□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 翌日曜日は、いつも通りの顔でやって来た。
 睦みあった楢岡を布団の中に残して、温い褥を出る。決行日の今日は、どうせ昼から出張ってしまうのだからと、SOMETHING CAFEは休みである。早く起きる必要も無いのだが、習慣と言うのは恐ろしいものだ。
 5時ジャストに目が覚め、二度寝したものの、一時間が限界だった。6時にはいつも通りの朝のルーティンワークに取り掛かる。口を半開きにして眠っている年下の恋人の顔に小さく吹き出したのは、長沢だけの秘密だ。
 学生街でビジネス街の神保町や猿楽町では、元より休みの日は無理して開店する理由は無い。今年は履修時間不足騒動のおかげで休日もまぁまぁの客の入りだったが、例年なら休みにするのが経済面から言っても道理である。昨日から「明日は休み」の告知も貼ってあるし、心配は何一つ無い。
 今となっては。
 殉徒総会に入り込む。それがいつしか、当たり前の日常上に有る、ごく普通のイベントに思えていた。勿論、何かを失念した訳ではない。その為にこの一週間、秋本とも酒井とも…正確に記すならば、秋津の白露他、数名とも…打ち合わせを続けて来たのだ。失念する筈も無い。ただ。
 いつしかそれも日常の一端に成っていた。
 妙な力みは抜けていた。ごく普通に宗教団体のイベントを体験しようと言う、罪の無い市民の一人。功徳や折伏と言う用語や理念を聞き流し、一人の人物を探すただの市民だ。ただの、子を探す親なのだ。これが日常以外の何だと言うのか。
 昨日までの奇妙な焦燥と動揺を思い出して苦笑する。一体自分は。
 何に焦っていたのか、常連の家族を巻き込んだカルト宗教騒動か。はたまた。齢47にもなって嵌っている、己の恋愛沙汰か。
 店を整えて、エスプレッソマシンを起動させる。丁度セッティングを済ませたタイミングで、楢岡が降りて来た。
 「おはい、Kちゃん。朝っぱらから元気だなあ」
 おかげさまでね。そう言いながらカプチーノを差し出す。寝ぼけ眼の楢岡が、有り難うとカウンタの片隅に腰掛けた。
 身支度は整っている。今日も楢岡は休日では無いらしい。長沢は心中で確認した。
 無造作に前ボタンをかけずに羽織った様相のシャツも、昨夜着ていた物とは違う。大きなあくびをした際に持ち上がった顎のラインも、きっちり手入れがされた後だ。体毛の濃い人間は大変だ。昨夜抱き寄せた楢岡の顎はこんなにつるつるではなかった。
 殉徒総会との静かな抗争が、日常の延長になったと感じるのは、楢岡との事が在るべき所におさまったからだ。軽く有り難う、と呟いてみる。眠そうな目が何が?と問い返して来たのに首を振る。全く持って。不惑などとは片腹痛い。これ程惑ってばかりの男もそうおらぬと思うのに。
 誰とも結ばず、心を晒さず、世の中に埋もれ、隠れて生きて来た十数年。静かに枯れて行くのだと、そう覚悟した日々の後に今日がある。皮肉なものだ。他人と結ぶ事は恐ろしくて煩雑で、深手を負う事すら有る。だから隠れて生きて来たと言うのに。重々それが分かっていても、それでもやはり死んでいないなら、いや、生きているなら、人は人との結びつきが要る物らしい。
 やっとそれが分かった。分かったからには、認めざるを得なかった。
 噛みついて足掻いて暴れて、その理由をやっと知った。欲しいと本能が叫ぶなら、理性が必要と言い張るなら、手繰り寄せるしかないではないか。しがみ付くしかないではないか。
 剥き出しの爪と牙で不器用に掴み寄せ、それが負った傷毎抱き締める。飽く事無く、その傷が癒えるまで幾らでも舐め続ける。手の甲にかすかに残る引っかき痕が、ちくりと胸に突き刺さった。
