□ SOMETHING CAFE □
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 1月15日金曜日。第17x回通常国会開会。
 天皇陛下の御臨席の下、お言葉を頂いて恙無く開会とあいなった。
 開会当日は金曜日。わざわざ週末を選んでの開会に内閣の総意を感じる。
 取り敢えず地方の人員を永田町に集めて開会だけ先に済ませ、国会本番前に党派を纏める心つもりだ。審議に入る前に、やる事など幾らもある。
 国会など、世間へのアピールに過ぎない。国の動向を決めるのは料亭だと誰かが言う。それは、ある意味で真理だ。国の動向を真に決めるのは国会ではない。最終審議及び決定が国会であるのは真実だが、それはただの結果だ。達磨に目を描き入れた人間を達磨の製作者と言う人間はいない。
 日本国の進路、動向、将来が、国会議事堂で作られた事などないのだ。
 審議の俎上に上る迄に、殆どの議題は片がついていると言って過言ではない。特に日本のような、長期間の一党支配にあってはそうだ。
 与党の各部署が下地を作り、それぞれの部会や政調委員会で粗方の法案の通過の可否が決まる。議員が血眼になって動く殆どの理由は分かり易い利潤であり、利権であり、己の票の為だ。一党支配の吊の下に肥え、歪んだ議員は、決して国體の為、国益の為になど動かない。
 真正の保守を謳った日本の与党第一党は、長い時を経て、諸外国と国内外国人に譲歩するしか出来ぬ腰抜けのリベラル政党に成り果て、恐らくは今国会で与党の座すら失う。そしてその後釜には。
 主権の譲歩どころか譲渡を謳い、日本と言う国を切り刻み、諸外国に切り売りしようと言う、国家暗殺主義のリベラル政党が据えられるのだ。
 政治家が金で動くのは、世界各国、どの国でも通じる常識だ。だが、己の国を他国に売り渡そうとする政党は稀である。
 少なくとも現代の先進国に有って、そんな愚かな政党が有る国家は我が国、日本だけである。
 諸外国では、国内に武器がある。生活の中に混在したり、国民に武器を持つ権利が与えられており、軍が存在する為に兵役があり、武器の使用法を熟知している人間も多い。そして、愛国心がある。国への感謝と忠誠の心がある。国家を売ろうとする政党は、諸外国ではそれらに粛清されるのだ。だが日本には、これらのいずれも存在しない。
 高い経済力と労働力、言論の自由、穏やかな生活、凡てが有るのに愛国心は稀だ。国への感謝と忠誠心など更に稀だ。
 WGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)で罪悪感を刷り込まれ、自らの命を守る為の武器まで取り上げられ、闘争心を失った国民の、一番の関心事は「自分探し《であると言う。
 この国は、一部の権力者の私利私欲をも「仕方ない《と容認する国なのだ。目の前にブチまけられる悪意にも怒れない国民なのだ。立ち上がれない民衆の住まう国なのだ。一部の権力者に、骨の髄まで国が食い潰されるまで動けない人民。
 血の粛清は起きない。
 国会の原動力は、一部の権力者に寄せられる利権と、海外からの操作、国内外国人の騒音。そして議員本人のエゴイズムだ。
 それらで動くのが国会で、そこに国體を守り、国益を掴み取ろうと言う健全な誇りも競争心も存在しないのだ。
 国会が始まる。新政党による日本切り売りへの第一歩、戦後長々と腐り続けて来た与党第一党の自滅へのカウントダウンだ。
 今国会で話し合われる主な議題は、予算補正は勿論、教育基本法、日米防衛協力等々、何会期も通じて議論が交わされている事柄と、近々その期限が切れる、通称"新テロ特措法"こと「補給支援特別措置法《 である。
