□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 今話題の、とか隠れたブームの、とかいう接頭語が付く場合、大概はそれは冬馬とは関係が無い。この店もまさしくそうだ。
 「パティスリーSaSaNo」を、最初に見つけたのは長沢瞳美だった。
 彼女が見つけて家族の待ち合わせ場所に選んだから、冬馬はかつてここを訪れたのだ。その時にこの場に足を踏み入れたから、その後に近辺を通りかかった時、休憩場所にこの店を選んだ。だから今ここにいる。
 欄天堂大学付属病院の内科医の娘、酒井 美也を待ってここにいる。
 会う予定は無かった。ひと時の性的快楽を共にしただけで終わると思っていた。冬馬にとっては彼女は一介の殉徒総会員に過ぎなかったし、そこから抜けてしまえば彼の人生から退場する通りすがりに等しかったのだ。
 冬馬が着いて5分足らず。美也が現れた。視線を動かす事もしない冬馬の向かいの席に、至極自然に滑り込む。店中に慌てて冬馬の姿を探すでもなく、キョロキョロと辺りを見回すでもなく、最初からこの席で待ち合わせしていたのだと言わんばかりに腰掛ける。コートを背にかける仕草も、緩やかで自然だった。
 灰色の瞳が真正面に戻される。縁だけが黒い、暗い瞳。思えば、この人の瞳はこんなにも勁いのに、何故いつも暗いのだろう。
 「お待たせしました」
 笑顔を向ける。無表情な整った貌にやさしい表情は無かった。
 「……いや。それで」
 「それで…?」
 「ネゴシエータは何者だ」
 直截な物言いだった。彼が先ほど美也の誘いに応じたのも、思えばこの一言がきっかけだった。ネゴシエータ。交渉人。知りたければ話をしようと言った途端、彼は踵を返したのだ。
 「先生、もうご存知なんじゃないですか…?」
 暗い灰色の瞳に反応は無い。表情を動かす事も無く、まっすぐ見つめて来る瞳には動揺も迷いも無い。その潔さに惹かれたのだが、今はそれが何よりも手強い。穏やかな呼吸と勁い瞳からは何も読み取れないのだ。
 ゆっくりと、否定の意味で首が振られる。美也は苦笑した。
 答えなど、恐らくは一つだ。先程からずっと、冬馬の頭の中に鳴り響く警鐘が凡てを知らせていた。
 分かっている。この環境で、気の弱い女が再び男の許に顔を出せる条件など一つだ。後ろからサポートする存在が出来た。厄介な知恵袋が付いたのだ。その知恵袋の素性の予測程、簡単な事はこの世にない。嫌と言うほど分かり切っている。
 最悪だ。警笛が鳴り止まぬ。
 冬馬の予測が正しければ、彼女の言う交渉人は彼女を手に入れた時ほくそ笑んだに違いない。麗しき獲物よ、良くぞこの腕の中に飛び込んで来た。そう、諸手を挙げて迎え入れたに違いないのだ。心中で舌を打つ。
 悪企みなど一切しませんと言う顔をした、100%善意の協力者が彼女の後ろについている。穏やかに笑って、優しい声で囁いたに違いないのだ。
 大丈夫、君ならきっと、出来るよ。
 「先生は、その人にもう、一度会ってるんですよ」
 知らねばならない。跳ね除けても除けられない存在ならば、此方も相手の状況をよく知り、それに対応して動かねばならない。
 「……へぇ」
 「私も寸前まで同じ場所にいたので、気づいてても良さそうな物ですけど、全然無理でした。寸前でバッカーさんの車に入ってしまったので、決定的シーンにはいませんでした。でも先生は。
 その人、先生とは間近で会ったって言ってました。物凄い近くで。近視でも良く顔が見えるぐらい、至近距離で会ったって。
 総会ビルの前で、榊先生と話している時、割り込んだ人、覚えていますか」
 舌を打つ。
 情景がフラッシュバックする。あの時。榊が冬馬の頬に手を掛けようとした正にその瞬間、横から出てきた腕がそれを留めたのだ。
 その場の全員が、視線が音を立てる程一斉にその腕の持ち主を凝視した。一瞬、あの場の支配者になったのは、全く無名の部外者だったのだ。注視の直中にいたのは到って平凡な、平凡な容貌の男だった。特徴のない痩せた中年男。誰もが記憶に残さぬような平凡な男が、その場の視線を凡て奪って言ったのだ。
