□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 深海亭の料理を平らげる頃には、互いのつばぜり合いも終わる。
 何しろ、"節度のあるズブズブ"で行くと方針が決まったばかりである。どこまでが騙し合いで、どこまでが許されるのか、それは互いに探り探りなのだ。
 相手の脳を探って気持ちを探って、思考を覗き見て心には障らない。そんな危ういラインがどこなのか、まだ互いに分からない。顔色や反応を見ながらの折衝であるから、これはこれで緊迫感が有って長沢は好きなのだが、相手がどう思うか、それは分からない。
 最後の串を咀嚼しながら、恋人でもある、公安刑事の顔を見あげる。
 公安総務課にいる楢岡の専門は公安部運営からカルト、政治デモ、反グローバリズム運動と幅が広い。当然、選挙期間は多忙極まる。こうして寛いでいられるのも今の内だけだ。
 月が変わればすぐに公示なのだから、既に現在はその準備期間だ。身動きが取れなくなる迄僅かな猶予をこうしている。楢岡当人は勿論、長沢も重々分かっていて、敢えてその事は口にしない。重ねる杯だけが、その状況を語っていた。
 楢岡は酒に強い。ちゃんぽんで呑んでも顔に出ぬし、態度の変化も殆どない。調子乗りの軽口は本来の物だから、それが酔っての物なのか、いつもどおりの受け答えなのかは、余程親しくないと判断はつかぬだろう。
 片や長沢は酒に弱い。ビールを一杯飲み終わる頃には、既に茹でた蟹のように赤くなっている。楽しくなる酒だから対外的には害は少ないのだが、本人にとっては少々違うらしい。
 呑んだ翌日に長沢の態度が妙ならば、大抵は自らの行いを覚えていなくて反省中と言う状況なのだ。とは言え、反省は見られても状況の改善は見られぬのだから、所詮はその程度の問題なのだ。害は少ない。精々、楢岡がこっそり楽しむ程度の事である。
 ひとしきり腹を満たして、楽しげな長沢と共に店を出る。満足気に空に吐きつけられた深呼吸は、瞬時に白い雲になった。
 国会を閉会した衆議院議員達は、目下、党別派閥別に寄り集まり、各選挙区で公認を誰に決めるかと、絶賛裏取引の真っ最中である。
 国会に並ぶべくも無い真剣さと熱さで、国民にウケが良い人材を選び、国会の失言とは全く違った丁寧さで、耳触りの良い甘言を作り上げる。そこまで出来れば簡単だ。二つを組み合わせて選挙をすれば、必ず勝てる物と相場は決まっているのだ。
 大和の国、美しき秋津島とその国體を守ろうとする代議士はいない。それを守ってくれるなら投票すると言う国民が存在しないからだ。
 国家がその力を失う時、原因はたった一つである。国民が愚かであり、愚民を国の主権者と仰ぐ時だ。国家を守ろうと言う国民がいなくなった時、国は荒れ、滅ぶのだ。
 その愚かさ故に。
 「……なあKちゃん」
 「んー」
 昨年の11月。楢岡とこうして呑みに行った。思えばあれが始まりだった。
 暴行事件があって、それがきっかけで入院した。それがきっかけで鷲津と知り合い、楢岡と奇妙な接近をし、それがきっかけで決意した人間が居て、それがきっかけで、きっかけで。―― 今に至るのだ。
 不思議なものだ。まだ季節一つ、満足に変わってもいないと言うのに、身の周りの景色はすっかり変わってしまった。長沢にとっても。楢岡にとっても。
 「何であんた総会とやりあってるの?」
 黒い綿入れのコートに挟み込んだ、生成りのマフラー。その中に首を埋めたまま楢岡が言う。暖かい呼気が、彼の顔の周りに雲を作る。花のように開いて掻き消える。長沢はじっとその様を見つめていた。
 使い慣れたハーフコートは血で汚して駄目にしてしまった。引っ張り出して来たグレイのコートは、少し大きくて収まりが悪い。これを着た様は、まるで冴えないやせっぽちのドブネズミのようだと、通りのガラス戸に写る自分を見てそう思った。
