夏も過ぎ、秋の虫が競って鳴き出す頃になった。
 草薙の仕事は落ち着いていた。
 世田谷区役所員。それが今年になってからの草薙の職であり、主な仕事は復員者の戸籍の整理だった。好きで始めた仕事ではなかったが、徐々に要領も得、一時期のラッシュを過ぎた事で、今ではこの仕事を得られた事を心から感謝している。
 世田谷には、東京大空襲の被害をまともに受けずに無傷で残った旧家も多い。無論、B29が落としていった爆撃の跡も、焼けこげた区画もあちこちに点在する。だがそれは、ゼロからの出発ではないのだ。
 ほんの少し苦慮する程の区画整理。サラ地から始めねばならなかった都心に比べ、世田谷は平和な地域であったと言わねばならぬだろう。
 平和。
 国民にとって、まだその言葉は遠かった。
 淡々と過ぎていく日常の中で、深刻に降りかかるのは物資の不足。何よりも彼らを苦しめたのは、徹底的な食糧の不足だった。(※2)
 一人一食八勺だった米などの食料の配給は、戦争の終結と同時にいつか七勺となり、それも途絶えがちになった。米が芋になり、玉蜀黍の粉になり、それさえも途切れた。生きるために闇に頼るのは常識で、誰もがなけなしの家財道具を持ち出して食料に変えねば生きていけなかった。
 タケノコ生活とは、それを風刺して言われた言葉だ。一枚一枚、着ている物を食べ物に変えて生きていく。夏は食糧不足で人が死に、冬には皮を剥かれて小さくなったタケノコが死ぬのだろうか。
 上手い言い回しだ。草薙はその言い方が気に入った。
 
 暑さの盛りも過ぎ、夕方には心地よい風が吹きさらしの庭をかき混ぜて行く。
 窓をすっかり塞ぐほどに生い茂った雑草に流石に閉口して、鎌を持ち出したのはつい昨日の事だ。
 腹が減るだけだから、放って置けばいい。隣の親父が将棋の駒を片手に呟く。
 それはその通りだと思う物の、こう茂ってしまっては月も真っ直ぐに見られない。酔狂だとぼやかれながら、草薙は雑草の根本に手を差し入れた。
 一人で悪戦苦闘していると、いつの間にか帰って来た岡本と三船の二人が、黙って鎌を持ち寄って戦線に加わってくれた。
 三人よれば何とやらと言うでしょ、と岡本が言うと、「それは知恵の話しじゃねぇか」と、不機嫌な囃し言葉が応える。
 「知恵というのは力だからな。この場合も立派に当てはまるさ。敏。」
 いつ頃からか、草薙が青年をそう呼ぶ事は許されるようになっていた。
 特別、きっかけが有った訳ではないが、年上の権限で勝手に決めた呼び名に、青年は至って素直に馴染んだ。嫌も応も特別に口にはしなかったが、何かの折りにそっと草薙に従い、力を貸すようになった。決して逆らわず、それどころか時々、草薙の機嫌を伺うようになけなしの「贈り物」を持って訪れる。
 特別な会話は無いが、草薙の中で確かに青年は只の他人ではなくなっていた。下宿人と家主なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、それが何故か不思議でくすぐったかった。
 「今の僕の力は、君ら二人だからな。………うん。
 こんな物で、良いんじゃないか。大分、すっきりした。」
 「草薙さんは"文"の人ですからね。こう言う事は"文武両道"の我々二人にお任せを。な、三船ちゃん。」
 「何を一丁前な。」
 岡本の笑い声に、三船の方を見やる。そっぽを向く青年の逞しい肩に、夕焼けが映えていた。
   

