「またですかぁ、マスター。駄目ですよ。ちゃんと冷やさなかったでしょう。もう」 この年になると、"人に叱られる"と言う事はめっきり減る物だ。子供の頃、毎日のように自分に降りかかったその刺激は、気付けばいつか久しくなっている。久しくなると、人間はその刺激に敏感になるものだ。そう、人間は年を取ると、叱られ弱くなるのだ。昔は何も感じなかった小さな叱責も、非常にコタえる物になるのだ。だと言うのに。 長沢は昨夜から叱られっ放しなのだ。 まず昨夜。 店の片づけを凡て済ませ、顔もきちんと洗って居間で夕飯を食べていると、そこに顔を出した楢岡に叱られた。 本来、楢岡はその夜は訪れぬ筈だったのだ。業務中に長沢がかけた電話は彼のスケジュールを聞く為と、今日は人に会うから居ないと伝える為の物だった。実際、長沢は彼にそう伝えたのだ。 長沢の計画が上手く行っても拙く回っても、今日だけは楢岡と言う要素は無い方が良い。特に拙く回った場合は、彼が長沢の死の「第一発見者」となってしまう。発見者のダメージを考えると、それは流石に気が引けた。ここは申し訳ないが、ZOCCA店主辺りに見つけて貰うのが無難だろう。 楢岡は長沢の言葉に分かったと答え、その夜は訪れぬ事となった。――筈、だったのに。そう思っていたのに。 その夜、楢岡はごく普通に、いつもの夜のように現われ、長沢の顔を見るなり険しい表情になった。無言のまま一度扉を閉め、やや暫くして戻って来た時には、その手に冷却シートを持っていた。饒舌な男が口を真一文字に引き結んだまま、長沢の顔に手の中の物を貼り付ける。短い溜息が漏れた。 「あは、た、大した事ないんだよ。全然大した事ないんだけど。……わ、分かる…かな」 「被害届、出せ」 「そりゃまずいよ。お客さんだし」 「俺の目見てそう言える?Kちゃん」 勿論、真っ直ぐ楢岡の目を見て言い直したのだが、そんな嘘が通じるとは、当の長沢も思っていない。口数少なく帰って行った楢岡が、胸の真ん中に引っかかっている。黙り込むと、口より饒舌な瞳に見据えられて何も言えなくなった。そうか、と思う。 叱られたからコタえているのではない。まだ叱られた方がすっきりしたからコタえているのだ。何も言わずにじっと見ていた、あの目がコタえているのだ。その奥の心に自分の凡てを見透かされた気がして、コタえているのだ。深々と溜息をつく。 しっかりしろ、長沢啓輔。こんなのは序の口だ。あの男に話せない事など山程あるし、これからも着々増えて行く。 「冷やしたつもりなんです、けど」 「全然足りてませんねー。唇も腫れてるし」 「うーん、もう大丈夫だと自分では思ったんだけどなぁ。目立つかな……?」 戸口のベルが鳴る。いらっしゃいませと微笑んで、慌てて面を伏せる。醜く腫れた面相ならば、客に見せるべき物ではない。 客は気付かずに席に着く。看板娘が小首をかしげた。 「ん〜〜。私はマスターの顔、良く見てるから気付くけど、見慣れない人なら元からそう言う口許の人なんだと思う程度かな」 くるりと身を翻して客の許に急ぐ彼女の後ろで、そっと安堵の溜息を吐く。第一の決戦は明日だ。その時に腫れた顔で行くのは避けたい。出来るだけ何の変哲も無い一般参加者として中に入り込みたい。入り込まねばならぬ。 秋本に、会場にいる全員の顔を覚えて来いと言われた。あんたにそれが出来るかと問われた。長沢はそれにはいと答えた。出来るという意味ではない。やらねばならぬという意味だ。 自分の能力など、良く知っている。高が知れている。自らの能力を買いかぶっても居なければ、過小評価もしていない。人の顔を憶えるのは得意な方だ。だがそれだけだ。 どんな状況が起こるかわからぬ未知の領域で、どの程度力を発揮出来るか、そんな物は分る筈が無い。突貫だ。行き当たりばったりだ。後は己の適応能力に懸けるのみだ。これでも若い頃は、それなりに瞬発力も有ったし気転も利いた。食うか食われるかの世界から離れてSOMETHING CAFEに引き篭もったが、ここだとて戦いの場で無い訳じゃない。客とのやり取りも、スムーズに行なうには臨機応変な対応力が必要だ。 