 ―― 貴方を良く知っている……。そう、良ぉく、知っているよ……。
 「――忘れる訳が無い。あいつか」
 長沢 啓輔。冬馬には愛おしく、朝人には憎々しい男。半秋津で有りながら、最も油断ならない食わせもの。
 青年の表情に浮かんだあからさまな苛立ちに美也は驚いた。驚いて、思わず笑う。速やかに動きをトレースする灰色の瞳にぎろりと睨みつけられて肩を竦めるが、笑いは止まらなかった。御免なさいと呟くが、詫びる気持ちは薄かった。青年の直接的な感情表現に、抱いたのは好奇心だった。
 「ごめんなさい。先生があんまりはっきり苛立った顔をするものだから。でも、何でですか?あの時しか会ってないのにそんなに…。初対面ですよね?」
 形の良い顎がこくりとうなづく。舌打ちのおまけ付きだった。
 「あの時だけで充分だ。白毛混じりの小男だろう。実に絶妙なタイミングで邪魔に入って来たんだ。こっちは何度も総会に文句を言いまくって、わざわざ出向いてやって、やっと大物に会えた所だったのに。これで言いたい事を言ってやれると思った、正にその瞬間だ。本当に、その、瞬間だ。あの男が出て来た。あんな絶妙な邪魔はないぞ。
 ―― 全く、忌々しい」
 青年の言葉を、つい口をあけて聴く。そのまま暫し動けず、口を閉じると一緒に吹き出す。また鋭い一瞥を貰うが堪えられなかった。
 情景が目に浮かんだ。およそSOMETHING CAFEの店主は穏やかでにこやかで、人の心を癒すのがうまいのに、同時に人の怒りを煽るのも上手いらしい。殉徒総会の古参の一部には、彼を蛇蝎の如く毛嫌いする人も少なくないと、(株)バッカーのスタッフから聞いたが、どうやらそれは真実のようだ。たった一度、ほんの一時会っただけの青年に、これ程はっきり拒絶されるのを見れば得心が行った。好かれるのも嫌われるのも、中途半端ではないらしい。
 暗い両目に浮かぶはっきりとした怒りは冷ややかで、しかし強い。美也は暗い両の瞳を覗き込んだ。最初は一瞥されるだけで縮み上がったその瞳も、愛おしいと思えば見つめられた。鋭い瞳に浮かぶ熾きの様な怒りについ見惚れる。
 「あの男か」
 「その通りです。以前お話した、"SOMETHING CAFE"と言う喫茶店のマスター。殉徒総会とやりあった"犯歴"ありのマスターです。長沢 啓輔さんといいます。それが私のネゴシエータ」
 交渉人。後ろ盾。冬馬は舌を打った。心中で打ったつもりだったが、実際に打ったのだろう。目の前の女が楽しそうに微笑んだ。
 交渉人が美也に教えた事は、今はまだ僅かだ。だが、今の時点で過不足の無い最小限を言って聞かせた。美也は今、そう痛感している。交渉人は言ったものだ。
 交渉には二段階ある。一段目は"交渉に持ち込む"事であり、二段目は"直接交渉"だ。一段目が適わねば、二段目は存在しない。重要なのは一段で、この一段が完璧なら、二段目の成功率はがんと上がる。成功の秘訣は一段目さ。さてこの一段目の成功だが。交渉に持ち込む為にはね、美也ちゃん。
 相手、殴るといいよ。
 悪戯っ子のような笑みで言われて、美也は大層戸惑った。
 「ふうん」
 灰色の双眸が美也を睥睨して反らされる。はっきりした嫌悪。
 「最悪だ。NO。美也は味方の選択を誤ったな。行くぞ」
 青年が席を立つ。交渉決裂。行動はそう言っていた。美也は大きく溜息をついた。失望したからでも、落胆したからでもない。
 交渉人の言った通りだったからだ。
 殴ると良い。……あ。と言っても本当に殴るんじゃない。相手が嫌だと思う事を、まずは見せ付けろと言う事さ。君のターゲットは非常に情動的でストレートだ。自分の感じた不快感を相手にそのまま叩き返すタイプ。ならばその不快感、まずは吐き出させて見るんだ。それが相手への手がかりになる。
 不快感を吐き出す時の彼の呼吸、目の動き、凡て。それを良く知れば、きっと君なら彼の心が分かるんじゃないかな。
