□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 素性 □

 検査の結果は白だった。
 赤痢もチフスも肝炎もHLVも破傷風も狂犬病も全部陰性。白も白、純白だ。つまり、あんたの病は基礎体力が無いと言う事だ。食え、運動しろ。筋じゃなく、健康な筋肉を付けろ。
 温和な酒井医師が語気も荒く言い募るのを、長沢は神妙に聞いた。酒井医師には、様々な意味で面倒をかけたのだ。彼の苦言にただの一言も文句を言える道理が無い。長沢は全ての説教をありがたく押し頂いて、荷物を纏めた。
 法定伝染病のどの項目にも当てはまらないと分かったら、もう病室に居る必要が無い。肺にまだ残る影を気にして、あと五日は居ろと言う医師を説得し、何とか五日を三日にまで縮めて貰った。
 医師と看護師に礼を述べ、病院から出る。気恥ずかしいようなくすぐったいような、不思議な気分だった。僅か十日足らず、正確には丸八日間と半分。世間から隔離されたのはたったそれだけの期間だったと言うのに、病院の窓を通さない街の景色は懐かしく、妙に新鮮に見えた。
 大して荷物も無いので、九日ぶりの眼鏡橋から明大前の通りをゆっくりと徒歩で帰る事にした。タクシーのワンメータ足らず。いくら病み上がりとは言え、これは遠い距離ではないだろう。
 まだ微熱が残る所為か、風が頬に冷たかった。病気というのは実に不便な物だ。ほんの目と鼻の先にある我が家の物を、ちょっと取って来る事が出来ないのだ。病院のベッドに沈んだまま、あれとこれとそれが欲しいと思っても、自分では行けず、寂しい事に身内もいない。求める物は得られなかった。従業員が気を遣ってあれやこれやと差し入れてくれたのは有り難かったが、しみじみ独り身を思い知らされた。今更ながら、家族の居た時分は満たされていたのだと気づく。満たされた状態を、当たり前と思っていたのだと、そう思う。そんな事を思うと、なお風が頬に冷たかった。
 不意に右手が軽くなる。
 取りあえず十日弱の入院期間中の全装備品を詰め込んだ鞄は、それなりの重量感を誇っていた。ずっしりと手に掛かる重みが、やっと帰れると言う満足感を感じさせた。自由を確信させる重みだったのだ。それが。
 不意に奪われる。慌てて掴み直そうとして、大きな人影にぎょっとした。
 仏頂面が長沢を見下ろしていた。
 明大通りから、キャンパスを突っ切って猿楽町の脇道に入ろうとした辺りだった。学生とビジネスマンが入り乱れる交差点で、いつの間に並んでいたのか、冬馬がそこに立っていた。
 「泥棒っ!! 誰か、鞄を!」
 長沢の大声に、周囲の人波が揺れる。
 声を中心に人の花が開き、その中央に棒立ちの青年がいた。集まった視線の中央で、声の主がその男から鞄を奪い返して踵を返す。人の流れはその顛末を見守ると、何事も無かったように元に戻った。
 冬馬は呆気に取られていた。泥棒、と叫ばれる事も、鞄を取り上げられた挙句ただの一瞥も投げられない事も、全く予期していなかったのだ。
 自らが自由にした身体だった。人知れぬ場所で、力でねじ伏せると簡単に屈した身体だったのに。陽の光の下、衆人環視の下では出来ぬ凶行を知ってか、屈した筈の男は強気だった。鞄を奪い取ると背を向け、そのまま振り返らない。冬馬の存在の全てを否定するかのようだ。用があるのは鞄だけで、お前なぞ知らない。その背中はそう言っていた。所在なく、青年は自分に比べて遥かに頼りない背中を見つめたまま、無言でその後を追った。
 十日弱とは言え、慣れない病院生活は楽しくは無かったのかも知れぬ。冬馬は思った。
 華奢な造りの長沢の肩は、また幾分薄くなった。年を取って太らないのは「太れない」のであって健康ではない。胃下垂か代謝異常か隠れた病気が有るに決まってる。巷の医師がそう言うのを聞いた覚えがある。嫌味のように叫ばれた言葉だったので真に受けはしなかったが、存外本当なのかも知れぬ。
