□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 四季の移り変わりがはっきりした日本。冬の典型的気候は西高東低の気圧配置。そんな事を習ったのはいつだったか。
 1月17日の空は青く晴れて、爽快に高い。恐らくは上空で風が強いのだろう、そこかしこに散らばっていた雲は、気付くと視界から掻き消えていた。実に。
 実に幸先が良いではないか。
 酒井と二人で入った門脇短期大学のキャンパスを、ぐるり見回す。都会の大学で有るから、敷地が広いとは言い難いが、狭い土地を器用に使って、都会の学校らしく洗練されている。
 都心の大学は、面積だけで、それが設立された時期がはっきりと分かるのが面白い程だ。広ければそれは遅くとも昭和20数年迄に土地を取得していた物である。しかも、20年代当時から今迄、ずっと駅から遠いか、何か他の理由が有るなどして、戦後のどさくさで無頼漢に土地を奪われる事のなかった幸運な学校法人である。
 戦後に取得され、建てられた都心の学校は、いずれも土地に関しては非常に狭い。そこは搾取された「余地」であるからだ。
 大東亜戦争敗戦後、"戦勝国民"を名乗り、"進駐軍"と自らが勝手に吹聴する愚連隊が、駅前の一等地を奪って行った。彼らは、国家を総動員して闘った戦に敗れ、身も心も傷つき、疲れ果てた日本人から、凡てを奪っていったのだ。GHQに凡ての武器を取り上げられ、丸裸になった日本から、彼らは喜び勇んで凡てを強奪していったのだ。
 ダグラス・マッカーサーに"三国人"と称されたかつての日本人。後に南北朝鮮と呼ばれるようになった国の人々。いまやすっかり自分達は被害者だと嘯き、だから参政権を寄越すのが当然だと主張する、獅子身中の虫。
 学校一つを見ても、その傷痕を追う事が出来る。ほんの少しの知識と、物事を推理する力があれば。長沢は、広いとは言えぬ校庭を見回した。
 "敗戦"は、日本から"武士"と言う特殊階級を奪った。西洋の騎士と似て非なる、エリート階級の"武士"。敗戦とGHQが奪ったのは、東洋の片隅の国を背負い、西洋列強と戦い、交渉した"武士"と言う選民だったのだ。
 時に武人で、時に文人。また時には雅人でもある武士。日本国の人口の9割の農工商の上に立つ"士"。民衆の行く先を決め、導き、先頭に立って戦うオールマイティなリーダー。
 守るべきは主と国。自らの身は厭わぬ。しかも一度、武士の誇りを傷付けられれば、命を賭して敵に猛進する。こんな階級は他国には無い。
 見方を変えれば、"武士"と言う規範に沿わぬ者は問答無用にたたっ斬り、一切の意見を聞かぬ蛮族。これ程に理屈の通じぬ暴君は無い。だからこそ、"武士"はかつてこの国を守れたのだ。
 異文化が混じりあう生活空間では、普通なら気遣いする方が生活圏を追い出され、やがては死に絶える。今の日本が正しくそうだ。
 かつての"武士"は、先方に対し、礼節を守り、押されれば引き、最大限の気遣いをした。今の日本人と違うのは、"ここ"と言う一線を超すと、彼らが烈火の如く怒ると言う事を知っていた点だ。一度怒ると、その怒りは治まらない。抜刀し、相手に斬り付ける。それまで水のように静かだった男が唐突に炎と変る。日本以外の文化にとって、恐らくその怒りは理解出来なかったろう。だからこそ。恐れられた。
 武士のみが知る一線を理解しようと、列強は構えた。理解の出来ぬ異郷の武人は底知れぬ脅威であったのだ。
 だからこそ一目置かれた。だからこそ敵視された。
 知恵を持った暴力装置。いつの世も、国を治めるには"力"が、"脅威"が必要不可欠なのだ。
 今の日本にはこの脅威は微塵も無い。
 「侍」はいないのだ。
 暴力装置の無い日本は、今や、後から流入して来た外国勢力に領土を奪われて何も言えず、警察/政治/マスコミ等の権力を食い荒らされて逆らえず、経済を牛耳られて身動き出来ず、今まさに国體すら奪われようとしているのだ。
 その、正しく国難の時に。
 ほんの少人数。だが中央に、人知れず立ち上がった勢力が在る。日本の解体、叩き売りに人知れず抗っている。現実に判決が変り、議題が消え、反日団体のイベントが潰され、徐々に影響を示して来ている。正しく今、知性を持った暴力装置が再起動しつつ有るのだ。