 え?不快感をどうやったら引き出せるか?それは簡単だ。君のバックをちょっと話して見れば良い。
 クス。美也の笑いに冬馬の動きが止まる。怪訝そうな瞳が振り返る。
 「あ、すみません」
 呼吸を読めと交渉人は言った。だが、この人にそれは必要無い。心情で呼吸は動かない。だが動く時は。
 呼吸など読むまでも無く、はっきりと叩きつけて来る。瞳で。動作で。その凡てで。
 「ネゴシエータの予言どおりでびっくりしちゃったんです」
 「……何?」
 灰色の瞳に正直に驚愕の矢が走り抜ける。
 「だって先生、さっきは黙って出て行ったのに、今度は"行くぞ"と断ったんですよ?」
 「それが何だ?」
 「先生、凄く不愉快だったんですね、その人が」
 「そう言ってるが」
 「気になってしまうくらいに」
 ああ。美也は思う。暗い瞳の原因のひとつは、睫毛が長くて瞳の上部を覆い隠す所為だ。その所為で瞳に光が入らないから暗く見える。驚きに広がると、こんなにも光が入るじゃないの。暗いだけじゃなく、複雑な瞳の色。
 「先生。私、週に二日教室に通います。月、木の二日。そう言うコースですよね?」
 行くと言った筈の青年は、席を立ったまま動かない。長身から美也を見下ろし、一歩も動かずに不機嫌そうに佇んでいる。
 「私、その度に先生にお話に行きます。嫌がっても強引に話しかけるし、後を付回しちゃいます。でも多分……先生もお聞きになりたいでしょ?」
 灰色の瞳が美也を縫い付ける。なんと鋭くて、正直な瞳なのだろう。正直な人なのだろう。
 「どうぞ?行かれるんでしょ?」
 ち。
 舌打ちと共にしなやかな体が方向を変える。伝票を掴んで行く程には冷静なのだが、明らかにいらだった態度が図星なのだと知らせてくる。確信が有った。
 彼は木曜まで、私の話が気になって仕方ない。話を自分から打ち切ってしまった事で、話題が何に移る筈だったかをこれから三日気にするのだ。そして。
 二度と途中で席を立つ事は無いだろう。
 呆れる。彼ではない。ネゴシエータに。自分自身がどれ程彼の逆鱗に触れていたかを知った上で、そんな事まで利用する。そしてそれが図に当たる。ネゴシエータの言う通り、彼が交渉のテーブルに着く。勿論彼は否定するが、やがてそうなる。確信が有った。
 彼を交渉のテーブルにつけると約束する。そう言ったネゴシエータの言葉を反芻して微笑む。味方の選択は大正解。心中で呟きながら珈琲を口にする。
 「…マズ…」
 小さく吹き出す。以前は分からなかった珈琲の雑味が舌に残った。
 SOMETHING CAFEの珈琲を飲みに行こう。選択は、大正解だ。
 
 20時30分。
 懐中時計の針はそんな切りのいい数字は嫌いなのだ。すでに長針は真ん中を大きく回って、直もカチカチと進んでいる。
 仕事なのだから、多少の時間の前後はあるものだ。長沢は迷わず先に始める事にして、突き出しとビールを頼んだ。考える事は幾らでもあるから、退屈はしない。
 「健全な政治を取り戻す会」こと健政会のメンバーは、楢岡の予言どおりに反省会にやって来た。
 前日のデモで軽い乱闘事件が起きた。彼らの主張はいつも反公正であるから、邪魔者の数は多い。だがそれにしても、沿道から野次を飛ばす、ずっと付いて来る等の比較的大人しい物が多く、堂々とデモの隊列に突っ込んで来る事はそうはない。
 だが、その日の邪魔者はいつもとは勢いが違っていた。最前列の日の丸の旗手に飛びつき、旗ごと彼を投げ飛ばした物だから、メンバーの若手が反応した。周囲をどっと取り囲み、邪魔者を引き剥がして引き倒し、一人が男の顔面を殴った。
 闘争心は有って然るべきだし、本来闘いは仕掛けられたら倍返しが正しいのだが、行儀の良い法治国家日本では勝手が違う。
 デモを妨害して殴り込んだ男より、過剰防衛した側がより重い罪に問われるのだ。デモ側が保守であるか、日本人である場合は。
 もっと上手いやり方を覚えねば、健政会自体が危ない。現時点の健政会は浅井 慎一のみが求心力を持つワンマン団体で有るのだから、彼が押さえられる様な事があれば、空中分解も有り得るのだ。浅井の周囲で軽率な行動はまずい。
