□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 家に辿り着いたのは22:30過ぎだった。
 (株)バッカーの巨漢のスキンヘッドが、車でSOMETHING CAFEまで長沢を送り届け、イオン飲料水や弁当の類を差し入れて帰って行った。
 有り難うございっした!と、腰から身体を折って頭を下げるやり方は、体育会系らしい(株)バッカーには非常に似合いだ。何と無しに遠ざかるヴァンを見送る。取り敢えずは、長い一日が終わったのだ。
 重い身体を二階まで引き摺り上げて、エアコンのスイッチを入れ、何とか押入れの布団を出すと一緒に倒れこむ。
 取り敢えず一揃い出したは良いが、そこで完全に気力が萎える。この間に潜り込めば快適なのにと思いながら、そのまま寝転がる。猛烈な眠気が襲って来た。痛み止めを飲んだから、多分あれなんだろうなあ、とぼんやりと思う間に闇の中に吸い込まれた。
 厚ぼったい掌が肩口を掴んだ気がした。その次には、熱くて濡れた物が鼻先に当てられた。それが顎から首を通って頭の後ろに辿り着く。ごしごしと擦られる。強い力で上着をぐいと後ろに引かれて、初めて気がついた。
 目を開ける。視界がぼやけていると言う事は、眼鏡をかけていないのだ。手で周囲を探ると、眼鏡の方から手の上にやって来た。
 「大丈夫かKちゃん」
 耳に優しい声が小声で言う。声がくぐもっているのは長沢の身体の上に屈み込んでいるからだ。熱いタオルで顔や顎や首、頭の後ろを拭っていると言う事は、恐らく血の跡を拭ってくれたのだと気付く。
 「大丈夫……な、訳ないだろ」
 くす、と息が笑う。だよな、と呟きながら腕に力をこめる。
 「上着脱いで。寝るにしてもせめて布団に入りなさいよ。敷くだけじゃなく」
 言われて初めて、自分の状況に思い至った。布団を敷き掛けた所で記憶が途切れている。のたのたと身を起こし、上着とシャツを脱いで溜息をつく。長年親しんだハーフコートだったのに。黒々とした血の染みは落ちるのだろうか。クリーニング屋に明日聞いてみよう。
 「いつ来たんだよ」
 「ん〜〜〜〜〜、ついさっき」
 時計を見ると22:50分だった。長沢自身が帰って来てから余り時間が経っていない。では、眠ってしまった直ぐ後に楢岡は来たのだろうか。
 半分眠った頭のまま、台所でタオルを洗いなおして持ってくる恋人の姿を見上げる。酷くほっとした。帰って来たのだと改めて思った。
 「俺もさっき帰って来たばかりだ。いいタイミングだな…」
 ああ。良く響く声が笑い含みに呟いて笑顔を向ける。
 「知ってるよ。赤坂署から、今帰ったって聞いたから来たのよ、俺」
 驚いている長沢の顔や手足を仕上げのように拭いて、タオルを洗濯籠に入れる。掛け布団を広げて自らが脇に座る。長沢の"何故"に笑顔が答えた。
 「まぁ、以前にも話した通り、俺、反公正のスピーカー係。Kちゃん達は早めに講堂入っちゃったから分からなかっただろうけど、大学からちょっと外れた所で抗議集会やっててね。俺はそっちに居たのよ。中まで声、聞こえなかった?
