□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 草 □

 

 古いフランス語のespion(見張る者)がスパイの語源であるという。見張るのがスパイの主眼であるのなら、正しく今の冬馬はスパイだ。
 夕麻を見張り、榊を見張り、殉徒総会を見張る。今の主業務はそれだけだ。これがスパイであるなら、到って退屈な職業だと思う。
 作られた日常を過ごす。姉と二人で朝食を済ませ、姉は百貨店に、自らは外語学校に行く。自分にあてがわれたクラスに入り、あてがわれたテキストを読み、トウの立った生徒にゲリラ少年が使っていたスペイン語を流し込む。これでそれなりの給与を得、楽に暮らせるのだから日本と言うのは良い国だ。
 テキストを机の上で揃える。退屈だ。そう思う。
 じきに忙しくなるのだろうが、今は退屈だ。指令が早く来れば良い。来ればすぐにも上層部の言う通りに動く。指令通りの人間に近付き、指令通りの位置に就く。誰かの気を変えさせろと言われれば、何を使ってでも変えさせる。殺せと言われれば殺す。何であれやる。努力は惜しまぬ。
 夕麻と朝人の役割は違うから、来る依頼も性質が違う。恐らくは広告塔になるのは夕麻の方で、陽が当たる役目は凡て夕麻に行くだろう。朝人はその影で実務に就く筈だ。どんな実務であれ、凡てこなす自信は有った。掃除でも、殺しでも、何でも。
 今まで、彼が望んだ事で出来なかった事は無い。…ただ一つを除いては。
 目的の為には何でもやったし、やる事に躊躇しなかった。だから出来た。邪魔者は遠慮なく排除したし、賄賂でも何でも使える物は使った。目的の為には手段は幾らでも正当化出来るものだ。恥じる事は何一つ無い。そうして出来る度に、それは自信になった。ノウハウの一つとして組み込まれた。暴力も、SEXも、殺しも。
 もとより、不可能な事は彼の世間に入って来ないし、興味も無いし、夢も抱かない。望まぬ事は出来ずとも、何の不足も無い。側に転がる実現可能な事柄を、彼は凡て掴み取って来たのだ。今もまた、彼が手を伸ばそうとしている物は、目の前にぶら下げられた殉徒総会とその教祖だ。
 近くに有るのだから、やり方さえ間違わねば、必ずや掴み取れるだろう。
 冬馬の今迄の経験通りに。今はこの「話」の成就を望むから、出来ぬ事は恐らく無い。
 今迄彼が心の底から望んで叶わなかったのは一つだけ。たった一人の……最も欲した人間の気を、変える事が出来なかった。それだけだ。
 それ以外凡て手に入れたのだ。何もかも。だから恐れも不安も抱かない。ただ。――退屈だ。
 「先生」
 声に目線を上げる。
 ばらばらと去って行った生徒が半開きにしていたドアから、見慣れた顔がそっと覗いていた。
 「おや」
 扉の隙間から入り込み、後ろ手にドアを閉める。緊張した面持ちだが、肩を竦めて笑う仕種には自信が伺えた。
 思いと言葉が珍しく合致した。本当に、おや、と思った。その出現そのものと、僅かの間に変った雰囲気の両方に。
 気弱な表情の似合う女性の印象だった。優しくて優柔不断で、弱い。そう言う印象だったのだ。例え利用されても、文句の一つも言えない。そう感じたから踏み込んだのかもしれぬ。回転の良い頭脳は好きだ。豊かな胸と大きめの尻も気に入った。身体の相性も悪くなかった。だがそれだけだ。気持ちが引っかかる何物をも持ち合わせていない女性だった。
 「お久しぶりです。八日?ぶりですよね」
 酒井 美也。SOMETHING CAFE常連、欄天堂大学付属病院の酒井内科部長医師の愛娘。
 「久しぶり…―かな?ここにはもう来ないと思ったが」
