□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 一月最後の週は慌しく始まった。
 日曜の夜、白露との折衝の後、多少開放的な気分で楢岡に連絡を入れると、いつに無く不機嫌そうな声が今日は無理と答えた。
 少なからずがっかりして、分ったと切ろうとすると、明日の朝、飯食いに行くと言われた。分ったと答える自分の声が弾んでいるような気がして、長沢は不意に自己嫌悪を感じる。
 生きて行く上でスムーズなように、人間誰しも嘘をつく。計算高くて理性的な嘘を。
 嘘をつかぬ場合も、不用意に本当の事を言うのを控える場合も多い。不必要な事や、言わぬ方が良いと判断した事は、墓場まで持って行く覚悟でいる。嘘の方が世の中の為に優しく、上手く回るなどと言う事は数限りなくあるのだから、嘘を多用する事もしょっちゅうだ。半世紀近くも生きた立派な大人なのだから、回ってくるツケは自分で払えば良いだけの事だ。
 だから。
 長沢は楢岡に余計な事は言わない。必要な情報以外は伝えない。そうすれば良いと楢岡も請け負ったのだから、堂々とそうする事にしたのだ。
 浅井 慎一との呑み会の事も、健政会との今後の事も、美也の事も言っていない。言うつもりも無い。口止めなどはしないから、他所から漏れる事はままあろうし、カンの良い楢岡の事だ。早晩気づく事だろう。敢えて言う必要も無いとも思った。
 だが。やはり少し、どこかが痛む。胸の片隅に、罪悪感がある。会える事になって嬉しい傍ら、黙っている事の罪悪感を感じる。
 なまった物だと思う。昔は人を謀るのも言いくるめるのも、快感を覚えた事こそ有れ罪悪感など微塵も感じなかったのに。
 年を取って、周囲の人々の心の動きに鈍感になる反面、自らの心の揺らぎに敏感になった。昔は大した事の無かった気がかりが、今は払い除ける事が出来ない。だから前もって己をカバーする癖がついた。
 年を取ると感受性が鈍くなると言うが、あれは嘘だ。ちょっとやそっとの事では傷つかぬよう、前もって準備する技術だけは上達したから、それが効いているだけだ。二重にも三重にもガードをして、壊れた際のカバーもした上で事に当たるから、鈍くなったように思うのだ。この防御壁を物ともせぬ衝撃が来たら、きっと容易く粉々に砕け散ってしまうに違いない。
 予め欠片を繋ぎ合わせ易い様に掛けた、落下防止カバーの中から、自らの砕けた心を掬い出す様は、想像するだに惨めだ。惨め過ぎて笑いが出た。
 SOMECAFEの朝のスケジュールは変らない。ZOCCAのパンを受け取り、表のシャッターを開ける。
 一つ違ったのは、そこに、落ちていたメモを拾った事くらいだ。
 メモにはぽつんとURLが書かれていた。いつもの通り、ワープロ文字にセロテープ。白露のメッセージだ。長沢は住居スペースに戻ると、ノートPCを起動させ、メモをその下に置いてSOMECAFEに戻った。
 色々詰め込んだ旧式のノートPCは、立ち上がるまでに時間がかかるのだ。その間に、受け取ったパンを用途別に分けて店内を整え、朝の仕込みに入る。
 月曜のメニューを出し、プティ・オレンジに電話して今日のケーキを聞き、それも加味して本日の珈琲を決める。ヨーグルトとフルーツ缶を確認する。10時には追加分が入って来るので、一通り済まして上に上ると、既に画面にはスクリ−ンセイバーが踊っていた。
 ブラウザを起こして指定されたURLを打ち込むと、極普通のSNSに辿り着いた。個人情報を打ち込んで新会員になり、ログインする。SNSの対象人物の名前は「さくら」だった。つい笑う。
 秋津の、日本と言う国への拘りは、実に一本筋が通っている。暗号も個人名も、必ず凡て日本の言葉で作ってくる。そこには英数字もアルファベットも無い。漢字と平仮名で埋められる一覧表は、今では却って稀有だ。
 長沢は自らをしみじみと顧みた。SOMETHING CAFEと言う店名が英語でアルファベットだし、メニューも殆ど外来語だ。特に外国かぶれでもないつもりだが、秋津に触れると反省させられる事しきりである。