 中心的人物の数人と、手を出した本人だろう青年一人が、店の隅で厳しい表情を並べていた。
 長沢はその場に珈琲とサンドイッチなどを散りばめた大皿を運び、にこやかに声をかけた。
 武勇伝は男は皆大好きですよねぇ。味方を巻き込まないように、除名されてから殴り込みとか、憧れます。ただ、現実では一度しか使えない奥の手だから、取っとかないとなりませんねぇ。
 全員が話の前半では怪訝な顔で店主を見やり、後半で小さく頷いた。
 さりげない世間話のようだが、実際、それに尽きる。身を捨てて突っ込むか、続ける為に身を守るか、選択肢は詰まるところその二つなのだ。
 長沢自身、ずっとそのジレンマの中にいる。
 追い詰められているのは、日本内の保守と本能を失わぬ日本人だ。既に多数派は外国人と、外国人を守るべく動く、"平等"を盲目的に正義と信じる無知な日本人に移り変わっている。前者日本人は既にマイノリティだ。パルチザンだ。追い詰められた日本人は今、生き残りの道の模索に必死になっている。
 長沢は、手っ取り早く敵にダメージを与え得る"破壊活動"を夢に見る。だがそれが出来るのは、普通の人間は恐らくは一生で一度限りだ。弱い長沢が独力で、二度目の攻撃が出来るとは思えない。適材適所で、ブレインとして収まれるなら、数回以上の攻撃は可能だが、追い詰められた現状ではそれが叶うかどうか。一度きりなら。
 最大限、有効に使える手を模索せねばならぬ。長沢だけではない。全健政会員が。……全日本人パルチザンが。
 そして恐らくは、似た様なものなのだ。…秋津も。
 すう。
 空気が頭上で動く。俯いて思考に沈んでいた長沢は顔を上げ、そこで自分を見つめる二つの目に射竦められて固まる。睫毛の厚い目許がにやりと笑った。
 「たっぷり5分30秒。良くそれだけ考え込めるねぇ」
 息を呑んだまま、悪戯っ子の様な瞳を睨め付ける。頬杖を付いたポーズは、確かに時間の経過を感じさせる。
 「〜〜〜〜。黙って入って来て座ったのかよ」
 「うん。考え込んでるの見てた」
 「何で。声掛けてくれれば良いじゃないか。俺、君の事待ってたんだから…」
 「考え込む顔が知的で素敵v」
 黒縁眼鏡の奥の目が、驚きに丸まってから伏せられる。僅かに上気した頬は、酒の為か羞恥の為か判断は付かない。
 楢岡は目の前の男の顔を見つめていた。
 健政会に食い込みつつある、性質の悪いアジテータ。対象者。元新都銀行営業部長。あるいはジェノサイダ。そして、10年以上も思いつめた現在の恋人。
 見守る顔が持ち上がり、上目遣いに一瞬睨み付けた後、ぐいと近づく。
 柔らかい毛の感触と、濡れた唇の感触。そっと触れて吸い付いて、そのまま離れる。
 楢岡の方が、反射的に周囲を見回した。
 幸いにして座敷は襖と柱で複雑に仕切られていて、こちらを見ている視線は無い。常連である筈の長沢はその構造を知った上の所業だろうが、それにしても。カミングアウトはしないと言い切り、周りの目を気にする長沢がこんな行動に出るとは思わなかった。
 毒気を抜かれて見ていると、楽しげな目がにんまりと笑う。
 「ここ、慎先生と来た店。君に言っておこうと思ってさ。当然、公安さんはもう知ってるんだろうけど」
 「……、あ。うん、知ってる」
 「料理も勿論美味いから選んだんだぜ。それも知ってる?」
 「……まぁ、聞いてる」
 「今日、君にこうした事は?」
 目の前で頬杖を付いた黒縁眼鏡は、空いた左手の甲で楢岡の唇を軽く辿る。既に酒が入っている所為か、潤んだ赤い目許に視線を奪われる。辿るように押し当てられる甲に、反射的に食いつく。髭に包まれた口許が、くすぐったいと笑った。
 「ひられてたまうか(知られてたまるか)」
 狡猾な弱者。アジテータ。ジェノサイダ。そして、恋人だ。何よりも手強い。
 

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