□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 序章 □

 秋の陽はつるべ落としとはよく言った。つい先ほどまで茜色から藍色へのグラディーションを描いていた西の空は、今はすっかり闇に染まっている。
 もっとも、闇と言ってもかりそめの闇だ。真の闇ではありえない。現代人の知る闇など、精々がプラネタリウムの闇か暗室の闇どまり。街の夜はそれより遥かに明るい。色とりどりのネオンの隙間に遠慮がちに生きるかりそめの闇なのだ。
 長沢は窓越しにかりそめの闇に目をやりながら、背を丸めてそっと腰を伸ばした。
 レンガと木で組まれた、大きいとはいえないカフェの片隅だった。
 店主でマスターの長沢の他、アルバイトの看板娘とその他二人が交代で入ればこなせる規模の庶民的カフェ。モーニングセットにマスターのこだわりのコーヒー、フルーツとチョコの二種類のパフェ、お約束の軽食。極々平均的なメニューを揃えた、平均的カフェ、それがここだった。
 開店は朝の7時。それから二時間ほどモーニングメニューをこなし、他店の開き始める9時から休憩に入る。11時に再開して夜八時閉店。変則的では有るが、それがここのタイムスケジュールだ。
 それでも最近は「カフェ飯」などと言う物が流行っているおかげで、ランチタイムはかなり混む。立地が猿楽町なのも手伝って、貧乏学生から派手目のOL、メタボリックというカタカナに敏感なサラリーマンまでが訪れる。小さいながら結構な数の常連もいて、癖のあるタイムスケジュールにきちんと対応して通ってくれる。強烈な個性は無いが、それなりにこだわりのある店主のコーヒーや軽食を楽しみにしてくれる客もそれほど少なくは無いのだ。
 長沢にとっては唯一無二の居場所。それがこの店だった。
 壁の鳩時計が、かちりと鳴って扉を開ける。何も出てこないし鳴き声もしないが、これがこの店の時報だ。以前はきちんと鳩が出てきて鳴いたのだが、ある日飛び出した鳩が客の眉間にぶち当たってから、店の鳩時計は鳩なし時計になった。
 鳴かない鳩が、長沢の頭の中でだけ、八回鳴く。20時。閉店の時間だ。
 心得ている常連は、また明日ね、と言って帰っていった。週の真ん中は、特に混む日でもない。今日はとりわけ、静かな一日だった。だが、まだ当分閉店は出来そうにない。
 店の隅のテーブルに一人、客がいるからだ。
 粗方の掃除は済んだ。明日の分の仕込みも終わった。自分のためのコーヒーを淹れる。バニー・マタル。コーヒープレスで。
 一人残った客にも一杯置いて、自らはカウンタの片隅に腰掛けた。自分のために淹れたクオリティ・コーヒーを味わう。これが長沢の、仕事明けのイベントだ。今日はまだ客がいるので特例だが…まあ良いだろう。
 口中に広がる香ばしい味わいと、独特の香り。殆ど苦味の無い、すっきりした後味。五感のすべてでそれらを味わう。至福のひと時だ。
 「注文してない」
 低い声が店の底に落ちる。やや暫くの間、その声と店の隅に座り込む人影がつながらず、声の元を目線でたどってようやっと理解する。
 「ああ、サービス。……嫌じゃなければ」
 カウンタに背を向ける位置の席から、冷ややかな視線が辿り着く。そう言えば。長沢は思った。
