悠子 3 


 「マジ?」
 冬の気短なお天道様が、空のてっぺんから駆け下りる。まだ時計は午後になったばかりだと言うのに、辺りはぼんやりとした白い夕暮れに包まれる。暮れない昼、晴れない夜。この適当な白さはそんな曖昧な言葉で表せそうだった。
 食事を終えてから、たわいもない話で盛り上がった。よく食べて良く喋る亮と一緒に、私はここ何年か分を合わせたよりもっと、うるさい声を立てて笑った。らしくもなく浮かれ気分で、ずっと年下のホストの腕に絡みついて、それこそ紛れもなく楽しんだ。
 そう、店を出てあんな景色を見るまでは。
 「何よ、怖じ気づいちゃったの? 亮ちゃ、ん。
 俺を満足させられんの、おねーさん、なぁんて言ってた癖に。満足させて上げるわよ私。プロだもの。」
 「何だよ、いきなり?」
 亮は思ったより、カンが良い。それを誤魔化そうとはしない純真さと、隠そうとはしない残酷さも併せ持っている。眉間に浮かぶ皺は、紛れもなく彼の疑惑で躊躇で、それがはっきり伝わるのが鬱陶しい。
 黙って付いてくればいいのよ。ただでヤらせて上げるって言ってるんだから。
 亮だったら絶対何言か返してきそうな台詞を呑み込んで彼の腕を取る。半ば強引にそのままホテル街にもつれ込む。気の早いこの街の一角が、もう準備している夜の片隅に強引に潜り込む。見通しの悪い玄関脇の、黄色がかった各部屋の写真の中から見もせずに一つを選んでボタンを押す。フロントに鍵を持つ手が覗いたのを、私は顔も向けずにひったくった。
 慣れた動作に迷いはない。躊躇いなど微塵も無い。後は小さいエレベータに乗り込んで、たった一階かそこいらを上がるなり降りるなりして、私の楽園に転がり込むだけ。そう、楽園に。私にとって何もかも忘れていられる唯一の、楽園に転がり込むのだ。
 唇に何かが触れて、私は目を上げる。
 目の前に、亮の金髪があった。整った眉と、長い睫毛。軽く目を閉じて顔を寄せる彼の背後で、素っ気ない灰色の扉が開く。ちん、とエレベータの到着音が鳴って初めて、私は悪戯坊主にキスされたのだと知った。
 「何をイライラしてんだか。そんなこって俺を満足させられんのかね、おねーさ、ん。」
 挑むような笑顔。悪戯小僧そのままの、勝ち気で楽しげな表情がそこにあった。
 一つしか目的のない城に入った事に、とうの昔に順応したよと言わんばかりののびのびとした笑顔が私の目の前で翻る。私を置いてきぼりでエレベータから出て行こうとする彼の腕に腕を絡めると、満足げな笑顔が私を迎えた。
 「そうそ。そのチョーシ、そのチョ−シ。」
 こいつ。
 

 子供の扱いなどお手の物。何しろ私はこの道のプロなのだ。
 毎日毎日、私の所へウサと一緒に欲望を垂れ流しに来る男達を満足させて、私は暮らしている。その手練手管に、数やイメージの限界はない。どんな人間のどんな要望にも、私はそれなりに対応出来る。だって、それで食べているんだもの。
 自分で道具を持ち込む男などザラで、それを使ってみたいと言う客はまだタチが良い。扱い辛いのは、それを俺に使ってくれ、と懇願してくる客だ。男と女では、身体の構造も器具を使用する場所も違う。同じ器具を使うにも、男の方が色々と手続きが煩雑で、しかも後片づけが面倒でうんざりする。気分の乗らない時は曖昧に断ったりもするが、そうそう上手くかわせない時だってままあるのだ。そんな時は度胸と勢い。客が取り敢えず満足すれば良いのだとばかり、開き直る事がこつなのだ。
 ホテルの内装はシンプルなクールグレーだった。
 部屋の一番奥に小さなカラオケセットがあって、マイクが二つ、ビニール袋を被ったままテーブルに置かれていた。
 小さな冷蔵庫と、丸い椅子と、ベッド。ごくごく標準的でシンプルな装備だ。ベッドの枕元の棚には、必要な備品が幾つか。ティッシュ、スタンドライト、電話、リモコン、そしてコンドーム。
 ベッドは大きめ。スプリングもへたっていなくて悪くない。部屋の印象も中の上。総合的にまあまあ合格。そう言えば、このホテルは初めてだわ、と考えて苦笑が漏れた。
 当たり前だ。私は男と二人でしょんべん横町でくつろいだ事もなければ、そのままホテルに雪崩れ込んだ事なんて、自慢じゃないが、無い。この新宿に流れ着くのが、そこまで早くもなければ遅くも無かった。男のおまけで付き従える程若くもなければ、率先して行く程枯れても居ない。私はそんな中途半端な存在なのだ。
 一緒にシャワーを浴びようなどと言うお子様を置いて、私は先にシャワールームに入った。
 ホストクラブの新人が、どういう教育を受けるかなどと言うのは、私だって予想が付く。少なくとも、客からベッドに誘われたら、断れなどと言う教育は受けていないはずだ。それどころか。
 フリーの客とは可能な限り寝てしまえ。女は初めが肝心で、先制パンチで体の関係に持ち込んでしまえば、後は何とでもなる。最初の一度でキメて、良い思いをさせておけば、後は宥めてすかして脅しをかけて搾り取れるだけ搾り取るだけだ。

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