報告はしたぞ。 リビングのドアを開けると同時に、唯夏が言った。 「……?何の事だ」 ミッドタウンで酒井 美也と別れ、家に帰り着いたのは7時前。一時間ほど前から降り出した雨に濡れ鼠の冬馬に、唯夏がタオルを放って寄越す。 昔は雨に濡れる事など当たり前で、気にした事すらなかった。AKを抱えて雨の中に蹲り、一日だろうが二日だろうが平気だったし、苦しいとも思わなかった。獲物は必ず仕留められる。その為に行う事は凡て当たり前で、不満はなかった。そのお陰で飢えなかった。そのお陰で生き延びた。雨も風も照り付ける太陽も、凡て当たり前で、それに対して何かを思った事は無かったのだ。なのに。 日本に慣れたのだ。 いつか気付けば、快適な生活が当たり前になっている。恵まれた日本の生活にすっかり慣れ切って居る。駅から自宅までのほんの数分の移動時間で、上着の襟元から中に滴り入った雨が気持ち悪いと感じた。濡れた髪が視界を塞いだ時、これではターゲットが見えないと思わず、危機感も感じなかった。思ったのは、"濡れて気持ち悪い"と"傘を持って来れば良かった"と言う、余りにも役に立たぬ愚痴だけだった。 いつの間に。日本人になっている。こんな所から。 「よいづきだ」 唯夏の言葉に、タオルを頭にかけて目を上げる。 「奴の事だ。こちらに関与してくる可能性がある。障害になりえる。――そう伝えたぞ」 ああ。タオルで乱暴に頭を擦りながら、ハスキーな声が言う。 「それでいい。世話かけたな」 「良いのか」 「?何がだ」 唯夏は黙ってそっぽを向いている。冬馬は濡れたジャケットをスタンドにかけ、上半身のシャツをそのまま重ねて脱ぎ捨てた。唯夏の前で全裸になろうが、恐らく互いに大した意識はしない。特に見たくないので見ないという程度の事柄だ。 リビングの机の上に、見慣れぬベルが乗っていた。ハンドベルのようでも有り、神仏の持鈴のようでも有り、お鈴のようでも有る。一つ言えるのは、朝、この家を出て行く時には無かったと言う事だ。 「言いたい事があるなら、はっきり言え。すっきりしないぞ」 「でははっきり言う。排除の可能性もあるがそれで良いのか」 灰色の双眸が、意外そうな視線を向ける。それがどうした。そう言わんばかりの視線に、唯夏は溜息を吐いた。 「下らん質問だったな。……お前が正しい」 いい香りがする。コロンや香の類ではなく、胃袋に響く香りだ。半裸のままキッチンに入ると、銀色の寸胴から湯気が出ていた。鼻面を近づけて匂いを吸い込む、湯気の中に顔を突っ込む感触が懐かしい。 こんな濃厚な匂いではなかったが、かつての根城の周辺は始終こうした匂いが漂っていた。家の中に釜戸など無いから、その場の全員が外で煮炊きをするのだ。同じ場所に寝泊りする人間が数人集まれば、直ぐに手作りレンガの即席釜戸が出来上がり、そこで持ち寄ったものを煮たり焼いたりして食べた。その湯気を思い出す。 「ああ、アヒ・デ・ガジーナ。食べたくなったので作ったんだ。そろそろ食べられる」 「美味そうだ、俺も食いたい」 「たっぷりある。次はお前が何か作るなり、買って来ると約束するなら良いだろう。どうする」 「約束する」 「では決まりだ」 唯夏は最近良く笑うようになったと思う。もっとも、以前は訓練の時と話の時しか会わなかった。個人的に語らう時間を持つのは、これが初めてだから、以前と比べようが無いのだが。 声を上げて笑うのではなく、微笑む。その表情が意外に優しいので、この頃は唯夏を女性だと思える様になって来た。 「聞きたいんだがな………姉貴」 唯夏がきょとんと冬馬を見上げ、微かに渋面を作る。 「話は上を着て来てからだ。見ているこちらが寒い」 Tシャツとトレーナーを被ってリビングに戻ると、ちょうどアヒ・デ・ガジーナの皿が置かれる所だった。 