□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 時計が9時を指す15分前に、見慣れた姿がやって来た。
 幾度となく見た黒の分厚いコートを着て、幾らか痩せたかと見える酒井医師が、窓の外から手を振った。
 店の直ぐ前にタクシーを止め、そこから降り様にこちらに合図を送った。そこまでは予想済みだったが、残り一つに長沢は驚いた。
 タクシーから出て来たのは、医師だけではなかったからだ。父親のずんぐりした姿の後に、丸みを帯びた女性の姿が立ち上がった。茶色に脱色した髪以外は、随分前に見た姿と変わらない、酒井 美也がタクシーから降り立った。医師の動きをトレースしたかのように同じ仕種で、気まずそうな笑みと供にちょんと頭を下げたのだ。
 息を呑む。
 思わず姿勢を正して、長沢は頭を下げた。まだたった一週間だぞ!? 心中でそう叫びながら、ビジネススマイルを浮かべる。SOMETHING CAFEの扉のベルが、からんと無邪気な音を立てた。
 日曜日。
 9時近辺の店内は、殆ど時が止まった状況だ。客は来ても一辺に2、3人どまりで、その後が続かない。今日もご他聞に漏れず、その通りだ。つい今しがた三人組の客を迎え入れたばかりだから、当分続きは無かろう。長沢は北村に合図を送ってカウンタを離れた。
 「いらっしゃいませ、酒井先生御一行様。……いやぁ、驚きましたよ、二人連れなんて。美也ちゃん、お久しぶり」
 一番奥の席に案内してメニューを手渡す。SOMETHING CAFEは、一つ一つのテーブルには簡単なメニューしか乗せていない。壁にお薦めは貼ってあるが、それだけだ。細かいメニューは応対の時に手渡しする事にしている。モーニングとランチ時は、決まったメニューしか動かないのでこの方が便利なのだ。
 酒井 美也は声につられて顔を上げ、長沢をまじまじと見つめた後に表情を曇らせた。その理由が余りに明瞭で、長沢は苦笑する。
 奪還の日から一週間。顔面の腫れはかろうじて全部引いたのだが、まだ完全に元通りと言う訳ではない。腫れの内出血が痣になって、現在は左頬に奇妙な地図を描き出している。それが中々、見た目には大げさに見える。酒井 美也は明らかに、その傷に罪悪感を感じたのだ。
 「ああこれ?みっともないだろ〜。でももうもう治り掛けで、痛くも痒くもないんだ」
 「……良かった」
 様々な思いの入り混じった一言だった。ほっとしたように美也が笑う。そのはにかんだような笑みに、長沢もほっとした。
 ああ、と思う。やはり酒井 美也だ。こう言う素朴な表情が彼女らしい。以前に父親と二人で来た時の情景を思い出す。
 あの時。二人はカウンタ席に並んで座っていた。酒井医師がメニューを開くと、すかさず美也が覗き込んで、ブレンド、と言ったのだ。それを追って父親が二つ、と唱えた。そのタイミングが余りにばっちりで、長沢は可笑しくなった。まるで一つの言葉を二人で分け合ったようで、それが至極自然だったからだ。
 今はカウンタ席ではないが、やはり二人は横に並んで座っている。父親がメニューを開いて、美也が横から覗き込む。
 「えっと……ブレンド」
 「ふたつ」
 思わず吹き出す。驚いて長沢を見つめる四つの目に失礼と言いながら踵を返す。不思議な安心感が胸の中を満たしていた。
 ブレンドを二つ。本日のブレンドはモカ・サナニ。イエメンのモカ・マタリをメインに作り上げた、すっきりした味わいのモカブレンドだ。
 ドリップで淹れた物を、自分の分も含めて三つの珈琲カップに注ぎこむ。サービスに、モーニングにつくフルーツ杏仁を二つとって運ぶ。どうせ今日のモーニングは終わりだ。資源は有効活用が望ましい。
 二人の目の前にカップと小鉢を置く。酒井医師は兎も角、美也の方ははっきりと笑顔を浮かべた。
 「どぞ。サービスです」
