□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 公正党と殉徒総会は違う。そう平然と信者が言う。
 たまたま、公正党には殉徒総会とその関係者が居るだけで、二つの団体を結びつけるのは全くナンセンスだ。川に棲む多くの魚が鮭であれば、その川が鮭であると言うの位、それは愚かな考えだ。
 鮭と河は全くの別物で、だから殉徒総会も公正党もまったくの別物なのである。
 かつて長沢は殉徒総会員に真顔でこう言われた事がある。
 余りの下手糞な詭弁と例え話に、暫しぽかんとしていると、納得したと勘違いした信者が言った物だ。
 だからきちんと、政教分離は守られているんですよ。
 冗談ではない。今の例え話は、むしろ政教一致の説明ではないか。長沢は、噛み付く信者を、ゆっくりと問き伏せた。
 鮭は信者の例えであり、河は殉徒総会の例えだ。この場合、鮭と河を同一視した例え話には意味が無い。河は河と比較されるべきだ。然るに今の話には河は一つしか出てこない。となれば、鮭は同じ鮭であるのだから、殉徒総会も公正党も一つしかない同じ河と言う事ではないか。これは正しく政教一致の例えで、日本国憲法第20条において禁じられている物である。
 信者は烈火のごとく怒った。しかし、怒った理由は長沢が間違っていたからではない。長沢の指摘に一言も無かったから怒ったのだ。先方も、怒られた長沢もそれは分かっていたから、その場は静かにお流れとなった。
 だが現実問題、この詭弁は現代日本の中で通用している。
 同一の流れである筈の公正党と殉徒総会は、単に支持母体と被支持政党の関係の別団体であるとの言い訳の通り、今も政教分離の原則は守られていると言い放ち、それが認められている。
 日本国家を内側から貪ろうと言うカルト宗教が、守られて存在しているのだ。
 まさにその日本国に。
 
 折伏会は、極々順当に終りを告げた。
 何らかのトラブルが有って、開演が僅かに早まったものの、プログラムには変更は無く、ほぼ時間通りに凡ての演目は終わりを告げた。
 数人の演説と、アイドルのミニステージ、新春のくじ引きコーナー、名誉会長の論文の朗読、そしてトリに大畑 仁の演説。全員起立の上で総会歌が斉唱され、今日一日の労を労って終る。2時間十五分の長丁場は、盛り沢山で飽きさせない構成だと素直に長沢は感心した。幸いにして、会の途中から加わった人物も無く、最初に撮影をしておいた長沢は、記憶力を気にする事もなく折伏会を満喫出来たおかげもある。
 そうだ。政治に興味の無い若者に取って、非常にエンターティメント性に溢れた、楽しい会で有った事だろう。
 だが、長沢にとっては恐ろしいと言う以外の印象はなかった。
 「さて、と。どうする、マスター?」
 酒井医師の呼びかけに、向けられた顔は白かった。
 「暫く、居て良いですか。どうせなら客も少し見て置きたいんです。それから出ても充分でしょう」
 医師は頷く。大丈夫かと問う代わりに気遣わしげな視線を向ける。長沢は苦笑して頷いた。
 殉徒総会がカルトと言う事は良く分かっている。カルトは得てして自滅の道を選ぶ。ブランチ・デビディアンしかり、人民寺院しかり、ヘブンズ・ゲートしかり。だがこれはそうした物とは違う。
 もっと大きい。宗教を礎にした政治なのだ。彼らが目指すのは偏った宗教によって立つ、特定の代表者の思想によってなる政治。独善的で破滅的な政なのだ。
 これは、狂気だ。
 ここにお出での皆様。トリに構えた大畑 仁は最初にそう呼びかけた。政治家と言うよりは商売人の顔だったが、それ自体に不思議な箇所は無い。だが、続く文言に長沢はぞっとしたのだ。
 
 公正党の大畑と申します。皆様にお目にかかれて光栄で御座います。
 両親の代から、ずっと殉徒総会に信心しております。
 皆様におかれましては、この年明けは如何でしたか。不景気と言われ出して大分立ちますが、ストレスの多い現代、人心が荒んでおります。この日本でも、巷間、排他排外主義などと言う物が騒がれております。
 自らの利益を求める余り、他国、他民族を排斥すると言う浅ましい価値観の事であります。ここにお出での皆様は、ご存知でしょうか。
 私達の信ずる世界に国境はありません。勿論、様々な不幸な過去は有りましたが、人種の壁と言う物は有りません。だってそうでしょう。国境など、地面に線が書かれている訳でも無いのですから。
 私達は、手を取り合って互いに隣の者を気遣い、互いに高め合って行くのです。貴方の隣に居る人に国籍は必要ですか?功徳を積む時に国籍は必要ですか?
