ず警察が事務所に来る。騒ぎの中心の沙門が、その時事務所にいない方が良いなどと言うのは、自明の理である。面倒だろうが何だろうが、何処かに行方をくらましていた方が身の為なのだ。
 気の効いた情婦の元などで、時間を潰していれば事は足りる。どうと言う事はない。
 「面倒だな、あのガキ。…フン。目をかけてやりゃ、これか……」
 
 青年が騒ぎ立てた「カナ」なる人物の事など、沙門は知らない。
 恐らくは鷹野羽組絡みで有る事も事実で、姿を消したのも事実なのだろう。となれば、青年の言うように「カナ」なる人物は消されていて、それを行ったのは鷹野羽組の誰かと言うのは確かかも知れぬ。
 だが、そんな事は。
 日夜繰り返されている、新宿という名の街の営みに過ぎず、沙門の知る所ではない。名も知らぬ日常が、誰をどう料理しようが、沙門の知った事ではないのだ。
 「おい、お前。」
 若手の一人に声を掛ける。
 やっと成人したばかりと言う風体のニキビ面の男が、はい、と小声で答えて駆け寄った。
 「奴に話を通して来い。あの有様じゃ、どうせ話は通らねぇ。通らなかったら……」
 窓の外が、徐々に夕焼けの桃色に染まる。まだ、日の短い冬の夕焼けの煮え切らない桃色が、暮れ行く空の雲の上に乗る。沙門は短い溜息を吐いた。
 
 「沈めとけ。……ちっとは面白いガキだと思ったが、ここ迄だ。邪魔になる物は掃除しとけ。」
 若手が、短い返事と共に頭を下げる。
 大きな沙門の体が、ゆっくりとドアをくぐる。低い戸口を不機嫌そうに、首を竦めて通り過ぎる。
 静かにドアが閉じるのと、ビルの足下にサイレンが止まるのは、ほぼ、同時だった。
   

 

いいわけ

 完璧個人趣味のアクション&ちょっとだけバイオレンス。済みません。こう言うの大好きで血が騒ぎます。
 ただまあ、いずれNB本編にも出て来るシーンの拡大版ゆえ、余りはっきりした事は書けません。
 何とな〜〜〜く煮え切らず、最初も最後もぶっちぎれて終わっているのは、そう言う訳です。
 当InsideStoryの「カナ」には、故にNB本編では、全く別のキャラの名が入ります。既に皆様がご存知のキャラかも知れないし、そうではないかも知れない。そこらは現段階では秘密です。
 一体何年後になるのか、はたまたNBはその時まで打ち切られずに続くのか、そこら辺は全くの謎ですが、どうかお忘れになってお待ち頂ければ、幸いで御座います。
 当然ながら、亮はこの後相当な怪我で病院にかつぎ込まれ、ギプスだらけの姿で家に帰るのですが、奴に反省が有ったのかどうかは、以下の文章で、匂いだけ少し、お楽しみ下さい。
★★