【プロローグ】

 
 

 見晴らしが良くなった。草薙は思う。
 列車の窓から見えるのは、彼の記憶に残る景色より数段見晴らしが良かった。
 何処までも平らで、何処までもモノトーン。
 彼の生まれ故郷は、黒く焦げた大地の果てにあったのだ。
 まだ走り回れた幼い時代があった。記憶に残る限り、一番満たされた時代。幼なじみと共に「探検」と称して転げ回った町。畑と木々と雑草の森と、数え切れぬ程の謎と夢の地。
 見慣れた家並みは凡て消えていた。見渡す限りの黒ずんだ瓦礫と白茶けた地面の果て。荒涼と広がる焼け野原の果て。列車とは名ばかりの、人間の箱詰めの中に納まって彼は考えた。
 家はこんなに遠かったのだろうか。
 人と人の間に埋もれる視界には、妙に青い空が過ぎて行く。
 自分は何をしに行くのだろう。
 何を求めて。
 何故。生きているのだろう。
 
 

 玉音放送なる物を、蝉の鳴く庭で聞いた。
 その場の全員が直立不動に立ちすくみ、ざらざらとした現人神の声を押し頂いて聞いた。
 訥々とした放送は音が悪く、また言葉遣いも奇妙な程に難しく、聞く者の何割が真に内容を理解したかは定かではない。
 だが、言葉は通じずとも、その思いだけは如実に伝わった。悲痛に沈む心根だけは伝わった。
 深く頭を垂れたまま、男が泣いた。女が、子供が、訳の分からぬまま、悲嘆の涙に暮れた。
 全員にたった一つ分かった事。それは、日本が戦争に負けたと言う事だった。


 

 朕 深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク
 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々(そもそ)モ帝国臣民ノ康寧ヲ圖(はか)リ 萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
 
 曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦 実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スガ如キハ 固ヨリ朕ガ志ニアラス
 然ルニ交戦巳(すで)ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公各々 最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢 亦 我ニ利アラス
 加之(これにくわえ) 敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル 
 
 而モ尚交戦ヲ継続セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ 是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
 
 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
 
 帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃(たお)レタル者 及ヒ其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク 且戦傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
 惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕 善ク之ヲ知ル
 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
 
 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ
 若シ夫レ情ノ激スル所 濫(みだり)ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠 互ニ時局ヲ乱リ 為ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失ウカ如キハ 朕 最モ之ヲ戒ム
 
 宜シク挙国一家 子孫相伝ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシテ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ遅レサラムコトヲ期スヘシ
 
 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
 


 
 1945年。昭和20年、秋。
 戦争が終わり、将兵も疎開先の国民も、みなそれぞれに自らの家に呼ばれるように列車を乗り継いだ。連日屋根まで人を積んで運ぶ列車に、誰も彼も強引に乗り込んだ。
 汚れ、疲れ果てた人々が、スシ詰めの列車の中で毎日何人も死んだが、それを気にする者も余り居なかった。彼とて、どちらの側に立っても驚きもしなかったろう。
 どちら、とは。死ぬ方になっても見送る方になっても、と言う意味だ。
 後者は今まで散々やってきた。前者はやった事はないが、恐らく深い感慨は無いに違いない。やっと自分の番が巡って来た。そう思うに過ぎない。
 
 列車を乗り継いで家に着く頃、世の中は秋を過ぎ、冬にさしかかろうとしていた。
 家には人の気配はなく、ぴゅるぴゅると鳴く虎落笛だけが彼を迎えた。
 歪み、伸び放題になり、そこかしこ枯れた竹囲いの垣根。彼を迎え入れたのは、見捨てられたかのように、殆ど無傷で残った懐かしい我が家だけだった。
 母も父も妹も弟もそこにはなく、ただ、「草薙」と書かれた傷だらけの門扉がそこに有った。すり切れた畳と、飴色になった縁側。広いが簡素な家が、彼に残された凡てだった。
 荒れた庭に入り込む。枯れ始めた雑草で覆われ、地面が殆ど見えない庭の中で、朽ち果てた器が半ば土に埋まって覗いているのが、不思議にぽつんと浮いて見えていた。
 塗りの何も施されていない木製の器。ごく普通に自然に還ろうとしているそれの中で、ただ一つ不自然な傷が、暮れかけた黄色い陽光の中でちらりと輝いた。
 
 ユフ トモジ
 
 不意に胸が詰まった。
 「………下手くそな字だな」
 木目を無視して乱暴に削られた細かい溝の固まり。漢字が面倒で、カタカナで彫ったのは自分だ。その時の事は良く覚えている。
 取り上げようとして手を止める。無意識に蹲った膝の間の土に、ぽつぽつと黒い点が穿たれた。
 

 妹の名前はゆふ、弟の名前はともじと言った。
 生まれた時間が夕方だったから、夕。朝だったから朝二。自らも、朝生まれた朝一である。
 年の詰まった兄弟は、良く団子のように固まって遊んだ。二人は子分だった。穏やかな王国で、自分は幸せな王様であったのに。
 二人の眠った時間は何時であったのか、彼は知らない。
 

 いつも気付くと取り残されている。
 役に立たぬと言われているのに、自分だけはいつも残るのだ。
 悲しくも寂しくもなかった。今更、大した激情も残っては居なかった。ただ。
 不思議な涙だけが、足下の土を黒く染めていた。
 
 
 

 戦後という名の日常が、始まろうとしていた。
 


 


 
始→
【この物語はフィクションです。実在する個人/団体名をお借りしておりますが、事実とは関係有りません。】
(C) Copyright A/T 富田安紀良