□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 腰を折られた。調子を崩された。いや、それほどではない。
 タイミングを外された。その程度の物だ。だが予想外だった。
 先日ここに来た時に釘はきちんと刺した筈だ。お前は愚かな一般人で、我々より遥かに下の存在であると、はっきりその心に分からせた筈だ。
 お前などいつでも消せると言った。愚かな愚図だと言った。凡てを聞いたその男は、目の前で情けない程震えていたのだ。完璧な敗者だったのだ。間違いない。だと言うのに。
 今日。このSOMETHING CAFEに訪れた客の姿を見た時、脅えていた筈の目は無感動だった。傅く筈の男は無反応だったのだ。いや、無反応ですらなかった。
 恐れで目線を外すのなら分かる。対応に困って下を向くのなら分かる。だが男は。
 客の視線をしっかりと受け止め、その意思と命令を恐らくは完全に理解した上で。無視をしたのだ。
 無視をしたのだ。絶対に上位の筈の秋津の使徒を。
 客は、看板娘に差し出された珈琲を飲んだ。最初から珈琲を飲む為に寄った訳では無いから、味に興味は全く無い。一口二口飲んで咽喉を潤してしまえば用などは無いのだ。後は店主がここに来て、命令を聞けば良いだけの話だ。ものの数分で終るだろう。だが、その時は来なかった。
 最初は嘲笑った。
 こちらの意思を汲み取る事も出来ぬ愚か者なのだと苛立ちながら、その愚かさを嘲笑った。注文を取りに来た娘に伝言をしてやれば、慌てて飛んで来るだろう。そう思ったのだ。
 だが違った。
 男は何を娘に吹き込んだのか、呼べば必ず娘が来て、一向に店主はやって来ない。やって来ないどころか。こちらを一顧すらしない。焦れながらカウンタを睨みつけ、やっと思い出した。
 前回の失態の後の、この男の笑顔を。あれ程うろたえたくせに、最後には自然に笑いながら客を見送った事を思い出した。人知れず舌をうつ。この男は馬鹿ではない。脅えただけの鼠ではない。
 
 その客は戸口から二番目の席に座っていた。看板娘が注文を取り、注文品は長沢が用意し、既に看板娘によって客の手許に届けられている。何の問題も無い。
 時計はそろそろ六時を指す。街が宵闇に塗り替えられる。依然として店内は学生の天下だ。黄色い声が笑い声の不協和音を響かせる。
 「マスター、マスター、ねぇマスター!!てば!」
 はいはい、と呟きながら店の中程の三人組の席に行く。この数ヶ月ですっかり主になった女子高生が、得意げに長沢の顔を指差した。
 「ほらぁ。ね! 言った通りじゃん。髭ってこんなだよ、こんな!良いモンじゃ無いって!」
 何の話だ。対応出来ずに立っていると、中の一人が長沢の顎を掴み寄せる。逆らわずに身を屈めれば、次々に顎を掴んだりさすったりしては、やだ、汚い、などと好き勝手を言っている。どうせこの年の女子にとっては, 40過ぎの男など別次元の生き物なのだ。黙っていれば、最下層でゴミクズから、良くて精々オモチャ程度の存在だ。口を聞けばうるさい親父かクソ爺止まり。人間扱いされる分、黙っているよりは口を聞いたほうが良いのだが、怒るのも面倒なので黙ってなすがままだ。
 「思ったよりちくちくしない〜。ねぇねぇ、髭もフケ出るの?えー出るんだ〜。えー臭くないー?ちゃんと洗ってる〜?」
 失礼な。髪の毛と生えている場所が30cm弱下にずれているだけではないか。何も変らない。
 「洗ってますよ。毎日。食事の後なんかも洗いますよ。臭くない。ちゃんとリンスだってしてるし。君らには苦労も醍醐味も分かりません」
 長沢の言葉に女子高生が奇妙な湧き方をする。怒ったのー?えー、リンスぅ?醍醐味って何?口々に疑問を唱えながら、答えが無い事には不満はない。互いに了解して笑い合っている。最初の頃はちゃんと質問に答えたのだが、どうでもいいー、と言い返されてからは聞き流すことにした。黄色い笑い声の中、踵を返す。
