□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 敵意。あからさまな。白露から溢れ出るそれに身を引き締める。
 無言の警戒と威嚇。肉食獣が背中の毛を逆立ててこちらを伺っている。視線は外したまま、相手もこちらの呼吸を伺っている。やり方を間違えば食い殺されるが、上手くすれば背中に乗らせてくれるかも知れぬ。その丁度、分かれ目だ。長沢はゆっくりと頷いた。
 「誰かがね、"幽霊"と言ったんですよ。
 確かにそこにいるのに、多くの人が見えない。分からない。掴みどころが無い。そんな存在だと。でもねぇ、有りませんよねそんな事。多くの人が同じ人を見て、同じ顔を見て、お互いに話してみると誰もその人の事を憶えていない。そんな事、有りますか? だからね。俺は最初から思ってたんですよ。それ。
 一体何人いるんだろう?」
 白露の目が長沢を射る。この男の動作では初めて、音も立てんばかりに。
 「あ、あ。怒らないで下さい。俺、貴方に喧嘩を売ってる訳じゃない。これは俺からの報告です。貴方が報告してくれたのと一緒だ。だから最初に申し上げたじゃないですか。…俺は貴方がついてくれて幸運だと。これは俺の本心なんですよ」
 どう言うつもりだ。口に出さずとも、白露の思いはストレートに長沢に伝わる。おもむろに立ち上がった店主は、客のカップを覗き込み、珈琲を入れ替える。カップを置きながら、噛んで含めるように言う。
 「自分の事は良く知ってますよ、俺。体力的、身体的に着いて行くだけで精一杯です。だからこそ、待ってくれる貴方で良かった。―― 貴方はね、恐らくは三人の中で一番下だ。
 ―― 年齢的に」
 相手の呼吸を感じながら話を進める。やはりな、と思う。
 長沢自身、酷い劣等感の中で生きて来たのだ。越えられぬ山が目の前に有って、それに達したいと、日々強く願ったものだ。結局は及ばずに挫折したが、あの時の劣等感と、もし到達するなら何でもすると言う強い願いは忘れようが無い。自ら体験した事だから、誰よりも実感した事だから、思うのだ。
 劣等感は―― 使える。
 「順番がはっきりしますよね、三人と言うのは。年齢は勿論の事、何によらず順番と言うものは、初めに決まった物からなかなか変らない。そうは思いませんか?
 本当は大して変らないのに。言うほどの差など有りはしないのに。それでも初めに決まった順番は変らない。変らないから、微々たる差が大きな差に思えてくる。遠大で、埋め難い、とんでもない差のように思えてくる。
 人間と言うのは不思議な物で、一度そう思ってしまうと強固な価値観になってしまう。常識にすら昇華してしまう。自分は低級で、相手は高級なのだと。世界の凡てはそう評価しているのだと、そう思い込んでしまう。でもそれは、誤りだ。
 ただの思い込みだ。勘違いですよ。差なんて、ない。ひっくり返せば良いだけの事なんですよ。逆転しちまえば良いんですよ。順番なんて。評価なんて。
 ただね、その観念から脱却するにはきっかけが必要です。ほんの、些細なきっかけがね。そ、ちょっとのきっかけで良いんですよ。だって、元々、どんぐりの背比べなのだから、逆転した時の事を後から思い出してみると、笑えるくらいつまらない事だったりする。
 きっかけはきっかけ。されどきっかけ。重要なのは、そのつまらないきっかけを、逃さぬ心構えです。それこそが実力で、実はそれを選んだ時、既に勝負は決まってる。きっかけなんてそんなモンです。……ねぇ、白露さん」
 カウンタの中から店主が立ち上がる。ゆっくりと前のめりに、白露の手の直ぐ側に手を置く。反射的に、手に視線を運んだ。流れる動作でそこから辿って男を見る。媚びるような表情がそこに有った。
 「俺はそのきっかけになりたいと願ってます。俺にとって貴方が幸運だった様に、貴方にも何か幸運が有って欲しい。貴方もどうせ俺につかなきゃいけないなら、その方が良い筈だ」
 きっかけになりたい?