席に着いて、唯夏の祈りを聞きスプーンを取る。お預けを解かれた犬の気分で、大きな皿から黄色い肉を掬い上げる。芥子の刺激が鼻先をくすぐった。 アヒ・デ・ガジーナは、鳥肉の芥子チーズ煮とでも言うもので、明るい黄色のシチューかカレーのような物を、炊いた米にかけて食べる。外見は茶色ではなく黄色のカレーライスと言う所だ。ミルクでふやかしたパンをとろみにした、ぴりりとしたチーズ煮は、日本のカレーよりストレートでさらさらしている。現地ペルーに流通している米は日本のジャポニカ米ではなくインディカ米で、水気がやや少なく、パサパサとした食感だが、汁物をかけて食べるメニューには非常に合っている。 日本で作る場合、特別拘らない場合は自然とジャポニカ米になるが、温かい内に食べるのであれば、違和感は無い。 一口噛みしめて、唯夏は安心した。特に上手く出来たと迄は思わぬが、昔故郷で作っていたままだ。まぁまぁ良く出来ている。暫く味わってから、冬馬にそれで、と声をかけ、続きを飲み込んだ。 料理を喜んで食べて貰えるのは、どんな作り手にとっても嬉しい物だ。それが一生懸命作った物なら喜びはひとしおだし、少々自信がない時などは、喜んで貰えればほっとする。だから。冬馬が喜んで食べる事自体は喜ばしい。喜ばしいが、余りにもそちらに必死になられると、話どころでは無い。 呆れて、大口で料理をがっついている"弟"を見つめる。瞬く間に一皿平らげて席を立ち、飯と具を更にたっぷりよそって席に戻る。そこでやっと唯夏の視線に気付く様は、まんま飢えた子供のようだ。 「ん? 美味いぞ」 「ああ……それは分かったが。お前の話の途中なんだが、いつ続きは始まる。凡て平らげた後か」 ああ、と答えながらスプーンを動かす。聞きたい事が有ると言ったままになっていた。 「酒井 美也と上手く話せなかった。お前はそう言うのが上手いから、コツを聞こうと思った。だが良い。所詮無理だ。俺にスムーズな話術だの、人付き合いだのは無理だ」 飯を口一杯にほおばって、丸くなった"弟"の顔を見つめる。 「…そうでもないと思うがな。お前は以前、会合で全員を口説き落とした。なかなか弁が立っていた。話術の才能はありそうだ。人付き合いは、…まぁ、人には得手不得手が有るのは仕方ない。酒井 美也はもう必要無かろうし、構わんだろう。……嫌われたか」 「……いや。俺が見つめると目を反らす。意識してるから、抱こうとすれば抱ける。悪く無さそうだ」 呆れる。飯にがっつきながら言われると、食事も性交もこの男には同じ物なのだと言うのが実感される。腹が減れば食う。溜まれば抱く。多少好みから反れようが、目的を達成出来ればそれ程の不満もないのだろう。本当に欲しいものを手に入れた時はどうなるのか、また、本当に手に入れたい物などの区別があるのか。想像しても詮無い事だ。 「…抱くなよ。手は出すな。―まだ、早い」 「大丈夫だ。……それより、姉貴は今日、どうなった」 唯夏は、皿に添えた輪切りのゆで卵を口に放り込む。姉貴と呼ばれるのも大分板についた。 「済んだ。案の定、城野に例のビルに連れて行かれてな。今度は10人がかりだぞ。今、脱会などしたら悪い事が起きる、バチが当たる。頭が七つに割れて死ぬ。笑いを堪えるのに必死だった。良くもあんな事を真顔で言えたものだ。信じる方もどうかしている。 それで一時間。早々にこの鈴を買わされて帰って来た。何でもご利益が有るらしいぞ。何とこれで2万円なり、だ。当然ながら脱会は、出来ない。優柔不断な姉の所為で、岐萄姉弟の正会員決定、と言う事だな」 ふうん。鼻息で返事をする。皿の中の物を凡て口に放り込んだ冬馬は、満足気にスプーンを置いた。椅子の背に寄りかかり、テーブルの上の鈴に手を伸ばす。ご利益があると言う鈴。