 カウンタに向いながら店の中を見回す。使われている机は5脚。+カウンタ。客の数は十四人。従業員は三人。そして客でも従業員でもない人間が一人だ。
 さりげなく視線を外しながら通り抜ける。トン、と床を打つ音がした。
 反射的に音を追う。自然に目が向く。床の上で明るい茶色がぽんと跳ねた。牛革の小銭入れだ。そう思ったのは、つい落し物に手をかけたタイミングだった。次の瞬間に衝撃が来た。
 小銭入れにかけた右手の上に、黒い革靴が思い切り乗った。手の上なら靴音はしないよな。そう言わんばかりの踏み方だった。ほぼ同時にごく小さい声で「来い」と言う指令が届く。なるほど、と思った。計算づくで長沢が小さく呻く。
 ああ!女子高生の一人が甲高い声を上げ、同時に、カウンタの側に居た奥田早紀が頓狂な声を上げる。男は慌てて足を引いたが、しっかり見咎められた。
 「あ、ああ。す、すみません手があるとは気づかなかった」
 牛革の小銭入れを拾う。小さく払って、テーブルにそっと載せる。
 「貴方のですか?これ、拾おうと思って。すみません」
 真っ直ぐに目線を合わせる。複雑な表情で微笑んでいる客の耳許に、立ち上がりざまに口を寄せる。
 「…… 愚かな」
 客が瞠目する。鋭い視線が突き刺さる。脇の席で女子高生がこそこそと言い合っているのが丸聞こえだ。響く声でこそこそ言い合っても、返って周りの耳を縫い付けるだけで、その行為に意味は無い。いや、あるのか。
 あいつ、わざと踏んだよね。何で?モンスター客?客って英語で何て言うの?カスタマー。モンスターカスタマー?
 看板娘は、気遣ってカウンタの中から長沢を呼ぶ。自然に集まる視線の中で、店主が笑った。
 「…、俺の店ですから」
 柔らかな動作で頭を下げて踵を返す。
 男は息を呑んでいた。
 言いたい事は凡て伝わった。細々とした言い分は凡て、周囲に向けたフォローだ。店主が言いたかったのはたった一言だ。
 俺のフィールドで戦おうなんて、……愚かな。
 机の下で両手を握る。
 愚か者の。愚か者の一般人のクセに。
 舌を打つ。一体何のつもりなのだ。精一杯の虚勢か。こちらからの情報が無ければ、秋津の動向すら何も掴めぬ部外者が。こちらの動きを咽喉から手が出るほど知りたい癖に。脅しは前回、きちんと済ませた。秋津が監視している事は身に沁みた筈だ。恐ろしいだろう。怖ろしい癖に。
 いつ消されるとも分からず脅える生活に、どれだけ耐えられる?お前に対抗策など無い筈だ。お前などに。こちらの足跡すら負えぬ無能者が。何を粋がると言うのか。
 カウンタの中で、店主は看板娘と語らっている。怒ったような瞳でこちらを見るのは娘の方だけで、店主はにこやかなままだ。視線を落す。すっかり冷め切ったカフェラテを口につける。味はやはり分からなかった。
 
 七時前にはほぼ客が入れ替わる。学生達が店を出て、仕事を纏めたいサラリーマンやOLが仕事を持ち込む。
 デートの待ち合わせに使う男女も居る。深刻そうな二人組が黙って珈琲を飲む一幕も有る。この時間は静かながら、最も雑多で多様な時間だ。
 大きなビジネスバックの男が店に入って一時間半余り、注文は二回。本を読むでもなく、書類を整理するでもなく、男はその席を立った。バッグに手をかけたのは清算の時だけで、笑顔の看板娘にお礼とばかり小さな包みを渡して、男は去って行った。笑顔で送り出す看板娘の背後で、長沢もそっと腰を折った。
 「あ、これ美容液シートだ。やった。……って事はあの人、化粧品会社の人なんでしょうかねぇ」
 さぁ。長沢は曖昧に微笑む。
 あの大きなバッグの中は、決して化粧品会社の社員の持ち物など詰まっては居まい。何が入っているか想像したくもないが、彼の"話"に必要な一式がつまっているのだろう。
 残った客は9人。時計は7時半をまわる所。新しい客が来ても、入れ替わりに席が空く時間になり、ぽつりぽつりと歯が抜け落ちるように減っていく。長沢は北村と奥田早紀の二人に帰って良いと告げた。
 一人きりになったカウンタで、楢岡に電話を一本入れる。ボタンを押す指に力がこもりにくくて、それに気付いて苦笑する。まだ、震えていたのか。