 手を見つめる。そのまま辿って珈琲カップに視線を注ぐ。いつか新しい湯気を纏う珈琲カップを口許に運ぶ。微かな甘さが口の中に広がった。
 三人の中で一番下。長沢は年齢的に、と付け足した。だが恐らくは、この男はそれ以外にも、もっと何かを知っている。何かを、掴んでいる。どこから。何を。そして一体、何故。
 「……ミスをしたんですよ」
 どきりとして目を向ける。カウンタに手を置いたままの姿勢で俯いていた長沢が、上目遣いに目を合わせた。
 何の事だ? 声にならずに口中で呟く。お前は何を言っている?心を読まれた気がした。
 男は、白露の声の音量に合わせて、ですから、と呟く。シンクロする。言葉が。呼吸が。言葉に出せなかった思いに、長沢が合わせてくる。背筋に寒気が這い登った。
 「俺が一体何を掴んだのか。三人などと何故言うのか。貴方に何を言おうとしているのか。貴方はさっき俺に聞いたでしょう。――何故だ。その答えですよ。ミスをしたんです。
 貴方以外の、人が。俺はそこから、必死に辿ったんだ。貴方方に着いて来たんですよ」
 見つめる。
 シンポジウムの一日の報告は、当然秋津には行き渡っている。殉徒総会の折伏会。その状況。参加名簿。目立った財界人のチェックアップ。政治家のスピーチ内容。動いた金の概算。あさぎりの暴走。ステラミラー・ビルでの騒動。榊と岐萄の対峙。(株)バッカーの動き。ゆうなぎの後日報告。凡て秋津は掴んでいる。白露にも凡ての事項は伝えられている。だが。
 ホテルの名など誰も知らぬ。ミスなど誰も知らぬ。そこから這い寄る影など誰も見ていない。誰一人として――知らぬ。
 俺以外の、人のミス。
 「日本では古来からね、幽霊は脚の無い物と相場が決まっているんですよ。何をしても足跡を残さないものなんです。なのにね。その人の所為で、足跡どころか、俺は脚そのものを見てしまった。一度見えてしまえばこちらのものですよ。
 顔が分らなくても、脚を数えればいい。流石に幽霊は人間なので、全員持っている脚は二本づつ。となれば答えは存外簡単。幽霊の脚は六本だった。だから三人。間違っていないでしょう」
 思わず頷きそうになって気を引き締める。小さく息を呑む。黒縁眼鏡の奥の目が微かに笑みを深めた。
 「貴方以外の人はね、少々、いや余りにも。一般人を甘く見てるんです。でも、一般人だって、命が掛かってるとなれば必死にもなるんですよ。自分を殺そうとする手に縋りつくし、その人に掴みかかりだってする。その凶器を壊そうと必死になる。その結果。
 秋津が殉徒総会にしようとしている事が何なのか、俺、多分分っちゃいました」
 白露の瞳が見開かれる。無表情な顔の中で、二つの漆黒の瞳孔が驚愕を伝えて来る。長沢はカウンタに手を突いた姿勢のまま、白露から目を反らさなかった。
 「………嘘をつけ」
 「嘘じゃありませんよ」
 「嘘だ」
 「本当ですって」
 「馬鹿な」
 「馬鹿どころか。貴方方素晴らしい。全く持って、すばらしい。たった十年なのに。良くぞたった10年で、ここまで上り詰めたものです。感心します。心から賞賛します。最初の設定も良かったのでしょうが、以降は貴方々の努力の賜物なのだから凄い。素晴らしい。
 俺はね、秋津にとって有効なのは、公正党を無くす事だと思ってました。いやぁ、驚きました。今となれば、そんな思い込みをしていた、自分の狭量な思考回路が恥かしい。ただ、弁解じゃないが、俺が馬鹿と言うよりは、貴方方のレベルが高過ぎるんですよ。普通はね、これは考えませんよ。そうでしょう。
 余りにも遠大で大掛かりだから、普通だったらまず、三人の中の一人が"やめて置こう"と言いますよ。でも貴方達はそうしなかった。根気よく状況を読み取り、10年かけて実現可能な所まで持って来た。本当に頭が下がる想いです。ただね、おかげでちょっと違うものが見えてきました。
 この着想ね、政治家の物でもなければ、軍人の物でもありません。もっと実際的でゲリラ的だ。だから直ぐに分りました。このプロジェクトの着想の主は貴方々でしょう」