 有り難う御座います、と言いながら美也が小鉢を取る。元々甘い物に目の無い、ぽっちゃりタイプの女性なのだ。そうして嬉しそうに小鉢を持ってくれている方が、余程周囲の心を救ってくれる、癒しの存在だ。ついつられて微笑みながら、長沢は二人の向かいの席に腰掛けた。
 「マスター、改めて。申し訳ない。先週と言い今週と言い、無茶ばかり言って邪魔をして。……頭はもう抜糸した?」
 いつぞやの追い詰められた父親の顔は何処へやら、すっかり酒井は医師の顔に戻っていた。無精髭が伸びて、多少やつれた感はあるが、すっかり元通りだ。さりげなく眼窩や痣を観察する目が、医師の物だった。
 「はい。金曜日に取れましたよ。無罪放免です。……先週はバタバタしてましたから、落ち着いた所で、新しくご報告聞きたいと思ってた所です。丁度良かった」
 「そうか……マスターの傷が酷くなくて本当に良かった。このお礼は、いずれ改めてさせて下さい。家族全員、マスターには足を向けて眠れないと言ってるんだ」
 慌てて頭を振る。素直で、今回の一件を喫茶店店主の100%の善意だと信じて疑わぬ医師とは違い、多くの打算の賜物だと言う事を、店主は良く知っている。礼を言われても、自らの打算が多くてとてもではないが素直に受ける気にはなれぬ。
 「いえいえ。10年以上前から引きづったモメ事の顛末ですから、酒井先生が気に病むことじゃありません。そんな事言われると、却って心苦しい。それよりも。
 聞かせて下さいよ。秋元さんは終了だと吼えてましたが、美也ちゃんはもう全く自由の身なんですか?」
 フルーツ杏仁を食べ終えた美也が、驚いて長沢を見つめ、父親に視線を戻す。医師は曖昧に頷いた。
 「んん、まぁ全く自由かどうかは兎も角、もう来週から大学は行ってOKと言われてる。学校に入った時、出る時に僕の電話に連絡を入れて、寄り道はしないで真っ直ぐ帰るという条件つきだが、家に籠る必要もお目付け役も要らないというお達しなんだ」
 一週間で。長沢は少なからず驚いた。微笑を浮べたまま、内心で訝る。一週間でプログラムが終了するなど、本当に有るのだろうか。
 奪還ビジネスについて、長沢は詳しくは知らない。だが何も知らない者よりは、秋元を見る事で多少は触れて来たと思っている。
 一番面倒なのは、連れ戻す事じゃない。洗脳を解く事だと、かつて秋元は言った。
 一度出来上がってしまった水路を元に戻すには、間違った水路を埋めて、別のルートを掘り固めねばならない。その行程には、様々な思いもよらぬ障害や、停滞が現れる。だがそれらの邪魔を避けて通っては駄目なのだ。一つ一つの障害にきちんと当たり、丁寧に潰して行く事で、やっと水路は元に戻るのだ。淀みのない、清らかな水が循環するようになるのだ。そうならねば、洗脳から抜けたとは言えない。
 洗脳をするのは存外容易いが、元に戻すのは一仕事なんだよ。強面がらしくも無く、しみじみとそう言っていたのを思い出す。
 脱洗脳プログラムには最低でも2〜3週間、最大では年単位で掛かると聞いている。あっさり3週間で終った時などは、快哉を叫んでいたのだから、厄介な物なのだろう。美也を見つめて首を傾げた。
 期間は短い。短か過ぎる程短い。一週間は規格外だろう。だが、長沢の目では、今日の美也に以前の美也との違いは一箇所も見つけられなかった。
 表情は柔らかくて、活き活きしている。態度も以前と変らない。第一、自分を強引に連れ戻した父親を敵視していないだけでも、彼女はいたって普通ではないか。
 ただ、不思議も残る。奥手で内向的な彼女が、家を出てまでひとつの宗教団体に入ろうと決意して動いた。それは非常に大きなエネルギーだ。それがたった一週間でご破算になる物なのだろうか。決死で家を出たのでは無いのだろうか。現代っ子の決死は、その程度に軽いと言う事だろうか。そうとも思えないのだが。長沢は判断を諦めた。プロの(株)バッカーが太鼓判を押すのだから、恐らく本当に"そう"なのだろう。
 では。次に思うのは一つだ。何故?
