□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 待つ事には慣れていた。何時間でも、何日でも待つ事は出来た。
 雨のそぼ降るジャングルの霧の中でも、纏いつく熱気の岩場でも、ターゲットを待ち続ける事に、苦痛などとうに感じなくなっていた。
 ターゲットを捕らえられさえすれば、暫くの間生活が成り立つ。ほぼ必ず金が手に入ったし、金を出すターゲットしか狙わなかった。JICAの日本人を捕らえ、殺した後で金を取った下種な一団もいたが、彼らの一団は違った。彼らには正義が有った。約束は違えなかったし、無駄な殺生はしなかった。殺しが目的なのではない。生活の為に武器を持つのだし、理想の為にそれらを使うのだ。
 待つ事には慣れていた。苦痛も感じなかった。生活の為だから。理想の為だから。
 冬馬は、SOMETHING CAFEを見張れる位置に陣地を決めた。ジャングルと違って市街地の為、同じ所に居座るのは不自然に人の視線を集めてしまう。だから、街の人々の動きに合わせて幾度と無く移動した。夜間は裏通りに、人通りの多い日中は何箇所かのポイントを決め、短時間でランダムに移動した。待つ事に苦痛など感じなかったのに。
 暗闇に黄色い光を広げる木造モルタルの窓を見上げていると、喉の奥が疼いた。カーテンに映る人影を、何故か正視出来ずに俯いて、部屋の灯りが消えると溜息を吐いた。
 苦痛、とは似ているが微妙に違う感覚だった。痛いような、甘いような切ないような、時に妙に苛つき、時に深く満たされる奇妙な思い。快感では決してない。しかし、不快かと問われると、それは分からなかった。
 日本の平穏な空気の所為だ。冬馬は思う。今更何も変わらない自分が、今迄感じた事の無い感覚に脅かされるのは、皆この日本の空気の所為なのだ。
 夜が明けて、辺りが光に満たされるとその感覚はいや増した。視界の奥で、ターゲットはいつも笑っていた。穏やかな表情で、数え切れぬ人々と語り合い笑い合っていた。彼の手が生み出す恵みを頬張る人々の波の中で、ターゲットは満たされていた。それが彼の生活で世界で、冬馬の知る世界とは総てが少しづつ、あるいはかなりずれていた。一つ、言えるのは。
 冬馬の居場所は、彼の傍には無いと言う事だけだ。
 苦痛だった。
 苦痛など、彼は今までずっと打ち砕いて来た。空腹という名の苦痛は、自分の力で食い物なり金なりを手に入れれば晴らせた。その為の方法は幾らでも有ったし、その時々に合わせてどんな方法も取った。迷いは無く、後悔もなかった。欲望の飢えに対しても同じように接した。強引に奪える対象は身近に幾つも有ったし、冬馬が欲した相手は、いつもやがては冬馬を欲した。大概の苦痛は、いつも何らかの晴らす方法があったのだ。
 日本に住んで、日本の流儀をいくつか知った。苦痛の晴らし方にも国柄があるのだと知って、それに順応した。飢えも乾きもそうして癒した。初めてだったのだ。
 どのようにも扱えない苦痛は。