 くす、と桃色の口許が笑う。こんな笑い方をする女だったろうか。
 週明けの月曜日。奪還騒動から一週間余り。久しぶりと言う表現が使える、ギリギリのラインだろう。
 「何故ですか? 来ると、先生が何か都合悪いとか…」
 灰色の頭が、笑いと供にゆっくりと振られる。態度のどこにも悪びれた様子もなければ、僅か程の気まずさも頑なさも無い。分っていた事だが、美也は内心の落胆を隠せなかった。この男が"都合が悪い"等と、思う筈が無いのだ。僅かでも気まずいと感じる訳は無いのだ。彼女の事等気にしていないのだから。
 もし僅かでも彼女の事を気にしていれば、必ず態度に表れる筈だ。僅か数時間の事でも、睦み合った相手に何らかの気持ちがあれば、唐突に現れた相手に反応を見せる筈なのだ。強張ったり、驚いたり、構えたり。だが一切、それは無かった。実に自然に、冷酷に。彼は微笑んで見せたのだ。
 「いや。だがもう来ないと思っていた。奪還されて総会を抜けた人間は、総会との関わりを避ける。俺と関わりたいとは思わないだろ」
 こんなに静かで透明で、裏側に何もない笑み。
 「先生は今も総会に?」
 「ああ」
 「お姉さんがいらっしゃるからですか」
 「うん」
 「先生は総会に何の魅力も感じていない癖に。何故、換えの無い大事なお姉さんをそんな所に置いて置くんです」
 言葉の途中から向けられる瞳に、美也はぞくりとした。縁だけ黒い灰色の瞳は無遠慮に美也を見つめて来る。真っ直ぐに見つめたまま、同じ目線の高さに頭を低くする様は、まるで肉食獣だった。対象を真っ直ぐに捉えたまま、瞳も頭も全くブレない。いつでもお前の咽喉笛は噛み切れると言っているような、動物的な動作だった。動物的で、冷静だった。
 獲物を見る目は静かで鋭く、酷く、本能に突き刺さる。目の前にいるのは強い雄なのだと、身体が思い知る。大型の肉食獣。噛み殺す為の牙を持った生物。日本では初めて見る。
 その顔に浮かぶ笑みに目が離せない。牙の味はどんなだったろう?
 「何だろう。変ったな美也。以前ならそんな事は言わなかった。総会を抜けるとそんなに変るのか?それとも…」
 「知りたいですか?先生。私ね。優秀なネゴシエータが付いたんです。きっと先生は興味を持たれると思うんです」
 肉食獣の赤い舌が薄い唇を辿る。前歯の凹凸を辿って犬歯でつっかかる。あの味はどんなだったろう?
 「先生、外で話せませんか。ここは良くないでしょ。お互いの為に……」
 しなやかな身体が反動もなく身を翻す。
 一言だけ呟くと同時に大股に歩み去る。言いたい事は美也に直ぐ伝わった。
 ばらばらに出よう。現地で落ち合おう。店の名は「パティスリー SaSaNo」。一度だけ供に行った事の有るミッドタウンの喫茶店名。
 大きな背中が美也の視界から掻き消える。余りにも静かで、一瞬、あの存在は幻だったのかと思う程だ。だが幻でないのは。鼻先に残る微かな彼の匂いと、耳許で打っている心臓の音が証明している。
 一人きりの教室で深呼吸をする。目を閉じて、共有していた空気を吸い、目を開いて吐き出す。心臓の音は今も耳の中にあった。
 一人きりだったら、きっと迫力負けしていたに違いない。だが今の彼女には有能な交渉人が付いている。勇気が出た。"後ろ盾"と言う存在がこれ程に力強く感じられるものだとは思いもしなかった。
 "後ろ盾"の穏やかなまなざしと、決然とした物言いが、彼女をしっかりと大地に立たせてくれる。つい昨日、"後ろ盾"は彼女に言った物だ。
 君の望みが叶うかどうかは分からない。けれど約束しよう。彼を必ず交渉のテーブルにつけて見せる。そこから上手く行くかどうかは君の腕次第。良いね?