 「うん。秋元さんが言うにはね。何でも美也は、洗脳がほぼ解けた状態で帰って来たと言うんだよ。勿論、家を出た辺りはばっちり洗脳されてたと思うんだけど、最初から総会に対して疑いの芽があって、何らかのきっかけで既にそれが目覚めてる所で僕らが行ったんだろうって。だから、帰る時も大きな抵抗をしなかったんだ、って言うんだ。
 確かに、美也は僕が掴んだ時、抵抗しなかった。バッカーさんが車に引き摺り入れた時も大人しかった。バッカーさんに言わせると、こんな反応今迄無かったんだって。大体は大騒ぎになって、強引に連れて行くので失敗する可能性が大きい。美也ではそれが全く無かったので、最初は拍子抜けした程だったんだと。
 僅か一週間なんだけど、今は美也、殉徒総会の教えは出鱈目だと言ってる。五人に囲まれて署名しろと言われたので署名しただけで、自らの意思で入会したのでは無いとさ」
 なるほど。長沢は頷いた。
 脱会時に既に洗脳が解けていたと言うのなら、一週間と言う期間は妥当かも知れぬ。
 以前、秋元が言っていた事が有る。脱洗脳が終ったら、クリアランス期間が必ず要るのだと。脱洗脳後のフレッシュな価値観に、汚れた物を入れない為に、防菌室に入れて状態を安定させねばならない。その期間は大体脱洗脳期間の1/4。つまり、一月かかって脱洗脳したとなれば、一週間のクリアランス。合わせてざっと五週は必要になると言う計算だ。
 つまりは美也の場合、一週間と言う期間はほぼクリアランスの為に要した時間なのだ。奪還までに殆どの洗脳は解けていて、(株)バッカーがやったのは諸々の後始末だけ、と言う事だったのだろう。それならば納得出来る。
 でね、医師が言う。
 「それで、今回のお願いなんだが。……実は今回、言いだしたのは僕じゃない。お願いの発生元は我が家の王女様。こっち、美也なんだよ」
 頷きながら聞いていて、動きが止まる。ゆっくり目線を上げると、美也が小さく手を上げていた。遠慮がちな「はい」の姿勢である
 「………は?」
 「美也が、どうしてもマスターに話を聞いて欲しいと言うので来たんだ」
 驚く。つい美也を見つめる。美也は決まり悪そうに肩を竦めて見せる。心底驚いた。
 確かに奪還作戦に協力した身ではある。だがそれは、酒井医師との関係が"喫茶店店主"と"常連客"と言う形で出来上がっていたからだ。だから事の成り行きも無理が無かったし、合理的でスムーズだった。長沢から言えば都合よく利用も出来たのだ。
 だが美也は。常連客の娘で有っても、彼女の信を得る程の長い期間、伴に過ごした事もなければ話し合った事も無い。全く持って。ご指名は意外だったのだ。
 「美也ちゃんが、俺に、ですか?」
 医師の横で、丸い輪郭が決然と頷く。
 「お願いします。話を聞いて欲しいんです。駄目と言わないで。マスター」
 切羽詰った口調と顔色が、彼女らしくなくて、つい押し切られるように頷く。その後に宿る微笑みはいつもの彼女のものだった。
 美也のリクエストで、酒井医師は暫く別の場所に退去と言う事に相成った。
 どうやらそれは当初の打合せには無い事項だったらしく、酒井ご一行は長沢を前にモメにモメた。僕も一緒に聞くぞ、じゃ話さない。話せ、話さないの押し問答が、15分余りも続いたろうか、最終的には父親の方が折れた。