年を取って反射神経は衰えても、それを埋める強かさを手に入れたと信じたい。いや、信じて、明日に向うしか手が無いのだ。ここで。 ここで退いたら凡ておジャンだ。凡てが振り出しに戻ってしまう。それだけは駄目だ。避けねばならぬ。 昨日、国会が開会となった。衆議院予算委員会はいつも通り、予算以外の事でモメている。いや、予算関連では有るのだが、本筋に関係ない些事ばかりと言う意味だ。補正予算案は既に去年の11月には出されている。当然、普通なら国会閉会前に予算案は両院を通っていて然るべきだ。だが、通らない。野党がケチを付けたいからだ。単純にうんと言いたく無いからだ。与党に恥をかかせる為の繰言を並べ立てて引き伸ばしているだけだ。そこに政治的正当な意思は無い。 午後に開かれた法務委員会で、早速新テロ特措法、給油法案が議題に上る。来週早々には衆院を通り、審議は参院に運ばれるだろう。そのタイミングは来週頭に凡て分かる。週末の感触では、結果が出るのは早そうだ。そうなれば。 Xデイは近い。 長沢は、昨年のクリスマスの"話"の一件以来、常に片耳にイヤフォンを入れている。大概はダテで、ポケットに突っ込んだままのMP3プレイヤーから音など流れていない。だが、金曜だけはポケットに小型のラジオを放り込み、肝心の所だけは音声をONにした。仕事との折り合いで、ラジオの音が耳に入ってこぬ時間もまま有ったが、概要は分かった。命が消える間際の悪あがきだ。それだけはひしひしと伝わった。 そうだ。昨日の事。国会が開かれ、そして。秋津からの使徒がやって来た。 使徒と決死で主導権を争った。結局、それが上手く行ったのかどうか、今はまだ微妙だ。明日の実験が無事終るまで、秋津の使徒が長沢の側についたのか、長沢を切り捨てたのか判断はつかぬ。不安定で最弱の身分に変りは無い。悩んでも詮無い状況だ。今は進むしかない。 長沢が使徒に言ったのは一つだけだ。別働隊が一つ増えたと思え。それだけだ。別働隊が失敗したらどうするか、成功したらどうするか。ここに、失敗したら即消していい別働隊が居るとして、どう扱うのが一番利口か検討すべきだ。それが長沢の提案の凡てだ。 それだけかと黙り込む使徒に長沢は重ねた。秋津に伝えるメッセージはそれだけだ。ここからは君が作った計画の話をしよう。君の計画だから、どう伝えようがそれは君の自由だ。 使徒の名は白露。二十四節気の一つだ。秋津の日本語への拘りは、潔いほどだ。 戸口のベルが鳴る。 言いなれた挨拶と耳慣れた答え。穏やかに時が過ぎて行く。 土曜日のラッシュはほぼ一回。朝の物だけだ。昼は比較的穏やかで、ラッシュに入れるとしてもランクはB以下。この日もその通りだった。 ランチと同程度にケーキが出て、本日のケーキは2時の時点で殆ど売り切れた。それはまずいとプティ・オレンジに追加注文を出し、ちょっとばかり珍しいケーキがウィンドウに入っている。リンゴンベリー(北欧こけもも)のパイだと言うが、長沢はそれを食べた事が無い。 穏やかな時が過ぎて行く。嵐の前の静けさとは良く言ったものだ。正しくこれがそうだ。 秋本との話し合いは済んだ。了承も強力も得た。酒井医師との話し合いも済んだ。お互いの役目もきちんと決めた。問題は無い。秋津の使徒との話も、現時点で出来る所までは終了した。抜かりは無い。後は突き進めるだけ突き進めば良い。人事を尽くして天命を待つ。後は野となれ山となれだ。 凡て済ました。 そうだ、凡て現段階で最良の道を辿っている。出来る限りの事は凡て済ましたのだ。 ……楢岡以外は。 閉店時間が過ぎて、SOMETHING CAFEを閉める。シャッターを降ろす前に何となく道を見渡して溜息を吐く。そんな自分に気付いて嫌な気分になった。信じられない。何と言う事だ。 まだ、付き合う事になって十日ほどの事なのに。すっかり依存心が湧いているではないか。 片の付けられない焦燥と迷いを癒してくれる言葉を求めている。その言葉を言ってくれる人物を、求めている。純真な小娘でもあるまいに、大の男がか。