 白露の呼吸を読む。無感動な男の中で、僅かに早くなる呼吸が心地良い。相手の呼吸に被せていく。その思いに相乗りして行く。この道で合っていると、正直にそう呟かんばかりの呼吸の上に乗っていく。
 「俺には良い"見本"の相棒がいた。ゲリラは攻撃的で我慢強く、生き残る事に貪欲で強かだ。目立たぬように入り込んだ後は、自分が変るのではなく、自らに合わせて周りを変えて行く。徐々に存在感を増して周りを巻き込んで行く。実に宗教的だ。源流が同じなんだ。カルトの教祖と、貴方々の方法は。どうすれば生き易く居易く出来るか、貴方方は知っている。貴方々は宿主は絶対に殺さない。―― 利用出来る間は、絶対に」
 「……何故」
 「ミスが俺に知らせたんですよ。貴方以外の人の」
 上目遣いに見ていた瞳は、いつか同じ高さに有った。不恰好な黒縁眼鏡の奥の、黒い瞳。媚びるような色は既にそこに無い。ごくりと自らの咽喉が音を立てるのを、白露はどこか遠くで聞いていた。
 「貴方々の役割も、あさぎりの役割も、大体は理解しています。だからこそ。俺は貴方の役に立つ。役に立ちたいんだ、白露さん。
 勿論、俺はイレギュラーです。バグみたいなものだ。でも、最終到達地点で"偶発事故"は予備の武器になる。この予備が有るか無いか。勝敗を握る可能性がある。予備なんだから捨てても惜しくないでしょう。予備なんだから、無いよりは持って置くべきだ。
 俺は、貴方々の知りえない情報を握ってる。上から見ていては見えない、外部からでは接し得ない、もっと下層の情報に接している。貴方方が"他愛無い"と思う所に俺はいる。でもさっき言った通り。きっかけは"他愛ない"所にあるんですよ」
 カウンタの上の男の手が、白露の手の上に被る。白露は避けなかった。
 説得力が有った。
 男の言葉は曖昧で、ともすればどうとでも取れる部分がある。だがそれでも、多くの部分が合っていた。合い過ぎていた。人数も、年数も、行動の根源も、白露の思いも。
 弱い、一般人の癖に。この腕一本でたやすく死ねる弱者の癖に。一般人だからこそ。白露の腕以外でも、容易く死ねる存在だ。で、あるならば。
 この男を生かす事が……。
 「―― どうしてほしいんだ」
 不恰好な黒縁眼鏡の、髭面の男が笑う。微かだが、はっきりと。
 「俺の行動を信じて下さい。信じて、支援して欲しいんだ。貴方にして欲しいのは、俺の行動を貴方の意思だと言ってくれる事。それだけだ」
 白露も笑う。はっきりと。
 「馬鹿らしい。信じる?何故貴様を信じられる。多少、目端が利くからと言って、貴様が何を掴めると言うのだ。掴んだと!? フン、所詮は今の話も凡てただの想像だ。妄想だ。何の証拠も有りはしない。私を納得させるには、ま・・」
 「そう。何も知らない。俺に有るのは僅かな情報と、そこから導き出される想像だけ。
 対総会プロジェクトを立てたのはゲリラだ。この活動はゲリラにしか達成なし得ず、着想も恐らくは無理だ。日本にゲリラなど存在し無い事から考えて、貴方達も、外から来たんだ。丁度あさぎりがそうだったように。
 あさぎりは11年前に現地を出て、8年前に日本に入国を果している。これは非常に特殊な例だ。恐らくはとても早い。早過ぎる程に。何故なら彼は多分、特別だから。
 貴方方も勿論特別だが、恐らく彼より手間取ってる。すると貴方方は、逆算して恐らくは1990年代前半に日本に入り、数年の教育を受けた後に、2000年前後から今の活動についている。違わないでしょう?」
 違わないでしょう、と言うのは質問ではない。ただの確認だ。白露は黙っていた。何よりもの肯定だった。
 「貴方方にはね、非常に類似性を感じるんですよ。あさぎりは南米から、政権の崩壊を期に国を出た。ギリギリの段階で日本に逃げ入って来た。住まわせてやるから、忠誠を誓えと言わんばかりの状況で日本に居ついた。貴方方も、そうじゃないかと思うのは、私のうがった見方でしょうか。