 片づいた庭からは、竹で組んだ垣根と、遙か遠く迄続く不揃いの町並みが見渡せる。
 戦後直ぐにどこかの資本で復興した小綺麗な家並みと、どさくさに立てられたバラックの家並み。放って置かれてゴミ置き場になった空き地と、逞しい雑草の森。
 新月の、濃い夜の景色の中にぽつぽつと穿たれる灯りは、裸電球の寝ぼけたような黄色だった。
 軒先で、風鈴がりん、と鳴る。そろそろ家々の灯りも夕闇に呑み込まれる時分。草薙が原稿を文机の脇に寄せ、さぁ寝るか、と思った時だった。
 玄関ががたがたと険しい音を立て、その後にずるずると何か重い物を引きずるような音が響いた。草薙は驚いて、入りかけた寝床から飛び起きた。どこかの不埒者が盗みにでも入ったのかも知れぬ。あるいは…すわ事件か。周りをぐるりと見渡して、側に転がっていたすりこぎを握って玄関に向かう。
 物音は草薙の躊躇の間にすっかり静まっていた。灯りを落とした玄関には、特別な動きはない。
 じりじりと玄関に忍び寄ってすりこぎをかまえると、闇の奥で更に深い闇が動いた。睨んだ視線の先に、ぼろぼろになった青年の瞳があった。
 双方がびくっ、と身を引いた。
 青年は身構えて草薙を見つめ、彼を認めると震える吐息を吐いて目を反らす。草薙はすりこぎを放り投げて青年に走り寄った。
 「ど、どうしたんだ敏。こりゃ…酷いな、喧嘩か。」
 「…すんません、岡本は?」
 「あ…ああ、今日は脚本を書くんで詰めると、さっき雑嚢を持って出てった。」
 そうですか、と言い掛ける表情が歪む。草薙は、頽れる青年の身体を支えた。
 倒れかかる身体を抱き起こし、余り強いとは言えぬ力で必死に半ば肩に背負うと、居間に運び入れる。側に掛けてあった綿入れを足で引き下ろし、その上に青年を腰掛けさせる。
 「医者を呼ぶからな。」
 受話器を握って言った一言に、青年は何も答えなかった。
 

 四半時も経たずに訪れた医者は、慌てる草薙とは対照的に落ち着き払って、居間に転がる青年に眉一つも動かさなかった。ただの一言も質問せず、黙々と手当を終え、そっと草薙の肩を叩く。
 気にしなさんな、いつもの事だ。草薙は医者に耳元でそう呟かれて瞠目した。
 こいつは常連じゃ。最初は儂が拾ったんじゃが、それ以来気に入ったのか、良く儂の所に来ては、医者は黙って手当をすりゃいいと怒鳴って帰って行く。飽きないモンだ。
 あんたが気にする事はない。儂はもう慣れとるよ。
 物も言えずに医者を見つめる草薙に、まぁ、そう言う事だ、といいざま身を翻す。ととと、と軽い足取りで玄関に進み、使い古して継ぎだらけの鼻緒の下駄を引っかける。草薙は慌てて後を追った。
 穏やかに微笑んで去って行く老医師の背中に深々と礼をしながら玄関を転げ出ると、空の遠くに新月の月が待っていた。薄く掛かった藍色の雲の奥で、やや傾いて草薙を見下ろしている。
 小綺麗な家並みとバラックの家並みの間に通る道を、医師の小さな姿がすたすたと歩いて行く。手持ちの提灯の灯りが、濃い闇に呑み込まれていく。 医師の背中が一本杉の影に溶け込んで消えて初めて、呪縛が解けた。
 弾かれるように、草薙は踵を返した。
 

 どかどかと大股に廊下を渡って居間に飛び込む。気怠げに寝ている青年の枕元に、わざと大きな音を立ててどっかと腰をおろす。
 尋常でない彼の様子に、暫し狸を決め込んでいた青年も仕方なく顔を向けた。
 「聞いたぞ。」
 なにを?そう問いたそうな黒い瞳が、たった今巻かれたばかりの白い包帯の下から彼を見上げる。
 「先生から聞いたぞ。」
 何を。今度は青年の口がはっきりと言葉を刻む。草薙は、寝ている彼の身体の上に挑むように顔を寄せた。
 「敏郎。君は、先生の所の常連だそうじゃないか。どうしてそんな事になるんだ?戦争はもう終わっているんだぞ、何だってそんなに喧嘩何ぞをしたがるんだ?」
 ちぇっ、切れた唇が歪む。医者ってのはおしゃべりだから嫌いだ。
 「おまえ…」
 「るせぇな。草薙さんには迷惑は掛けねぇよ。今日のはちょっと…失敗だ。」
 言ってごろりと、草薙の視線を避けるように寝返りを打つ青年に、草薙の中の何かが弾けた。
 手当の後に着た浴衣の襟に両手を掛け、がっちりした青年の体を力任せに引き起こす。驚いた青年がその手を掴んで抗いかけ、そのまま草薙の勢いに凍り付く。
 「何が失敗だ。じゃあ、今迄の怪我は成功だって言うのか。僕にさえ知られなきゃ成功なのか。
 いいか敏、僕はそう言う事を言ってるんじゃないぞ。せっかく戦争から生きて帰って来て、これからの君が、何でそんなに捻くれて喧嘩なんぞに明け暮れてるんだと言ってるんだ。こっそりと先生の世話になって、今日は失敗だ?
 この馬鹿野郎目!」


 


 
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【この物語はフィクションです。実在する個人/団体名をお借りしておりますが、事実とは無関係です。】
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