しかも、もう不惑も終ろうとしている男がか。何と言う事だ。 甘い言葉が欲しいと言うのか。心の後ろ盾が欲しいと言うのか、支えが、甲斐が、欲しいと言うのか。なんと言う甘ったれた、弱い心なのか。モップで店の床を必要以上に磨く。自分の顔でも磨きたい所だ。全く、人間と言うのは。何と容易く状況に慣れる事か。良くも悪くもお構いなしだ。 掃除を終らせて凡ての用具をあるべき場所に片付ける。苛々と店の中を歩き回り、覚悟を決める事にした。店の受話器を掴んで、覚えてしまった番号を押す。 1コールが終るか終わらないかのタイミングで回線が繋がった。思わず生唾を飲み込む。直ぐに耳許で呼吸音がした。 『現在この番号は使われておりますが、使えるのは正直な良い子だけです』 名乗る前に先手を取られて息を呑む。口を開けて何を言うべきか迷い、口を閉じる。先方にはこちらの番号なり登録名なりが出るのだから、分かって当然なのだが、この攻撃は予想していなかった。気の利いた言葉を捜して見つからず、何も言えずにoffボタンに指を滑らせる。と、受話器が待てと言った。 『切ったら虐めるぞ』 読まれている。 口を開けられずに暫し迷う。日頃ならこんな事はまず無いのだ。その場の状況や雰囲気を読み取って、上手く話を繋げる事など本来得意中の得意の筈なのに、今はまるで上手く行かない。どうにも勝手が違うのだ。 悩んで、迷って口を開く。 「俺、嘘は吐いてない」 ん?受話器の中の声が言う。 「俺を引っぱたいたのは客だ。嘘じゃない。だから一々、君に詳しくなんて言えないよ。言わないぞ」 『はぁーん。………そう。うん、Kちゃんがそう言うんならそれで良いんじゃない。俺はそれで構わないよ』 「……え」 『用件はそんだけ?じゃ、切るよ。良いね』 良くは無い。無いのだが言えずにいる内に回線が切れる。電子音が耳の中に響いて、仕方なく受話器を置く。猛烈に後悔した。 こんな事なら電話など掛けるんじゃなかった。きちんと話してそれなりのテリトリーを主張しようとしたのに、それが出来れば清々しい気分で殉徒総会に専念出来ると思ったのに。これでは全くの逆効果だ。胸の中がもやつく。冗談じゃない、一体これは何だと言うのだ。思春期の初々しい恋愛沙汰でもあるまいに、うじうじもじもじして居る自分に心底嫌気が差す。これだから人と付き合うのなぞ御免なのだ。 電話の前から大げさに立ち上がる。 夕飯にしようと思っていたが、すっかり食欲など失せた。一っ風呂浴びてさっさと寝てしまおう。明日の為に早く寝よう。それが良い。 足早にSOMETHING CAFEから出て、住居スペースに向う。階段ホールに入った所で、裏口が電子音を響かせた。割れたまま直されていないチャイム。慌てて扉を開ける。 ドアの向うに、携帯電話を片手に持ったままの楢岡が立っていた。 「あれー?切れちゃったかなー?もしもし?」 少しだけ得意げな笑みを浮かべているのが憎らしい。数センチ以上は背が高い楢岡が、自然に見下ろしてくるのが勝ち誇っているようにすら感じられる。長沢はむっと顔をしかめた。 「切ったの、そっちだろ……」 ずい、と半開きのドアから上半身を乗り出す。 「あれ?切って欲しくなかった?」 ぐっと言を詰める。得意げな楢岡の笑みが深まる。半開きの扉を大きな掌が開けて、中に入り込む。反射的に後退さる長沢の前に顔を突き出す。 「……そ、そりゃぁ…。― 俺ちゃんと説明するつもりだったし…」 「え?何?聞こえないなぁ?切って欲しくなかったのKちゃん。もっと俺と話してたかったの?」 得意げなその笑みが腹立たしい。余裕たっぷりのその態度が気に入らない。ちょっとばかり賢いからって偉そうに。こちらが引くから相手が押してくるのなら、このまま引き下がってなどやる物か。 ずいと進み出る。こちらから鼻先に顔を近づけてやる。触れ合うほど近くで、鼻息も荒く真っ向から睨みつけると、笑顔が緩やかにひっこんだ。 「そう!その通りですとも!切って欲しくなかったんです。もっとちゃんと話したかったんです。昨日からずーっと気になってましたのでね!―――これで満足か!