 「ひとつだけ。言っとく」
 不意に真摯な声で問いかけられて面食らう。見つめた先の瞳は既に覚醒してから時が経っていた。寝ぼけた風体も、だらしない格好も、ナチュラルにこの男の鎧なのだと確信して、長沢は心中で苦笑する。
 年を取ると、誰もが鎧が必要になる。面の皮が厚くなるだけで、鍛えても一向に硬くならない心を防御する為に、危険防止のカバーが必要となるのだ。その為の鎧なのだから、十人十色千差万別、各人毎に全く違う。外見が攻撃的で有る必要は無い。守るのは内側なのだから、外見はあくまでもソフトで柔和で、笑顔でさえあって構わぬのだ。
 長沢の纏う鎧が"温和な無関心"であるならば、楢岡の鎧は"ちゃらんぽらん"な"遊び人"だ。
 この鎧にはずっと謀られて来た。だがもう、騙されない。
 「俺、殉徒総会員でもないし総会係でもない。ただ、反公正のスピーカ担当だから、当然公正や総会側との間に立つ事が増える。場合に寄っては、…Kちゃんを排除する側に立つ。俺はその時に迷いたくない。だから今言っておく」
 言葉に頷く。偽りは無い。楢岡の理解と真実が多少食い違っていても、結論は正しい。もとより長沢はこの男とは敵対する身だ。それ以上でも、以下でも無い。
 「俺自身にその気は無くても、上は殉徒総会との癒着が深い。世間一般で言われている通りだ。俺達にすら見えない闇も有る。お役所勤めの辛い所は、真実を知っていても、暴く事が出来ないという所だ。上には逆らえない。逆らうなら、用意周到にやらなきゃならない。そうでないと命取りだ。俺は今、足下を掬われる気は無いよ。
 上から命ぜられたら、俺は従う。利害がぶつかる時は職務を優先する。徹底的に職務を遂行する。Kちゃんには悪いけど、Kちゃんとの間柄は…多分構えない。排除も逮捕も他の皆と同じようにする。特別扱いはしない。分かっといてくれ」
 頷く。この男の声が好きだ。ソフトで甘く、よく響くバリトン。いつもの洒落者の軽妙洒脱な喋りとは全く違う朴訥な語り口も、たまには良い。迷いも逡巡も全部ストレートに晒されて、逆に好印象だ。鎧の下の実直な人柄が垣間見える。この声に良く似合っている。
 男の視界の中央に身を寄せる。睫毛の厚い目許が、少し驚いて見返した。
 「それ、全部、昨夜俺が言った事」
 体を低くして、僅かに見上げて言うと、カプチーノを持ったままの姿勢で固まる。吹き出しそうになった。
 「言われなくたって、良っっく分かってる。俺、こうも言ったよね。
 君との事は口外しない。俺は君と無関係な暴徒だ。容赦は要らない。楢岡くん、君は自分に不利になるような事、何一つしちゃ駄目だ。それは俺も望まない。こう言う人間だと分かってて始めた事なんだから、覚悟して」
 真摯な瞳が見返す。少しだけ怒ったような、決まり悪そうな瞳の色と、シャツの下に覗く引っかき傷の対比がくすぐったくてつい微笑むと、大きな手が長沢の頭を掬い寄せた。
 カプチーノ。楢岡用のカップは、長沢には少し甘過ぎる。ゆっくり味わって唇を離す。器用な舌が長沢の唇を辿った。
 「何だよ。すっかり悟った顔しちゃってさ。昨日大暴れしてスッキリしたって訳?」
 悟った。その一言に笑う。実に良く、長沢を言い当てた表現だ。
 「そ。悟ったなぁ。君に八つ当りしまくって、やっぱ君が必要だと思ったから、素直に認める事にしたよ。こう言うの、悟ったって言うんだろうな。
 …でまぁ、お互い色々有りますから、臨機応変に対処すべき事はしませんと。君は警察署長になって、公安委員会のトップに立って貰いたいから、上司に睨まれる様な失敗は避けないと。俺が暴徒になったら、君との関係は認めません。犯罪者になったら、名実共に無関係です」
 昨夜は脅えていた暗い瞳が、今日はすっかり突き抜けていた。いつものクールな微笑とは違う、きちんと恋人の顔なのに、不安の色はそこに無かった。