 殉徒総会はどなたでも受け入れます。そこに国籍、人種、女性、男性、年齢、凡ての区別は無いのです。
 
 耳当たりが良いだけの、実の無い言葉だ。容易い連想が出来る。
 国籍法改正、外国人参政権、公務員及び政治家の国籍条項の削除。
 カルトの夢が匂う。カルトに取っての素晴らしい夢は、一般の日本人にとっては忌まわしき悪夢だ。
 きちんと聞く耳を持っていれば聞こえる本音は、恐らくはこの集会に訪れる者の多くの耳には届かない。彼らは人種も年齢も性別も関係なく、皆で集金マシーンや宣教マシーンになれと言っているに過ぎぬのだがそれは聞こえない。
 折伏会は終った。
 長沢は大きく溜息をついた。折伏会は終った。心情的にはこのまま帰りたい部分もある。だが、それでは目的は果せない。
 折伏会は終った。だが、これで終わりではない。長沢達二人にとっては、むしろこれからが始まりだ。
 シンポジウム受付の長机は、そのまま殉徒総会入会受付の窓口に変る。
 案内嬢とその他のスタッフが長机に一人づつ座り、20数人程のスペースを作って捌いて行く。戸口から出て行こうとする人をスタッフ三人程がグループを作って取り囲み、かき口説いて署名させる。それが今日の肝なのだ。
 長沢と酒井は、ゆったりと座席に残った。
 キャパは500人程だが、恐らく観客の1/3以上は殉徒総会員であろう。百数十人がスタッフで、300数十人が今日のターゲット。本日捕まえられるのは数十人と踏んでの人数分配なのだろう。
 これだけ大規模な会を開いて、その収穫を大きいと見るか小さいと見るかは意見が分かれる所だが、恐らくこれらの集会には会員の参加自体にも大きな意味があるのだろう。総会員が集って、折伏と言う目的の為に協力する。互いに励ましあい、協力し合い、監視しあう。その行動こそがこうした会の目的の一つになっている事も確かだ。
 300数十が客の総数であるなら、150人以上が捌けた辺りで戸口に出て行けば丁度真ん中である。最初でも終わりでもなく、一番イメージに残らないゾーンを狙って出て行くのが一番望ましい。それまでは長沢の、出て行く客を観察したいと言う言葉に従い、残る事にした。
 秋本は、全部覚えて来いと言ったのだ。
 その後直ぐに、客はまぁ良いと付け加えたが、それは人間の限界を超えていると彼が判断したからだ。その点は長沢も同意する。
 だが、客の中でも、挙動が怪しい人物、何かが引っかかる人物、有名な人物くらいは上手くすれば憶えられるかも知れぬ。そう思って戸口を見守る。
 視界は至極クリアだった。予想外に幾人もの見覚えある顔が有った。学校関係者が10人、同業者が一人。公正党の新人議員が数人。そばのスポーツ用品店のアルバイター。事務用品店の受付。存外いるものだ。
 このシンポジウムのコア年齢層は20代後半〜40代だが、恐らくは申込書に名前を書く層はもう少し若かろう。今日のプログラムを見る限り、殉徒総会が今欲しているのは若い層だ。これから恋愛し、結婚し、子を為す世代の人々なのだ。その為に受付の女性達に襟ぐりの開いたスーツを着せ、スタッフに若い男性を用意した。若い男女を侍らせて若い世代を誘うなら、風俗と同じではないか。何が変ると言うのだろう。
 人員の2/3も捌けた頃、やっと長沢が立ち上がった。
 「お待たせいたしました先生。さて、そろそろ行きますか」
 笑顔の長沢が振り向く。黒縁眼鏡のない長沢は別人のように見えるが、笑顔だけは一緒で少しばかりほっとする。
 近眼用の眼鏡は、本当に目許を縮小するのだ。長沢が重度の近眼だと言うのは知っていたが、実際に見ると感慨はひとしおだ。ど近眼の眼鏡の有る無しは、充分変装のレベルである。