 恐怖は心が感じるだけではない。身体だって感じるのだ。自分より上位の相手とぶつかる時、恐怖を感じぬ人間などは居ない。意識で制御しても身体は正直だ。震えるし、竦む。当たり前だ。そんな物だ。
 呼び出し音が途切れて回線が繋がる。途端、携帯の奥からガサゴソと多くの人間が動く気配が流れ出た。張り詰めた空気が耳の中に流れ込む。いつもより低い声が、失礼、と言った。現場なのだと直ぐに悟った。
 元々用件だけの電話だったので、話は1分程。直ぐに切ったが、耳の中に残った緊張感は去らなかった。ゆっくりと深呼吸をする。気付けば震えはおさまっていた。掌を握り締める。
 目の前の通りを、大型トラックが曲がっていく。やかましく"右に曲がります"と繰り返す自動音声が、静まった店内に響く。最早慣れてしまった騒音が、余りにも普段どおりで苦笑が零れた。
 エスプレッソを自分のために淹れる。ブレンドはコロンビア/ブラジル/グアテマラ。ラテンアメリカ産のブレンドだ。フォームドミルクを加えてドライカプチーノにする。違和感の消えた両手でカップを包み込む。この熱さも珈琲の醍醐味の一つだ。
 最後の客が店を出て、シャッターに手をかけたのは8時を少し回った時分だった。
 去り行く客を見送って、彼の姿が闇に霞む頃、踵を返してシャッターに手をかける。背伸びしてシャッターの端を掴んだ。そのタイミングだった。
 とん。
 伸びた体勢のまま、ドアに向って何者かに押された。長沢の体重で自然に開いた扉の中に押し戻されて尻餅をつく。殆ど同時に自分の頬がパン、と音を立てた。
 事態を理解する前にシャッターが大きな音を立てて締まり、人影が尻餅をついたままの長沢の腹の上に小さな塊を放り投げた。
 腹の上に反射的に手をやって、それがシャッターの鍵と知る。ああ、たった今閉めようと思っていたたシャッターの。閉めてくれたんだ。反射的に有り難うと呟いて目を上げると、今度は逆の頬が音を立てた。
 流れるような動作だった。頬を叩かれたのだと自覚する頃には、後頭部に冷たいフローリングの板目を感じた。ゴンと鈍い音がして目が眩んで、ようやっと事態を把握する。最初に出てきた言葉は何故か、なるほど、の一言だった。口の中に血の味が広がる。
 見上げる。視線の先をみつめる。
 玄関の燈りに逆光になった男が、仰向けに倒された腹の上に跨っていた。夜の室内には、あちこちに光源がある。逆光になっても、その表情ははっきりと見る事が出来た。
 引きつったような無表情。現しているのは怒りなのか、笑いなのか、それすらも分からない。
 「死にたい……のか?」
 だから。思い切り微笑んでやった。
 「出来るならやってみれば良いでしょう」
 「出来ないとでも思うのか?」
 「思ってませんよ。出来るでしょ」
 「ではやはり死にたいのだな」
 「やればいい。あなたにやる気があれば。命令も無いのに先走る勇気があるなら、やればよろしい。俺には自分の身を守る術なんてありません。俺に出来るのは、あんたら全員、道連れにする事くらい」
 男は長沢の首に手をかけて頭を床に抑えつけ、腹の上をまたいで見下ろす格好だ。股間ががら空きの体勢は、恐らくは隙だらけで攻撃を仕掛けるに好ましい筈だ。だが当然、長沢にはそんな度胸も運動神経も無い。この体勢は、それを知った上での物なのだろう。お前に何が出来るのだ。出来やしない。そう言葉にせずとも伝わった。男の腕の下で笑みを深める。
 「俺にそんな事出来っこない。そう思ってるんでしょ。やってみれば分かりますよ。Let's try」
 睨みあう。床の上と、その体の上で。楽しげに笑みを浮かべた瞳と、無表情に引き締まった瞳が。上の身体が呼吸にがくりと揺れた。
 「はったりだ」
 はったりに決まっている。ただの一般人が秋津のメンバーに、情報量でも対応力でも適う訳も無い。こちらを出し抜く人的ルートも情報ソースも持ち得る訳が無いのだ。はったりだ。見え透いたはったりだ。一般人に出来る事など、脅えて身を縮こめるくらいの物だ。