 この男が口外しないと言うのなら、それは口外しないのだろう。あっさりと語る未来の決意は、恐らくもう変らないのだろう。そして事が起こった時、それが互いにとって最良の道である事は間違いが無いのだ。
 癪で頭を掴み寄せる。素直に着いて来る瞳を見つめたまま口付ける。やんわりと閉じられる大きな瞳が映しているのは、今は素直に恋情なのが癪に障る。
 「俺は、そう簡単に覚悟はしない。Kちゃんは終わりを見てるみたいだけど、そんなの俺には見えない。だから認めない。暴徒は捕まえる。警察がね。でもKちゃんは俺の物だ。分かっといて」
 含み笑いのまま、年上の恋人が腕の中から抜け出る。見慣れたクールな微笑みに戻って行く様を、客席から見守る。その様子に、店主は満足そうに小さく吹き出した。
 「思った?」
 「は?」
 「さっきの言葉言うの、悩んだでしょ。俺に嫌われるんじゃないかと思ってさ。な、そう思ったろ、楢岡くん」
 癪に障る。
 「思いましたがそれが何か」
 いい気味。髭に包まれた口許が笑う。十年来見つめて来たものとは違う笑みを零しながら悪態をつく。ざまを見ろ。その様が心地良いと感じて、楢岡は溜息を吐いた。
 とんでもない存在に囚われた。これは大事だ。後悔は役に立たない。する気も無い。
 
 
 楢岡を送り出し、イベントに参加する"極々普通の一般人"の参加心得をチェックする。重要なのはたった二つ。
 1、目立たず騒がず入って主催者側スタッフの顔を覚えること。
 2、子供の手を取って、可能な限りうるさく出てくること。
 それだけだ。簡単ではないか。難しいのは、スタッフの数は蓋を開けないと読めないので、一体どれだけの数の顔を覚えるべきか分からぬ事。子供に会えるかどうかと言う事。それだけで、他は大した事は無い。
 持ち慣れた書類鞄にレポート用紙と筆記用具、デジカメを入れ、ICレコーダを用意する。デジカメは取り上げられてしまうかも知れぬが、ICレコーダの方は履いたカーゴパンツのポケットに入れたので恐らく大丈夫だろう。この頃は膝下や腿の脇にポケットのついたパンツが普通に売っているから、その点非常に有り難い。
 今日活動する場所は凡て室内であるから、そこで着ていても不自然ではないように、上着もダウンをやめて、少し薄手の物をチョイスした。着慣れたカーキのハーフコート。そのポケットに携帯電話を入れる。
 もし、疑われて鞄が奪われるような事態が有っても、携帯単体で取材続行は可能だ。だから上着のポケットにしのばせる。
 様々な可能性にかけて、揃えられるものは凡て揃えた。言い訳も考えたし、練習もした。当日の朝は、もう何もする事が無かった。
 目的地は青山一丁目。門脇短期大学講堂及び、ステラミラービルにおける「大折伏会」なるイベントだ。
 酒井医師とは、潜入前に最後の打合せをする為に、赤坂で待ち合わせと言う事になっている。
 赤坂近辺もここ数年で随分と変った。赤坂Blizsが建ち、サカスが建ち、随分と小綺麗にお色直しをした。若者には目新しくて良いのだろうが、何しろ親父二人の待ち合わせである。サカスの喫茶店だのバーだのと言っても、互いに知っている場所が一つとして無い。しがなく、駅前のマクドナルドにて打合せと相成った。
 出で立ちは極普通に。ただ、特徴と言える物は出来るだけ変えよう。そう話し合った結果、長沢はこの日の為にコンタクトを作り、酒井医師は無精髭を綺麗に処理して伊達眼鏡をかける事にした。長沢の髭は、本人の強い希望でノータッチだ。
 互いの見慣れぬ顔に苦笑しながら、マックの片隅に座り、存外、舐めた物でもないマックカフェのブレンドを啜る。
