悠子 2 

 エスコートって言うのよ。
 コールガールが例え男だって、立場は違ってもエスコート。つまりは相手に気を遣って、先導する立場。亮のやっているホストは、それ系の存在の筈。
 だと言うのにこの子と来たら、"アフター"だと店から出た途端、私を後ろにしてずんずん勝手に歩き出した。そこにはエスコートのエの字だって無い、私の存在なんてすっかり忘れている仕種だった。
 それでも私は大人の女だし、亮よりも年上だから、弟か目下の後輩に対するように大目に見て黙って付き合ってやった。だと言うのに。
 「ちょっちょ、そこのおネーさん、何、今日は真っ直ぐ帰るのぉ?」
 かちん、と来た。
 亮が声を掛けたのは、精々亮と同い年かそれくらいの、ベリィショートの派手目の女。もう、エスコートどうこうの問題じゃなかった。
 女と一緒の時に別の女に声を掛ける男なんて最低。でもそれよりもっと。
 一緒にいる女より、微妙に若くてほんのちょっといい女系の女に声を掛けるなんて、最低中の最低野郎に違いない。この坊やが弁えてやっているのか、それともナチュラルな馬鹿野郎なのか、そんなのは瞬時にどうでも良くなった。
 無言で近付き、ヒールで足を踏んでやる。今日のヒールは9cmの細目の作りだから、相当に効く筈だ。
 うぎゃっ、と悲鳴が上がるのを耳に捕らえながら、私は踵を返した。
 こんな物よね、ホストとのお遊び。
 幾ら店では持ち上げて、お姫様のように扱ってくれても、店を出たら所詮ただの男と女なんだもの。乙女チックな妄想を抱いた私の方が大人気なかったんだわ。
 家に帰る途中でコンビニに寄って、お弁当とビールでも買って帰ろう。それを食べたら今夜の為にゆっくり寝よう。
 そう、今夜の男の客との一時の為にゆっくり休もう。

 「うき――、いて。いってぇじゃねぇかよ。ひでぇ女。おー、痛て。」
 首に掛かる、見た目よりがっちりした腕に抑えられて、私は踵を返した所でそれ以上動けなくなった。鬱陶しくて腕を掴み、睨み付けて、予想外に優しい目に見つめられて尚動けなくなる。
 「………何よ。」
 何だろう、私のこの、拗ねた様な声ったら。
 「あんたが悪いんでしょ。フツー、女と一緒の時に女に声かけるかぁ?」
 踏まれた足が痛いんだろう、私の首に絡めた腕に体重を掛けて片足を上げ、足の甲を靴の上からさすっている。
 「フツー、俺が先に出たら、可愛い女は俺の腕にくっついて来るモンだべ。おネーさん、俺の事無視して歩きやがっといて、挙げ句、ヒールで踏むかぁ? あーいて。」
 驚いた。
 言われてみて、本気で驚いた。
 じゃあ、この子は私を置いて歩き出せば、私が「待ってよ亮」と、腕にくっついて来ると計算して、わざと先に歩き出したとでも言うのだろうか。呆気にとられながら、想像してみる。成る程、彼のシミュレーションも有りかも知れない。むしろ、一般男社会では広く通じる物かも知れないと思って、改めて驚く。
 やだ、私、男の事で読めない事なんて無いとタカを括っていたのに。
 計算とも言えない、穴だらけの子供の発想が、私の想像を軽く超えていた。格好良くしたい、女の上を行きたいと言う悪戯っ子の発想に、大人の女の想像は置いて行かれたのだ。置いて行かれてふて腐れたなんて。
 思わず笑みがこぼれた。自分の滑稽さと、目の前で自らの足をこすっている青年の不機嫌な苦笑が、アンバランスで堪らなくおかしかった。
 笑いを噛み殺しきれない私の首に、相変わらず腕を預けたままの亮が、ちっと舌を打った。
 「可笑しかねーよ。あーあ、この靴バックスキンなのによ〜〜。見てよこの見事な踵プリント。ど真ん中だぜ。」
 亮の言うとおり、バックスキンで赤と黒のツートンの靴の赤の真ん中に、私の踵の後があった。歪んだ半円形の見事なプリント。多分、丁寧にクリーニングをしないと、この跡は取れない。私は本気で吹き出した。
 亮の表情も、声も、素っ頓狂なバックスキンの見事なプリントも、訳が分からないくらい物凄く可笑しかった。
 思ったより逞しい亮の腕に縋る。亮の足を踏む時はあんなに力強かったヒールが、笑いにぶれて頼りなく、彼の腕に縋って笑いの奔流に身を任せる。
 こんな小さな事がこんなに可笑しいなんて、私はどうかしている。だって可笑しいんだから仕方ないじゃない。頭の中の自分同志の会話の狭間に、滲んだ涙を拭く。視界の真ん中で満足そうな男の顔が、してやったり、と笑った。
 「へへん、おネーさん、やっと笑ったね。笑えんじゃんよ。フツーに。」
 しまった。


 それからは見事に亮のペースだった。
 笑いと言うのは不思議な物で、ひねくれていた人の心を簡単に真っ直ぐにする力を持っている。不愉快に見えていた空の色や、デパート群の窓に下がる、大仰な売り文句を、素敵に思わせるパワーがあるのだ。
 そう、私が笑って亮の腕を取り、まるで古くからの馴染みのように、化粧品が相手の服に着く事にも頓着しないで頬を寄せたのは、皆一時の笑いの所為だ。
 「まず、飯!! 腹減った。」
 亮の号令でスクランブル交差点の赤をすり抜けて渡り、ガード下目がけて走ったのも、皆笑いの所為だ。
 そう、単にそれだけなのだ。きっと隣にいる、子供のようなホストの所為なんかじゃない。