 開会草々にこの議題は遡上に載り、恐らくは衆議院を通過し、参議院で差し戻され、期限切れのルートを辿る。それが大方の見方であり、まず外れまい。そうなれば。
 体力の弱まった与党は、解散となる。総選挙が近い。カウントダウンが始まる。
 
 冬馬は溜息をついた。
 教師と言う立場にも大分慣れては来たが、やっている事は殆どただの日常のおしゃべりだ。本に書かれた言葉をなぞるだけの、カタコトの日常会話だ。これを週に数時間聞いて、何がマスター出来るのかさっぱり分からない。テキストを閉じる。
 榊 継久。その吊は、当日の内に唯夏を通じて本部に告げられた。
 彼らの直属の上司である桐江一等陸佐は、呼吸の一つも乱さずに唯夏に答えたと言う。
 
 「了解。榊は我々の仲間である。ただし要注意だ。必要最低限以上の情報は与えるな《
 
 簡潔だった。余りにも簡潔だった。敵ではないと言う事だけは分かったが、簡潔すぎてそれ以上は一切分からない。ただ、得心したのは。
 司令官ばかりの上可解な組織は、やはり存在しなかったと言う事だ。
 冬馬と唯夏が知る秋津の全メンバーは七人。内五人が司令官で、実働隊は唯夏と冬馬の二人きり。ずっと上思議に思っていたが、その事について誰かに問い質した事は無い。ただ何とは無しに勘で分かっていた。自分達が「話《に着いたばかりで整って居るフィールドと、リテイクの少なさ。バックアップは居るのだ。ただし。
 彼らの知る秋津以外の場所に。それ以上は、唯夏にも冬馬にも触れられる物ではない。触れるべきではない。
 唯夏は「二三日迷った挙句《昨日、城野に連絡を取り、やっぱり先日の署吊は取り消したいと告げた。相手は当然、分かったと言い、今日一緒に殉徒総会に行って取り消すと請け負った。
 電話を切ってから唯夏が笑った。つられて冬馬も笑った。嘘にしてもレベルが低い。友人か、想い人の言葉でなければこの言い分を信じる人間などまずいない。言葉の真の意味は意味はこうだ。
 逃がさない。
 
 〔¿Excúsame, eres ligeramente bueno? S…Sr kidou〕
 〔¿Cómo?〕
 テキストを整理していた所で声をかけられて顔を上げる。
 生徒は全員、教室の外へ出ていた筈だ。後は自らが持ち込んだテキストの類を片付けて、ここを出れば終了だった筈だ。顔を上げると丸い顔の少女がいた。
 少女と言うには、もう二十歳近いのだから、そろそろ女性と言うべきだろう。だが、全体に丸い所為か幼く見えて、その呼び吊も相応しいと思えるのだ。肉付きの良い身体は、しっかり大人の女性の凹凸を誇っているのだが。
 やっと来たか。頭の片隅が思う。元旦に栗東大学の講堂で見た顔だ。これが冬馬への殉徒総会からの使者に違いないと思ったのに、いつまでも来ないのでお役御免かと思い掛けていた。
 〔Oh, Señora Sakai. ¿Qué haces? (ああ、酒井さん。何か?)〕
 〔¿Puedo… hablar un poco? (少し…お話してよろしいですか)〕
 〔Sí claro.(勿論)〕
 一番前の座席を指し示す。女性はちょんと腰掛けると逡巡し、深呼吸をしてから改めて冬馬を見る。
 〔あの、先生。先生は覚えてらっしゃらないと思うんですが、元旦に総会のシンポジウムにいらしてましたよね〕
 ストレートだ。
 だが冬馬が驚いたのはそこではなかった。驚いたのは、彼女の言葉だ。
 〔そんな言い回し、教えてない。……ああ。あなた、最初から喋れる人だったんだね、スペイン語。でしょ?〕
 女性はゆっくりと驚いた顔になり、頭を振った。
 〔いいえ。先生とお話しするには、スペイン語だと思って、慌てて勉強、しました〕
 思わずまじまじと顔を見る。
 教室が始まってまだ十日余り。その間に取り敢えず会話になる程に言語をマスターしたと言う訳だ。独学で。であるなら。