じゃぁお休み!」 言い切って踵を返す。後ろを見ずに階段を上る。どうせ笑われるのだろうと反応を無視して数歩進むと、上ずった声が名を呼んだ。 「ちょっ、……ま、待ってよKちゃん。イキナリ素直になるのは卑怯だろ。待てって!」 居間に入った所で追いつかれる。腕を掴まれて引き寄せられ、広い胸の中に迎え入れられる。中っ腹のまま温かさに動けずに居ると、胸郭が笑いに動いた。それみろ、やっぱり笑うのだ。睨みつけると目じりを下げた顔が有った。 「何だよ」 「昨日からずーっと気になってたのか、俺の事」 「そ、そりゃ、なるだろ。君、何だか黙って帰っちゃったしな……悪かったかな……と」 「気になってたかー。そーか。Kちゃんがねー。俺の事ずー――っと気にしてましたか、なるほどねェ」 「何だよ!」 「さっきあんた、俺見て凄く複雑な表情したの、知ってる?待ってた、ってのと、何だよ、ってのと、他にも何か色々ね。当たってるでしょ」 言われている意味が分かって面を伏せる。全く。どうしてそう言う事を一々、この男は口に出すのか。分かりましたとこちらが認めぬと許さないのか。 勿論、分かっている。こうしたじゃれ合いが恋愛で、人間同士の付き合いと言う物だ。分かっている。お互いにぶつかって、摩り合せて、互いの居場所や権利を決めて行くのだ。譲り合って認め合って、近付いていくのだ。決裂する事もあるが、密着する事もある。 かつての恋愛では良くやった。それが楽しくも有り、辛くもあり、過ぎてみれば醍醐味だったと思う。こう言う期間を経るからこそ、相手が必要となり、かけがえの無い存在になる。自らの中に相手を見る。忘れ難くなる。良く分かっている。分かっているが。 ―― 邪魔だ。 近い内に失うと分かっている物に、何故乱される。その事に何の意味があるのか。 「Kちゃん?」 静かになった長沢の顔を覗き込む。逆らわない身体を少し自分から離して、表情を覗き込む。静かな目が黒眼鏡の向うからひたと楢岡を見据える。どきりとした。 この男には驚かされる事ばかりだ。十年来見えてきた姿はここには無い。温和でドライ、物静かでクールな男だと思っていたのに、まるで違う。 細やかな心遣いで凡ての客に接する替わり、誰とも親密にならぬ、知性的で狡猾な個性。表に立つ事を好まず、あくまでも控え目に立ち回る男。頑固だが物腰の柔らかい紳士だと、十年来思って来た。だが深く付き合って、それが単なる仮面であると知った。 クールに見えたのは、この男のガードだ。温和なのは、内に秘めた熱さが零れているからだ。知性的で狡猾で計算高くて、その癖、とんでもなく一途で不器用で、時には純真ですらある。この男には。 「俺は君が好きだよ、楢岡くん」 驚かされる事ばかりだ。 「でも、君のそう言うのには付き合えない。俺は複雑で、臆病で、卑怯者だ。まずいと思えば直ぐに逃げる。嫌だと思えば尻尾を巻く。今まで何度もそうして来たんだ。ずーっとそうして来たんだ。今更変われない。 君にどう接するのが一番良いのか、ずっと考えてる。でも、正直俺には分からないよ。ずっと狼狽えてるんだ。君と一緒にいる時は安心出来るし、頼ってる面もある。でもこれ以上踏み込むのは嫌だ。踏み込まれるのも嫌だ。俺は俺だ。俺の事は俺しか知らない。それで良い。俺に起きる事を君が全部知っている必要なんて無い。知られたくも無い。 君に起きる事を、俺は必要以上に詮索しない。だから君もそうしてくれ」 紳士だと、十年来思って来た。とんでもない。紳士どころか。穏やかな暴君だ。対応は到ってソフトで、その癖頑固で絶対に譲らない。しかも、譲らない理由が振るっている。本人は決して認めぬだろうが、楢岡には分かっている。 恐れだ。譲ってしまったら自分が変ってしまうと言う恐れなのだ。怖いから。これまでの47年程が崩れて変ってしまうのが怖くて仕方ないから。だから踏み留まる。だから変れない。 「距離をおいてくれ。…それが出来ないなら、続けられない」 言葉の最後に、交差点のクラクションが被る。 怖いから。 そんな風に聞こえたのは、恐らくはクラクションの所為だ。 |