 薄闇の中に蹲る。じっと目を凝らしてターゲットを見ていた。男と何かを言い争い、揉めてカウンタに座り、出てくるまでの姿をずっと苦痛の中で見つめていた。
 扉が開いて、現れた姿に動揺した。手の届く距離に立つ姿に欲望を感じた。体全体が疼いたのに。苦痛の中で動く事すら叶わなかった。
 男が遠ざかる。ターゲットと二人きりになる。いつも穏やかな笑顔を浮かべている顔に今浮かんでいるのは、嫌悪感だった。それだけではない。
 怒りと、恐怖と困惑と。黒い感情のブレンドだ。
 ターゲットが身を翻す。店の中に消える。消えてしまう。冬馬は息を呑んだ。
 「……たい……!」
 怪訝な瞳が振り返る。不恰好な黒縁眼鏡の奥で、品定めをするような視線が向けられる。冬馬は身構えた。
 「…さっさと帰れ。警察を呼ぶぞ」
 「っなしが、有る」
 「は?」
 「話が…有る!」
 ターゲットの体が止まる。恐らくは冬馬の所為で幾分か細くなった身体が、ゆっくりと彼の方を向く。その顔に浮かんだのは苦笑だった。
 「話は無い。初日にそう言ったのはあんただろ?今更意見を変えるなよ」
 「待ってくれ、話が…」
 「近寄るな!」
 怒りと、恐怖と困惑。胸が一気に冷たくなった。ガードレールから飛び出しかけて、そのまま凍りつく。殆ど反射のように、長沢の言葉に近寄らない、と繰り返していた。
 「近寄らない、近寄らない。話がある。今がいやなら後でもいい。話があるんだ、頼む。聞いてくれ」
 「何だって言うんだよ?あんたが俺に頼む事なんか有るのか?力づくで従わせれば満足なんだろう?話を聞かせたいなら力づくで聞かせるのがあんたの方法じゃないか」
 一言も無かった。
 長沢の言う事は一々が尤もだ。直感で動く冬馬と違って、一つ一つが理屈に合っている。合い過ぎて、冬馬にとって長沢は異生物だ。
 「もう……しない」
 「は?」
 「もうそんな事はしない。……おまえが俺の物にならなくなるから」
 長沢が目を大きく見開いた。もともと大きな目が、零れんばかりに広がる。驚いているのだけは伝わったが、何を驚いているのかは知れなかった。
 長沢は長沢で青年の反応が理解不能だった。つい四日前まで、目の前の青年は自信に溢れて長沢を見下していたのだ。SOMETHING CAFEのみならず彼の住居にまで強引に押し入り、好き放題の乱暴を彼に働いたのだ。傲慢で残酷な略奪者以外の何者でもなかった。しかも、殺人者だ。
 ところが、同じその青年が今は悄然と縮こまり、長沢の前で俯いている。理由がまた振るっている。
 長沢が彼のものにならなくなるから、と来た。
 なるか、馬鹿らしい。どう言う発想で、そう言う結論に辿りつくのだ。目の前の青年は姿こそ変わらないが異星人だ。
 「帰れよ。今日はもう、疲れた」
 冬馬がぱっと顔を上げる。
 「なら、明日は?明日なら話を聞いてくれるか?」
 「多分ね」
 「分かった。じゃあ、それまで待つ」
 言うと再びガードレールに腰を下ろす。長沢は首をかしげた。
 「帰れば?明日な」
 「ああ、大丈夫。気にするな。三日くらいどうって事ない」
 三日。……三日?
 「あんた……まさか昨日からずっとここに?」
 「大丈夫だ。通行人の邪魔にならないように移動していたから」
 「それでもずっとここに?」
 当たり前だ、と言わんばかりに冬馬は軽く頷く。長沢は呆れ返った。
 11月の東京だ。幾ら地球温暖化だの、ヒートアイランド現象だの言っても、夜間は冷え込む。その夜間、冬馬はずっとここに居たと言う。それだけではない。今日もここにいると言う。呆れ果てた。
 「分かったよ」
 SOMETHING CAFEの扉を開ける。我ながら、相当なお人好しだと思う。お人好しというより、きっぱりと馬鹿だ。
 「隅の席から絶対に立つな。約束するなら、三十分だけ話を聞く。三十分だけだ」
 冬馬が大きく頷く。げんなりしながら長沢は扉の中に滑り込んだ。
 

 冬馬を、CAFEの一番奥のテーブル席に座らせる。シャッターを半分だけ下ろし、自らはその前の席に陣取った。
 これならば、幾ら冬馬の身のこなしが素早かろうが、確実に長沢の方が先に外に出られる。シャッターを下ろして閉じ込める事も可能だ。それさえ出来れば、その後の事はその時考えればいいのだ。
 話を手向ける事はしなかった。制限時間は宣告したし、一分でも過ぎたら打ち切るとも伝えた。長沢にとっては、青年の話など興味の有る事ではなかったから、ただ椅子に腰掛けて時が流れるのを待てばよかったのだ。いつでも飛び出せるように。長沢が考えるべき事はそれだけだ。
 久々のSOMETHING CAFEの一日は、充実していたが長かった。疲れた。黙っていると眠りそうだった。
 俺。青年のハスキーボイスが漏れる。びくっとして長沢は目を開けた。
 「日本で生まれた日本人だ。水上冬馬。24歳。
 多分、4歳まではこの国にいた。でも、俺の中身は多分日本人じゃない。物心ついた時には俺の国はここじゃなかった。
 ペルーのウアヤガ渓谷だ。だからって、ペルー人だとも思っていない。もう9年以上帰っていないし、恐らくもう、帰らないから。懐かしいとも、思わないから。
 俺は、そこでゲリラだった」
 

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