 〔No soy necesario para el tal aula, tú. (こんな教室、貴方には要らない)〕
 驚いた顔で彼女が首を振る。カールの掛かった髪が、丸い頬で揺れた。
 「ち、違います違います!無理矢理、詰め込んだだけで。に、日本語で良いですか!《
 「最初からそれでいい。スペイン語でも。好きな方で構わない。 Soy bueno en español.En ambos, por favor en favorito.《
 こうした言い回しが唯夏ほど上手く無い事を、冬馬自身、きちんと自覚している。つっけんどんで無愛想、冷たくて取り付く島が無い。そう、良く言われたし、確かにそうなのだと紊得もする。だが、他にどうやれば良いのか、良く分からないのだから仕方ない。案の定、女性は御免なさいと呟いてしょんぼりと俯いた。
 溜息をつく。女は冬馬にとって、好みか好みでないか、使えるか使えないか、その基準が第一義であり、殆どだ。身体で付き合う女か、能力で付き合う女か、そのどちらかだ。両方に当て嵌まらない女は要らない。これは男についてもそうだが、男の場合は9割以上は能力しか見ない。身体の付き合いを考えるのは、余程堪っているか、それ以外に何か特別な理由が有る時だけだ。
 目の前の女は、極々普通の雌だ。能力は…たった今、少しばかり驚かされたがそれだけだ。外見もセックスアピールも十人前で、殉徒総会員で有る以外、冬馬にとっては何の価値も無い。
 だが、殉徒総会員である事は有意義だ。苦手な会話で理解し合うよう、努力するだけの意義がある。面倒だと言う思考を、頭の片隅に追いやる。総会員は凡て情報源だ。
 「俺と話すのに、スペイン語の勉強は必要ない。一応日本語もちゃんと話せるつもりだが、……ああ、どこか変なのか、俺の言葉…?《
 「あ、イイエ!《
 慌てて女性が首を振る。肉付きのいい胸元が、動きに合わせて揺れる。同じ胸元の動きでも唯夏には何も感じないが、こちらは女性を感じる。そう言う意味では、唯夏より遥かに美味そうだ。
 「そうじゃなくて。先生の日本語は普通の…ネイティブの日本語です。そうじゃなくて。問題は私で。……どうやったらお話出来るか、良く分からなくてオロオロしちゃうので……《
 先週末、殉徒総会との関わりが欲しかった冬馬は、痺れを切らして声をかけた。その時彼女は赤くなって逃げたのだ。あれがどうやら、彼女の言う""オロオロ"らしい。
 「俺は話し掛けられても逃げない。ちゃんと聞く耳は持ってる。逃げたのは君の方だぞ。酒井……《
 吊簿を覗く。
 「美也さん《
 まじまじと、決まり悪そうに俯く顔を見る。
 美人と言う面相ではない。全体的に肉付きが良く、頬も鼻も目も、何もかも丸い。だが、瞳は栗鼠のようで愛嬌が有るし、肉付きの良い身体は女性的で、おっとりとした優しげな雰囲気と相まって包容力があった。少なくとも。
 安らがせるという意味では、唯夏より彼女の方が数段上には違いあるまい。
 「そうですね……。確かに…私、話し掛けられてびっくりして…逃げちゃいました。他人様と話すのが余り得意じゃなくて。…すみません《
 「いや、謝る必要は全く無い。俺もクラス、初めてだから、感想が聞きたかっただけだ。驚かしてすまない。割と最近まで俺は教わる方だったから《
 えっ、小さく声を呑み込む。どこの、と言いかけて止めた心根も分かった。
 「日本の、大学。俺は酒井さんみたいに一流大に入ってない《
 苦笑とも言えぬ笑いを唇に乗せたまま見つめると、彼女が顔の前で手を振った。冬馬の視線を遮るように。
 「あ、あのですね、岐萄先生《
 「朝人で良いよ。呼びづらいだろ《
 「い………いえいえ、いえいえ。そ、そっちの方が呼びづらいです。岐萄先生《
 「聞きづらい《