 互いの呼び名は無理なく「マスター」と「先生」で通す事にした。署名等に使う名前も「坂入」と「長坂」に設定した。最初の一文字は本名と同じ音で揃え、もし万が一口走ってしまっても、途中補正が効くようにと言う気遣いだ。
 最後の打合せを済ませて店を出る。そこだけ変らないコージーコーナーの店先に、奇妙にほっとした。
 会場までの道のりは、ゆっくり歩いても十分は到底掛からない。冬晴れの澄み切った大気が鼻の頭に冷たい。長沢は深呼吸をした。
 小綺麗になった街並を見渡しながら、緊張が服を着て歩いている状態の酒井の背を叩く。大袈裟な程にびくりと丸い背中が撥ねた。
 「先生、深呼吸。怪し過ぎますよ、それじゃ。リラックスリラックス」
 ごめん、と酒井が言う。そう言う声が緊張していた。無理も無いと、重々長沢も分かっているのだ。
 目で酒井医師の動きを追う。万が一の備えとして、二人は別々に門を通るべきだ。ただし、また万が一の備えとして、酒井が何か極端な行動に出た際に臨機応変に対処出来るよう、不自然に見られぬ程度の近さで。長沢はそっと医師の後ろに回った。
 秋元に言われたのだ。
 酒井先生には申し訳ないけど、美也ちゃんの奪還は二番目の目的と心得て欲しい。下唇を噛む酒井の肩を叩きながら、二人で黙って秋元の話を聞いた。
 奪還にはタイミングがある。何らかのイベントや集会に乗り込み、即本人を見つけてさあ奪還、と突撃しても、余程幸運で無い限り成功はしない。それこそ特別な地の利が有ったとか、人数の差が絶対的であったとか、何か別の騒ぎと重なって、たまたまそこが手薄で有ったとか、そうした特別の状況が無い限りまず無理だ。
 イベントの前半は、主催者側がピリピリしている。当然ながら主催者の目的はイベントを成功させる事であるから、イベント終了迄は人員も多めに割くし、警備も怠らない。いざのトラブルに対処する警備担当者も、事件に発展した際の隠れ蓑の学生達も、きちんと裏に配置済みだ。しかも殉徒総会は、警察組織に食い込み、国家権力で有る彼らを大っぴらに利用して憚らない団体なのだ。どう足掻いても、確実に総会側が有利である。まず、適わない。
 このタイムゾーンで行動を仕掛けるのは愚か者の選択だ。相手の思う壺で、正しく飛んで火に入る夏の虫なのだ。本当に目的を遂行したいなら、このタイムゾーンは絶対に選んではいけない。
 だから、見つけたら即行動と言うのは諦めて欲しい、秋元はそう言った。
 第一の目的は、兎に角凡てのイベントを平穏にこなす事。美也を見つけたら、遠くから見守り、先方に気取られぬ事。その姿を見失わぬ事。そうして凡てのイベントを終えたら。
 後はぶち壊して構わない。出来るだけ近場にヴァンを潜ませておくので、兎に角建物の外まで、美也を引きずり出してくる事。後の事は、その時考えよう。
 前半と後半の話のトーンのギャップに、つい苦笑したが、現実はそんなものだ。理屈と実践が同じ訳など到底ありえない。理屈の部分をやり過ごしたら、後は当たって砕けろだ。
 視界の真ん中に「門脇短期大学」と書かれた小洒落たキャンパスが広がり始める。直ぐ脇で、酒井が大きく溜息を吐いた。
 長沢が秋元の言葉を反芻している間、酒井医師も同じ事を思い返していたのだろう。ガチガチだった肩が、今はかなり解れていた。
 「後は野となれ、山となれ。実感するねぇ、マスター」
 つい笑う。
 「何故分かったんですか。俺も全く同じ言葉、思い描いてましたよ」
 正午開場、12時45分開会の一般向け大折伏会。15分にICレコーダのスイッチを入れ、腿の外側のポケットに放り込んで短期大学の門をくぐる。
 何と言う事も無い日常の始まりだ。
 

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