□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 『ああ、長沢さん、忙しい時間にすまないけど、ちょっとだけ話、良い?』
 「かまいませんよ。電話待ってたくらいです。たっぷりお聞きしますよ」
 受話器の向こうで、これ見よがしに大きなため息が響いた。
 
 秋元から電話があったのは、酒井医師に"殴り込み"の話をした翌々日の朝だった。
 ベルが鳴ったのは、そろそろ北村が来ようと言う時間。明らかにタイミングを狙ってかけて来たと感じたから、長沢は受話器本体では無く、子機を掴んだ。肩に挟んで朗らかに店名を口にすると、中からいつもとは違う明るい秋元の声がおはよう、と言った。したり。そう思ったのは長沢だ。
 朝は誰しも忙しい。会社勤めの人間なら、これから出るから適当に言う事を聞き、小売店では、店の準備で手一杯だからと適当に要求をのみがちの時間帯だ。セールスなどの電話がこの時間に多い道理である。
 だが、それが通用するのは、相手がいわゆる"消費者"の時だけだ。互いが販売業者で有ればその手は効かない。長沢も同じ事だ。
 こんな手には動じない。何しろ新都銀行時代に嫌と言う程使い古した手なのだ。それも、今のように携帯が有った訳ではない。出ました、と言われれば終わりの時代だ。手管の種類もバリエーションも、秋元に負けない自負がある。
 この手で兎にも角にも会う約束を取り付け、その後は夜討ち朝駆けでターゲットを口説き落とした日々を思い出す。今など、携帯は有るわメールは普及しているわ、楽な物だ。店に居れば持ち運びの楽な子機も有るので、通話にタイミングの悪い時など無い。
 もっとも。
 昨日か一昨晩でなくて良かったと、密かに思ったのも事実だ。一昨晩は楢岡に捕まっていたし、昨日はおかげで一日中、全身が酷い筋肉痛だったのだ。腰は重いし脚は攣るし、朝昼のラッシュ時などは殆ど拷問だった。何とか、隙を見て自宅スペースで身体を伸ばして誤魔化したが、非常に疲れた。
 楢岡は大変に反省し、昨夜訪れて念入りにマッサージしてくれたので、今日は随分と楽だ。おかげでほぼ普段通りに動けるが、これが昨日なら頭も動かなかったに違いない。
 受話器の向こうの溜息が消えてやや暫く。いつも通りの声の秋元が、一応聞くけど、と言う。
 『せめてあと一週間待ってよ。こっちも着手してまだ一週間なんだからさ』
 駄目ですよ。大体の掃除を終えた辺りで北村がやって来た。軽く頭を下げて受話器を指さすと、了解した北村は小声でおはようございますと呟いて厨房に消える。
 「駄目ですよ。秋元さん、分かって言ってるでしょう。明日は国会の開会式。今の自明党ですよ。下手したら来週一杯で解散になる可能性だって有りうる。そうなったら総選挙じゃないですか。公正党の活動、読めたモンじゃない。その前に行かないでどうすんですか」
 『大丈夫だろう。開会早々解散なんて有り得ない。十日は保つ。来週で良いだろう』
 「あ、さっき秋元さん、着手して一週間って仰いましたが、今日でジャスト十日ですよ。都合で一週間と十日を組み替えても駄目です。国会の開会から解散までの最短記録は昭和28年の第15回国会。有名なバカヤロー解散で、何と三日。三日ですよ。この記録を塗り替えるのは無理だろうけど、その次位にはなるかもしれないでしょ?是非とも今週末に行かないと」
 おおっぴらに受話器が舌を打つ。
 「今、舌打ちしました? 知ってます?秋元さん、考えを見透かされると、昔っから舌打ちなさるんですよ」
 『分かったよ!』
 思いの外の大声に、長沢がびくりと肩を引く。厨房からこちらを伺っていた北村が苦笑した。
 『どうしても行こうって言うんだな!よし分かった。好きにすれば良い。だが、こっちに情報はきちんと伝えて置いてくれ。いつ、どこの支部に行く!』
 それなんですけどねぇ。店の玄関をくぐる内崎に手を振る。内崎は頷いてカウンターに入る。長沢の頭の後ろで、従業員同士が情報交換をする。取り敢えず電話の相手は怪しい客と言うことに落ち着いたようだ。強ち間違いではない。
 「どこが良いですかねぇ、秋元さん」
 『ハァア!? ふざけんなあんた、俺から情報引き出して行こうって言うのか!!』
 「あったり前じゃないですか」
 受話器向うが息を呑む。ジタバタと動く音が漏れているのは、恐らく貧乏揺すりをしている所為だ。
 「良いですか。俺は総会に関してはド素人で、貴方はプロ中のプロです。抜けた今でも内部の事情は内部の人より詳しいし、動向も良くご存じだ。どの支部、出張所、センターが一番入り込みやすいか、入り込むべきか、一番知ってるのは貴方じゃないですか。教えて下さいよ」
 『ふッざけんな!何で俺の仕事の邪魔をするあんたに、俺が協力しなきゃならねぇんだよ!』
 ああ。深い溜息と共に言葉の端切れをゆっくりと囁いて、たっぷり間を空ける。一頻り怒号を上げた秋元は、受話器の中の声が静まったのに、何だよと毒づいた。それでも黙っていると、続けて何だよ!と叫ぶ。
 「秋元さん。落ち着いて」
 『だッ…!!手前ぇが俺を怒らせ…!』
 「怒るから俺の言ってる事が聞こえないんですよ。良いですか、これは秋元さんにとってもチャンスなんですよ。先方が知らない人間を、一度だけ中に忍び込ませられるって言ってるんですよ。分かります?