 まずコツは、相手の呼吸を良く読む事。大丈夫。君なら出来るよ。
 扉を開ける。ぎっしりとテキスト類の入った鞄を肩に引き上げてドアを出る。いつもより大股に廊下を通り抜け、アスファルト舗装の歩道に出る。
 冷たい風が頬に心地良かった。交渉人(ネゴシエータ)に君なら出来ると言われのだ。だから出来るのだ。絶対に。
 

 日曜午前のSOMETHING CAFEは静かだった。
 厨房で北村が奏でる聞きなれた生活音に耳を遊ばせながら、長沢はゆっくりと深呼吸をする。鼻腔の奥に渦巻く香りはモカ・サナニ。目の前の人物を見つめる。
 目の前には緊張で少しばかり白くなった女性がいた。酒井 美也。明晰な頭脳と女性らしい穏やかな外見を持つ、酒井医師の愛娘。殉徒総会から生還した、いまや一人の闘う乙女だ。
 酒井 美也の要求はクリアだった。到達目標もクリアだった。
 要求は長沢の"協力"。到達目標は"岐萄 朝人の開放"。
 岐萄 朝人を殉徒総会から奪還する為に、やるべき事は凡て美也がやる。だから知恵を貸して欲しい。彼女の要求は純粋にそれだけだ。他の条件は一切無い。
 真剣な表情を見守りながら、つい顔が綻んだ。良いなぁ、と素直に思った。
 様々な表現を駆使していたが、何の事は無い、彼女は恋をしたのだ。既存の日本人とは違う、強烈な存在に恋をしたのだ。強引で野生的で魅力的な異性に惹かれたのだ。だが。
 それだけではない所が少々厄介だ。彼女は恋をしただけではない。彼の内にカリスマを見出したのだ。
 何故彼女がそう感じたのかは分からない。ただ恋する乙女心が引き起こす思い込みかも知れぬし、或いはもっと違う何かの勘違いかも知れぬ。だが、もしかしたら女性特有の勘が、もっと深い何かを見抜いたのかも知れぬ。彼女は、もう一段階上の価値を彼に見出だしたのだ。
 もっと多くの人を救う人です。彼女はそう言った。
 自分が彼を救うのではなく、"私達"が救って貰う為に、殉徒総会から開放せねばならぬと。これは。
 彼が救世主になると言う予言だ。或いは俗っぽく言えば、教祖になり得ると言う言質だ。
 長沢は、美也の告白に溜息をついた。
 昨年の末からずっと、長沢は驚いてばかりだ。自らの頑なな思い込みを指摘されて、度肝を抜かれてばかりなのだ。
 自らの心すら見えていなかった男は、最愛の人間を見誤り、敬愛する存在を見誤り、常連客を見誤り、宗教団体を、市民団体を、その到達点を見誤った。そして今、かつての相棒の真の価値をすら、見誤っているのかも知れぬ。
  長沢にとって冬馬はやはり目下の存在なのだ。能力があろうが体力があろうが、やはり指導し、導いていくべき存在なのだ。
 自らの枠から離れて、彼その物を公平に判断した事など無いのだ。
 ―― 判断した事もないのなら。
 見誤る所か、自分は彼を見てもいなかったのかもしれぬ。相棒を。共に命も賭すと決めた相棒を。
 「これで必要な事は大体聞いたと思うので、一回纏めさせてね。間違ってる所があったら、どんどん訂正よろしく。
 えーと、……美也ちゃんが開放すべきだと言う相手は、岐萄 朝人。25歳。岐萄友充の甥っ子さんで、最近迄海外にいて、帰国したばかり。
 NOAH外語学院のスペイン語講師で、長身痩躯、ボクサー体型。灰色の瞳と髪で、シャープなハンサム。ぶっきらぼうで口数少なく、辛辣。身のこなしから、格闘技をやっていたか、"そう言う職業"の経験有りと思われる。
 姉、岐萄 夕麻。二つ年上、27歳、未確認。物凄くスタイルの良い美人。アパレル関係に勤めている。