 直接に関わりたいと長沢は願う。だが今は届かない。特に今は届く術がない。唯一のよすがは今、恐らくは別の名前で潜り込んでいる。―― 同じ敵の、懐深くに。
 
 広いとは言えぬ校門から講堂までの道を歩み切る。
 ガラス張りの講堂の入り口にデカデカと「殉徒総会新春シンポジウム」と書かれた看板が立っていた。折伏会でも、説明会ですらなく、シンポジウムと書く所が心憎い。
 カルト。元々はラテン語の「崇拝」の意味を持つこの言葉は、欧米では混同を恐れてセクトと呼ばれる。
 凡ての宗教は、本来はみなカルトだ。長い年月を経て自然淘汰され、残った宗教が「正教」や「真教」などの名を得たに過ぎない。
 では殉徒総会がそうなり得るかと言えば、それはまず有り得ない。立件こそされてはいないが、数々の暴行、恐喝、詐欺、偽造問題を抱え、それを隠し切れない団体ではやがて崩壊する。重要なのは。
 その崩壊と日本の崩壊のどちらが早いかと言う、その一点だ。
 バラバラと、講堂に人が飲み込まれる。戸口の内側に、長テーブルが並び、若い男女が角4号の茶封筒を配っている。恐らくはパンフレットの類だろう。
 長沢は、酒井の後ろ3m程の距離に付き従ってガラス戸をくぐった。近すぎず、見失うほど遠すぎず。わざとらしくない近距離を保って、殉徒総会のテリトリーに潜り込む。実にスムーズだった。
 ゆっくりと周囲を見回す。急造のコンタクトレンズはハードで、急に視界をめぐらせると外れたりするので、必要以上にそっと見回す。
 近視の酷い長沢には、本来、ソフトレンズの方が向くそうだ。眼鏡屋で薦められて試したが、余程眼球のカーブが急なのか、虹彩の真ん中にレンズが定着しなかった。レンズが目の中で泳ぎまくり、視界が動いて定まらない。仕方なく、ハードコンタクトと相成った。確かに違和感は有るものの、視界は驚く程明瞭だ。
 素晴らしくエッヂの揃った明解な視界の隅々まで見回して…小さく息を呑む。茶封筒を受け取りながら、そっと目の前の医師に視線を運んだ。
 気づかぬ訳が無い。所詮は部外者の長沢より、遥かに医師の目はターゲットを探し出せる。感覚器官は目だけではない。子を探す器官は目だけではない。ピリピリした背中が全てを物語っていた。血のつながりの有るターゲットを、医師が感じぬ筈なぞないのだ。
 さりげなく酒井医師に近付く。そっと脇に身を潜める。
 「我慢ですよ」
 脇で囁く。動こうとしない医師の袖をわざとらしくない程度に引きながら進む。しつこく視線を残しながら、それでも進む医師に、小さな声で我慢と繰り返す。大きな溜め息が横で漏れた。
 視界の奥。長テーブルの一番奥に、酒井 美也の笑顔が有った。茶封筒を手渡しながら、自然な営業用スマイルを投げかける酒井医師の娘がそこに居た。
 昔ははにかんだように笑っていた。純朴で、心根が読み取れるようなあの笑顔が可憐で良いと、長沢は心から思ったのだ。
 今の彼女の笑顔は、全く別物だ。酒井医師の痛みが痛感された。
 内廊下を進んで、案内嬢の指し示す講堂に入る。
 戸口から最も近い講堂は、かなりの大型だった。階段教室と言う程ではないが、かすかに後部へ向けてせり上がる作りで、一番低い位置にある演壇を取り囲むように、緩く円を描いて座席が作られている。
 客席は四行、十数列に分かれており、一つの長机の定員は前方で六人、後方で十人程が座れるようになっている。キャパにして500人強程と言う所だろうか。一学部の総員を裕に収監できる大講堂と言える。
 総会の、この時期に掛ける意気込みが知れる気がした。
 国会は予想通りに紛糾している。民衆党は自明党の凡ての議案に反射的に反対を言い続け、殆どの議案が通らない。しかも、来週頭には内閣の不信任決議案が出されるのは、ほぼ確定だ。
 この状況を作り出す野党の幼稚さは見るに耐えぬが、それに対して何の手立ても持たぬ与党とは一体なんだ。保守政党の筈が、超左翼のカルト政党、公正党と組んでかろうじて与党を継続してきた、これが自明党の成れの果てだ。かつて主権を取り戻す為に立ち上がった保守本流の求心力など微塵も無く、年月を経ただけのロートル以外の何物でもない。