 「何でって……。怪我させられたから。だろ……?」
 うん。楢岡が答える。
 「そうだよなぁ。元々は酒井先生が持ち込んで来た話だし、Kちゃんは経験が有ったから相談に乗っただけだ。その流れで折伏会にまで乗り込んで、その結果痛い目見た。―― だもんな」
 乗りなれた地下鉄のホームに潜る。銀色に赤紫のライン。半蔵門線の車内に滑り込む。温まった箱の中で、ようやっと長沢は頷いた。
 「うん、そうだよ。それがどうした?」
 うん、と楢岡は頷く。頷いたまま、僅かな笑みを湛えたまま俯く。
 地下鉄が滑り出す。ガタゴトという音と共に車体も揺れる。長沢は揺れの中で俯いたままの顔を見上げていた。
 「……いや、どうもしない。Kちゃんは話を持ちかけられただけだ。巻き込まれただけだよ。酒井先生は常連だし、美也ちゃんだって何度か店に来てる。そりゃ、人の好い喫茶店主としては放っておけないよな。そこに持って来て、あんた好奇心旺盛だもん、首突っ込むのは自然だ。その結果痛い目に遭えば、そりゃ怒りもするし、訴えるのだって有りだよ。総会とは昔からの因縁も有るしなぁ、訴えるのはむしろ当然さ。
 ……うん、不自然はない。破綻は、何一つ無いんだ。無いんだがね…」
 暗い地下鉄の窓に楢岡が映る。俯いてうす笑みを浮かべたままの姿が映る。長沢は思わず顔を上げて、隣に並ぶ自らの姿と見比べた。
 生気に溢れたがっしりした体躯に、黒いコートと生成りのマフラーは合っていた。隣の貧相な鼠色が、まるで引き立てていて笑ってしまう。現役一線にいる男と、隠居じみた自分は、姿一つ取ってもこんなにも違うのだ。
 嫌な気分ではなかった。むしろ誇らしかった。だが同時に。一抹の寂しさを感じてしまうのはどうしようもない。
 今はまだいいのだ。現役を離れたとは言え、まだ頭は動く。使い様によっては役に立つ。だがそれもいつまで保つものなのか。賞味期限に怯える不安、衰えと失望は一日一日、日を追う毎に強くなって行く。誇らしくて、そして寂しい。隣にはいない、もう一つの姿を思い浮かべる。
 火薬と血の香りを纏った怒れる野生。時代は彼らの物なのだ。いつまで、自分は役に立てるのだろう?
 「Kちゃん。この後、どうするんだ。刑事民事で訴えて勝ったとして、それで終わり?」
 いつしか聞きなれた男の声で、思考の波から現実に引き戻される。窓ガラスに視線をやり、そこで目が合って思わず苦笑する。
 この男が感じている疑念が良く分かる。そしてそれは、……全て正解だ。
 「うん、終わりだね。でも」
 「でも?」
 俯いていた顔が、かすかに動いて向けられる。窓の中の世界から現実へ、視線が動く。
 楢岡の視界に不細工な黒縁眼鏡の男の顔が写る。その顔が嬉しそうに笑みを広げる様が、スローモーションのように目の中に展開された。
 「勝てないだろ?俺」
 息を呑む。
 物語に破綻は無い。きっかけから現在まで、事の流れは全て長沢の外側にあり、彼は巻き込まれただけなのだ。その筈なのに。楢岡は確信する。
 これこそ、長沢の求めた事象だ。
 彼が起した、彼の為の事件なのだ。彼の標的は、彼の真っ直ぐ先に居る。目的への最短ルートを、間違いなく彼は歩んでいる。被害者の顔をして、部外者の顔をして。
 長沢の目的とは何なのだ。彼の標的とは。殉徒総会か公正党のどちらかの中にある「それ」とは何だ。殉徒総会も公正党もただの道具に過ぎぬ。言い訳に過ぎぬのだ。長沢の本当の目的は、標的は何だ。
 表向きのきっかけは酒井医師で酒井 美也だった。だが彼の本当のきっかけは全く別の所に有り、全く別の標的と目的に結び付く。彼の言い分に矛盾は無い。人格的にも齟齬が無い。何一つ無理は無いのに。証拠もないのに。確信だけがあった。
 関係者全員が見ている事実と、真実は違う。その違いは今の段階では些細だが、恐らくは全く違った結末を呼ぶ。
 楢岡は深呼吸をした。