 …ふ〜ん、ああ、そ?割と防音しっかりしてんだねぇ。あそこ。
 総会のイベントはいつも何やかやと騒動が起こるんだけどさ。今回は大畑 仁も居たろ?現役の代議士がシンポジウムで演説するのは割と珍しいし、大畑 仁となりゃ、そりゃ反公正が放っておく訳無いでしょ。んで、当然大騒ぎですよ。売国奴出て来〜〜〜いの大シュプレヒコール上げるのは良いんだけどさ。議員のネクタイ掴んだ奴が一人いて、速攻逮捕になりマシタ。
 連中はシンポジウム後は総本山の方に抗議に行ったから、俺達もそっちに行った。だからステラミラー・ビルの方は残念ながら知らない。今ざっと聞いて来たんだよ。
 なんでも、バッカーがビル前で総会員と揉め事起こして、巻き込まれた一般客が一人、怪我したって。告訴するって言ってるんだよねぇ、参ったわ、ってさ。物凄い困り顔で赤坂署のお巡りさんが言ってたぜ。総本山もステラミラーも警備に当たったのは同じ赤坂署だから、そこらは聞き出しやすかったんだけどね」
 アンダーシャツとトランクスだけになった長沢は、楢岡に布団を掛けられるままに、その中にもぞもぞと潜り込む。楢岡の話を聞きながら、答える言葉が無かった。
 「そうそう。美也ちゃんの奪還に成功したって?しかもたった一回の潜入で。凄いじゃないかよKちゃん。まずそんなふうに上手く行かないよ。いや本当に。向うだって必死なんだからさ、まず無理だよ。よっぽど運命の女神がエコ贔屓したんだな。でなきゃ有り得ないよ。……代わりにとばっちり食った人がここに居るみたいだけどさ。
 ……。ま、何にしても目的は達成できた訳だし、もう潜り込む必要は無い訳だし、これくらいで済んで良かったよ」
 優しい目に見守られているのだと不意に実感する。諭すように紡がれる言葉に一々納得してしまう。暖かい左手が、傷ついていない左頬と顎を辿る。その熱が、ぼんやりと霞んでいた様々な感情を揺り起こした――気がした。
 シンポジウム。大畑 仁。様々な不幸な過去は有りましたが、人種の壁と言う物は無いんです。上、まだ残ってんのか!直ぐにVIPがつく。失礼無いように迎えろ。
 殉徒総会。冬馬。酒井 美也。里中 汰作。岐萄 友充。榊 継久。―― 冬馬。風景の一点。灰色の瞳。平凡な男。その顔。顔。顔、顔。――ああ。あんたを知っている。誰だこいつ!誰が入れた!
 暖かい掌をつかむ。感情が、揺らいだ。
 「……Kちゃん……?」
 俺は。
 「くやしい」
 「は?」
 「俺は。
 本当に無力だと、今日思った。俺はまったく、何も出来ない。何も、する力を持ち合わせて無い。憶えてないんだ。掴まれた所までしか。――ただ。理不尽だ。こんなのって、理不尽だ。そうだろう?
 俺は折伏会に参加した一般人だよ。少なくとも括りはそうだ。ちゃんと説明会も聞いて、署名もして、正当な手続きを踏んでビルに入った。多少は動き回ったよ。でもそれだけだ。誰かを傷つけたり、危害を加えたり、そんな事一切して無い。それを。宗教団体の癖に。宗教法人として税を免除してもらって、公共の福祉に足る組織を名乗っておきながら。宗教団体と言う皮被った反日カルトが、いきなり俺を頭から放り出した。頭からだぞ。死んでてもおかしくなかったんだ。
 あいつらの得意技で、よく総会に入らない人間に"頭が七つに割れて死ぬぞ"と脅す手が有る。破戒で、だと思ってたよ。でも違うと今日分った。実感したよ。あいつら実力行使だ。実力行使なら誰にだって可能に決まってるだろ!頭を割るくらい、集団ヒステリーにゃ簡単だろうさ!何で。
 何であんなの、警察は存在させて置くんだよ!やり口はヤクザと代わらない。暴力団、及びそれに順ずる団体、だろ!何で警察はあんな奴ら庇う?何で奴らに味方する?
 オウムに破壊活動防止法が適用されなかったのは、既存の政党でたった一つの党が反対したからだろ。宗教を母体とした政党がさ、自分らに危害が及ぶと思ったから反対したんだ。奴らが反対したから、オウムに破防法は適用されなかったんだ。これ、どう言う事だ?
 つまり、だ。宗教団体ってのは、破防法が適用されると言う自覚がある団体だって事だよな。何て恐ろしい事だ。本当に破防法が適用されるべきは連中だよ。危険なのはあの宗教と、その宗教によってなる政党だ。そうだろうよ。だと言うのにさ!
 警察は連中の言いなりだ。俺が告訴するって言ったら、連中なんて言ったと思う?