 予想通り、来週頭に国会が解散となれば、公正はあっさりと自明を切って落とすだろう。もとより政治的思想など持ち合わせないカルトであるから、第一義は生き残りなのだ。手を組むのは権力者で無ければならない。与党足りえる影響力と集票力を持つ党で無くてはならないのだ。自明はとうの昔に役足らずだ。
 公正は既に、沈む自明船から離れ、民衆船に乗り移り始めている。カルトにとって、その船が敵国の海賊船であることは大した問題では無いのだ。
 暗黒の時代がやって来る。
 無能な与党が、更に無能で、しかも外患の傀儡の群れにその座を明け渡すのだ。国を解体し、安価で他国に売り捌く連中に国家の中枢を投げ与えるのだ。戦いを忘れた日本人に、抗う術など有りはすまい。日本の国體が消え、日本人と言う民族が三等国民に落とされ、やがて死に絶えるまで大した時間は要するまい。
 それを阻止する方法はたった一つ。
 賢い国民が亡国の徒を政界から締め出せば良い。それだけの事なのだ。だが惜しむらくは。
 滅び行く国に、賢い国民など居ない。
 別々に講堂の列を進む。中程まで進んで、列の端に並んで腰掛ける。たまたま並んで座ったのだと思われるように、長沢の方が後から座る。
 徐々に人が増え始める講堂の中で、目立たぬ中年男二人の事など誰も気づくまいが、それでも用心に越した事は無い。誰に見られていても不自然では無い風を装って席に着く。埋っている席数は、半分ほどだった。
 俯いたままの医師に大丈夫ですかと声を掛ける。医師は小さく頷いた。
 「確かに"彼"の言う事は正しいですねぇ、先生……。現場に来て実感しました。もし今、いきなり腕を引いたら速攻で押さえつけられます。取り囲まれて放り出されて終わり。二度と近づけない。ここは待つのが得策ですよ。今はチャンスを待ちましょう。じっと我慢です」
 複雑な呼吸の後、やや暫くして、そう思う、との返事が返って来る。今度は長沢が頷く番だった。
 酒井医師は冷静だ。心情的には到底納得していないだろう。だが理性的に考えて、合理性と優先順位をきちんと理解している。娘を救う為だからこそ、今は娘を忘れる。矛盾しているようだが、実に合理的だ。
 「確かにここでは駄目だな。校門まで遠すぎるし、人数が多すぎて身動き取れない。予想外に大きな会場で驚いた。…しかしさ。
 わざわざこんな立派な場所を借りて説明会をするのに、何でその後で場所替えをするんだろう。"彼"はそう言ってたけど、本当に本丸に移動、するんだろうか?」
 二人で首をひねり、渡された物に気付く。この茶封筒の中身が式次第であるならば、会の詳しい流れが明記されているかもしれぬ。
 茶封筒の中身を引き出す。現れたのは16頁ほどの小冊子と、幾種類ものチラシと申込書だった。
 公正党の議員達の著書の申込書、ヨガ教室案内、殉徒総会入会申込書。里中 汰作著「総会革命」「人間の書」…そして。
 美しい霊峰富士をバックに数名の男女が笑っている表紙の式次第。慌てて頁を繰った。
 名誉会長のご尊顔と、ありふれた会員たちの自慢話。正午開場、四十五分開演。数名の演者の名と、演目が上り、3時終了と有る。ただ、それだけだ。長沢は溜息を吐く。
 「まぁ、"彼"の情報を信じるしか無さそうですねぇ」
 「だなぁ」
 演者の名の書かれている頁を弄ぶ。全く知らぬ名ばかりだが、中に一つ、見覚えのある人物がいた。
 「大畑 仁がいるのか……これは、少しは面白いかもしれませんね」
 医師が怪訝な目を向ける。何がどうしたと視線が問う。長沢は苦笑した。
 酒井医師には分からない。もとよりカルトだの政治だのと言う物は、自らの娘がこんな事にならなければ生涯関係が無かった分野なのだ。興味も基礎知識も無くて当然なのだ。
 「失礼。この大畑と言う男は、元公正党委員長、谷之 俊哉の右腕と呼ばれた男ですよ。兵庫県宝塚口市の代議士にして公正党委員長、谷之。先生もご存知でしょ」
 ああ、と医師が頷く。TV向きの饒舌な代議士だから、特に政治に興味が無い人間でも知っている有名所の議員だ。
