□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 衆議院解散総選挙。
 大方の予想通り、月曜日に凡ての方針が決まった。解散予告と言う名の実質解散となり、その日の内に閣議書が整った。
 予告、の形であるから、内閣総務官を通じて天皇陛下の御璽(ぎょじ)の押捺を授かるのは先になるが、いずれにしろ衆議院の解散は天皇陛下の国事行為であるので、御璽の押捺を頂かねば進まない。
 同日に衆議院は実質閉会と相成った。
 週明け早々のバタバタとした決着は、本来ならタイムラグが有って然るべき物である。即日に滞り無く終了したと言う事は、これら凡てがデキレースであると言う証左に他ならない。国会の終了は既に決まっていたし、選挙公示日と投票日の発表も、形だけ引き伸ばしたに過ぎない。
 次の内閣も、実の所ほぼ決まったようなものだ。
 だからこそ。
 既に決まった未来を壊さねばならぬ。
 日本を他国に叩きうる売国政権を壊さねばならぬ。潰さねばならぬ。―― 消さねばならぬ。
 そのために存在するのだ。
 彼らが。
 幽霊でも。草でも。スパイでも。ゲリラでも。テロリストでも。呼び名は何でも一向に構わない。彼らが存在するのだ。
 

 月曜日、18:20分。"岐萄 夕麻"、帰宅。
 室内着に着替え、買って来た食材をキッチンに広げ、夕食の準備に取り掛かる。男性衣料品店「ニューススポット」勤務。独身、恋人無し。彼女の日常に変化は無かった。
 ただ一つ。部屋にこもって出て来ない弟、"岐萄 朝人"の事を除けば。
 榊 継久発-秋津経由の報告は昨日の内に上って来ており、既に夕麻の耳にも届いている。故に、大体の事情は了承している。ミッションは無事に済み、活動は次の段階に移る。そう聞いている。問題は無い。だが肝心の"弟"からの報告はまだである。
 本来なら、昨日のミッションは昨日の内に終っている筈だった。姉の代わりに、弟が殉徒総会に怒鳴り込む。そこで何らかの回答を得る。本来は複雑なミッションでは有りはしない。ただ、殉徒総会と深い関わりを持つ警察が、騒動に絡んだり、市民活動家が絡んで来る等の可能性は有り得る。狭くて煩雑な日本の市街地の事であるから、そうした不測の事態は充分に考えられる。だから、時間には相当な幅を持って考えていた。
 だが、今回の事態は、それらいずれの場合にも当てはまらない。
 警察は殉徒総会に気遣って、一切絡んでこなかった。市民団体は抗議に出たようだが、彼らのターゲットは殉徒総会と言うよりは公正党であり、今回の一件には全く絡んでいない。
 つまり、ミッションを乱すいずれの状況も存在しなかった筈なのだ。であると言うのに。
 "岐萄 朝人"が帰って来たのは、シンポジウム当日ではなかった。月曜もとうに開けた、午の12時近くの事だったのだ。
 酷く不機嫌で、疲れきった面持ちだった。通りがかりざまにリビングに居た"夕麻"を見つけ、ただいまでも、無事終了したでもなく、何故居るのかと一言問うた。問われた夕麻は、大きく溜息をついた。
 「仲の良い普通の姉弟で、自分の為に弟が行方不明となれば、姉は何だかんだと理由をつけて家に居るものだ。職場にも多少の動揺は伝えて置きたいのでな。そうした。――もっとも。
 詳しい報告は一寝入りした後が良いと言うのであれば、私はこれから出社しようと思うが、どうだ」
 一瞬、思考に沈んだ後、白い顔が夕麻を見つめて、そうしてくれ、と言ったまま部屋に引っ込んだ。夕麻は分かったと答えて出社し―― 今に至るのだ。
 食事の用意を整えて、一息つく。