 指定のSNSからリンク一回、自動ジャンプ一回の計二段階で目的の頁に辿り着く。素っ気無い薄緑の頁に、濃緑色であっさりした文字が並んでいた。頁のタイトルは、その物ずばり、「通信欄」。ツリー型の掲示板で、一個だけ表示されているスレッド名は、「ようこそ」になっていた。
 スレッドを開く。
 

 "ようこそ"
 よいづきの来訪を歓迎する。
 必要な事は何でも書いてくれ。何処から繋げても構わない。メールは使わず、これだけで通信をしよう。
 一応、cookieも履歴も、一回ごとに消して欲しい。
 

 これ以上の簡素も無いと思える画面に、要件だけの文章。そして、短い割りに要求は高いのだ。長沢は苦笑して頁を閉じた。
 やれやれ。一々履歴とCookieを消せとは面倒な。長沢のSNS頁は残して良いらしいから、リンクを辿る自体はそれ程面倒ではないが、PCで調査の類をする際には履歴消しはやや痛い。そう考えて溜息をつく。致し方ない。
 ここは、従う他あるまい。こうした手間を惜しむと、必ず破綻を招く事は、かつての都銀で何度も味わった。
 データを消して席を立つ。朝の静かな厨房に戻る。一人きりのこの場所は、長沢にとっては書斎に等しい。思いに没頭してしまっても、慣れた手は存外正しく動いてくれるので、ゆっくりと集めた情報を反芻する。考えるべき事は幾らでも有った。
 幽霊の脚は六本だった。だから三人だと長沢は言った。
 実の所、あれは単なるはったりだ。
 勿論、自信は有ったのだ。だが、証拠は何も無いし、三つの顔を見たからと言ってそれが上限とは限らない。"三人以上"と言う事が分るだけだ。
 だが、何としても正確な数字が欲しかったから、一歩を踏み込んだ。きっちり整数で欲しかった。勘は行けと言っていた。だから、一か八かその勘に従ったのだ。
 単なるカマ掛けの域を出ぬ言葉に、だが、白露は引いた。ほんの一瞬、呼吸が止まった。あの手応えが無ければ長沢は引いただろう。だが結果。確信した。幽霊の人数は三人。目的も方法も、長沢の推測で正しい。最終かつ絶対の答えだ。
 穴だらけの言い分のカマでも、追い詰められた頭には穴は読み取れぬ。幽霊の脚など数える方が愚かだが、通してしまえばこちらの勝ちだ。
 幽霊の尻尾は掴んだ。白露は細心にフォローしておけば、長沢と供に動いてくれるだろう。榊として会った男が司令塔だから要注意だが、それにしても、対処法を誤らなければこちらに構いはしないだろう。そうだ。こちらはあくまでも無力な部外者で有るのだから。問題は。
 大物なのだ。殉徒総会にとってのVIP。秋津の草達にとっては「特別」。しかしながら、秋津上層部にとっては単なる「実働隊」。今の名は。
 岐萄 朝人。
 がしゃん。
 表のシャッターが奇妙な声を上げて、長沢の思考を千切る。思考の中からゆっくりと浮き上がり、まだ思考を弄びながら顔を上げる。がしゃん、と再びシャッターが騒いだ。
 あ。
 慌てて厨房を走り出し、準備中の札は裏返さずにシャッターを開ける。背伸びしてシャッターを払うと、寝ぼけ眼の楢岡が居た。
 「な、なんでこっちから…」
 「おっ早う御座いますぅ〜〜」
 欠伸交じりに長沢の脇を通り抜け、指定席のカウンタ席に座る。
 寝ぼけ眼は楢岡のポーズだろうが、いつもならこの態度は無い筈だ。いつもの楢岡なら、挨拶と供に抱き締めてきたり、いきなりディープキスをして来るのがデフォルトで、素通りは有り得ない。一応は人の目を気にするモラルは有るので、そこは長沢も信頼しているが、少なくとも朝であると言う事や、ここが店先であると言う事は一向に障害足り得ない。
 長沢は慌ててカウンタの中に入る。起こしておいたエスプレッソマシンで、まずミルクスチーマーを暖気運転する。機械のうなりと白い湯気。その奥からそっと伺うと、不機嫌そうな表情がそっぽを向いていた。