 「その谷之 俊也が汚職事件関連の責任を取って委員長を降りたのが1999年。この年は自自公連立政権が出来た年で、丁度その前まで委員長は谷之でした。一番俺の眼から見て公正党が大きくなった時期でね、この時までずっとこの男が谷之氏の第一秘書をやってたんですよ。
 やり手だったと思いますね。殉徒総会が信者をぐんぐん得た時期だし、公正党も地盤を固め、自自と組む直前までの公正は今とは大違いの急成長を果してましたよ。
 その後、谷之は最高顧問になり、大畑は自身が代議士になりました。今もバリバリの現役で、結構いい所まで行ってます。次また自明が政権執ればどっかの大臣か副大臣くらいには収まれるかもしれませんが、まぁ、今はその目は無いでしょうから、精々実力派の公正党員、ってのが妥当な説明ですかね。
 ちなみに谷之氏は委員長を降りてから暫く最高顧問の座に居たんですがね、一応、2008年に政界引退って事になってます」
 「……一応?」
 頷く。
 「政治屋の引退などと言う言葉ほど、信じられないものは有りませんからね。俺は今も谷之は殉徒総会の深い部分の権力を握ってると思ってます。で、かつての右腕とも切れてないとも、思ってます。
 その大畑が折伏…おっと、シンポジウムに出てくるとなると、やはり相当苦しい状況でしょうかね、殉徒総会は」
 医師が感心したように、呆れたように頷く。長沢としては、わざわざ憶える必要の無い有名人が壇上に立つのは大歓迎だ。何しろ。
 長沢の今日の第一の使命は、「覚えること」だ。
 殉徒総会の折伏会で会う、凡ての人間の顔、覚えて来い。客はまぁ良い。総会側の人間の顔、凡て覚えて来い。秋元はそう言った。出来るなら準備を整えてやると。だから応じた。応じたからには。
 最大限の努力はせねばなるまい。
 会場をぐるり見渡して深呼吸をする。演者席は、講堂の一番低い場所に当る。講堂全体は、凡ての窓に暗幕が下ろされている為に薄暗いが、演壇周りはライトアップされていて実に良く見える。
 講堂に入る前にスイッチを入れたICレコーダーは、問題なく会場の音を拾っている。カーゴパンツの太腿のポケットに入ったこれは、恐らくは最後まで無事だ。見咎められる事も怪しまれる事も無いだろう。
 デジカメも先程から幾度と無く活躍している。席に落ち着いてからも既に数枚撮っているが、現在の所お咎めは無い。だがこれはやがて禁じられるだろう。見咎められれば指示に従わぬ訳には行かない。映像に関して最後まで許されるのは、この目と頭だけだ。
 講堂内は暖かい。ハーフコートの前を全開にし、邪魔になった書類鞄と式次第を入れた茶封筒を、椅子の背に挟む為に身体をねじる。自然に回転する視界の隅に、フ、と、よぎった。…気がした。
 ドキリとして頭を巡らす。
 薄暗い講堂の席から、やたら明るく見える後部の扉。内廊下と、その向こうの大きなガラス戸。その向うの木々。長沢は慌てて身をめぐらした。冬枯れの木々の手前を掠めたものが瞳に引っかかっていた。見えた気がしたのだ、それが。
 グレー。所々白に近いような、くすんだグレー。
 灰色の頭。見慣れた。
 身を巡らすのに煽られて、茶封筒が椅子の背から零れ落ちる。瞬間、視界から色がかき消えた。
 「ど、どうした?」
 明るい扉の外を視線で這う。クリアなエッヂの視界を見つめる。求める色はそこに無かった。
 視界に蘇る。いつか見慣れたグレーの髪。長めの前髪が悪戯に隠した鋭い瞳は、これもまたグレーだった。陰気で整った容貌の中の、縁だけ黒いクールグレー。寂しげな灰色の双眸。
 「いえ……ああ、いいえ。何でもありません」
 落ちた茶封筒を拾い、椅子の背に挟む。思い切れずに戸口を伺い、そんな自分に苦笑した。馬鹿か。一人ごちる。
 どれだけ気にしているのか。そんな筈は無いのに。
 今頃あの青年は、自らの任務に没頭している。かつての日常など忘れ、現在だけを見ている。そしてその現在に、長沢と言う人間など存在しない。そんな事は、長沢自身百も承知だ。それなのに。
 未練がましく、開け放たれた講堂の扉の向うを見る。そこに有るのは、静かな冬の日の情景だった。
 

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