 先方の誰も親御さんの顔なんて知らないでしょ?だからその知らない人の顔で入り込んで、調べるのは俺がやれるチャンスなんですよ。正に千載一遇。大チャンス。だから俺が聞いてるんですよ。秋元さんが覗き込みたい支部はどこですか、って。貴方が。
 内部を知りたいのはどこですか」
 スタッフが揃う。準備が整う。時計の針は7時57分を回っていた。
 長沢の耳の中は静まり返っていた。つい先程までがなり立てていた胴間声は、今はすっかりなりを潜めている。ガタガタと言う雑音も、無い。
 呼吸を追う。耳の先で繰り返される静かな往復の呼吸を読む。さらにゆっくりと、長沢は深呼吸をした。
 「……で?」
 店の外に、気の早い常連が近づく。子機を肩に挟んだまま、椅子を立ち上がる。
 「俺からそちらに行きますか?貴方が来て下さいますか?俺が行くとなると午後になりますが」
 進む。扉に向かって数歩の距離を、いつも通りの足取りで。慣れた微笑みを浮かべる。業務用として意識し続ける間にいつか本当の顔に取って代わった笑みを浮かべる。
 『俺が行く』
 扉の前に辿り着く。
 『9時には少し手が空くんだったな。その少し前にはそっちにつく』
 「そう来なきゃ。ぎりぎりだよ秋元さん。頼みましたよ」
 子機を肩から外して扉の鍵を回す。扉を開けて、表にある「準備中」の札をひっくり返して「営業中」にする。同時にその場に辿り着いた常連が、仰天顔で手を引いた。
 「お早う御座います。いらっしゃいませ。今日も一番乗りだ」
 「うお、どろいた。お早うマスタぁ」
 子機をエプロンのポケットに投げ入れて客を迎え入れる。常連が指定席に座るのを横目に子機を戻し、内崎が取る注文と共にカウンタに入る。厨房の北村が意味有りげに笑った。
 「ん?」
 「朝から絶好調!って顔してますよマスター。物凄く得意げ。昨日は筋肉痛でひぃひぃ言ってた癖に」
 戸口のベルが鳴る。内崎から続けざまに注文が入る。長沢はカウンタに、北村は厨房に住み着く。タイムスケジュール通りの、ここが彼らのフィールドだ。エスプレッソマシンを操りながら苦笑が零れた。
 「男子三日会わざれば刮目してこれを見よ、ってね。それとも、喉元過ぎれば熱さ忘れるの方かな。昨日の俺と今日の俺は違います」
 恐れ入りました。北村が言うのと、どういたしまして、長沢が言うのはほぼ同時だった。
 
 9時の声を待たずして現れた秋元は、奥の席の四人掛けテーブルを奪って地図を広げた。
 ラッシュタイムはほぼ終了で、厨房のメイン業務は既に皿洗いになっている。洗い物は新人が担当で有るから、秋元が店に入ったのは、内崎と北村の持ち場が丁度変わる所だった。長沢が注文を取り、残り三組のオーダーをこなしてから秋元の手前に座る。
 スキンヘッド。その下のブラウンのサングラス。その奥の三白眼が持ち上がった。
 「ココ」
 広げているのは東京23区の地図だ。最近ではWEBの地図に出番を奪われがちの印刷地図だが、赤いマジックでぐりぐりと丸を書き込まれた図面には、奇妙な迫力があった。
 赤丸の場所は青山。赤坂と渋谷の間に広がる坂の街だ。青山通りの一点、大通りから道を折れた場所に付けられた赤丸が示すのは、ステラミラー・ビルと書かれた建造物だった。
 「ここが港区支部だ」
 指で地図を辿る。青山を少し北に登れば、そこは殉徒総会の大本営だ。予想外に近い位置に港区支部は有るのだなと考えて思い直す。
 「ははぁん……なるほど。隠れ蓑には理想的、って訳ですね。大本営が汚れ仕事をやる訳には行かない。その為の防波堤支部ですか。なるほど。現在手がけている件の何件がここだと疑ったんですか」
 「うん、7件……俺の台詞を取るなよ長沢さん」