 手早くカプチーノを作って差し出す。サンキュ、と呟く顔はいつも通りに見えた。
 「あ……あのさぁ、楢岡くん、今夜忙しいかな。あ、いや、特別今日って訳じゃないんだよ。明日でも明後日でも構わないんだけど」
 カップを咥えたまま、濃い目許がこちらを伺う。だったら何か?と言う問いを感じる。長沢は苦笑した。
 「美味い飯、食いに行かないか。俺のおごりでさ。その、……先週の、随分手ぇ、掛けさせちゃったろ。そのお詫びと言うか…したいんだ。駄目か」
 ゆっくりと味わってからカップを下ろす。完璧に出社の装いは整っているのに、眠そうな赤い目は、どうやら芝居ではないようだ。
 「もしかして、昨日徹夜……」
 「別に俺は今日でも一向構わないけど、Kちゃんの方が今日は困るんじゃないかな。昨日の打ち上げで健政会、相当モメたからね。今日はプチ反省会だろーと思うよ。
 ―― ここで。」
 健政会とは、当然ながら浅井 慎一が率いる所の団体、「健全な政治を取り戻す会」の事である。
 黒縁眼鏡がびくんとして楢岡を見つめる。最初は驚いて真っ直ぐに見つめ、次に目を反らし、最後には伺うように見上げてくる。いつもの長沢のやり方だ。
 いつだってこれにほだされて来たのだ。例外は無かったのだ。だがそれも今日までだ。これからは、年上の狡猾な恋人には、こちらも狡猾に、厳しく相対さねばならぬ。殊、仕事が関係して来る場合なのだから、ここは甘い顔は出来ぬだろう。
 知らぬ顔でカプチーノを味わう。ゆっくり味わっていると、暫くうろうろとカウンター内を歩いていた黒縁眼鏡がしょんぼりと頭を垂れた。
 「――ごめんなさい」
 狡猾だ。本人が意識していないのが更に性質が悪い。
 「何で謝るのさ。Kちゃん何も悪い事してないでしょう」
 「だって。それで楢岡君怒ってるんだろ。俺からじゃなく、公安のデータに上って来て初めて知ったから怒ってるんだろ。俺が何も言わなかったから…」
 しっかり自覚はあるのだ。カプチーノのカップを置く。
 「おや。ご明察。分っててやってるんだ―。へぇ、Kちゃんは底意地が悪いなぁ」
 黒縁眼鏡が顔を上げる。頬杖を突いた楢岡は、じっとその顔を見つめ返した。
 僅か一週間だが、酷い腫れはすっかり引いた。強かに打ちつけた左の眼窩は今も黄色い痣に囲まれたままだが、それでもその色はかなり薄くなった。抜糸が済んだと言う後頭部は、まだもう少し派手な有様に違いあるまい。
 痣に囲まれた目許が、持ち上がってから恨めしげに俯いた。その様が寂しげで、内気そうに見えるから性質が悪い。よく事情を知っている看板娘でさえ、その度にほだされて言うのだ。また楢岡さんが虐めてる。その実、虐められているのは大概逆側だ。
 「底意地悪いって……何か、ただ意地悪いのより性格悪そうじゃないか?……言いたい事は分るけど……」
 ふう、と大きく溜息をつく。エスプレッソを淹れて湯を足しただけのシンプルなエスプレッソ・アメリカーノのカップを両手に持って、隣の席に着く。目頭で隣に座って良いかを尋ねる事も忘れない。楢岡は隣席スペース用に、少しばかり身を引いた。
 「そうかぁ。楢岡君、もう知ってるんだ。俺が慎先生と話したの金曜の夜だよ?健政会にそれが伝わるの、どんなに早くても土曜なのに、君はもう昨夜の段階では知ってるんだ。凄いなぁ。俺が動いた内容、その日か、次の日には君に伝わるの。本当に凄いなぁ。……そうかぁ…」
 そう。その通り。言葉にせずに頷く。
 「恋人は対象者」
 「……え?」
 丸い瞳が、黒眼鏡の奥から見つめて来る。隣に座る頼りない肩が、珈琲を両手に抱えて少し丸くなって振り向く。つい、その無防備な様に微笑んでしまう。狡猾で憎めない男と言うのは、本当に性質が悪い。
 「昨日さ、そう思った。
 ま、俺は覚悟してなかった訳じゃないよ。Kちゃんは早晩そうなるとは分ってた。で、浅井 慎一に近付いた時点でそれは完了だ。今の話で行くと、金曜日から、"恋人は対象者"だ。