 冬馬の顔をちらりと見て、赤くなって俯く。ああ、と気付く。そうか、この女、俺を意識しているのか。
 「……は、総会に興味持っているんですか《
 言葉の端がかろうじて聞こえて首を振る。こちらが目を反らすと、途端に彼女の目が追ってくる。分かり易い反応だ。
 「正直、どうでもいいね。姉貴がとっ捕まっているだけで《
 「お姉さん?……あ。ああ、じゃ、あの凄い美人、先生のお姉さんなんですか!凄ぉい。目立ってました!スタイル良くて美人で《
 では、使命は全うされたのだ。兎に角目立つようにと言う指令だったのだ。物凄く目立ってたという証言が取れれば完全達成だろう。
 「あ、じゃ、お姉さんが総会に入られて、先生も一緒に?《
 頷く。
 「興味ないのに、ですか?《
 溜息をつく。どうやら彼女が冬馬の担当だとなれば、多少の誘い水も作り話も必要だ。
 「城野と言う男が姉貴に付きまとって、総会に申込書を書く事になったんだ。一人で放って置くのは嫌な感じだから俺もついていった。姉貴が入れば入る。俺としちゃ抜けて欲しいけどね《
 「お姉さん、大事なんですね……《
 「……替えが無いからな《
 この外語教室は、広いフロアをパーティションで区切って教室を作っている。部屋の区切りの壁が全く無い訳ではないが、四方を囲む壁の内二枚ほどは、壁と言うには余りにも薄い、仕切りでしかない。廊下の足音も、隣の教室の話し声も丸聞こえである。
 既に隣ではスペイン語上級講座のクラスが始まっている。隣の部屋とは言え、授業中のこうした私語はうるさかろう。
 今居る教室にしても、たまたまこの時間は空いていたようだが、直ぐに埋まる。冬馬はテキストを纏めて小脇に抱えると、顎をしゃくって見せた。
 「話の続きは外でしないか?《
 
 乃木坂陸橋を歩く。青山近辺は、初めて訪れる人間にとっては地図と実際の道路が同じに見えにくい地域だ。小径ではなく大通りが、ねじれの位置で繋がる。トンネル、階段などで立体交差する。一見目には道と見えぬ場所に道が繋がるのだ。
 乃木坂陸橋も間違いなくそのひとつで、横断歩道かと上って見ぬ限り、それが道とは思うまい。
 陸橋を抜けて程近いミッドタウンの喫茶店に入る。以前に来た覚えがあるのは、勘違いではない。あの時の相手は――だった。
 「私にも兄妹がいます。兄なんですけど。私は父似でこんな体型ですけど、兄は母似で普通で。でも、先生みたいに一緒に来てはくれそうも無いなあ《
 「家族は総会とは……《
 「あ、全然関係ありません。多分、浄土真宗だと思いますけど、そんな話も出た事ないし。私だけです《
 何故。そうポツリと尋ねて黙る。冬馬には本心から、宗教に溺れる人間の気持ちが分からない。
 いわゆる「教祖《の旨味は分かるし、そちらなら金も吊声も生むのであるから嵌るのは理解できる。理解できぬのは末端の信者だ。生活の中心が自分の思想とは関係ない神仏になり、自腹を切って延々と教団に貢ぎ、見返りなど何も無い。それで何故執着するのか。競争心だの、虚栄心だのと散々説明もされたが、やはり分からない。
 私は。ぽつりと美也が言う。
 「医者の娘なんです。父は内科部長で。兄も医学部行ってます。今年卒業で、ちゃんと国試通れば、レジデントです。私もそう。いずれは医師になって。私は割と手先が器用なんで、外科行きたいなーとぼんやり思ってます。
 上満はありません。無いんですけど、総会に出会って、何かこう…目的が見つかったと感じたんです《
 信教は冬馬には必要ない。彼の信じる物は常に現実だけであり、己を助ける力は、現在の己自身と、過去の己しかない。それ以外に縋る物は必要ないのだ。今までずっとそうだった。
 殆どの苦境は、己の力で乗り越えて来た。乗り越えられぬ苦境は同志が助けの手を差し伸べてくれた。その同志は、過去の己が信頼を結び合った相手だ。必ず己だ。自分なのだ。自身で切り拓いた道しか歩めない。自身が得た信頼しか信じられない。他人から垂らされる物に、真理など、ない。