 「脅えるくらいが関の山だと?」
 どきり。
 長沢には男の胸の中の音が聞こえた気がした。瞳が微かに揺らいで息を呑む。小さな変化だが、この状況ではそれで充分だった。
 「確かに怖いなあ。殺されるのは痛そうだし、辛そうだ。でも俺ね。下っ端の下っ端になる義理はない。君は、あさぎりよりずっと下じゃないか。俺はあさぎりの相棒だ。何で君の命令に従う?意味が分からない。
 君なんか、俺には要らない」
 肩が動く。首を右手で掴み、空いた左腕を振り上げる。手の早い男だなあと思う。既に二度叩かれているので、頬はじんじんと熱い。気を大きく構えて攻撃を避けないと言うのではなく、避ける気力が無くて男を見つめていると往復で頬が鳴った。眼鏡が転がる。
 「いつ貴様に選択権が有ると言った。私の指示に従え」
 痛いなぁ。口の中を舌で辿る。叩かれて一番嫌なのは、口の中を自分自身の歯で切ってしまう事だ。口の中はすっかり鉄の味で、何箇所かが切れていた。溜息をつく。
 「だから。君の指示なんか要らないんだよ。君がここに来た理由なんて俺は全部知ってる。殉徒総会に関わるなと言いに来たんだろ」
 男の無表情は変らない。
 「………あさぎりからの発令。ルートは美也ちゃん」
 「……貴様」
 「だから言ったろ、君は要らない。俺への伝令としちゃ役立たずだ」
 男の無表情は変らない。だが、手ごたえは充分だった。
 種明かしをすれば簡単だ。前回の接触から僅か中二日。接触が早過ぎるのには理由がある。その理由が、このタイミングでは推測が容易かったからだ。
 国会Xデイは近い。早ければ来週末にはやって来る。つまり、今週末は現体制最後の週末の可能性が高い特別な週末だ。だから。男は慌ててここにやって来たのだ。
 早ければ来週末から政治部門が動く。前後して警備、つまり、それを守る武闘派部門が動く。凡ての部局が準備にかかる。つまり今は嵐の直前なのだ。では、幾らでもやる事がある。
 嵐になってからではやれ無い事を、今やらねばならぬ。当分は選挙一色で動かねばならぬのだから、今週末は平常営業の最後のチャンスなのだ。勝負時なのだ。当然、今週末は総会の各部が活発に動く。勿論、外部の奪還会社もそれに合わせて色めき立っている。公安警察も例外ではない。そんな場所に。
 出てくるな。そう言うのは秋津のような団体だったら、至極当然の事だ。警戒信号が赤の状態の時を選んで、わざわざ参加する隠密集団などまず居ない。
 だからそれを伝えに、いや、正確には指令に男はここに来たのだ。SOMETHING CAFEに。
 「殉徒総会に絡むのを辞めろ。そう言いに来た。役立たずだなぁ君は。一言も伝えてない。しかも。
 阻止も出来ない」
 首を掴む手に力がこもる。表情は変らなくても、これほど接近していれば、他の印で色々と伝わる。何て事は無い。この男もちっぽけな人間なのだ。
 「何故出来ないと思う。この手に力を込めればお前など簡単だ」
 「でも君はやらない」
 人間だ。不完全な。
 「やらない」
 ゆっくりと言葉を噛みしめる。繰り返す。精一杯の力をこめて、上半身を持ち上げる。首を抑えていた手がその力に逆らわずに、僅かに浮き上がった。
 「やらない。
 指令は出てない」
 その顔に近付く。間近に瞳を見つめる。首にかかった手は、今や力を抜いていた。
 「やらない。君は賢いよ」
 無表情。引きつったような。間近で繰り返す。
 「賢いよ。選ばれた人間だ。なら。考えるべきだ。君にとっても俺にとっても最良の方法を」
 長沢は、首を掴んだままの男の手をゆっくりとさすった。力をこめてはがす。静かな瞳に険が走った。
 「何のつもりだ」
 「考えろよ、賢いんだろ?阻止するよりもっといい方法が有ると、君が上に提案しろ」
 口元が引き締まる。引きつったような無表情が、微かに敵意をむき出す。前回とはまるで逆だ。笑顔のままなのは長沢の方だ。自然に、穏やかに。笑みを浮かべる。