 では、席を移るからと譲歩すると、娘は尚も強行に反対した。兎に角、お父さんが喫茶店から出て行かない限り、絶対話さない。娘は丸い愛くるしい目を父親から大きくそらして言い放つ。長沢はいたたまれなくなった。
 自らを同じ立場に置き換えて考えれば、まるきり今の酒井医師の状態だ。怒って見せたり、考えて見せたり。誠一杯父親の威厳と、理解と許容量の大きさを見せ付けるべく装うのだが、底は浅い。ただの娘が心配な父親なのだ。娘が自分を差し置いて、他の男に相談するなど納得が行かない。立場が無い。内心は妬けて、おろおろと心配しているだけだ。
 二十分にも渡る大議論の末、父親は肩を落として出て行った。名目は「雑誌でも読んで来る」であるが、心情を慮るに余りある。恨みがましい視線を残しながら去る父親の姿に、長沢は深々と頭を下げた。
 どの家庭でも、娘にかかっては父親は弱い。妻以外の、一番厄介な異性である。しかも、根源的な弱みを握っている女性であるから、大概負けるのだ。特に今の状況では、そもそも酒井医師に勝ち目は有りはしない。長沢は、戸口まで酒井医師を送り出して溜息を吐いた。
 恐らくは美也は、これほど強硬に一つの事柄を言い張るタイプでは無い。それだからこそ、医師はさぞや驚き、落胆した事だろう。戸惑いにそれが読み取れた。
 「お手柔らかにね美也ちゃん、俺、大事な常連さんに恨まれそうだよ…」
 「………御免なさい。ちゃんとマスターの事は父に説明しておきますから…」
 苦笑しながら席に戻る。遠慮がちな態度は以前の美也のままだった。
 殉徒総会にいながら、洗脳は解けていたのだと秋元は言った。最初から疑いの芽を育てていたのだと。だから呪縛から解き放たれて、自分のテリトリーに速やかに戻れたのだと。その期間、僅か一週間。そして。
 その冷静で、明晰な脳は、洗脳が解けて直ぐ、一体何を考えたと言うのか。何故、相談相手にろくに話した事も無い喫茶店のマスターを選んだのか。長沢にも非常に興味が有った。
 「何で俺なんだ、美也ちゃん?」
 丸い目が持ち上がる。俯きがちの顔を持ち上げる。両目に宿る光が、予想外に毅然としていて勁く、長沢はおやと思った。
 「私、父の事良く知ってます。私は父似で、外見だけじゃなく、本当に嫌になるくらい、色んな所が似てるんです。頭の中身とか、性格とか……。
 そんな私の目から見て、父は医師としてはまぁ優秀かもと思います。でも、優柔不断と言うか意気地なしなんです。よく言えば優しくて、他人を攻撃したり、強引に人の中に割って入ったりする事が全然駄目。普段のちょっとしたモメ事だって、一人じゃ出来なくて母に頼んだり、兄に押し付けたりしてるくらいなんですよ。
 だから今回も、殉徒総会に殴りこんで来るなんて絶対無理だって分ってました。…… ただ一つの例外を除いて。
 殉徒総会でしょ。マスターがずっと前にモメて、追い出したと言うのは父に聞いてました。父はマスターの事を褒めてて、良くやるよな、俺には絶対出来ないと言ってました。だから絶対、今回も父はマスターに相談すると思ってたんです。そうでしょ?