 …で、と。初めて会ったのは新春シンポジウム会場。凄く目立つ二人組がいて、それが岐萄姉弟だった。夕麻が殉徒総会に加入し、オマケのように弟も加入。婦人部に入って、現在順調にレクチャー中。弟の朝人の方はそのやり口が気に入らないと、門脇短期大学講堂でのシンポジウムに殴りこんで来た。榊 継久に会わせぬのなら警察に行くと。
 談じ込んだら、ご本人が登場……と。ご本人が…ねぇ。クレーム係を次期教祖の呼び声も高いご本人がやると。
 ……ここまでは間違いない?」
 美也が神妙な顔で頷く。準備中の札のかかった、誰もいない喫茶店の奥の席は、奇妙な緊張感に包まれていた。
 いつも、人が安らぐ微笑を絶やさぬ店主は、今は眉根に皺を寄せて俯いている。組んだ腕の上で髭を悪戯するのは、恐らくは店主の癖なのだろう。顰め面と相まって、思考の淵に沈んで行く様子が良く見える。悩んでいると言うよりは、やや怒っているようにも見えるのは日頃の表情とのギャップの所為かもしれない。
 「不思議だねぇ。若造を重く扱い過ぎだ。いやね。
 ご対面の瞬間は俺もいたので良く分かってるが、あれは次期教祖が一介の会員に取る態度では無かったよ。岐萄友充ともなれば、総会側の利用価値は莫大だが、自明党の影のフィクサーの使用法を間違えると大きなマイナスにもなりえる。慎重に扱うのは分るけど、あれは一体何だろう?」
 さあ、と美也が小首をかしげる。
 「榊先生…榊氏については、殆どの人が良く知りません。里中先…教祖の信が厚いとは聞いていますけど、顔も良く知らないし。私はビルの入り口で初めて会いました」
 「初めて? でも美也ちゃん、恭しくお辞儀していたじゃないか。何で分ったの」
 「そりゃあ…分りますよ。両脇にあれだけ多くの人を従えてれば。威圧感も凄かったし、竦みました。マスターがどこに居らしたか、私は全然分からなかったけど、あそこにいらしたなら分ったでしょ?」
 劇場効果か。美也の言う通りだと思う。
 舞台設定は整っていた。わざとらしい程に、両雄の対峙を演じてくれた舞台だった。両雄、と胸中で呟いてつい吹き出す。何だ、そう言う事か。
 「え?何ですかマスター?」
 「ああ、いやいや」 
 何の事は無い。舞台はとうに始まっているのだ。榊も岐萄も供に秋津である事は、今や間違いないのだから、あれは殉徒総会の軸となる秋津の草と、その遣い魔となる秋津の草の対面の見せ場だ。出来るだけ多くの、それなりの地位にある殉徒総会員に見せつけ、喧伝する為の一幕だ。そこを。
 部外者が邪魔をしたと言う訳だ。それは実に、腹立たしかった事だろう。秋津も、殉徒総会も、榊も。
 ……岐萄 朝人も。
 「美也ちゃん。申し訳ないがずばり聞くよ。君、岐萄朝人と愛し合って来たんだね?」
 びく、と美也が顔を上げる。慌てて視線をそらすが、瞬時に朱の上る頬が何よりもの肯定だった。
 「ごめんね。ただ、そうとしか思えないんだ。殉徒総会はあの時、"VIP"の到着予定が狂ってバタバタしてたんだ。連絡も取れなかったVIPがいきなり来て、しかも榊先生御自らが迎えられるとの事でバタバタ。そうしたらそこに、君を伴ったあの青年が来た。
 君はきちんとしていたけど、あの青年と来たらシャツの前はほぼ全開、君を脇に抱き寄せて、呆れるくらいのアピールをしてた。そこに君の今の証言を加えると答えは一つしか導き出せないんだ」
 恨めしげに丸い瞳が見上げる。小さく頷くのを見ると、どうしても酒井医師の顔が目に浮かんで複雑な気持ちになった。
 酒井医師には心の底より同情する。何と言っても相手が悪過ぎる。冬馬が若い女性にとって魅力的だと言うのは良く分るが、同時に最も性質の悪い部類に入るのも真理だ。欲望に対して奔放で身勝手だし、労わりに欠ける部分も多い。何よりも。
 どう転んでも、いずれテロリストではないか。