 ああ失礼。そう呟いて笑う顔は、どこにでも居る人の好い親父の顔だ。だが、これがこの男の武器だと言う事は嫌と言うほど思い知らされた。お人好しだと油断して零したささやかなヒントを、手当たり次第に集めて拾い、噛み砕いて飲み込み、誰かの心の中に忍び込む。信用させ、入り込んで食い散らかす。そして尚も人の良い顔をして、自分は善意の一般人だ、むしろこちらが被害者なのだと臆面もなく言い触らす。
 敵に回したくはない、いやらしい男だ。
 「で、どうやって入ったら良いんです?守りは堅そうだ。どうせ保安員がいて、総会員しか入れてくれないんでしょ。俺、昔も相当断られましたよ」
 「今週末は折伏会だ。信者の口添えがあれば入れる」
 「―あ。ああ、 秋元さん、だから来週まで俺に延期しろって言いましたね。これを俺から守る気だったでしょう。これだから…」
 パン!ライターを卓上に叩き付ける。長沢はぱたりと口を閉じた。
 「やかましい。本当にあんた"出来る"のか?」
 睨み付けると、男が黙ったままその目を見上げてくる。YESもNOも無い。ただ黙って、こちらを値踏みするかのように見返してくる。媚びるような伺うような、静かな瞳に圧倒される。だから。睨み合ったまま囁かれる声はいつもの軽口と同じだった。
 「俺に何をさせたいかは貴方次第です。勿体ぶらずに言って下さい」
 圧迫感を感じて椅子の背に寄りかかる。ブレンドを一気に飲み干す。丁度温くなっていたブレンドは口にやや苦かった。
 この男が苦手だ。
 「全部、憶えて来い」
 「は…?」
 「中で多くの人間に会うだろ。そりゃ多いよな、折伏会だ。いろんな人種が来るだろう。客の方はまぁまだ良い。中の人間の凡ての顔、覚えて来い。それが出来るか?
 出来るなら、あんたに協力する。中に入る手立て、整えてやる」
 「はい」
 余りにも早い返事に、秋元が再びライターを机に叩き付ける。ふざけるなと言う言葉の代わりだと直ぐに伝わった。
 「はいじゃねぇだろ。やれるかどうかを聞いてんだ。出来ないなら協力なんざしねぇ。こちとら何の得にもなりゃし・」
 「はい。YES。やりますよ。やれるかどうかじゃない、やりますよ。だから協力して下さい、中に入る手立て整えて下さい、是非お願いします」
 一気に間近で言い切られ、秋元の方が黙り込む。決して大きくは無い声なのだが、断定した物言いには力があった。挑むように睨んでいる秋元の前に、長沢はぐいと身を乗り出した。黒眼鏡の奥の瞳が真っ向から見つめる。
 「選択肢は無いんだ秋元さん。俺は兎に角、早くに総会に揺さぶりをかけたい。常連さんの娘さんを取り戻す為にね。それには影響力を持つ支部の中に入り込みたい。それがどこか知っているのは貴方だ、秋元さん。貴方しかいないんだ。俺は貴方を信じてます。
 そして貴方は。貴方は多くの依頼をこなす為に早く足がかりを掴みたい。内閣解散となれば、総会内部は揺れる。そうなってしまったら、奪還はしにくい。暫くチャンスはお預けになってしまう。だから焦ってるんでしょ秋元さん。そうでしょ。俺に一週待てと言ったのはその為でしょ。勝負は今週なんだ。だったら。
 NOは無いでしょ秋元さん。選択肢なんか無い。俺は貴方の言う通り動きますよ。酒井先生と言う未知の人間に隠れて入り込んで、貴方に言われる通りに見るべき物を見て聞くべき物を聞いて来ますよ。貴方には何の痛手もない。違いますか。
 俺の答えは初めからYESです。NOは無い。貴方にだってNOは無いんだ。協力しましょ、秋元さん」
 黒眼鏡の奥の瞳はいつだって静かで温和だ。恫喝に近い共闘宣言をしている今も、媚びているような、こちらを伺う瞳は変らない。
 この男が苦手だ。
 こちらが脅してもすかしても、いつも少し驚いたようにこちらを見て、その癖少しも物怖じしない。怒鳴りつけても縮み上がりもしない。柳に風、糠に釘、暖簾に腕押しだ。