 理由が滅茶苦茶だよ、長沢さん。
 はぁ?俺の理屈のどこが?俺の理屈のどこが破綻してる?一点でもおかしい所あるか?俺は連中に頭から放り出されて怪我をした。掴まれたのは憶えてる。後は分からない。確かに分かってないよ。でもこんなの理由も原因も結果も明白だろ。連中が放り投げたから、俺が頭から落ちたんだ。落ちた時に頭を打ったから、俺の記憶が飛んでるんだ。どこに無理が有る。それを。理屈が滅茶苦茶?滅茶苦茶なのは警察の言い分だ。警察が滅茶苦茶なんだ。
 連中の正義と悪は単純だ。殉徒総会を信ずるものは善で、それ以外は悪なんだ。俺が殉徒総会の邪魔をしたから悪で、悪だと連中は頭から放り出すんだ。悪は死んだって構わないんだ。もっとはっきり言えば。悪は消すべき物なんだろ?
 キチガイ沙汰だ。狂ってるよ!これが大乗仏教の徒のやる事か!? なぁにが日蓮さんだよ、何が折伏だよ!! 聞いて呆れるね!こんな集団、何で放っとく!? 何だって俺は……。俺は。だから俺は。俺……俺」
 長沢の言葉の間、楢岡はずっと驚いたようにその顔を見つめている。黒縁眼鏡の中の瞳が下を睨んだまま、いつもは淀みない饒舌な口が、時折息を呑みながら呪詛の言葉を連ねるのを、黙って聞いていた。
 怒るのは分かる。暴力を振るわれたのは事実だし、傷ついたのも事実だ。だから怒りは当然だ。だが、その怒りにまで、色々理屈が有って、前例やら証明やら出て来るのが長沢らしい。楢岡の左手を力任せに掴んで居る事を、恐らくこの男は気付いていない。強張った右手が痛い程力をこめるのを、もう片手でそっとさすってやる。感情を吐き出すのが下手な長沢が、それでも漏らす激情が、楢岡は嬉しかった。
 言葉に詰まった長沢が、逡巡してから不意に顔を上げ、楢岡をにらみつけた。
 「……悔しい!!」
 そのまま言葉が切れる。次の言葉は続かなかった。
 大きな目にはうっすらと涙が溜まっている。髭に隠れた口許も、精一杯食いしばっているのが分かる。表情から見るに、本当に悔しいのだ。それは分かる。良く分かる。だが。
 「……えっと、すみません。長沢さん、それで終わりですか。普通はその、誰それを殺すとか、ぶん殴るとかそう言うのが有って」
 「警察官にそんな事言える訳無いだろ!」
 ああ、と納得する。やはりそのストッパーが有ったのかと思う。怒っていても理屈を組み立てる脳は、いくら悔しくても理性を捨てられない。本音を吐露する間に、どんどん悔しさは膨れ上がった筈なのに、それでも計算が先に立つ。呆れるやら、感心するやら、暫し楢岡は二の句が告げなかった。
 涙ぐむくらい悔しいなら、理性を忘れて叫んだ方が、余程スッキリすると思うのに。
 「……あ〜〜〜〜〜〜〜〜……。すみません。もう。可愛くてどうしたら良いのか俺」
 俺は!と言いかける身体を抱き締める。布団の中にもぐりこんで、背と腰を抱き締める。本気で怒ってるんだと言う口を封じ込める。良く、分かっている。良ぉく、分かっているのだ。
 楢岡は、門脇短期大学に出入りする長沢の姿を、警視庁公安部総務課の警察官として見ていた。
 眼鏡を外して、すまし顔で歩く姿を遠くからしっかりチェックした。この段階では当然一般人だから、特別にチェックした訳ではないが、知人の顔を見逃す程、彼は不注意には出来ていない。
 入って行った時の長沢は、いつも通りのSOMETHING CAFEのマスターだった。隣の酒井医師を気遣い、周りに気を配る、いつもの長沢 啓輔だったのだ。だが、出てきた時の彼は。
 移動用のバスに乗り込む長沢は、いつもと少し違っていた。静かで鋭くて、取り付く島が無くて、充実していた。活き活きしていた。ああ、と楢岡は思ったのだ。
 喫茶店のマスターなんて、あんた本当はガラじゃないんだろ。もっとギリギリの世界に、あんた本当は戻りたくてしょうがないんだろ。そしてきっと戻って行くんだ。ただ。
 あんたはまだ、気付いてないんだ。自分のそんな、変化に。
 「どうせ告訴は無理だって言うんだろ。赤坂署で散々言われて帰って来たんだ。でもするぞ。止めたってする。止める権限なんか警察に無いんだからな」