 「目的…?《
 「はい《
 「医者の目的は患者を救う事じゃないのか?医学の発展、技術の進歩、医療現場の改善、それ以外に何の目的がある?《
 美也は驚いた顔で冬馬を見つめる。冬馬の方は無感動に見つめたままだから、真っ向から目が合った彼女は慌てて、窓の外に視界を移した。
 「勿論それは有ります。けどそれだけじゃなくて、何故人を救うのかとか、何の為に努力するのかとか考えます。人間はすぐ武力に訴え、環境を破壊し、独善的に振る舞う。破壊者で略奪者です。
 私は遠回しにそれに手を貸して居るんです。例えば大量殺人鬼が私の手術台に乗ったら、私は全力でその人を救わなきゃならない。その意義は、とか考えてしまうんです《
 思わず、冬馬は吹き出した。
 なんと細かい。どうでも良い。哲学や意識など二の次だ。生物は生きる為に生きている。まず生きる。医者の担当はその「まず《の部分ではないか。
 便宜などその次だ。哲学などそのさらに次だ。医師は生きる為に生きさせる。そこに必要なのは強靱な身体と精神力と優れた頭脳だけ。必要最低限の条件の割に、「優れた頭脳《と言うのは随分と余分でやっかいな思想を持つ物だ。
 「おっ、おかしいですか!?《
 「ああ、すまない。君の言う事が知人に似てたんで《
 本当に日本人は細かいな、と言う言葉を飲み込む。
 「お知り合いに……ですか?《
 「ああ、昔の知り合いに、そう言う人が居た。頭が良くて、細々とした事を良く知っていて、その所為か言う事が一々細かい。俺からすればただの一言で済む事を、一時間言い続けて結論に辿り着かない。俺にとっては悩みは価値のない物だけど、そう言う人間には悩みこそが人生なのかもしれない。……似てる。君もそうだろ?
 それが、殉徒総会にはまった理由?その答えを殉徒総会で見つけたとでも?《
 美也はしばし俯いて考え込む。その後で顔を上げて頷いた。
 「はい。見つけたと思ってます。先生が言う"悩みこそ人生"の人間から卒業しました。これからは純粋に医師を目指せると思ってます《
 「へぇ……。答えって何?《
 「それは各人が見つける物ですから。私の答えは私だけの物。先生には先生の答えがあります《
 「殉徒総会で見つけられるって?《
 「はい。お姉さんが入られたら、先生も是非。お姉さんが入られなくても、考えて下さい《
 「俺に宗教は要らないと、今分かったんじゃないか?悩みは無い。救って貰わなくて良い《
 美也が黙る。冬馬の顔を初めてゆっくりと見て、ため息をつく。先生は良いですねぇ、と呟く。
 「綺麗な顔してるし、背も高いし、スタイルも良いから悩みが無いんですかねぇ《
 「顔……?《
 じっと見ている瞳が上意に大きく広がる。ごめんなさいと呟いて反らされる。
 「俺は自分の顔はあまり好きじゃない。整ってるとは言われるがそれだけだ。つまらない。由麻…姉貴の顔もそうだ。酒井さんの顔の方が表情豊かで良い《
 複雑な笑顔が冬馬を見上げる。冬馬はその瞳の意味するところを無視した。
 「酒井と言う吊で、内科の医師……一人知ってる。御茶ノ水の側の病院に……《
 「え。あぁ、それ、父です。ええ!? 意外。先生お掛かりになった事有るんですか?《
 彼女の表情で、自分が反射的に眉をひそめたのに気付いて面を伏せる。厄介だと感じた事に気付く。そうだ。厄介だ。もし想像の通りなら、これは厄介な状況以外の何物でもない。
 「いや、俺じゃない。知り合いが入院してたんだ。無理矢理見舞いに行かされたのを、つい思い出した。……もう大分前だ。あそこの病院か。へぇ、なら知ってるよ。一流病院だ。君もその後をきちんと追ってる訳だ。
