大きな目が、殊更に大きく見開かれて草薙を見詰めていた。
 一通りの怒号が鳴り止むまで、青年はじっと息を詰め、ただ黙って草薙の嵐が過ぎ去るのを待っていた。自らの怒号に、尚、怒りを募らせ、凡ての小言を大声で唱え終わる迄、青年はずっと待っていた。
 言うだけ言い終わって息を吐き、驚いたのは草薙だった。
 不意に意味を取り戻した視界の中心に居座る青年が、困ったような、顔色を伺うような表情を浮かべていたからだ。
 そこにあるべきなのはふてぶてしい表情だった筈なのに、現在の青年の顔に浮かぶのは、彼独特の逡巡の表情だった。青年お得意の、眉を下げた上目遣いの困り顔。草薙の方が急にいたたまれなくなった。
 青年はたった今し方、傷の手当を受けたばかりだ。まともに歩けない状態で帰って来て手当を受けたのだから、草薙の行いは、その身体には決して楽な事ではないだろう。
 機嫌を伺うような神妙な態度は、一気に草薙の罪悪感を煽り立てた。慌てて、両襟の手を解く。
 「…すまん。ちょっと…腹が立って…」
 そっと、綿入れの上に大きな身体を横たえさせる。小さく息を呑んで、上目遣いに見上げて来る青年の、乱れた浴衣の前合わせを直してやる。ふいに形のいい唇が、ぷっ、と小さく吹き出した。
 「まいった…。」
 くすくすくす…軽やかな笑いが青年の口元から漏れる。
 草薙は、むっとしてその青年を睨み付け、不覚にもそのまま動けなくなった。
 
 

 思えばこの青年の笑顔を、草薙は初めて見たのだ。
 いつもむっつりと不貞腐れたその顔が、今は柔らかくゆるんでいた。世の中を拗ねたような仏頂面からは想像し難い幼い表情。草薙は目が離せなくなった。
 大きくて険しい目許の表情は、いかにもきかん気そうな笑みに険が掻き消え、影を落とす厚い睫毛がその笑みを深めていた。小さくて薄めの口元は、ほんの少し動いただけで驚くほど表情を変え、補う言葉を必要とはしなかった。しかもその表情が、どれもこれもいたずらっぽく、小憎らしい程に愛らしい。
 「草薙さんてのが、そんなに興奮する人間だとは思わなかったぜ。」
 笑いながら言われた台詞に、また草薙はどきりとした。この青年の声は、こんなにも甘い響きを持っていたっけ?
 「どういう意味だ。」
 「だってそうじゃねぇか。」
 腕に力を込めて半身を起きあがらせ、青年は草薙を見やる。
 「俺はまだ喧嘩したとも何とも言っちゃァいない。それを喧嘩に明け暮れて、などと一人で決めつけて怒っているじゃないか。」
 「喧嘩以外に、そんなにしょっちゅう怪我をするわけがあるものか。」
 「そりゃそうかもしれないけれど……」
 拗ねたように口元を尖らせるのが草薙の目に入って、不意に草薙は吹き出しそうになった。子供か、お前は。
 意気込んで中腰になっていた身体を青年の横にきちんと落ち着け、からかいたい気持ちを抑えてごくごく真面目に、じゃ、どういう訳なんだ、と問う。青年は改めて、しまったな、と言う顔になった。
 不思議だった。
 どうして僕は今まで、この青年を無表情だなどと思っていたのだろう。
 草薙は、目の前でくるくる表情を変える青年を見つめながら自問していた。
 「ま…俺は昔からこうだから。」
 「どういう事だ。」
 「つまり…態度がデカイんですよ。」
 しばし沈黙があった。
 何とも間の抜けた沈黙の後、草薙はたまらなくなってとうとう吹き出してしまった。青年は一瞬その笑いにむっとして歯を食いしばり、小さく舌を打つと、ごろりと横になって背を向けた。
 そうか。草薙は思う。
 確かに青年の態度には、気の短い者ならばむっとする不遜なものが溢れている。少し時を置いて見れば、それは照れだったり、気にする余りに却って傍若無人を気取るポーズだと分かるのだが、それを外見が許さなかった。
 がっちりとした体躯、堂々とした雰囲気、整った美丈夫の仮面。この外見の若者に、どう見ても一見不遜としか思えぬ態度で挑まれれば、大概の者はそれを傲慢と取る。特に年長者は、ほぼ例外なく青年の凡ての要素が癪に障るに違いない。そして判断が下されるのだ。
 生意気な新人だ。教育してやらねばなるまい。
 「いわゆるリンチと言う奴か?」
 青年は気まずそうに草薙を一瞥し、軽く面を伏せた。
 部屋の薄闇の中で、俯きがちの横顔の影が不意にくっきりと浮かび上がる。彫りの深い顔立ちの、真っ直ぐに通った鼻筋。ストイックにも見える、その真っ直ぐなラインが、不思議に寂しげな雰囲気を醸し出す。太い眉と、豊かな黒髪が影を落とす目許は、閉じられているのか光を宿しはしない。
 草薙はいつしかその横顔に見とれていた。
 額に巻かれた包帯と、浴衣の合わせから覗く絆創膏がやんちゃ坊主を感じさせるものの、静かなその横顔には人を惹き付ける何かがあった。
 