 そして。父がマスターに相談して、もし。もしマスターが潜り込もうと言い出せば、父はその時だけは来るだろうと思ってました。私のその予想と推理、合ってますよね?」
 一から十まで仰せの通り。そう言う代わりに深く頷く。美也には充分伝わったようだ。
 「そう。父は自分で単身、宗教集団に殴り込むなんて出来る人じゃないから……」
 「それは違うぞ美也ちゃん」
 丸い目がきょろりと長沢を見る。
 「酒井先生は、一番最初にここに来た時、俺の知ってる殉徒総会のお偉いさんに会わせてくれと、凄い剣幕で言って来たんだよ。すぐ会いに行く。直接そいつを怒鳴り上げて、美也を取り戻すって言ってた。殴り込む気満々だったよ。俺がむしろ宥めたんだ」
 じっと見つめて俯く。父親が娘を守る為に必死だったと聞いて嫌な気のする娘はいまい。"優しい"と言葉を選んだ理由が、長沢には分かった。本当は父を弱いと、彼女は言いたかったのだ。貴方の助けを借りるような父だから、宗教に走ったのよ、となじりたい気持ちも有ったのかも知れぬ。真実の所は分からない。
 「まぁ、その後は俺がそそのかした部分が有るのは認めます。君が言うように、かなり前、一度殉徒総会とはやり有ったので、お父さんよりは詳しかったし、奪還ビジネスをやってる知り合いもいた。だから、お父さんにその人を引き合わせたし、その結果、この顛末になりました」
 はい。安らいだように美也は微笑む。
 その後にそっと唇を噛む。ゆっくりと思想の中に沈みこんで、再び浮き上がって来るのを、長沢はじっと待った。彼女の悩みの元は、長沢には推測がつかなかった。
 「……マスター」
 「はい?」
 「今から言う事は、誰にも言わないで下さい。お父さんには特に、言っちゃだめです。言えないから追い出しました。バッカーの人にも、言えないから言ってません」
 父親にも、バッカーの人間にも言えない事。
 「……それを、俺に?」
 美也が大きく頷く。逡巡する。迷う瞳がマホガニーの机の上と、同じ色のフロア、赤茶色のレンガを這う。その躊躇いが、長沢の頭の中に小さな火を点した。
 脳のシナプスを導火線代わりに、火種がちりちり、ちりちりと中央に伝わる。かつての、看板娘の声が耳に蘇った。
 乙女心も分って上げられないなんて。マスターは冷たいんですよ。冷酷なの。
 何故、そんな言葉が蘇ったのか、明確には分からない。だが、迷う美也の表情に、戸惑う瞳に感じたからかもしれない。乙女心とか、恋する心とか、そうした物を。
 鼻先に懐かしい匂いが蘇った。
 「……美也ちゃん」
 ピースが。予想外の所に転がっていたパズルのピースが、勝手にかちかちと組み上げられて行く。そこに写る景色を描き出す。
 恐らく今、自分は笑顔を浮かべているのだろう。長沢は思う。だが止められない。浅井准教授に言われたいやらしい癖だ。今まで見えなかった景色が見え始めると止められない。どうしようもなく、心が騒ぎ出す。脳がはしゃぎだすのだ。長沢を見た美也の瞳に、怪訝の色が宿った。
 「君が話そうとしているのは、別の奪還の話……?」
 丸い瞳が更に丸くなった。まるで飛び上がるように身を翻して長沢の真正面に挑む。大きく頷く動きに合わせて、つややかな髪が頬を包み込む。はい、と言う声が切羽詰っていた。
 「そうなんです。私、奪還して欲しいんです、な、何で分ったんですかマスター!? 私まだなにも、私、その私ね」
 手で制して席を立ち、殆ど残っていない美也のカップを掴み、琥珀色の液体をなみなみと湛えたカップと供に戻る。
 美也は、受け取ったカップに口をつけ、深呼吸をした。
 「私、今年になってから、…その、家を出てからなので短い時間ですが、外語教室に通い始めました。自分の意思と言うよりは、婦人部の意見で始めた事です。
 とても目立つ人がいて、その人を…と言うか正確にはその人のお姉さんを殉徒総会員にする為に、青年部が動いていました。お姉さんの方はそれで良いのですが、弟も押えて置いた方が良いと言う事で、婦人部にも要請が来ました。