 出て行ったのは12時である。6時間半もゲリラが眠るものだろうか。反応の無い部屋の扉の前に立ち、一応はノックをする。
 「朝人、入るぞ」
 中から声は無く、期待もしていなかったのでそのまま入る。案の定、ベッドの上は空だった。いや、それより先に。
 ドアを開けると、真っ直ぐ前の壁の足許に、大きな人影が蹲っているのが目に入った。ベッドを見る迄も無かった。恐らくは元の部屋の主の物である黒皮のケースを胸に抱き入れ、ドアが開いた時にはそのケースを戸口に向かって構える姿勢をとっていた。言いたい事など、直ぐに分かる。
 これが銃だったら、お前の命などとうに無い。
 呆れた。
 「起きているなら付き合え。夕飯にする」
 青年は立ち上がる気配が無い。銃代わりのケースを肩口に戻し、また待機の姿勢に戻る。恐らくはMRTA時代、青年が常に取っていた姿勢なのだろう。
 昔、まだ秋津で出会いたての頃、青年は常に今のようにむっつりと口を閉ざしていたのを思い出す。話しかけてもこちらも見ず、反応もしない。最初は耳が悪いのかと思った程だ。
 だがそれから一月、三ヶ月と経ち、共に行動する内にそれは無くなった。後から、最初のそれは青年特有の警戒だと知った。動物が自分以外の生き物を品定めするのと同じで、青年も敵の特性や性質を測っていたのだと知った。
 それが解けてから、青年は相変わらず無表情で無口だったが、きちんと対応するようになった。そうなれば極普通の仲間で、能力が高い分、良い仲間だと思えた。だが、ほんの時々、青年は今のような反応を見せる時がある。殻に閉じこもり、仲間に背を向け、その殻から出て来ない。最初は、また警戒しているのかと思ったが違う。何の事は無い。青年が殻に籠る理由は、いつもたった一つだ。
 混乱しているのだ。迷っているのだ。臆病風に吹かれているのだ。もっと言えば。不貞腐れているのだ。甘えているのだ。
 夕麻は、青年の足許に同じように蹲った。
 「呆れたな。少し甘くすると付け上がる。拗ねればあやしてくれるとでも思っているのか。私はお前に同情などしない。もうお遊びは終わりだ。報告しろ。義務を果せ」
 言いながら、部屋の子機に手を伸ばす。慣れた指を滑らせる。
 「出来ないなら今すぐ上に言って解任して貰う。命令を聞けない相棒など危険…」
 抱えていたケースの先で器用に電源をoffにする。暗い瞳が見上げていた。
 夕麻は子機をホルダーに収め、改めて床に座る。ではさっさと話せと言う意思表示だった。ケースを再び肩に担いだ青年が頷いた。口を開いて息を呑み、最初の何言かは咽喉が閉じていて言葉にならず、咳払いを重ねてやっと雑音が言葉になった。
 「17:40、榊 継久と合流。意思の疎通は測れた。岐萄 朝人は、本人の意思と関係なく殉徒総会に入会させられた事に抗議をしにステラミラー・ビルにのりこみ、そこで榊 継久に説得されて友人となり、結果的に広告塔となると言う方向で合意。」
 「ほう」
 「まず初日はステラミラーの施設観察。榊 継久との第一回会合。これから、友人、を模索する」
 「で」
 「以上」
 夕麻が溜息をつく。
 「30点だな、朝人。私は既に上から報告を聞いている。お前、どれだけ報告をはしょる気だ。そんな報告では全体の流れが見えない。それに第一、曖昧すぎる。施設観察?会合?お前が帰って来たのは今日の昼だぞ。それまで一体何をしていた。その言い訳を・」
 「SEX」
 朝人は目だけを動かして夕麻を見る。それ以外は微動だにしなかった。夕麻の方が驚いて朝人を振り返る。
 「……は?」
 「セックスしてたんだよ。榊と。ずっと朝まで」
 ―――驚いた。