 覚えられた?と問うと、大体の傾向は、と答えられた。客の顔に対して"傾向"と言い切る長沢の真意は医師には分かりかねたが、突っ込まぬ事にした。この男の理論展開は独特過ぎて、時折医師にはついていけない。全く出鱈目だとしか思えぬ時があるのだ。しかし。
 その突飛極まりない理論展開が、往々にして合っているから性質が悪い。
 なので、その匂いを感じた時は酒井は、敬意を持って遠慮する事にしている。
 案内嬢に導かれて、二人バラバラに入会説明席に着き、三人がかりで説得される間も無く、有体に聞き流して、はいはいと自らの名を書く。
 二人が一番気がかりだったのは、二人の受け持ちになる案内嬢が、酒井 美也になるのではないかと言う事だけだった。彼女が担当になれば、どんなに化けても見抜かれる。見抜かれれば、恐らくは騒がれて、凡ての計画は無に帰してしまう。
 だが。幸か不幸か。内廊下に出て見渡しても、そこに美也の姿は無かった。納得行かぬ気持ちは残ったものの、取り敢えず署名を済ませる。スムーズに事は運び、担当の案内嬢は満面の笑顔で言ったものだ。
 「有り難うございます。それでは引き続き説明がありますので、今日、もう少しだけお時間よろしいですか?もし駄目な場合は後日でもよろしいのですが……――。そうですか!では、もうちょっとだけお時間下さい。場所を移動しますので、扉を出て右手のバスにお乗り下さいませ」
 席を立って、互いに視線を送る。なるほど、(株)バッカー社長、秋本の言う事は正しかったと、改めて感心する。
 大折伏会で入会の意思の無い一般人を篩い落とし、可能性のある少数のみを本拠地に誘い込んで追い落とす。確実で無駄が無いやり方と言えば、そうかもしれない。だが、これだけ手間をかけても新人が欲しいと言う殉徒総会の現状は何なのか。政界で総会票を武器として使う為だとしたら、それは最早宗教ではなく、ただの偏ったイデオロギーを持つ政治団体に過ぎない。何が変るというのか。
 言われるままに戸口を出、言われた通りのバスに乗る。
 バスは極普通のはとバス様の作りで、既に半分強の席が埋った状態だ。長沢と酒井は、今度は後部の座席に素直に並んで座る事にした。ここまで来れば、最終目的地に行ける事に間違いはあるまい。
 向かう先は殉徒総会港区支部、ステラミラー・ビル。秋本は言った。
 折伏会の全スタッフはそこへ向かうのさ。そこでもっと熾烈な信者ゲットの追い落としを行なう為にな。今までは3人で囲んだ者を、次は5人で、或いは十人で囲む為にな。そこが最終地点で、目的地だ。
 着いてしまえば、後は囲まれる迄は比較的自由だ。好きに嗅ぎ回って美也を見つけ出せば良い。え?探し出せるだろうか?それは運否天賦。それを呼び寄せられるかどうかは、凡てあんたらの運次第さ。
 
 
 冬馬が控え室にいたのは、僅か十分足らずの事だった。
 責任者に宥められて連れ込まれ、昨夜の電話の通達が上手く言っていなかった事を詫びられ、気の毒な酒井 美也を脇に着かせられる。彼女にすれば、理由も分からぬままクレイマーの横に座らされたのであるから、さぞや居心地が悪かろうが、この際それを構う気は冬馬には無かった。
 長い脚をこれ見よがしに組んでテーブルの上に乗せ、責任者を睥睨する。スタッフの一人が紙コップの珈琲を持って来た。
 「え、岐萄様の苦情に関しましては、ですね。え、上部の者達が調べておりまして、もう少しお待ち頂ければ、え、必ずこちらからご満足の行く解決を…」
 「待てない」