 しみじみ思う。これが瞳美で無くて本当に良かった。
 「絶対、お父さんに言わないで下さいね。そのう……私、今迄誰かと交際した事も無いので、初めてでこれだとお父さんに何言われるか分からないし」
 「言わない。…と言うか、絶対言えませんよ俺には……」
 微かに頬を紅潮させたまま、お洒落なホテルの一室に居たと言う。マリネと言う突飛な名前だけれど、オレンジ色の可愛いビルで、ネオンがトッピングの格好に取り付けられていた。最上階の部屋から見ると、丁度マリネに掛かった玉葱ソースの部分に窓が有って、オレンジの壁に白枠の窓が可愛かった、そうである。
 長沢は凍り付いていた。ホテルは冬馬が選び、事の凡ては冬馬が導いたと言う。
 部屋も、初めての手順も。部屋の備品に必ず付いている避妊具などは一切使わずに、4時間近くも睦み合ったと言う。しかも、次の約束は一切無しに、事が終わると慌ててステラミラー・ビルに直行したのだと。
 呆れた。―― あいつめ。
 「……み、美也ちゃんには済まないが、とんでもない野郎じゃないかそいつは」
 いえ、と慌てて美也が首を振る。話し過ぎたかしらと赤くなった顔を擦って、改めて長沢に瞳を戻す。
 「私が良いって言ったんです。岐萄先生は悪くありません。ちょっと傍若無人だけど、ああ言う人は絶対必要だと思うんです。
 その、マスターから見れば馬鹿な女の子ののぼせた話だと思います。でも私、この一週間、ずうっと考えたんですよ。私ね、一週間前まで殉徒総会員だったんですよ。本当に。里中先生を信じて頑張ろうと、本当に思って家を出たんですよ。芝居でも、作りでもないんです。本当にそう信じてたんです。でもそれが一撃で、がぁんと崩れました。
 悩みは価値のない物だ。そうばっさり切り捨てる人が現れたから。
 何と言うのかな、"○○の悩みは下らない"とか"××で悩む必要は無い"とか言われる事は多いですよ。相談に乗ってくれた人も、いなかった訳じゃありませんでした。一番強力に相談に乗ってくれたのは総会員でした。相談して、悩みは信心で晴らせると聞いて、そんな筈無いと思ったけど、代償行為としては有効でした。でもそんな時、岐萄先生に会ったんです。
 "悩みは価値が無い"って言われました。悩まないし価値は無い。だから救いは必要ない。じゃあ考えの無い人なのかと言うとそうじゃない。考えるし、動くし、色々知ってるし説得力もあります。私、初めて聞きました。"そう言う人間にとっては悩みこそが人生だ"なんて。悩みこそ人生なんて、悩む為の人生なんて、嫌だわ。
 それで考えました。ええ、そうかな?と思って。すぐに、そうだわ!と納得して、気付いたら、殉徒総会に居る意義が見つけられなくなってました。
 私が単純なのかも知れませんけど、私に足りない物を目の前にぶら下げられた気がしました。足りない物は分ってます。強さです。自分のままで生きて行く強さ。我侭を言う事ではなくて、生きると言う強さ。
 あ、勿論分ってます。強さなんてもの、容易く手に入れられる訳も無いって事。でも、悩んでも仕方ないなら、やれる事は全部やってみようと思ったんです。
 私は学生です。限界が有ると思います。でも全力で考えて、調べて動きます。今までの私にとって悩みが人生だったなら、それを壊さないと始まりません。たった一つ自信を持って言える事は、私のこの行動は、…行動の到達点は絶対に間違っていないって事です。
 彼は必要です。私にとって、…もそうですけど私個人と言うよりは、ええと……この、日本に?」
 話の前半までにこやかに聞いていた黒縁眼鏡の中の目は、途中から暗くなった。日本と言う言葉を聞くと同時に眉根の皺を深める。心情の変化が美也にさえ良く分った。