 「君は俺に情報を与える事すら出来なかった。阻止する為に何をすべきかも思いつかない。腕を折る?足を折る?それでも俺は行くだろう。動けぬようにする?それは正しい判断か?では殺す?指令も無しで?それにもし殺したら、俺は君ら全員道連れにする。
 出来る筈は無いと君は言った。俺はじゃあやってみろと言った。でも君は出来ない。やらない。指令が無いからさ、殺せと言う。確信が無いからさ、俺が君ら全員を道連れにせぬと言う。
 違うかね?」
 はがした手を握り締める。弱くー強く。
 「だったら、考えろ。もっと上級の方法を。賢いんだろう?」
 握った手は逆らわない。この男が愚かでは無いなら、己で考えるコマならば話を聞く。しかし、ただ命令を聞く狗ならば。
 朝までに凡てが終わるだろう。ここに一つ、死体が転がる。喫茶店店主のちっぽけな死体が。転がる。
 「話を聞け。俺の話を。そしてそれを、君の考えとして上に伝えろ」
 睨みあう。息も掛かる程、近くで。
 眼鏡を外した長沢の視力では、このくらいの距離がむしろ適当だ。良く貌が見える、瞳が見える。小さな瞳孔は、男の視力の良さを物語っていた。間近で見ると、平凡な顔だと分かる。整っていない訳ではない。彫りが深くバランスは良いのに、やや小さめの目と主張の無い顎周りが、存在感を失くす。全体的に印象が薄く、つんつんと立った髪型のイメージしか残らない。だから、大きなビジネスバックがこの男の目印だったのだなと、改めて長沢は思う。
 男は、間近の標的の顔を見つめた。
 以前に一度、この男の顔は凝視した。東京都新宿区千駄ヶ谷、ビレッジパークビル2201。 燈りを消したリビングで無防備に寝ていた。あの時。間近に笑った顔を忘れない。同じ顔が。
 同じ瞳が。今はこちらに焦点を合わせている。挑戦的な笑顔で。精一杯の虚勢で。
 あの時は男の笑みに失笑した。嘲笑った。だが今は。笑えない。
 立ち上がる。音を立てぬすべらかな動作で長沢の視界から消えて歩み去る。
 長沢は慌てて周囲の床を探った。目でも追うが、この方が確実だ。指先が眼鏡に当たって慌ててそれを拾い上げ、鼻の上に落す。
 カウンタの前に男が立って、座り込んだままの長沢を見下ろしていた。
 「私は、白露」
 … 秋分、白露、処暑。二十四節気か。
 そんな言葉が頭の中に流れる。それが自己紹介なのだと分かる迄に数秒掛かった。無表情があからさまに苛立って初めて気付く。
 「話があると言ったのは貴様だ」
 ゆっくりと立ち上がる。男のようにしなやかに、音もなく、と言う訳には行かない。床に押し付けられた頭も腰も、当然ながら払われた頬も痛い。立ち上がって、脇の柱に手を突く。腰を伸ばして一息つく。改めて微笑むと、男はさりげなく視線をそらした。
 「お分かりだと思うが時間は無い。恋人があと一時間もすれば、君達が企てた騒ぎから戻ると思うのでね」
 騒ぎの一つも起こさせれば、公総が担ぎ出されるのは自明の理だ。秋津なら、そんな騒ぎを装う事くらい簡単だろう。君がやらせたんだろう?そう問う代わりに呟く。勿論、これは長沢の推測で、単純なカマ掛けだ。だが、相手が反論せぬ所を見ると当たりなのだ。溜息を吐く。相手は目を反らしたままだった。
 カウンタに戻って、エスプレッソマシンを動かす。手早くカプチーノを作って男の前に差し出す。
 「まずはこれを味わってからだ。君はさっき俺の淹れた珈琲の味、全く分かってなかったろ?話はその後だ」
 カウンタの内側の椅子を引き寄せ、長沢はそこに腰掛ける。男はカウンタの真ん中に腰掛け、冷えた掌には熱過ぎる程のカップを引き寄せた。
 「白露、さんね。良い名だ」
 口をつける。苦くて甘い琥珀色の液体と、舌を包み込むフォームドミルクが口を占領する。ゆっくりと飲み込んで、次の一口を流し込む。
 「……美味い」
 黒縁眼鏡がゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
 「ありがとう。……では、話をはじめようか」
 

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