 「…は?」
 脚を引いて、向かいに座る男の顔を覗き込む。
 「待てないと申し上げたんですよ。こちらから参じましたのは、今日、こちらの望む答を頂いて帰りたいからですよ。お分かりでしょう?」
 おうおう、と凄まれると覚悟していた男は、予想外にきちんとしたクレーマーの言葉遣いに逆にたじろぐ。曖昧に笑うと、目の前の男はあからさまに憤慨の色を強める。彼の手がテーブルの盤面をばんと叩いた。
 「恍けられても困る。既にそちらは金を手に入れてる。一週間逃げ通して、例えばクーリングオフ無効と胸を張られる訳には行かないんですよ、こちらは!――今日。
 今日、きちんとした話を伺わない限り帰りません。分かって頂けないなら、公にしてきちんとした手続きを踏むしかありませんね」
 間近に迫った青年が、口の聞き方も分からないような低脳で、不細工な男だったら良かったのに、と責任者の男は思う。
 先程までは鷹揚な口を聞いていた癖に、暴力に訴えようとしていた癖に。青年は思ったより慣れている。こうしたシーンで、きちんとした言葉を操る、下手に整った顔の人間と言うのは異様な圧迫感がある。何かとてつもない裏があるのではないかと勘ぐってしまう。精神的に追い詰められる。男はズボンのポケットから出したハンカチで額を拭った。
 「そ、それはちょっと……」
 「実害が出ているんですよ。"今日は無理"と言う言い逃れは通りません。この脚で警察に行きます」
 横で美也が身を固める。縋るような瞳で見上げているので、そちらに目線をやると脅えて下を向く。脅えたような表情と豊かな胸の組み合わせは、冬馬は嫌いではない。
 「いや、いやいやいや。そう結果を焦らずに。双方に誤解が有ると言う事は良く承知しておりますので、ここは穏便に」
 「ならば、その"上部の"方と話をさせて頂きたい。今日」
 責任者が、携帯片手に立ち上がる。頭を下げたまま席から遠ざかる。
 「では、ちょっと、お待ち下さい。今、もう一度電話で聞いて見ますので、ちょっと、そこでお待ちを」
 ドアノブに手をかける男に、どうぞここでお掛け下さいと声を掛けると、男は腰を折ったまま扉から出て行った。
 溜息をつく。海老のような真似をする男だ。
 そっと深呼吸する美也に視線を向ける。彼女はじっと責任者の去った戸口を見つめていた。
 「巻き込んで悪かったな」
 冬馬の言葉に、彼女はびくっと目を向ける。反射的に首を振る仕種は、いつものおどおどした酒井 美也のものだ。だが今日の出で立ちは、いつもとはまるで別物だ。彼女自身の趣味で選んだなら、到底この格好はせぬだろう。
 「あ、いえ、私が先生に飛びついたから」
 「……そうだな。――驚いた」
 冬馬の目がはっきりと顔と胸許を移動するのに気付いて身を竦める。胸の上に掌を置くのは、わざとらしくないだろうか。
 美也は必死に話題を探した。が、ピリピリしたこの雰囲気の中で、話題はひとつしか見つからない。それ以外は何を言っても怒りを買う気がした。
 「やっぱりそのー……。先生がいらした理由は、お姉さんの事ですか?」
 「うん」
 返事一つで会話が終ってしまう。予想通りでは有ったのだが、改めて彼女はたじろぐ。
 青年が饒舌な方では無いのはとうの昔に気付いている。黙って居るには息苦しくて、そっと青年を見上げた。
 青年は扉の方を見ていた。整った横顔は無表情で冷たい。いつぞや青年は、自分の顔を好きじゃないと言っていた。整っているだけでつまらない顔だと。小さく溜息をつく。何と言う贅沢な言い草だろう。美也の目には充分、美しくて魅力的に見えるのに。