 文字通り、馬鹿の様に口を開けていると、彼女自身良く分かっていた。だが、表情は変えられなかった。虚を突かれたと言うのはこう言う事を言うのだろう。ゆっくりとそのまま一拍置いて口を閉じる。朝人がケースの上に顎を乗せた。
 「相互理解が深い方が望ましいと上は言っていた。どうせ榊とは今後共に行動する。なら、早めに奴の呼吸を知って置きたい。奴はやたら俺に触りたがるし、理由をつけてキスをする。こう言う奴は時々居る。俺に興味があるのかと聞いたら、君を初めて知った時からずっと興味を持っていたと言う。君は完璧だ、凡て持っている、最高だ。――面倒だ。だからやらせた」
 「……やらせた」
 「ああ、それと、酒井 美也とやった」
 夕麻は面を伏せた。
 酒井 美也の事は既に報告が上っていた。ステラミラー・ビル前で悶着が有り、民間の奪還ビジネスの団体が彼女を連れ戻した。その場に酒井 美也を同伴した男が有り、その男が岐萄 朝人で有った。17:05。奪還した団体の名は株式会社バッカー。元々殉徒総会青年部部長で有った秋元 隆を社長とする団体。報告ではそうなっていた。
 だが、誰と誰が「やった」「やらせた」などと言う報告は一切上っていない。例えば推測が付いても、だ。
 「呆れて物が言えんな。お前は一体何がしたい」
 「酒井 美也については成り行きだ。俺の昨日の役目は総会を掻き回して、最終的に榊と結ぶと言うのを"見せ付ける"事だけだ。間に入るイレギュラーは大した問題ではない。俺はそれに関しては充分にこなした。榊とも結んだ」
 こなした。結んだ。セックスでか。言葉にしなかったが、その夕麻の思いは充分伝わったらしい。弟は姉を見つめてそうだ、と頷いた。
 呆れる。
 これは"岐萄 朝人"オリジナルの個性ではない。ノウハウは完全に"水上 冬馬"の物だ。
 MRTA時代、水上 冬馬が同志とどう言う接触の仕方をして来たかは、唯夏にとってはどうでも良い事だ。知らないし、知りたくも無いし、興味も無い。青年が性に関して無頓着であるのは知っていたし、この"話"に入る前の思い人も男なのだから、男とのSEX云々も不自然では無い。だが。
 秋津のミッションにおいてそれが発揮された事は無い。他団体との合同訓練などまま有ったが、青年がその際に問題を起こした事など無い。話に無駄な私情は持ち込まない道理は心得ていたのに。今回のこれは一体何だと言うのか。
 余りにも野放図だ。結びたい相手に求められたから、即日応じると言うのでは策略も何も有った物では無い。
 「―― 酒井 美也は殉徒総会から完全に抜けるのか」
 「あの女は宗教には向いていない。頭が良くて矛盾点に気付いていた。早晩抜けるのは分かってたが、連れ戻されれば一発だろう」
 「だから犯ったのか」
 「………小物だ。気にする事も無い」
 「まだ、抱くなと私は言った」
 「……小物だ」
 酒井 美也が欄天堂病院内科部長酒井医師の娘と言う事は、秋津も彼ら二人も重々承知している。彼女の奪還に、とある人物が深く絡んでいると言うのも、当然ながら熟知しているのだ。
 「小物ではない名前が報告から一つ抜けている」
 ケースの上に乗せられたままの顔を見る。整っているだけの、暗い無表情を見る。つもりが。
 そこに載せられた泣き出しそうな瞳を見て驚いた。
 青年が小さく頭を振る。前髪が乱れて目許を隠し、再び覗いた時には暗い瞳に戻っていた。ああ。"唯夏"は思う。そうか。
 そう言う事か。
 「長沢 啓輔が奪還を先導した。俺がステラミラー・ビルに着いた時、殉徒総会に混じっていた。俺が榊と対面した時に割り込んで来て――こうして。榊に言った。
 ああ。そうだ。俺は。――貴方を良く知っている……。そう、良く、知っているよ。とても、良ぉく…ね」