 冬馬は黙って長沢の後に続く。物言わぬ男の背中を追って、ごちゃごちゃとした坂道を登った。
 猿楽町二丁目までの短い道のりは、もともと口数の少ない冬馬にとっては、沈黙が相応しい距離だ。沈黙のまま歩く事に気詰まりは感じないし、目の前を行く男の沈黙は尚更だった。長沢とともに歩く、平和な日本の町並みは楽しくすらあった。
 携帯のベルがなる。長沢は電話口の人間にぺこりと頭を下げた。
 「ああ、内田金物の。いやぁ助かりましたよ、うん、本当に。ああ、大丈夫です。さっき受け取りました。これで複製は不可なんですね。はいお世話様。どうも、はーい」
 嬉々とした声で切られた電話に溜息が出た。話の内容はすぐに冬馬にも分かった。長沢は、その"内田金物"に鍵の変更を頼んだのだ。複製不可という事はマグネットキイで、受け取ったと言うのは鍵の事だ。彼は新しい鍵を携えて、これから自らの住居に帰るのだ。
 変えた理由も分かっている。冬馬が、他ならぬ自分が、この家の鍵の複製を持っているからだ。
 SOMETHING CAFEに着いて、背中を向けたままの男が感慨深げにレンガと木造モルタルの造りの店をゆっくりと見上げる。モスグリーンだったであろうシャッターは既にくすんであちらこちらにうっすらと錆が浮き、基調の木の色に却って馴染んで落ち着いていた。
 店主不在の間、下ろされたままだったそこに、ベったりと貼られた告知札を、長沢は丁寧に外した。
 「マスター急病の為、暫く休業します。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。追記:3日から始めます」
 可愛らしい字の舌足らずな文章に苦笑して片手に取り、そのまま裏手の玄関に消える。
 冬馬の存在を全く無視したまま、裏口からCAFEの中に消えていく男の姿を、冬馬は大人しく見送った。
 

 翌日の朝5時から、長沢の日常は始まった。
 朝6時にZOCCAのパンを仕入れ、7時からモーニング。二時間休んで11時からランチ。看板娘と正規従業員とアルバイトへの連絡は完璧である。
 始動の一日は、急な休業の侘びとして50円ダンピングして、デザートを一品つける事にした。プティ・オレンジの店長に頼むと、じゃ、退院祝いって事で代金は勉強してやるよ、と快く引き受けてくれた。
 病み上がりで身体はややきついが、気分は上々だった。白い部屋の中に押し込められるのは、どうも症にあっていない。
 「お、開いてる開いてる。生きてたかマスター。入院してたんだって?どこ。精神科か」
 「やっと開いたよ〜。勘弁してよマスター。こっちの調子を狂わせる気かよ。いつものね」
 幾人もの常連客が入れ替わり立ち代り、見舞いとも文句とも言えぬ一言を残して去って行く。苦笑しながら、詫びたり言い返したり、互いに了解した漫才ネタのようなやり取りで時間が進む。髭、と呼びかける客に、ハゲと返しても許される常連客の呼吸は心地よかった。看板娘の奥田早紀が、痩せちゃいましたね、と店主を気遣うのが、常連客の悪口雑言を煽ったが、それすらも心地が良かった。しみじみと思う。
 SOMETHING CAFEは長沢の唯一にして絶対の居場所なのだと。
 心地よい喧騒の中でランチが無事終わった。特別サービスのデザートが切れ、急遽プティ・オレンジに追加注文を出した。いつもは夜近くにやっと捌ける「今日のケーキ」も、早々に捌けた。少々もてあまし気味の疲労感を打ち消すに十分な、復帰第一日目と言えたろう。
 夕食を求める客がCAFEから去る逢魔ヶ刻。徐々に落ち着きを取り戻した店内に、常連客の楢岡がやって来た。
 自称、私立探偵。その実は生活安全課の警察官だと、ついこの間同僚の刑事に暴露された男。入り難そうにうろうろと店の回りを数往復し、一度は傍のコンビニに消え、暫くすると覚悟を決めたのか勢いよくベル付きの扉を開けて飛び込んできた。長沢は渾身の笑みを向ける。