 あんた、そう言う所は迷い無い。普通の人なら躊躇する初めの一歩は、あんた実に度胸良く踏み出すよね。ただ、最悪なのは、その後。やっちまった癖に。度胸良くやっちまった後で状況にうろたえたり、反省したり。覚悟がなって無いって所だ。
 俺は、健政会絡みの時は、恋人を対象者として扱わなきゃならない。あんたももう、良ーく分ってるでしょ。俺に見張られる立場になったって事。ならさ」
 話の前半で上手くフォローを入れようともがいていた長沢は、後半では諦めた。素直に頷いて楢岡に向き直る。楢岡が次に何を言うのかが読めなくて、はらはら待っていると言った様相だ。その実どうであるかは、楢岡には知る由も無いが、希望的観測も込みでそう見えた。
 「Kちゃん、上手くやんなさいよ。俺はね、もう腹を括った。あんたと別れる気ないし、公安を失敗する気も無い。俺は両方上手くやりたい。両方欲しい。手に入れる。入れられるよ。何故ってさ。
 節度を守った"ズブズブの関係"。あんたなら出来るでしょ」
 彫りの深い顔に、にんまりと笑みが広がる。耳に優しい声を聞きながら、長沢は背筋にピリピリとした物が駆け上るのを感じていた。
 まさか。
 この男の方からそんな事を言って来るとは思わなかった。
 分り切った事だ。楢岡と自らの関係が"敵"であると言う事は、長沢には最初から分かり切った事なのだ。どう転んでも敵で、味方にはなり得ない。一端事が起これば容易く壊れて、御破算にせねばならぬ関係なのだ。それでもこの関係を続けたいと言うのは贅沢過ぎる。贅沢で、危険すぎる。
 続ける方法が無いでは無いのだ。二人の関係を続けるには、方法はたった二つ。二つのどちらかしか有り得ない。それは。
 互いに組織を裏切って二人で生きるか、或いは。組織に忠誠を誓い、ともに互いを利用し合って生きるか、だ。
 長沢は本気で驚いていたのだ。芝居ではない。
 以前から状況が分っている長沢とは違う。楢岡がここに行き当たったのは、恐らくは昨日だ。恋人が対象者になると言う現実にぶち当たってから、考えた事に違いないのだ。僅か一日足らずで考えて、腹を括ったと、そう言うのか。お前も腹を括れとそう言うのか。――だから。
 眠そうだったのか。長沢の直感通り、昨夜は徹夜ではないか。
 言葉にうろたえ、笑顔にうろたえた。はらはらと見守る視線の先で、恋人がにんまりと笑った。
 どうだ、ざまあみろ。笑顔にそう言われて誇られて、頭がごちゃごちゃになった。自らに問う。お前は今何を感じているのか?
 驚愕と不安、ほんの少しの安堵と山盛りの罪悪感。そして。そして分からない。得体の知れないモヤモヤとした感情の群れ――帰り着くのは罪悪感。そうだ、罪悪感だ。
 恋人に対して、長沢は大きな秘密を抱えている。恐らくは墓の中迄抱えて行く。それは決して恋人に明かされる事はない秘密だ。恋人は恋人で有っても同志では無い。同志以外が共有する事の出来ぬもの。それが長沢の秘密なのだから仕方が無い。恋人は。
 部外者で、敵だ。
 分っていた。理解していた。だがそれは、納得と言うものとは全く別物なのだ。冷静に判断して活動に移しても、そのズレは埋らなかった。埋らないズレは凡て罪悪感になった。会うのが嬉しくも怖かったのは、その罪悪感の所為だ。それを。
 恋人はあっけらかんと言う。
 上手くやんなさいよ。節度を守った"ズブズブの関係"。出来るでしょ。
 適わない。
 両手に持っていたカップを置くのもそこそこに、横の身体を引っつかむ。引こうとする肩口を掴み、そのまま唇にしゃぶりつく。勢い余って掠めた歯に、触れ合った唇が笑いを形作る。舌で舐めとって、顔から首に腕を絡める。不安定になる身体を、絶妙なタイミングで支えるしっかりした両腕に任せて絡みつく。
 味わうのはカプチーノ。甘くて苦い、楢岡の味だ。
 「うん」
 「ん?」
 「うん、出来るよ。節度を持ったズブズブ。……何しろ経験が有るからね」