持ち上げてみると、それは見た目よりも軽かった。 実働隊はいつでも動けるように、満腹にはしないものだ。この男もそれは良く分かっている筈だから、これが恐らく腹八分目なのだ。育ち盛りでもあるまいに良く食べる。唯夏は己の痩せの大食いを棚に上げて思った。 「願ったりかなったりだが。これが2万か。…カメラも発信機もレコーダも着いてない。ただの金色メッキのハンドベルだな。日本人はこんな物に2万も出すのか」 それとな。皿の中身を腹の中に片付けて、唯夏が呟く。 「榊 継久。今日は私の所に来た。前回のお前と同じだ。お前をとても良く知っている。会うのは初めてだ。頬や首を触ってから軽くキス。仲間と言う事は分かって居る訳だが、気分の良い物ではない。私からは何も言わなかった」 記憶を辿る。指先も、黒眼鏡の奥の視線も、気分が良いとは言いかねた。何の為のコンタクト方法なのか理解し辛い。 「異様に長い指だったろう」 「そうだな……ピアノに向く指とは思ったが。異様かどうかは個人の感覚だ。 ……さて、朝人。用意は良いな」 冬馬は唯夏に向き直る。灰色の双眸がじっと見つめる。なるほど普通の感覚の女なら、この顔を快く思うのかも知れぬ。整ったつまらぬ無表情だが、崩れてはいない。 早ければ来週には国会が割れる。直ぐに解散、総選挙となるだろう。そうなった時に、正規会員として"利用"される立場に入り込むのが二人の役目だ。 広告塔の一角。一般向けの広告塔ではなく、より高級で、官僚、閣僚向け、或いは資産家、企業主向けの広告塔になれるよう、動かねばならぬ。入ったからには内部に通じ、可能な限り奥に入るべきだ。用意は迅速に、且つ自然に進めねばならぬ。 次は冬馬の番だ。正会員になったのだ。同じ文句を言うにしても、雑魚相手に言うのではなく、もっと奥に入り込んで、上の者に言わねばならぬ。唯夏は殉徒総会に捕まるまでの手順を踏んだ。次に冬馬は、深みに嵌る手順を踏まねばならぬ。 返事もせずに冬馬は立ち上がる。ミルを引き出し、フィルターペーパーとドリッパー、サーバーをセットして、やかんを火にかける。その仕種に唯夏は微かに首をかしげた。 「アヒ・デ・ガジーナ、美味かった。礼に珈琲を淹れる。今日俺が飲まされた珈琲よりは美味い筈だ」 「珈琲? お前、飲めるの……淹れられるのか?」 唯夏の言葉ににやりとする。湯が沸く間に中挽きにした珈琲をペーパーに入れ、堂に入った仕種で湯を注ぐ。 「飲めるし、淹れられる。プロに教わったからな。得た物は忘れない。そして、優先順位も忘れない。それだけの事だ。酒井 美也にも言ったんだが。俺に悩みは無い。悩んでも詮無い事は悩まないで良い事だ。進む道の邪魔になる事は一切俺には必要ない」 ドリッパーの真ん中に細い湯の雫が落ちていく。挽かれたばかりのコーヒーが膨らむ。たっぷりと蒸らしてから注ぎこまれた湯が、芳醇な琥珀色の液体に変っていく。最後の数滴を待たずにドリッパーを外してカップに注ぎ、唯夏の前に湯気を上げるカップが差し出される。 少しばかり得意げな冬馬の視線の下で差し出されたカップを引き寄せる。そっと口をつけると、口内から鼻腔へ、香ばしい香りが駆け抜けた。 「……驚いた。美味い」 「だろう」 自らの淹れた珈琲を口に含む姿に、確かに悩みは無いのだと理解する。ゆっくりと味わい、湯気を吐き出す仕種に嘘は無い。珈琲の飲めなかった"冬馬"はもう居ない。ここに居るのは"朝人"なのだ。 得た物は忘れない。現在から未来へ進む道のためには邪魔者は排除する。例えば昔得たものを、排除する未来だとしても、そこに悩みは無いのだろう。優先順位は常に過去より未来が上なのだ。 姉弟のすべき事は、"話"のみ。準備期間は終ったのだ。他に気にする事は何も無い。過去のしがらみなど、更に無い。 |