 通った鼻筋に、薄い唇、長めの前髪に半ば隠される切れ長の目許。いずれも美也が憧れる対象だ。それだけではない。すらりとした長身も長い脚も、ズバズバと物を言う強靭さも。皆憧れる。自らに持ち合わせの無い物に、人は憧れる物だ。憎からず思っている異性の物なら尚の事。
 垣間見た青年の怒りは恐ろしかった。キレの良い大きな身体に、スタッフの誰も着いて行く事が出来なかった。止めるなど、更に無理だった。自分など、一番最初に軽くあしらわれてしまった。かといって。
 粗暴なだけかと思えば、それは違う。口を開けば殉徒総会青年部幹部を前に一歩も引かず、自らの主張を叩きつけて怯まない。
 違うなぁ、と思う。何だってこんなに違うのだろう。大して年齢も変らない、同じ人間の筈なのに。
 「俺の顔に、何かついてる?」
 どきりとする。扉の方を睨んだままの青年に、こちらの視線を見咎められた事に慌てて俯く。
 「あ、い、いいえ。ただその……先生は凄い人だなぁと思って。あ、い、嫌味じゃ有りません」
 大きな溜息と共に、大きな身体が椅子の背に沈む。隣に座っている美也は、大きく沈んだ筈の青年の脚に目を運ぶ。背は30cm以上違うと言うのに、座ると視線の高さに余り差が無い。放り出された脚の長さが嫌味にも思えた。
 「別に俺は凄くない。ただ、親戚にお偉い政治家さんがいるんで、殉徒総会が俺に強く出られないだけの事だ。俺も姉貴も無力だ。利用する気満々の奴に言いようにされるのが腹が立つだけだ」
 美也は頷いた。青年を気にし始めてから、珍しい苗字の事も調べてみた。
 自明党のフィクサー。裏の党首、岐萄友充。恐らく青年の言う親戚とは、その人の事に違いない。しかし、利用する気云々と言うのはどうなのだろう。
 「先生のお姉さんはご自分で総会に入られたんじゃないですか?」
 ゆっくりと、青年の瞳が動く。動いて真っ直ぐに見つめられる。この人の瞳は、何だって茶色では無いんだろう。
 「何…?」
 「その、お姉さんがご自分で署名なさったんじゃないですか?総会は嘘の署名なんかは使いませんし、そうなると、お姉さんの意思じゃないかと思ったので…」
 椅子の背に身を放り投げていた筈の青年の瞳が、直ぐ目の前にあった。整った顔が、真正面からじっとこちらを見つめている。心臓がどくんと唸った。
 何て、凹凸のはっきりした顔なんだろうと、間近に見て思う。彫りの深さは、きっと純粋に日本人の物では無いに違いない。無遠慮に見つめてくる瞳を正視出来なくて目線を外す。と、それを許さぬ大きな手が頤を掴んだ。
 熱い手と強引な動作に、心臓が跳ね上がる。
 ふうん。青年が耳許で言う。低くてハスキーな声に耳が熱くなった。鼓膜に響くこの声は、好きかも知れない。
 「嘘の署名は使わない?…自分で署名したんだから、自分の意思だ……って?」
 「…そ、う思います。違いますか?」
 「姉は俺と違って、周りに遠慮する。合わせる。そんな人間を、十人の男女が囲んで、1時間。署名しろと言い募った。署名しろ。金が有るなら正会員が良い。正会員にはこの鈴を買うだけで、どなたでもなれるんですよ。
 これをどう判断する。一人の人間を十人で取り囲んで一時間。それで出来上がった署名だぜ」
 「例えそうだとしても、お名前を書いたのはお姉さんで…」
 「十人に見つめられて促された自分の意思って何だ? 俺だったらそれも通るよ。でも君なら?俺がこうして書けと言ったら書くんじゃないか?"俺の意思"に遠慮して、合わせて」
 ハスキーな声が耳許で囁く。掠れた音声が耳に引っかかる。頤を掴む手が熱い。こうして書けと言われたら……?