 目が合ったのは初めてだな。
 客は物静かな−ありていに言えば陰気な−青年だった。年の頃は十代から精々二十代前半。脱色したのだろう、白に近いグレイの髪は不自然な迄につややかで、短く切り込まれた後ろ髪に不釣合いに長い前髪が顔の半分を覆っている。細身で背が高く、寡黙。何度か店には来ているが、いつもメニューの「今日のコーヒー」を指差すだけで、ついぞ声など聞いた事は無い。
 そこまで思って気づく。だから先ほどの一声と、この客が繋がらなかったのだ。声を聞くのも初めてだ。
 「嫌……じゃない」
 「じゃあどうぞ。お奨めの珈琲ですよ、モカマタリ、バニー・マタル。」
 微笑みかけると、うつむきがちの青年がまっすぐに顔を向けた。
 ひどい顔だ。
 美醜ではない。美醜を問うなら、青年の顔は整っている。いや、非常に整っている。美形と言って良いだろう。酷いのはその顔色と様子だ。
 青年が店に入って来たのは閉店の35分前だった。ラストオーダーは7時30だから、その5分前といえばニアミスで、入れるかどうかは微妙な所だ。だが、もし時間が過ぎていても、おそらく長沢は彼を店に入れただろう。
 砂漠を三日間歩き詰めで、やっとオアシスに辿り着いた。青年の様子はそんな感じだったのだ。命からがら辿り着いた旅人を締め出せるほど、長沢は非情ではない。
 職場で余程ひどい目に有ったのか、友人や恋人と別れでもしたか、あるいは近しい人に不幸でもあったか……人生の罠は無尽蔵に存在する。どんな惨事も、良くある事だ。
 「……うまい」
 殆ど吐息に近い呟きに、長沢は思わず小さくふき出した。こうした一言に嘘は無いから、それが染みた。
 「何よりうれしいね」
 表のシャッターを下ろす。青年は仕方ないが、エスプレッソマシンも電源を落としてしまったので、他の客が間違って入ってしまうと気の毒をする。けたたましい音とともに、店の出入り口が閉ざされて初めて、青年は時間に気づいた。
 「閉店時間……」
 「ああ、大丈夫。裏から出られますから。ゆっくり飲み終わってからどうぞ。俺もまだ少しここで休むから」
 ああ。雰囲気だけで頷いて青年は珈琲に戻る。ゆっくり一口飲み下して、吐息が語る。
 「何よりうれしいね」
 笑みを向けて、長沢も珈琲に戻る。冷めてしまってはせっかくの香りが台無しになる。
 青年のいでたちは黒のスラックスに黒のシャツ。衣服の光沢から、恐らく素材はシルクだろう。会社勤めの服装に相応しいとは、とても思えぬ代物だ。
 もしかして、職場帰りじゃなく、"出勤前"かな。そこまで考えてやめる。長沢にはどちらでも良い事だ。客のプライバシーは、その客だけの物で、長沢には首を突っ込む気も、興味も無い。
 同じ空間、同じ珈琲でほんのひととき寛ぐ。その後はそれぞれが自らの日常に戻る。珈琲はそのためのスイッチで、カフェはスイッチが置いてある場所に過ぎない。それで十分だ。
 「長沢啓輔。昭和36年生まれ、46歳」
 唐突に思考をちぎられて、口中の珈琲を危うく飲みこむ。
 「妻一人、娘一人。ただし"元"」
 は?
 言葉にはしなかったが、したとしても長沢に言えたのは精々その一言くらいだ。思い違いでなければ今、この青年は長沢のプロフィールを口にしたのだ。一体何故?