 秋元は自分の外見に相当の自信を持っている。相手を支配下に置くのに適した外見だ。この風体で怒鳴りつければ、女子供は泣き出すし、大概の男は震え上がる。脅せば、危ない奴だと周りが縮み上がる。一度脅えさせてしまえば主導権は握れるから、商売がやり易い。実績を積めば信頼度が上り、尚更この外見はつぶしが利くようになる。そうしてこの10年近く、やって来たのだ。だと言うのに。
 この男は、人の好さそうな笑みで邪魔すると宣言し、次に協力して下さいよと擦り寄り、今は協力しましょうと仲間面までする。しかも。
 この男の言っている事は、凡てその通りだから性質が悪い。
 「俺はあんたが大嫌いだよ」
 黒縁眼鏡の奥の目が、驚きに大きく広がり、やがてゆっくりと笑みを浮かべる。
 「好かれてるとは思ってませんけど、大、ですか。残念だなぁ」
 けっ。大きく声に出して睨みつける。不意におかしくなった。
 「ったく。食えねぇよあんたは。だが信じるよ、俺もあんたをな。
 手筈は整える。後で連絡をする。確かに俺には痛手は殆どない。だが0にしたいんでね、予め言っておく。
 もしあんたが中で騒動を起こして、何らかの処理をされたとしても、俺は一切関知しないぞ。責任は取らんし助けもしない。フォローもしない。いざとなったら売るからな」
 長沢は、一つ一つの宣言に頷く。別に驚きもせずに頷いて、最後で小さく吹き出した。
 「それは、言い過ぎ」
 「あン?」
 「売られちゃ流石に困りますよ。総会からの脱会者をいざとなったら売る所だ、って言われたら商売上ったりですよ。取り消すなら今の内ですが…」
 「取り消す」
 良かった。長沢は呟いて地図を取る。ぐりぐりと丸を描かれた地図をじっと見つめて畳み始める。
 「じゃ、これ、頂いて置いて良いですね。色々見ておきたいので……」
 それは構わないが。言いかけて言葉を呑む。珈琲は飲み切ってしまったので、店主が地図を仕舞う間、手持ち無沙汰に水を飲む。
 「……え?」
 「フォロー無しでもビクともしないんだな長沢さん。あんた相当変わってるわ。大体、何だってそこまでやろうと思うかね。あんた直接関係ないじゃないの」
 関係はある。だがそれは誰にも言えぬ。
 恐らくは誰にも求められぬ、誰にも喜ばれぬ事を、自分はしようとしているのだ。
 無関係ではないが部外者で、1mmのミスで裏切り者として消し去られる孤独な存在。秋津においての長沢の立ち居地はそんなところだ。それに慣れねばなるまいと肚を括ったのだ。今更。
 フォローが無いなど、当たり前過ぎて何も感じない。
 「そうですねぇ。でも、俺の人生、中途半端〜〜〜につまらない人生だから」
 「何だそりゃ」
 店主が笑う。地図を片手に折り畳んでいく手の甲に、窓の外の光が撥ねた。
 「映画ですよ。途中で止めるのは気持ちが悪い。面白くは無いんだけど先が気になる。そんな映画。俺の人生はそんな感じ。抜けても良いけどどうしよう。えーい、だったらいっそ最後まで!」
 「良く分からねぇな。だったらのほほんと見てれば良いのに何で首突っ込む?」
 「突っ込まないと寝ちゃうでしょ。面白くない映画なんだから。見方次第では面白くなるかと、頭ひねって大奮闘です。でもこれもとことんやると、とんでもない発見が有ったり、裏が見えてきたりするんです。ついついそれに期待して、賭けちゃうんですよねぇ」
 やっぱり良く分からねぇ。秋元が溜息をついた。そうだろう。実際俺だって良く分からない。それでも、そんな感じなんだ。もうずーっと。長い事。
 長沢が地図を綺麗に畳み終わり、掌に収めたのを見計らって秋元が席を立つ。長沢も共にレジに向かう。思わず、苦笑が零れた。
 何でも有りだ。面白くもない映画が、急にホラーに変ったり、ラブロマンスに変ったり、はたまたサスペンスに変わる事等ままある物だ。いずれでも構わない。いずれでも大歓迎だ。だが出来うるならば。
 ハッピーエンドが好ましい。
 

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