 ニューフェイスですよ。新しい時代の俳優の登竜門なんですよ。倍率は何百倍だったんですから。(※3)
 

 岡本が、彼を何とか持ち上げて草薙に紹介しようとした時に言った言葉を思い出す。
 「まぁ…。試験の時に言った事が生意気だったと怒っている先輩方が多くて、何だかんだと理由を付けて突っかかってくるから、俺も黙ってる事はないし、そうすると、こう……」
 「試験の時、何を言ったんだ?」
 「さぁて。…別に変わった事は言ってません。ただ、笑え、とか、泣けとか言うから、理由もないのに怒ったり笑ったり出来るわけははないと。」
 「俳優の試験でか。」
 「俺は……俳優になるつもりなんか無かった。俳優なんて、ツラで飯食うなんて、男のやる仕事じゃない。俺はカメラマンに願書を出したんです。………落ちちまったけど……。」
 「カメラマン。君が。」
 「……馬鹿にしたもんじゃ無いですよ。俺、写真班……。写真屋もやってた。」
 照れるように、ふてくされるように尖らせられる口許、やや上目遣いの目線。草薙は大きく溜息をついた。
 「へぇえ。」
 「仕事、無いし、他につても無い。先輩の所にいたら、ニューフェイスを受けろと言われて、仕方なく受けに行ったんですよ。その途端に、そこに立って、はい、横向いて、はい歩いて。おまけに笑え、と来た。
 恥ずかしいし、そんな事出来ないのが普通でしょう、草薙さん。」
 相変わらず不貞腐れたように口を尖らせて言葉を紡ぐ青年に、草薙は何度目かの溜息をついた。
 何と言う事だろう。今まで自分が見て来たこの青年は何だったのだろう。
 青年の口から吐き出される台詞は、生意気でも人の反感を買う物でもなかった。今時の若者が口にしそうな、ごくごく普通の不平と言う奴だ。年上の草薙から見て、それは他愛のない、むしろ可愛らしくさえ見える台詞だった。
 初めて聞く、とぎれとぎれの青年の台詞に人柄が滲み出ていた。剥き出しの言葉には、一欠片の装飾もなく、舌足らずな言葉が却って饒舌にこの青年を謳っていた。
 ぶっきらぼうで不器用な表現の中にいるのは、強面の外見とは不釣り合いに、ごくごく普通の青年だ。端正で刹那的とさえ見える仮面の中に息衝くのは、木訥な存在なのだ。
 ただ、そう言えばいいだけなのに。足らぬ言葉で、自分を語れば良いだけなのに。青年はそれをしない。
 それをせず、ただ黙ってむっつりと、否、もしかしたらおどおどとそこに在るだけの青年から、周囲が受けるのは尊大で生意気な印象なのだ。外見から来る、斬りつけるような鋭さだけなのだ。
 近寄り難く、傲慢で尊大なアプレゲール。人は皆、そう思うのだ。簡単に言えば、天性の誤解体質だと言う事だ。
 「俳優の先輩がやったのか。」
 何の気のない質問だったが、青年は急に視線を外した。
 思いきるように衣を軽く払い、お休みなさい、と唐突に吐き捨てる。
 いきなりスイッチを切り替えた青年に虚を突かれて、草薙は立ち上がろうとしているがっちりとした身体を反射的に助けた。青年はその手をそっと外した。
 自分が今まで横たわっていた綿入れを衣桁掛け(えこうかけ)に掛け、ゆっくりと体を起こす。傷の場所が痛むと見え、微かに表情を歪め、片足を引き摺って障子に取り付く。
 「学校でも、軍隊でも最初はこうだ。誰がどう…て事じゃないですよ。じゃあ……お休みなさい。」
 最後に笑みを残して、廊下へ消えていく逞しい身体を、草薙は狐につままれた面持ちで見送っていた。


 


 
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【この物語はフィクションです。実在する個人/団体名をお借りしておりますが、事実とは無関係です。】
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