 「止めないよ。すると良い。あんたなら面白い結果を出せるかも知れない。俺の方が良く分かってるよ、あんたの事は」
 「……なんだよそれ」
 笑って口付ける。抱き寄せる。涙の浮いた目許を舐め取ってやる。怒りに満ちた身体をさする。口では悪態を突きながら、素直に腕を絡めてくる恋人の身体を抱き止める。傷に触らぬように腕を這わせる。
 口から零れる物が、呪詛の言葉ではなく、静かな寝息に変わるまで、楢岡はずっとそのまま共に横たわっていた。
 

 戸口のベルが鳴る。
 はっとして厨房からいらっしゃいと声をかける。習慣と言うのは有り難い物だ。多少ぼうっとしていても、手先はきちんと注文された物を作っている。
 今日のモーニングセットA。今やすっかり手馴れたスパムサンド。A三つ出来たよ、と声をかけると、看板娘が抱えて去っていく。今日のラッシュもほぼ終わりだ。長沢は厨房で一人ごちた。
 昨夜は殉徒総会だけで無く、警察にも兎に角腹が立って、尋ねて来てくれた楢岡に色々と愚痴を零した。恐らくは絡みもした。その挙句、さっさと一人で眠ってしまったようで、定時にすっきりと目を醒ましてから酷く後悔した。
 恐らくは、昨夜は様子を見に来てくれただけで、直ぐに帰ったのだろう。部屋の中に楢岡の痕跡は見当たらなかった。赤坂署に聞いてやって来たと言っていたが、その通りだったのだろう。
 悪い事をしたと思った。楢岡に落ち度は無い。警察官だからと言う理由で愚痴を言われたのでは、これからずっと楢岡は気の毒だ。気をつけよう。そして少しお詫びに何かサービスしてやろう。何が良いだろうか。本人に直接問えば、どうせ答は夜にしか結びつかぬ。それは沽券に関わるので、聞かずに考えるとしよう。
 ラッシュの収まった店の中に、かすかな器の音が響く。長沢は厨房から店内を覗いて、人知れず小さな溜息を一つ吐いた。この店との付き合いも、随分長くなった。
 思えば、SOMETHING CAFEの存在は、いつも長沢を助けて来てくれたのだ。
 かつてこの店とここの店主に、文字通り命を救って貰った。骨身に沁みたゲンコ一つ。そのおかげで生き延びた。
 今現在、長沢が生きて、こうして息をしているのは、紛れも無くこの店と先代の店主のおかげだ。ここが無ければ十数年前のあの時、確実に長沢は何らかの犯罪者として死んでいた筈なのだ。
 それが、曲がりなりにもこうして、まともな人間として社会生活を送っていられる。これは凡てこの店と、この店に連なる人々のおかげだ。
 あれから十数年。店主がここを去ってからも、この店はずっと長沢を生かしてくれた。生活の糧を与え、業務を与え、生きる意味と人生の傘と、安らぎと癒しを、与え続けて来てくれた。
 だから、自分も、この店を精一杯守って来たし、これからも守って行こうと思って居る。ただそれは。
 自分で無くても良い事だ。この店が守られるなら、それで良い。自分よりもっと相応しい誰かが、ここを継いでくれるならその方が良いのだ。
 長沢は自分のホームグラウンドの壁や家具に手を当てた。年を経たマホガニー。厨房の壁だけは、油が飛ぶ為にレンガになっているが、そこに置いてある棚の類は、店内と合わせた飴色のマホガニーだ。ここに来た時から有った物を、直し直し使っている。
 客用の椅子は、傷みの来た物はいくつか変えたし、家屋の修繕は行なっている。だが、それ以外の改装はほぼ無いし、店の造りは古いままだ。
 店主が老いて行くように、お前も老いて居る筈なのに、いつまでもつやつやと若いなぁ。心中で語りかける。
 俺は、余り良い店主では無いかもしれない。お前に助けられ、お前に守られ、お前に生かされて来たのに、お前を利用しようとしている。ずっとここに在り続ける店の利点を、最大限に使おうとしている。
 俺は勝手に、お前を人生の相棒だと思っているが、お前は俺をどう思っているのかな。許してくれるのかな。
 ―― 悪いがもう少し、付き合ってくれな。
 店は黙って佇んでいた。
 

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