 その人は外語教室の講師をやって居たので、誰か一人そこに通いなさいよと言われて、私、語学は好きだったので立候補しました。
 スペイン語教室。その先生をさりげなく見守る事が、私の始めての殉徒総会でのお仕事だったんです」
 笑い声を上げる。脳が、シナプスが。組み上がって行く景色を見る瞳が高らかに笑い声を上げる。
 導き出される答など。たった一つしか無いではないか。
 「……語学が好きだから、じゃないでしょ美也ちゃん」
 向き直っていた瞳が、不意を突かれて持ち上がる。若さに輝く頬は、元からピンク色で、その変化は良く分からない。だが、熱を持つ目許がはっきりと潤う。
 俯く瞳と、肉付きの良い唇。きっと―― は、好きだろうと思う。
 「…凄く、目立つ人なんです。初めはそれだけでした。姉弟で会場に入って来た時、もう、私達びっくりしちゃって。誰、誰?あれ誰?って言い合ってました。凄い美人で華やかな女性と、何か危ない感じの男性で。その日の内に、青年部に指令が来てました。
 最初は、本当にただ、興味で。功徳を積もうと思ったのも有って、先生の学校に通う事にしたんです。生徒数は多くなかったし、個人レッスンじゃなければレベルもぬるくて、質問の振りして先生に色々聞いたりしました。そうして話すようになって……。
 綺麗だなあと思って。でも話している内に、綺麗な外側より何だか、強くて、自分が有って、……本当、強くて。そう言う所に惹かれました」
 乙女心。今見ている物は、紛れも無くそうだ。酒井 美也は恋をしている。繊細で傷つき易い筈の恋心は、何も弱いだけでは無いらしい。はっきりと彼女の目に宿る強さは、これもやはり乙女心なのだ。
 マスター。
 強い口調で言われて、はい、と答える。 
 「殉徒総会から、開放したい人がいます。でもバッカーさんみたいに大げさな事はしたく有りません。する必要も有りません。私が直接接します。ただその間、力を貸して欲しいんです。
 私、総会の事はちょっとは知ってます。一人で動いた方が上手く行くと思います。だから動くのは全部私がやります。でも、頭の方は一人じゃ駄目です。マスターにはご迷惑かけちゃうんですけれど、助けて欲しいんです。
 今回の事、バッカーの皆さんに聞きました。マスターは凄いです。持つべき物、やるべき事、その方法も全部知ってる。私は何も知りません。お願いしますマスター、教えて下さい。力、貸してください。私どうしてもあの人、殉徒総会から解放したいんです。お願いします!」
 待て、待て。落ち着け。
 感情ではない、もっと奥深い部分の快感で、シナプスが踊り出す。ウキウキと騒ぎ出す。浮つくDNAを意思の力で制御する。想像が一気に膨らむ。加速する。可能性が脳の中で爆発し、たった一個の答えの周りで渦を撒く。一体これは、何を生むのだ?
 目の奥にフラッシュバックする。数々の情景と声と。視界に広がる人の背中の波。薄暮の町。大きな姿が抱き寄せるのは、酒井 美也だった。揉みあう人の手と怒号と、そして、ブラックアウト。痛みが後頭部に集まった。
 つい、頭をおさえる。酒井 美也がびくんと動いた。
 「だ、大丈夫ですか、マスター?」
 「幾つか質問があるんだけどいいかな?」
 鼻先に懐かしい匂いが蘇る。抱き合って眠った夜、押し付けられた胸元からは青年の汗の香りがした。子供を抱くように、犬を抱くように腕の中に抱え込んだ温もりは、今は別の人生を生きている。
 「まず、一。君は何故さっきから、彼を"解放したい"と言うの?奪還するなら彼が帰るのは君の許だ。でも開放したいと言うからには、そこに君の意思があるんだろう。それは何だろう。
 二。その人は大の男だ。その開放を、君一人がこっそりとやれると思う根拠は何?君一人にもバッカーさん他10人位が動いたというのに?