 確かに青年が店に来たのは初めてではない。恐らく6回。いや、7回かもしれない。いずれにしろ10回には行っていない、一桁回数訪れただけの客だ。店主と客という触れ合いくらいは有ったろう。だがそれだけだ。会話もなければ馴染んでもいない。青年は一見以上常連未満の、極々普通の客なのだ。
 陰気で、疲れ切った。
 「客が言ってた」
 余程驚いた顔をしていたのだろう。青年の薄い唇にかすかな笑みが宿った。
 「あ……ああ。そう。驚いた」
 本当に驚いた。こんな店に興味を持ったり、入り浸ったりするタイプには、青年は見えない。
 「揃えている豆は厳選の20種類。すべてアラビカ種。オリジナルブレンドは二種類。軽食のパンはすべて"ZOCCA"オリジナル。使用のミルクは"小松原4.1"。コクと滑らかさから、店長自らがチョイス。エスプレッソマシンは"バリスタ"。ヨーロピアンタイプというよりはシアトル系だ」
 見えない。見えない……が。
 「前のオーナーからこの店を譲り受けたのが10年程前。離婚か別居かしたのもその頃。脱サラして店を始めたと言っているが、実際はどうか謎。店の名は元は"竹下珈琲"だった物を改名」
 「おいおい、ちょっと待った。何のリサーチだよ、ちょっと怖……」
 いぞ。
 言う前に視界がぐるんと回転した。
 カウンタに腰掛けて珈琲を飲んでいた。今までは。見えていたのはカウンタの中に整然と並べられたカップや皿の列や、めくり忘れたカレンダーだったのに、今目の前にあるのは人の顔だった。
 青年の。
 「"SOMETHING CAFE"」
 目の前の唇が、自分の店の名を唱える。薄く、整った唇がゆっくりと。発音は日本英語ではなかった。
 「SOMETHING CAFEというのは"何とか喫茶店"という意味だろう。普通はそんな名前は付けない」
 その通りだ。そんな適当な名は、これから盛り立てて行こうと思う店につける訳が無い。そんな名をつけるのは、もう進む気の無くなった人間だ。立ち止まり、身を隠して生きていければそれで良いと思っている人間しかつけっこない。こっそりひっそり、ちっぽけな安定さえあれば良い。まさしくそんな人間が、この店を作り、名づけた。だからここは「SOMETHING CAFE」なのだ。だが。
 だが何故、それをこの青年が語るのだ。誰にも言っていない、言う筈の無い事なのに。秘められて隠された思いを、言葉すら交わした事の無い青年が、何故語るのだ。
 青年の顔を見上げる。
 整った顔。細面の輪郭と通った鼻筋。薄い唇。暗い、両の切れ長の目。妙に虹彩の輪郭だけが黒い、灰色の瞳が無表情に見つめ返していた。
 一瞬で床に叩きつけられた筈の身体に、痛む箇所は一つもなかった。衝撃も反動もなく、絵空事のように床の上にいる。確かにそれと分かるのは、背中越しに古くなったフローリングの凹凸を感じるからだ。
 何の冗談だ? 何のつもりでこんな事を?幾つかの言葉が喉元まで上がって消えていく。
 見つめていた対象物が不意に動く。滑らかに、音も立てずに。
 唐突に濡れた物に唇を覆われ、生暖かい物に髭をまさぐられ、長沢は反射的に頭を引いた。
 硬い床にぶつかって動きが止まる。改めて床の上だと確信する。目の前の瞳がかすかに笑いに歪んだ。
 「ちょっ…何してる? 冗談にもならないぞ、やめろ」
 体を避けようともがいて、初めて動けない事に気づく。胴の上には青年の身体が乗り、両腕は青年の両腕に掴み取られている。訳が分からなかった。
 もがく頭の上で、今度ははっきり青年が笑った。小さくふき出して、やっとまともな反応だと呟く。長沢は青年に視線を戻した。
 「悪ふざけに付き合える程若くないんだ。ちょっとどいてくれ。話があるなら聞くが、兎に角先にどいてくれ。重いし、苦しい。この体勢は気分が悪い」
 「どうして」
 どうして?訳はたった今言った。重いし、苦しい。気分が悪い。
 「どうしてもこうしても無い。どいてくれ!話は、聞くから!」
 青年の顔が近づく。キスを避けようと顔を背けると、首筋を舌が伝わった。
 「おい!」
 耳に辿り着く。耳たぶに噛り付かれ、唐突な痛みにすくむ耳の中に言葉が流れ込んだ。
 「話は、無い」
 そのまま首筋に噛みつかれる。両腕を背中にねじられ、押さえ込まれる。青年はてきぱきと長沢のシャツのボタンをはずし、それでくるりと両腕をまとめる。青年の物とは違って、長沢の木綿100%のシャツは、きっちりと両腕を戒めるのには最適だった。何とかして腕を抜こうという努力は、布の間に挟まった皮膚を引き攣らせるだけで徒労に終わった。
 やられた。何度か見た青年だからと安心したのが裏目に出た。こんな穏やかな居直り強盗がいるとは思わなかった。いや、幸いにして今まで強盗に襲われた経験は無い、もしかして強盗というのは得てして穏やかな物なのか?
