□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 シティホテルと華やかな店舗とアーケイドが描き出す立体的な光と、街頭や表示灯が振りまく白色光。都会の夜は、さながら光の洪水だ。明るい夜の底で、温度だけが夜だと言い放っている。呼気から立ち上る湯気だけが、今は夜なのだと知らせていた。
 楢岡が顎で示す方向へ足を向ける。奇妙な共感の中だった。
 こちらが狸なら相手もそうなのだ。互いに遣り合える相手でなければ逆に続かない。
 「そう言えばまだ聞いてなかったけど、どこへ向かってるの」
 「どこ行くって……。そう言うのは面白くないよ、Kちゃん」
 楢岡の言葉の意味を図りかねて眉をひそめる。向かっているのは南青山の方向であるから、殉徒総会総本山の方角だ。何か企みがあるならその関連だと考えるのが自然だが、彼からはまだ何もそれらしい事を聞いていない。
 分からない、と言う意味で首を振ると、楢岡はまたひょいと顎をしゃくった。
 一筋、表通りを抜けると、辺りは唐突に暗くなる。アーケイドが途切れ、街灯が色を変える。光が無い訳では全く無いが、隣に有るのが瀟洒なビルか、街路樹かと言うだけで様相は変わる。楢岡が指し示す方向に目をやって、長沢は足を止めた。
 暗い空はネオンの燈りの為に存在するのだ。夜は光を際立たせる為に有るのだ。
 そこに広がるのは、色とりどりの看板とネオンに彩られた夜の街だった。
 保護対象施設から200メートル以内は建設が出来ぬ施設。文京地区内では営業できぬ業種。SEX産業。つれこみ宿、御休み処、ラブホテル。言い方は何でも良い。普通は男二人では、まず来ない場所が目の前に広がる。長沢は息を飲んだ。何と言う事はない。
 何が狸と狐の化かし合いだ。何が腹の探り合いだ。ひねりも底意も何も無い。企みも何も一切無いではないか。示す事はたった一つ。SEXである。
 「はぁい、Kちゃん。今更ここで尻込みしたり、抵抗するのは、逆に目立つからやめてね〜。旅人と大の大人が夜の遅くに裏通りを徘徊する理由なんて二つしかないんだからね。盗みとSEX。Kちゃんは俺にどっちをやらせたいの」
 慌てて頭を振る。御説御尤もである。今更カマトトぶるつもりも無いし、拒否するつもりもさらさら無い。だが。だがそれでも。男同士でラブホテルと言うのは、やはりかなりの抵抗があるのだ。
 すっかりその行いに慣れたとは言え、限界がある。それは自分の家の決まった場所で行われる、誰にも知らせぬ秘め事だから許されるのだ。隠れてこそこそ楽しんでいるだけだから罪は無い。誰にも迷惑は掛けない。長沢の感覚はまさしくそれである。
 だと言うのに。外で、わざわざ一室を借りて行うと言うのはどうだろう。世間の一角に、自分はインモラルな愉悦を貪るアナーキストだと言い放っている気がしてしまう。
 勿論分かっている。その理屈がいかにも古臭い閉鎖的な道徳観である事は。だがこればかりは、どうしようもない。
 慌てて周りを見回す。きょろきょろと見回す様が挙動不審なのは自覚している。自覚しているから、出来るだけさりげなくやっているつもりだが、どうせ楢岡は狼狽振りを笑っているのだ。
 視界の端に、声を押し殺して笑っている愛おしくも忌々しい姿を感知しながら、光り輝くネオンを見る。
 「HOTEL+α」「HOTEL Diamond」「HOTEL Y・U-K・A」「HOTEL はにーぽっと」「HOTEL寿」「MO-TT-O MOTEL」etc…。色とりどりのネオンが描き出す文字の意味は、ここが恋人同士の睦み合いの場であると言う事だけだ。
 「さて、Kちゃん、どこにする?お好み聞きますよぉ〜」
 余裕の笑みを浮かべて、恋人がウィンクを投げて遣す。まったくもって憎々しい。楢岡に歓楽街は良く似合っているが、刑事としてそれは一体どうなのだ?