 「いらっしゃいませ、神田署生活安全課の楢岡様」
 扉をくぐった途端気をつけの姿勢になった楢岡が、がっくりと肩を落とす。その後にゆっくり口の前に一本指を突き出して、静かに、というジェスチャーをして見せたが、既に店に落ち着いていた常連客グループから、え、楢岡?生活安全課ぁ?と言う抗議の呟きが上がっていた。楢岡は、その声の主にとやかく言われる前に、さっさとカウンタに身を隠した。
 カウンタの一番南西側、住居スペースに続く玄関ホールに一番近い位置から数えて二つ目の席に滑り込む。そこが楢岡の指定席だ。
 彫りの深い、濃い睫毛の目許に、人懐こい笑みが浮かぶ。
 「悪かった。いや、悪ぅ御座いました。って言うかごめんなさい。私、嘘をついておりました。皆様の僕、公僕の警察官でぇ御座いぃます」
 「女にモテる為に身分詐称してるんだってな。ここでそう言う事して何か意味あるのかね」
 注文も聞かずに、細挽の豆をフィルターにつめてプレッサで押さえ、エスプレッソマシンにセットする。楢岡の注文はいつもドライカプチーノ。フォームが多目のミルクを少々、と言うオーダーだ。
 「有るね。有りますとも。大体Kちゃんもマスターなら、こっちのそう言う気持ちも察してよ。刑事課の一係とかだとTVドラマも沢山有るし、格好良いから使えない事も無いだろ。けど俺、生活安全課だよ?モテない。もー絶対モテそうもない。探偵のがまだイケる。そう思ったからそうしてたんだよ。まずい事も無いでしょ」
 カプチーノと一緒に小さなマドレーヌとチョコのプレートを出す。プティ・オレンジ特製の特別サービススウィートパート2である。楢岡の疑問の視線が持ち上がった。
 「入院中はご心配をおかけしました。ささやかながらのお詫びに、今日は皆さんにプチデザートをサービスしてます。甘い物苦手な人にもOKな、甘さ控えめヘルシーデザートです。どうぞお召し上がりください」
 「…さ、サンきゅ。でも何か他人行儀だなぁ。セールストークでしょう、それ」
 「はい。楢岡様はお客様ですからね。プライベートを隠したいのは当然だ」
 「………悪かったって言ってんじゃんよ」
 長沢の視線を避けるように俯いてチョコに手を着ける。いつもならランチタイムの最後の頃にやってくる楢岡がこの時間にやって来たと言う事は、他の用事が無ければ、悩んでいたと言う事だ。自らの身分詐称に罪悪感が有ったに違いない。おどけて誤魔化して、長沢の機嫌を伺っているのが可笑しかった。いかにもな第一係の刑事を送り込んだ"自称探偵"に、少しくらいの報復行為をしても罰は当たるまい。長沢は人知れず小さく笑って、次の注文に取り掛かった。
 楢岡は、久々に開いたSOMETHING CAFEの窓から、見慣れた街を眺めた。
 暮れ行く空と雑踏と学生達の嬌声。ビジネスマンと学生の入り混じった人の流れとクラクション。変わり映えのしない情景がそこにあった。毎日繰り返される日常。時の流れと言う穏やかな変化だけが降り注ぐ、同一では無いが類似の景色がそこにあった。−−− たった一つの点を除いて。
 日常にぽつんと穿たれた非日常が、交差点の向こうに佇んでいた。
 SOMETHING CAFEから見えるか見えないか、否、カウンタの中から見えるか見えないかのぎりぎりの位置にそれは佇み、じっとこちらを伺っていた。飢えた獣のような、飢えた子供のような。無邪気で切羽詰った殺気を纏って、それはそこにいた。
 信号が切り替わる。スクランブルが赤になって、店の視界を大型トラックが塞ぐ。
 ほんの一瞬のブランクだった。大型トラックが去るのを待ちかねて楢岡が目を凝らす。しかしそこには、もう何も見つけられなかった。
 辺りは、深まり行く夜の匂いに染まりつつあった。
 

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