 「おい、おい!家の稼ぎなんてタカが知れてるぞ。荒らされる前に言っとくが、レジの中以外に金は無いから!それだけ持ってとっとと出てってくれ!…畜生!!」
 犯人の顔を見た店主を生かしておく気があるなら、だが。
 長沢の言葉に、青年は無反応だった。レジに走りよる事も、店主を殺す武器を探すこともせず、縛られた腕を確かめると長沢のベルトに手をかけた。
 使い古して柔らかくなった牛革のベルトを引き抜いて、ジーンズのチャックに手をかける。体の重みで長沢を抑えた時に、青年の中心が縛られた腕の上に乗った。
 手首の辺りに押し付けられたのは、熱く、怒張した青年自身だった。
 「ちょっ……」
 ジーンズを引き下ろされる。どっと冷や汗が出た。
 「ちょっと待て、待てって!じ、冗談はやめろ、金はレジだ。俺は、違う!やめろって、やめ…」
 無言で下着の中に手を入れられる。乱暴にトランクスの布を払いのけ、中央にある物を大きな右手が握り締める。強い力は情け容赦が無かった。
 「! うあっ…」
 耳に熱い息が降り注ぐ。それすら、避ける術がなかった。
 一端握って位置を確かめると、掌は緩んだ。大きさを確かめるように下から掬い上げ、先端に指を絡める。尿道に指先が分け入る。
 「やめろ、くそ、やめろって、やめ…っ!」
 言うより早く入れられる。痛みに息を呑む長沢をあざ笑うかのように、青年の指は順にその場所を味わっていく。同時に左手が後ろに回された。
 右手と同じように、いや、さらに、左手は容赦が無かった。何で湿らせてあったのか、奇妙に滑りの良い人差し指が、迷うこともなく長沢のこだわりを分け入った。襞の一つ一つを確かめ、広げるように深々と入って中で蠢く。拒否すら出来ない部分へ次の指を招き入れる。
 言葉どころか声にもならなかった。力を入れようとすると尿道に指を入れられ、その痛みに身体がひるむ。その隙に後ろに指を突き入れられる。その感覚に息を呑む。鼻をつん、とした感じが駆け上った。
 「がはっ、」
 鼻先が赤く染まる。口元を覆う髭の上に、赤い雫が伝わる。
 パニックになると必ず鼻血が出る。それが却って長沢に己のパニックを思い知らせる。しゃにむにもがくが、その成果は強かに床に顎を打ちつけた程度だった。
 指が後門に突き入れられる。まずは人差し指から。それをガイドにして次は中指、薬指。手近に有った生クリームを塗りつけたのだろう、甘い香りが立ち上る。クリームのボトルから滴らせた物を三本の指で塗りこむ。その度にTシャツ一枚になった肩が震える。嫌悪なのか快感なのか、青年はその震えを押さえ込んで指を動かした。
 長沢の部分は相当にきつい。指四本が入らねば、その後に続く行為は不可能だ。青年は肛門括約筋の緊張が緩み、異物を飲み込む程度にほぐれるまで根気良く注挿を繰り返し、改めて前立腺を探る。その場所はすぐに分かった。
 「話は、無い」
 緊張する耳元に、言葉が流し込まれる。低めの、ハスキーボイス。
 前立腺にすべての指を滑らせる。揉み解す。びくびく、と背中が揺れた。
 「はっ……」
 涙を湛えた両の目が恨めしげに青年を睨み付ける。
 指を抜く。同じ場所に自らの物を押し付ける。濡れて熱く滾るそれを押し入れる。
 「やめっ……っは、う、うううう!」
 長沢のこだわりを青年が切り拓いた。
 

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