 唇の隙間から言われた言葉に苦笑しながら舌を絡める。全く持って。いきなり抱きついて来たと思えば、すっかり臨戦態勢の整っている恋人をどうしろと言うのか。取り敢えず椅子から引き上げて抱き込み、腰を自らの腰に押し付ける。恋人のすっかり熱くなった股間を、まだ冷静な体に抱きこむ。
 「言うに事欠いて経験有りですか。――変態」
 股間を摺り寄せる。自らの興奮をはっきりと意識させる為に太腿で擦りつける。びくん、と腰をひいた恋人の頬に、素直に朱が駆け上がった。その場所に唇を押し付ける。
 「ちがっ、へ、変態って……これはそうじゃない、その……」
 口付ける。言い訳を続ける口の中に忍び込んで掻きまわす。熱い舌を絡め取って腰を抱く。分っている。長沢は知的興奮がそのまま生理的興奮に結びつくタイプだ。勿論、普段からそうした癖が有る訳ではない。興奮をもたらした相手が恋人だから、ストレートに下半身が反応しているのだ。
 熱く息づく身体を楽しむ。興奮を主張する部分を、自らの同じ場所に抱きこむ。だが直ぐ、ただ楽しむでは止まらなくなる。走り出したら歯止めが利かないのは長沢よりむしろ楢岡だ。慌てて身体と唇を離すと、とろんとした瞳が見上げた。
 「……惜しいけどね。続きは夜。……かな?」
 うん、と黒縁眼鏡が素直に頷く。遠慮がちに腰に腕を回し、相手の体温を確かめる。
 「楢岡君、今日、良いかな?」
 「Kちゃんさえ大丈夫ならね」
 「大丈夫だよ。ちゃんと場所決めて、後でメール送っておくからさ。20時30分で良いかな。夜、美味い飯食いながら話そう」
 飯ねぇ。呟きながらカップに残った一口を飲み干して、椅子から滑り降りる。長沢を片腕で支えたまま降りるのだから、これでなかなかバランスが難しい筈だが、体躯のがっしりした楢岡には難の無い事らしい。半ばあやすように腰から腕を放すと、耳許に口を寄せた。
 「飯じゃなくて違うもの食いながら話したら良いんじゃない?」
 言いながら、支えていた腕を解く。長沢が馬鹿と呟くのと、楢岡の身が翻るのでは僅かに後者が早かった。
 「ま、続きは場所を変えないとね。こうなったら直の事、カミングアウトはご法度だ。北村君に見咎められるのはご勘弁だ。委細、メールでよろしく。あ、Kちゃんちなみに。
 俺、ご立腹ですので、そこん所覚悟しといて」
 去り行く背中に思い切り、ええ、と抗議の声を上げるが、やんわりと却下される。意味ありげな笑みを残して店の表からさっさと出て行く姿を見送る。振り返らずに大股に去るのは、やはり怒っているからなのか、少しばかり振り返るのを期待していた長沢は、深々と溜息をついた。
 やられた。
 素直に思う。
 自分は衰えたのだ。いつでも判断が楢岡の後手に回る。
 楢岡の言う通りだ。僅か一日の差で知られてしまう情報なら、先に公開して相手に取り入る方が利口だ。情報を選んで活用すれば見返りがある。当然ながら、自分の立ち位置を理解していないと"裏切り者"になったり"二重スパイ"になってしまうから、細心の注意が必要だ。だが、出来ぬではない。一人では無理でも、楢岡が組むと言うのなら、出来るかも知れぬ。
 互いの"主人"を守りながらの、警察官とテロリストの共謀。しかも警官は、テロリストの本当の目的を未だ知らない。
 ほぼ不可能だ。だが有り得ないとは言えぬ。可能性は有るが、駄目で元々だ。それならば。
 やってみる価値は有る。
 カウンターを拭いて厨房に戻る。
 怪我の功名では有るが、舞台は整った。
 殉徒総会、公正党、(株)バッカー、娘を宗教に盗られた父、公安、所轄、秋津、秋津の使い、健政会、市民活動家達、秋津の草。かつての相棒。
 凡てが在るべき所に納まった。そして。
 凡ての場所にパイプが出来上がった。いよいよだ。長沢は思う。
 いやらしいと言われた。変態と言われた。だがどうしようもない。ワクワクする。始まるのだ。
 始めるのだ。
 やっと。
 

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