 90年代初頭は、世界各国、激動の時代でした。何よりもの激動は、89年のソ連崩壊、最大の共産社会の瓦解です。それを引きずって始まったのが90年代であり、91年、幾つもの地域が国として独立したんです。
 ウクライナ、リトアニア、ラトビア、エストニア、ウズベキスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、ベラルーシ、トルクメニスタン、キルギスタン、カザフスタン、タジキスタン、グルジア、モルド……」
 白露が立ち上がる。
 カウンタの上の手を、払い除けてから上から握る。長沢は言葉を飲み込んだ。
 白露の目を覗き込む。今はぴくりとも動かない、切羽詰った瞳の色を見つめる。
 ただの平凡な喫茶店のマスターだと聞いた。非力で、理屈屋で、典型的な日本人の。どうせ夢のような話しか出来ぬのだろうと思っていたのに。
 言葉に説得力が有った。曖昧な表現だと思えるのに、妄想だ、妄言だと一蹴してしまえば済む事なのに。
 確証の無い筈の言葉が。曖昧な筈の言葉が。真実に擦り寄ってくる。真実に重なる。それ程、真実の側に寄り添った物は、普通は想像とは言わぬ。妄想が真実なら、それを妄想だとは人は言わぬ。妄言だとは言わぬ物だ。何故。
 何だってこの男は知っているのだ。いいや違う、知らぬ筈だ。だが何故知っている。入り込まれる。頭の中に。記憶の中に、押し入られる。白露は頭を振った。凡て否定する。この男の言った事は凡て違う。否定する。
 否定する。
 だが。
 「よいづき。………いや、長沢 啓輔」
 「はい」
 だが、現実は現実だ。
 「"きっかけ"になれ。私の」
 立ち上がった白露の顔を、再び見上げる。無表情なままの瞳にあるのは、怒りにも似た冷ややかさだった。
 見覚えがある。完璧に済ましたつもりの無表情。その実饒舌な、肉食獣の服従の表情だ。新都銀にいた昔、幾度と無く、こんな表情を見て来たのだ。
 深々と頭を下げる。得意な笑みは諦めて、真摯に頭を垂れる。長沢の頭の上でゆっくりと気配が遠ざかった。カウンタの上の掌が自由になる。俯いたまま唱える。
 「分りました。有り難う御座います。………何でも良い。貴方にこちらから連絡する手段を下さい」
 「明日までに」
 作ろう。最後の言葉は空気に飲み込まれる。
 パァン。大通りを通る車のクラクションが店の中に忍び入る。初めて、呼吸以外のものが耳を圧した。
 深く頭を垂れた長沢の上で、世間が動き出す。恐らくは白露が開けた扉の向こうで、トラックが交差点に入る。右に曲がります。女性の音声が繰り返す。電子音と、路面を擦るタイヤの音。信号の音楽。雑踏。街の吐息。そして、――扉が閉じる。
 街の音が遠ざかる。耳の中を、店の中を、長沢の世界を静寂が満たす。長沢は深呼吸をした。
 不意に目の前のシンク盤面を水滴が打って驚く。自らの額を滑ったものだと気付いて、改めて驚く。苦笑が零れた。
 ああ。顔を上げる。昔はよくこんな事が有ったっけ。ビジネス相手を口説き落とした後、余程折衝中は息を殺しているのか、終わった途端に汗だくになる癖があった。汗をかくのは殆ど頭だけで、首と額にハンカチを当てておけば直ぐ終るのだが、こんな感覚は久しぶりだ。当時の長沢はそれを良く心得ていたので、ハンカチを額に当てる分と首に巻く分、普通に使う分の三枚持っていた。
 ゆっくりと持ち上げた視界に、既に白露の姿は無かった。バンダナを外して首に巻く。台を拭いたタオルで額を押さえる。懐かしい感覚に何故か笑みが零れた。
 カウンタの上のトレイを掴む。キレイに空になっているトレイに少なからず驚く。そんなに腹が減っていたなら、次は何か持たせてやろうと思う。
 いやらしい、長沢君。浅井 慎一の台詞を思い出す。どうせ自分は今、笑っているのだ。にやにやと、いやらしく。
 OKだ。
 ここからが始まりだ。始まった。
 

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