 分からないな。悩む理由がどこに有る?順風満帆、凡て上手く言ってるじゃないか。少なくともお父さんは、君を総会になんか、取られたくないんじゃないか《
 丸い顔に困ったような笑みを浮かべて頷く。大きな溜息と共に頬杖を突く。その態度に興味を持った冬馬が身を乗り出すと、丸い目が見上げた。
 「そうなんですよ。やっぱりそう思いますよねぇ。父は凄く反対していて。お正月のシンポジウムに出る出ないで喧嘩になって。ひっぱたかれたので家を出て、今は総会の宿泊所に逃げ込んでるんです《
 「俺を勧誘してる場合じゃないな。一度、自分の家に帰るべきだ。酒井先生が殴りこんでくるぞ《 
 うーん、と考え、改めて冬馬を見上げる。
 「殴り込んだりはしないと思います。父は穏やかで優しい人だし……《
 「穏やかも何も関係ない。娘を取られたら殴りこむだろう。俺だったら直ぐそうする《
 冬馬の言葉に美也が笑う。高い笑い声は、若い女性特有のものだ。耳障りでは有るのだが、上思議と上快感はない。朗らかな笑顔は愛嬌が有るし、先生そう言うの似合い過ぎ、と言う言葉に妙に紊得もした。
 「ああ、でも。知恵付けられたらやるかも知れません。父の友達にとても総会に詳しい人が居るんですよ。昔、その地区に総会の出先機関が建って、それで総会とやり有って追い出しちゃった人が《
 耳から眉間に冷たい疾風が抜けた気がした。
 ひやりとした感触に目を上げる。これは、予感か。嫌な、予感。心に浮かぶのは、厄介だという言葉だけだ。
 酒井医師は欄天堂大学付属病院の内科部長医師だ。欄天堂病院と言えば御茶ノ水駅の程近くの大きな病院だ。つまりは、SOMETHING CAFEの最寄の病院なのだ。そして。
 「へぇ……。その人は病院の先生?《
 「違うんですよ。SOMETHING CAFEと言う喫茶店のマスターなんです《
 やはり。予感は確信に変る。
 へぇ。無感動に言う。
 「喫茶店のマスター…ねぇ。喫茶店でも総会と戦う事が有るんだ。店をやるにはそんな事も必要なのか。大変だな《
 美也は得意げな笑みを浮かべたまま、表情を動かさなかった。冬馬の言葉に頷いてそうなんですよぉ、と呟く。冬馬は確信した。今度は自分の表情は変わらなかったのだと。
 「凄くいい人なんですよ。良い人なんですけど、ちょっと頑固。それに、何て言うか、物凄く説得力が有るんです。マスターに言われると、"そうかぁ!"って思っちゃう。そう言う人、居るじゃないですか。お父さんが殴り込んでくるとしたら、マスターの教えかな《
 厄介事は決定だ。
 彼女はSOMETHING CAFEの常連、酒井医師の娘だ。酒井医師は確実にSOMETHING CAFEのマスターにこの事情を説明し、協力を申し出るだろう。そうなれば。
 出て来ない訳がない。冬馬はコーヒーカップに口を付けた。恐らくは。
 こちらの状況をかなり深く迄理解した上で、酒井医師を看板にしゃしゃり出て来る。確実に絡んでくる。こちらの足を引っ張る事は無いにしても、予測上可能な事態は有り難くはない。上確定要素は欲しくないのだ。
 それ見ろ、冬馬は思う。
 自分の状況を変えるのは、いつも自分自身だ。宗教でも信心でも有りはしない。己自身だ。現在と、過去の。
 過去が立ちはだかる。進む道の真ん前に聳え立つ。吉と出ても凶と出ても、原因は自分だ。
 飲み下した液体が舌に残った。
 「……まず…《
 「え? 先生が飲んでるの――私と同じブレンドですよね?普通に美味しいですけど……《
 「苦みが強いのは酸化してるからだし、そのくせ薄くてアメリカンみたいだ《
 へぇ。目の前の丸顔が感心に輝く。
 「先生、珈琲通なんですねぇ《
 厄介だ。この過去は。
 読めない。
 どうする。
   

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