 「……そ、そんな事は…」
 「俺に遠慮して、俺を気遣うと言う"自分の意思"で書くんじゃないか?それも自分の意思だよな? でもそこには自由意志なんて有りゃしないぜ。違わないだろ。それが君の意思か?本当に?…嘘だろう…――」
 青年の質問は奇妙だ。質問の形をとりながら、こちらの意思は問うていない。静かな癖に絶対的な灰色の瞳が、まるで無機質にこちらを見つめている。美也はただ、自分の物とは違うそれに見蕩れていた。
 「同意を求められて、署名を求められたから応じた。それだけだ。応じただけ。言うなりだ。――思い出すがいい。君も始めそうだった」
 美也の目が冬馬を睨みつける。怒りではなかった。もっと素直な、驚きの反射だった。
 青年の薄い唇がくすりと笑う。皮肉な笑いではなく、存外に素直な笑顔だった。
 「………やはりな。それが殉徒総会のやり方だよ、美也」
 払う。青年の手を自らの頤から払い除ける。払ったつもりだったが、青年はピクリとも動かなかった。青年の手も、無表情なその瞳も。逆に軽く押さえ込まれて引き寄せられる。
 「そんなの……!」
 「美也」
 呼ばれて見つめる。目線はほぼ同じ高さだ。立つと30cmも違うのに。頤に有った手は、今は頬を這っていた。大きくて、熱くて硬い。整った顔立ちは、至近距離で見てもやはり美しくて魅力的だと思うのだ。
 唐突に唇を塞がれた。
 距離は接近していたから、それ程の移動は無かったが、心臓は跳ね上がった。
 熱い体温を、唇に感じる。鼻先に、頬に。青年の体温と匂いを感じる。動けなかった。
 目を閉じる余裕も無かった。ゆっくりと閉じられる大きな瞳を凝視していた。薄い唇が美也の厚めの唇を啄ばむ。軽く挟んでは引き、また合わされる。大きな掌で頬を辿られて、緩む唇の合せに、器用な舌が入り込む。一瞬、唇の隙間から青年の息が入り込んだ。
 同じ空気を共有していると強く感じて、思わずその肩口に手を添えた。
 青年の右手が、ゆっくりと美也を引き寄せた。肩から背を回りしっかりと身体に合される。指先がじりじりとベストスーツの布地を這い、確かな肉に食い込む。
 抱えるように包み込んだ右掌が、胸のふくらみに指を沈ませたのも、確かな重みを楽しんでいるのも分かったが、拒む気になれなかった。青年の手の感触が伝えるのはときめきだったし、口腔内を這う舌は熱く、柔らかくて気持ちが良かった。何より。
 こんなシーンを、空想しない訳ではなかったから。
 息が混じる。いい匂いだと感じた。熱さが、感触が、良いと思った。
 唇が離れる。親指が美也の唇を辿り、抜かれた舌が、その唇についた唾液を舐め取る。ゆっくりと離れていく上半身を、無意識に唇で追ってしまう。
 青年はそれに気付いたのか、美也の腰に腕を回した。
 「失礼致しました。たった今、連絡が取れました。シンポジウムの後でならじっくりお話出来ますので、その時間では如何かと言う事ですが、細かい時間や場所は……」
 扉が開いて、責任者がまろび入って来る。ほぼ同時に冬馬は椅子から立ち上がった。
 「それで構いませんよ。今日中にきちんと話を付けさせて頂ければ良い。細かい場所と時間を一時間以内に決めて下さい。こちらから、お電話します。その時決まっていない場合は、交渉相手は警察だ」
 美也の手を引いて踏み出すと、男が慌てて身を避けた。
 「携帯番号等は存じ上げておりますので、こちらから……」
 どちらでも構わない。言いながら、控え室を大股に歩み出る。
 誰も止めるものはいなかった。
 ゴールまでの道に、障害物は見当たらない。
 

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