 姉の頬に手を伸ばしながら、ハスキーな声がゆっくりと言う。一言一言ゆっくりと、確かめるように言う。青年を見ていた唯夏の瞳が大きく広がる。耳に情景が蘇った。
 榊に会った時。彼女の頬に手を這わせながら彼は言ったのだ。
 
 君を知っているよ。そう、良く知っているよ。とても、良ぉく…。
 
 思わず互いの目を見詰め合う。頬に這わされる手の感触や、背筋を這う不快感が蘇る。そして。その男が言ったのとそっくり同じ言葉を本人に叩き返した男の存在。二つの驚愕が混じりあう。全身の毛が逆立つ。耳の後ろがぞくりと声を上げた気がした。
 感触と悪寒と驚愕が、ストレートに共有される。
 馬鹿な。唯夏は思う。
 あの時の台詞も動作も、唯夏と冬馬、"夕麻"と"朝人"しか知らぬものだ。誰にも言ってなど居ないし、報告書にもあんな些事や感覚などを書く訳が無い。
 瞬間、冬馬が情報を伝えたのかとかんぐるが、それは理に合わない。情報を伝えられる時間も手段も無かったし、第一。もし彼が伝えていたのなら、この不貞腐れようは有り得ない。自ら情報を漏らして、その情報に驚いて見せるなどと言う小器用な芝居が出来るタイプでは無い事は、夕麻も唯夏も良く知って居る。
 では何故。何故。
 「―― どうして」
 知るか、と言う意味で振られる頭に前髪が払われる。怒りに満ちた灰色の瞳がじっと床を見ていた。
 「そう言う―― 奴なんだ。まるで、こっちの頭を覗いたみたいに。俺の―――俺の邪魔をする。」
 長い睫毛が瞳を隠し、また覗かせ、その度に色を変える瞳を何度も何度も映し出す。困惑と、苛立ちと、疑問と焦燥と、忌避と慕情を、とっかえひっかえ曝け出す。
 ここに居るのは朝人なのだ。
 朝人も夕麻も、冬馬と唯夏と言う下敷きが無ければ成り立たない。99%までその要素で出来ていて、違うパッケージが包んでいる。手も足も骨も肉も神経も元々の物から成り立ちながら、統合しているのは別人だ。その感覚は秋津の実働隊である者同志、良く分かっている。だから。ここに居るのは確かに"水上 冬馬"ではなく"岐萄 朝人"なのだ。
 その朝人が。
 今、長沢 啓輔に揺れている。
 「あんな奴、俺は――嫌いだ」
 子供のような言葉に、夕麻は苦笑する。俯いた弟の、灰色の頭を片手で掴んで、ごしごしと擦る。撫でるよりもっと強い力で擦る。
 冬馬の部分が共鳴している。長沢 啓輔に恋をする水上 冬馬と、岐萄 朝人の要求は相容れない。恋しい、と、近寄るな邪魔をするな、は相容れない。それぞれに上手く共存していた存在がぶつかったきっかけは、今となっては推測が容易い。酒井 美也であり、榊 継久だ。その片鱗が、今は唯夏にも分かった気がしていた。
 立ち上がる。
 「さて。私は夕飯にする。お前はどうする」
 「先に食っててくれ」
 「……しかし」
 「直ぐ、元に戻る。そうしたら食いたい。俺の分が有るなら置いといてくれ」
 分かった。答えると同時に踵を返して部屋を出る。後ろ手に扉を閉めて、ゆっくりと深呼吸をした。
 長沢 啓輔。よいづき。喫茶店、SOMETHING CAFEのマスター。心中でプロフィールを確かめて溜息をつく。
 単なる一般人の筈のこの男に驚かされるのは、これで二度目なのだ。前回は、偶然だと思った。今回も、恐らくは偶然であろうと思う。だがこれが三度重なれば。
 その時は偶然では無い。これがこの男の実力なのだ。
 「あと、一回か……」
 初めて思う。
 すこぶる付きで厄介な男だ。邪魔だし、面倒だ。だが。―― 酷く、この男は、面白い。
 

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