 ゆっくりと呼吸してから初めて息苦しさに気づく。随分と長い間、「息を呑んで」いたらしい。呼吸を整えながら横の男の顔を盗み見る。
 穏やかな横顔に太い黒線を描く不細工な眼鏡。今時、フレームはどんどん短小軽量化していると言うのに、厚手のレンズをがっちりとホルダーする黒縁はおおよそアナクロだ。アナクロで不恰好で、そして実に彼らしい。周りが見ているものと真実は違うのだ。この世では得てして。彼の場合はいつだって。
 黒縁眼鏡は、温和な笑顔のまま、鏡になった窓ガラスを眺めていた。ありふれた中年男。彼にはそんな形容が似合う。少なくとも外見は。
 「民事では、上手く行けば賠償が取れるかもしれない。治療費も出るかも。それはそれで俺は満足だ。精々頑張ってがっぽり取るよ。痛い思いをさせられたんだ。当然の権利だよ。でも、刑事の方はどうだろう。
 まずこの一件、本当に事件になるかな。事情聴取して捜査を始めてくれるだろうか。書類送検されるかな。裁判まで行くかな。フルコース行くとして。一体どれだけの時間がかるんだろうな?」
 電車がホームに止まる。油圧のポンプ音と車輪のきしみ。慣性を感じさせながら電車が止まる。開く扉の向こうに足を踏み出す細い肩がかすかに笑いに揺れた。
 「多分、凄く長丁場になるよ。被告訴人が拘留されてない場合の送検期限って時効までかな?となると、10年引っ張れるのかな。"何もかも"終わっても、まだまだこの一件は終わらないかも知れないねぇ」
 笑う横顔。見慣れた温和で平凡な顔立ち。不細工な黒眼鏡に邪魔されぬ横顔の大きな目許。人懐こそうな優しい笑み。見えているものと真実は違うのだ。この世では得てして。
 共に並んで電車を出る。地下鉄の長いエスカレータを上る。楢岡が頭を振った。思わず笑う。
 「性悪」
 黒眼鏡が言葉に反応する。笑みを含んだ厚い目許を見上げて、にやりと笑う。全く持って。何と言う性悪なのだ。
 目的は別にある。標的も他にいる。だがそれは誰も知らぬ。誰にも追跡は出来ぬ。追跡などは絶対に許さぬ。長沢が口を割らぬ限り、公安刑事にもその理由は知れぬのだ。
 非戦闘員の癖に。少なくとも長沢自身は非戦闘員だと認識している癖に。貧相な外見の中に宿る精神は、しつこくてタフな策士だ。指揮官は戦闘員よりタチが悪い。
 頼りない、細い身体が夜の底で振り返る。夜の都会の闇とネオンの只中で、不細工な黒眼鏡の男が振り返る。逆光になった頭の後ろで都営地下鉄の丸い灯りが瞬いていた。
 「俺が性悪なら、楢岡君は何だよ」
 伸びた髪と、黒縁の眼鏡の輪郭を、街のネオンが照らし出す。温和な表情の中で、笑みに弓形を描く目許がネオンの光を纏ったレンズの向こうからじっと見つめていた。
 何だよと言われても困る。
 「性悪の恋人。至ってまじめな警察官」
 「よく言うよ。俺が性悪なら、君はさしづめ悪徳警官だ」
 戦場を離れ、鎧も冑も脱ぎ捨てて喫茶店店主になったなら、そのまま過ごすが良い物を。あの一件をきっかけに、店主は今新たな戦いに足を踏み入れているのだ。恐らくは。
 彼にあるのは決意だけだ。決意と、幾つかの手がかりと、もしかしたら助けの蜘蛛の糸が有るのかも知れぬ。だがそれだけで、普通人はその道を踏み出さぬ。踏み出すのは、きっと目の前の男くらいのものだ。
 「何を仰いますやら。俺はいつだって正義の味方。さて、参りましょうか」
 どこへ?と尋ねる声を黙殺する。不惑も終盤に差し掛かる筈の恋人の、特異な鈍感さを愛おしいとは思えど、時に閉口する。
 向かう場所など決まっている時間に、どこへ行くなどと言うのは愚問だ。そんな素っ頓狂な質問は黙殺するに限る。鋭敏で、鈍感で、性悪の恋人のとぼけた対応は意に介さないに限る。
 向かうのは南青山。明るい都会の夜の街に入り込む。
 性悪と悪徳のコンビに、今必要なのはスキンシップと休養だけだ。
 

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