 三。……何でそこまで?」
 美也は俯いて深呼吸する。今日何度目かの同じ仕種だ。そこには強い決意が有った。
 「二と一の答えは実は同じです。彼はお姉さんが殉徒総会に入るから、一緒に入っただけの人。彼には宗教なんて必要ありません。強いから、神も助けもいらない。一人で地獄に落ちても何とも思わないそうです。お姉さんが抜ければ彼も抜けます。だから、彼を通じてお姉さんを脱会させて、彼を解放したいんです。そう言う訳なので、彼が本気でお姉さんを脱会させる気になってくれれば、大袈裟な奪還屋さんは要りません。開放と言うのは…彼は別に私の物じゃ無いからです。
 三は……何て言うのか、私に気付かせてくれた人だからです。強さも正しさも、結局は他所に求めていても得られないと、彼を見てて分ったと言うか、思い知ったと言うか……私も強くなりたいと思ったから……。
 バッカーさんに、初めから洗脳が解けてると言われたのは、きっとその所為です」
 「その人に、衝撃を受けた?」
 こくり。素直に頷く。
 「衝撃でした。あんな人、今迄会った事無かったし。何て言うのかなぁ。多分あの人は、日本でも、日本以外の何処でも、同じ涼しい顔で同じように生きていける人だと思います。どう言う劣悪な環境でも、今と同じに生きられると思うんです。
 それに比べて私は、日本でしか今のように生きて行けない。私だけじゃ有りません。殆どの日本人はそうです。甘やかされてて、弱くて、その弱さを当たり前だと思ってて、自分が弱い事にも気付いてない。そう思ったら……なんか私が嵌ってる現実が馬鹿らしく思えてきて……。
 それで今、ここにいるんです」
 丸い瞳は澄んでいた。澄んでいて、勁い光を放っていた。素直なその勁さが羨ましい。これだけの純真さなら不可能の壁さえ越えられる。
 「好きになっちゃったんだな、その人の事。それで何とか救い出したいと?」
 照れくさそうな笑顔を向けて、彼女は頷く。その物ずばりの質問をかわすかと思ったが、彼女はあっさりはいと答えた。答えてから俯く様が、ほんの少し寂しげだった。
 「好きになった、は、はいです。でも救いたい、はいいえです。逆です。あの人は殉徒総会に居ちゃだめ。きっと……もっと多くの人を救う人です。逆ですよ。私の方が……いいえ。私達の方が、あの人に救ってもらいたいんです。だから。
 私、出来る限りの事をします。だからどうか、マスター。力を貸してください」
 愛と言うのは独占欲だ。自らの側に置きたいから奪うのだ。奪った後で自由を与えるのは、相手の意思で自分を選んで欲しいと願うからだ。だが。
 彼女の願う"開放"は少々違う。自らが彼を救う事で、皆が救われるなどと言う。
 その心根はまだ良く分からない。分るのは。
 「秋元さんを言いくるめて、外語大学の時間を行動スケジュールに組み込まないとな」
 「え、じゃ、マスター……」
 頷く。喜んで。呟くと美也が椅子の上で小さく撥ねた。
 嬉しそうな美也の顔に頷き返しながら、その実、嬉しいのはこちらだと胸中で思う。
 心臓が快哉を叫んでいた。
 何と言う巡り合わせ。何と言う偶然。なんと言う導き。何と言う。これは必然だ。
 必然なら、掴み取るしかないではないか。
 「俺に出来る事なら、何でもやろう。他ならぬ美也ちゃんの仰せだ。ただし。その前に。最後の質問です。
 ――その人の名は?」
 長沢の手を両手で熱く握り締めて、その場できょとん、と凍り付く。思い返すように天井を見つめて、暫くしてから飛び上がる。一番重要なこと、私まだ言ってなかった、と言う意味だとは直ぐに分った。
 上気する頬と、照れ隠しに髪を払う指先、ひとつしかない答えに辿り着く。香ったのは乙女心だ。
 「………き。… 岐萄 朝人、さんです……」
 ビンゴ。
 ようこそ、俺の手の届く所へ。
 

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