 「君個人と国を比べるのには無理が有りすぎるよ」
 「すみません」
 「国が変る為には必ず痛みが必要だ。特に今の日本では、根本的な変革が不可欠だ。国の強さと言うのは、勿論多々あるけれども、詰まる所経済力と武力だ。
 日本は経済大国では有るけれど、軍事大国とは言えない。開戦の権利をかなぐり捨てた、防衛一方の"平和国家日本"が武力を正面から行使する為には、憲法も法規も、自衛隊規も全面改正が必要不可欠だ。その為には多くの血も流れるよ。君が言う国の強さってそう言う事だ。
 君個人とは全く違う。二つを並べるのは間違いだ」
 気の弱い少女であったら、恐らくは黙り込む場面であった筈だ。口調は静かで穏やかだが、それだけに"叱られた"と感じる物言いだった。美也自身、思うのだ。つい先日までの美也ならば、確実に口を閉ざしていた。長沢の感情を慮って、これ以上は一言も前進的な言葉を言えなくなったに違いないのだ。
 黒縁眼鏡をじっと見つめる。恋した青年の、怒りに満ちた熱さとは全く違う気配を見つめる。穏やかなこの表情の中に有るのは、この表と同じ物とは思えない。
 「私の考えが子供っぽいのは判ってます。でも、"そう"感じてるんです。勘違いだと笑われても仕方ないです」
 「"そう"……?」
 はい。丸い顔がこくりと頷く。
 「日本は今、混乱していると思います。きっとこれから混乱は強くなって、混乱期、動乱期に入って変って行く。血も流れるかもしれない。私達日本人は慌てふためいたり、悩んだりすると思います。でも、岐萄先生はあのまま。
 マスター。有事にあって平常心のリーダーと言うのが日本が今一番必要とするものじゃないでしょうか」
 黒縁眼鏡が押し黙る。眉間の皺が驚きに伸びて、暫し固まる。組んでいた腕を解き、大きく深呼吸をしたと思うと破顔する。髭に囲われた顔の中で、優しい目許が眩しげに笑う。参りました、と頭を下げられて、少女も慌てて頭を下げた。
 「あッ、いえその、生意気言ってすみません。買い被りだと笑われちゃっても仕方ないんです。こんなのただのドタ勘なんですから」
 いやいやどうして。長沢は美也の気まずそうな顔を見上げた。
 勘の重要性は長沢が一番良く知っている。時折、女性が見せる驚くべき洞察力の深さも、長沢は良く知っている。大概は欲目であったり見込み間違いだったりするが、それに自らが説得される場合なぞまず有り得ない。
 なるほど、"VIP"なのだ。
 秋津の二人の草。殉徒総会の次期教祖とまで目されるようになった榊 継久が、周到な舞台を用意した相手が一介の総会員では弱過ぎる。広告塔かニューリーダーか、いずれにしても、次期教祖に釣りあうだけの存在でなければなるまい。であるならば。
 「同じニューリーダーにするならば、公正党のニューリーダーじゃなく、日本のニューリーダーになって貰わないとね」
 丸い目が、限界まで丸くなってから笑いに細められる。はい、と答える紅色の頬が輝いていた。
 では。長沢が言う。
 「出来るだけ早急に彼に会おう。勿論、君がだよ美也ちゃん。その為の作戦を立てよう。回りくどい手は要らないよ。真っ直ぐに話を仕掛けよう。君の望みが叶うとここで確約は出来ない。でも一つ約束しよう。彼を必ず交渉のテーブルにつかせる。そしてこちらの提案に頷かせるよ。まずはそこからだ。その先上手く行くかどうかは君の腕次第。良いかな?
 なぁに大丈夫。難しい事は無いよ。美也ちゃんなら出来る。まずコツは、相手の呼吸を良く読む事。そう、それだけなんだ」
 

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