 幾ら履き慣れても、ヒールはスニーカーにはなれない。
 車の排気ガスで煙るガード下を走り抜け、新宿の雑踏の中で一際ごちゃごちゃと身を寄せる、軒の低い不細工なビル群の一角に滑り込む頃には、憎らしいホストは私の遙か前にいた。
 ひょろりと細っこい体の肩の上で、ぱさぱさの金髪が動きに合わせてなびく。振り返り様に、ノロマ、と唇だけで呟いて翻る軽い体が癪だった。年甲斐もなく、こいつ、と叫んで追いかけて、不意に郷愁に囚われた。
 そう言えば、子供の頃は良くこんな事をしたものだ。鬼ごっこだと言っては、日が暮れるまでそこら中を走り回った。置いて行かれるのが悔しくて、追い付かれて追い抜かされるのが悔しくて、必死になって近所の男の子に混じって走ったっけ。苦笑が漏れた。
 子供の頃のお遊びなのに。遙か昔に卒業した筈の戯れ事だと言うのに。私は今、あの頃と同じ悔しい思いで、目の前の背中を追いかけている。
 ふと気付くと目の前に亮の背中があった。
 踏みとどまっても間に合わず、亮の背中にぶつかって縋り付く。唐突に動きを止めたその背中は、あっけないほど難なく私の体を止めて立ちはだかる。細っこく、頼りなげに見えたその背中は、思ったよりずっと広くて、触れた場所からじんわりと広がる体温に少しばかりドキリとした。
 鼻先を甘口のスパークリングワインの香りがくすぐる。先程まで宿っていた夜の吾妻屋で、酌み交わした酒の味が口の中に蘇る。特別な意味を込めて見上げた先の悪戯坊主は、難しい顔をしていた。
 先程までの笑顔はどこへやら、真剣な眼差しで何かを見つめている。その視線の行方を追って、私は堪えきれずに吹き出した。
 見つめていたのは、店先に置かれた塗りの剥げた黒板。ぶっきらぼうに「今日のオススメメニュー」と書き殴られた、使い古しの黒板だったのだ。
 馬鹿じゃないの? 子供みたい、本当にこの子ったら。
 外見イケイケのホストの亮が、純なあんちゃんみたいに、「肉うどん」とか「ぶっかけ丼」とか言う、どう考えてもイケてないメニューの前で真剣に悩む図は間の抜けた冗談みたいで可笑しい。眉を顰めて口をとがらして、どうしようかな、と呟く声に、笑いと一緒に涙が出そうになった。
 どう考えても、これは正しい"アフター"のコースなんかでありはしない。
 一回目の"アフター"なら、無難にどこかそれなりの、小綺麗なレストランで済ますのが定石だ。ここは新宿なのだから、そんな店はぐるりを見渡すだけで三桁は下らない。アフターにも同伴にも、これ以上は無いという最高のロケーションに間違いはないのだ。だと言うのにこの子と来たら。
 ガードをくぐって小汚い定食街に潜り、庶民的過ぎる定食を一緒に食べる。
 そんなアフター、今迄聞いた事も見た事もない。まるっきり、悪戯坊主の適当な日常に過ぎないじゃないの。でもそれらが。
 全て新鮮で面白くて、わくわくする自分に、私は何だか感動していた。
 一体どれくらい振りだろう。こんな風に、見る物全てに魅力を感じるのは。
 ランプが切れて「いらっしゃいま」と言いかけたままの看板。店の玄関脇の妙な招き猫。道路をのたくるグラフィティ。それら全てが生暖かく、生活と言う人間の息吹と体温を私に運んで来る。こんな感覚は、一体いつ以来なんだろう。
 ゴミゴミした街の底で、生活に追いまくられて深呼吸するのも忘れていた。いつの間にやら擦り切れて、擦り切れた箇所を繕い繕い、それでもどこも傷んで居ないと平気なフリで過ごして来た。この日常が当たり前で、辛いとか満たされないと感じる自分がどうかしているのだと、自分の感覚に蓋をして来た。
 年を取ったから大人になったのだと自分自身に言い訳して、何もかも分かったフリを装って来た。男の事なんて何でも知っている、全部分かっていると、自分の事も何一つ分からないお子様な自分を誤魔化し続けてきた。それは一体、いつからの事だったのだろう。
 「よしゃ、これに決めた。な、おねーさん、これ!! な。」
 真剣に悩んで心を決めた、亮の瞳が振り返る。
 子供である姿を誤魔化さない亮の真っ直ぐな瞳が、てらいもなく私を見つめて笑う。私は大きく息を呑んだ。
 夜に溺れなかった真昼の灯り。夜のとばりの中でさえ頑固に輝いて、眠ったような状態で街に流されていた私に昼の暑さを思い出させた勝ち気な瞳。何だかとても癪に障って、それでも引き込まれた、単純で、開けっぴろげな子供の目だ。
 物怖じしないその瞳が、私に同意を求めてちょっと甘えるのが、何だかとても可愛らしいと、心の底から、そう思った。
 

次の頁へ⇒