 改めて、ネオンの海を見晴るかす。
 長沢がこれらの施設を喜んで使った時代は、もう十数年以上も前の事だ。人並みに恋もし、欲望も抱いたあの頃。恋愛の為の自己資金のやりくりに悩み、安くて女性にウケるデートコースの締め括りに悩んだ。あの時代は全く違った思いでこれらのネオンを見上げた物だった。今はただくすぐったくて気恥ずかしい。
 白、ピンク、スカイブルー。オレンジ、深紅、藍色。ネオン管を通じて夜闇に描き出されるそれらの色は、現在の自分の生活には凡そ関係ない。
 華やかなオレンジ色に目が留まる。
 オレンジ色のビル。玉ねぎとパセリ、ラディッシュのトッピングの形でネオンが取り付けられていて可愛らしい。美也の言葉が耳の中に蘇る。808号室。ホテル マリネ。記憶に残る描写と、目の前の情景がばっちりと重なる。―― 驚いた。
 ここか。
 「決まった?Kちゃん」
 すぐ耳許で囁かれた声に驚いて、声の主を睨み付ける。目敏い楢岡は、長沢の視線の先を既に読み取ってにやにや笑いを向けてくる。長沢は何も言えなくなった。
 「おー。エロいビルぅ。目立つよねオレンジ色。しかもマリネって。Kちゃんはああ言うのが好み?」
 目敏いのは最悪だ。それを楽しげに口に出すのは更に最悪だ。余裕綽々の態度に、奇妙な対抗心が鎌首をもたげた。
 冗談ではない。自分だけが夜の街を知っている等とは思うなよ。楢岡に向き直って顎をしゃくる。そのまま物も言わずに踵を返す。気づかぬ内に小走りになっていた。
 楢岡は唐突に肚を決めた恋人の後に続いた。舐められてたまるかと虚勢を張る様がおかしくて、ついからかってしまった。そのまま挙動不審で居れば面白いのだが、開き直るとこれはこれでタチが悪い。長沢の開き直りは油断ならない。
 虚勢を張って嘘をついて、嘘を張り巡らして、開き直るその時には、自分向けの嘘を完全装備している。それが長沢だ。その嘘に破綻が無く、出来が良いからこそ、真っ先に自らが騙される。自らが信じてその嘘を展開するから、周りもそこに引きずりこまれるのだ。
 作り上げた嘘を信じて、心の底から愛していた人間まで見誤る。複雑な癖に感情には素直で正直で、一途で敏感で、騙されやすい。今現在、楢岡との肉体関係を持ちながら、心の奥の奥で何を感じているのか、彼自身が分からないのだからタチが悪い。油断が――ならない。
 速やかに後を追うと、細い姿がホテルの前で立ち止まっていた。あの勢いのまま受付に向かうとのかと思ったが、彼の行動は建造物の前までらしい。ここからは、楢岡の役目と言う事か。
 苦笑交じりに長沢を追い抜いて門をくぐる。受付に向かう背中で、長沢が何かを言いかけて止める。振り返ると、分かりやすく赤くなった黒縁眼鏡が縋るような目を向けていた。
 「808……」
 ふうん。
 頷いて、受付を済ませる。鍵を受け取って、踵を返す。人目をはばかるようにエレベータホールに逃げて行く背中を捕らえて、狭いボックスに押し込める。八階を押して頤を掴み上げる。困惑した色の瞳が見上げて来た。
 「こう言うのが好みなんだKちゃん?それとも……?」
 答える前に口を塞ぐ。違うと言いかけた口の中に強引に舌を捻り込み、そのまましゃべれぬように絡めとる。暖かい舌を締め付けながら腰を引き寄せる。エレベータの壁に背中を押さえつけて、深々と舌を押し込む。酒の味が混ざり合った。
 「誰か別の人の好みかなぁ…?」
 腰に絡めていた左手を滑らせて尻を掴む。体の真正面に密着させてこすり付ける。長沢の隆起を太股に押し付ける。思わず笑うと長沢が抵抗した。
 開くエレベータから軽やかに進み出る。長沢の尻に手をかけたまま廊下の奥の808を目指す。手を放せと言う動作はやんわりと無視をした。カードキイを差し入れて、灯りの点る扉を押し開く。引きづり入れて扉を閉じた。
 マフラーを脇に放り投げ、コートとスーツの上着を一緒に脱ぎ捨てる。同じく、マフラーを放り投げた恋人の首をとった。
 「楢岡く……」
 聞きたい事はどうせ言わぬ口を塞ぐ。柔らかい毛が覆う口許を舐めとる。頭を掴んで動けぬようにして愛撫する。初めは抵抗していた腕が、諦めたように腰に回った。
 「ノリノリじゃん、Kちゃん」
 上着を無視してデニムのベルトに手をかける。ベルトを引き抜いて、デニム地の下の長沢を辿る。既に起き上がっている物の形を辿り、ジッパーを下ろす。熱い吐息が零れた。
 ベッドに押し倒して中に指を這わせる。口の中で長沢が待てと呟いた。
 「楢岡君、シャワー。折角バスルームあるのに…」
 「終わってからで良いよ」
 「順番が……」
 長沢の上半身の前ボタンを全て開け、Tシャツは捲り上げて舌を這わせる。慌てて上を放り投げる長沢が、怒り出す前に後孔に指を這わせた。
 備え付けのジェルを絡めた指を、ゆっくりと這わせて差し入れる、彼自身を掴んで擦り上げる。抗議を訴えかけた口が黙り込むのを見計らって口付ける。熱い舌が絡み付いてきた。
 「誰かから聞いたんでしょ、ここ?……誰よ」
 ん。短く息を飲み込む。指で筋を辿って絞り上げると熱い息が漏れた。
 「常連…の女子大生…」
 「へぇ?」
 指を差し入れる、揉み解しながら口付ける。
 「Kちゃんのお気に入りの女子大生?」
 違う。慌てて首を振り、閉じかけていた目を見開く。鼻先に小さなシートがぶら下げられた。
 「へぇ?だったら何故ここに来たかったのかな…?……これ、俺につけて。Kちゃんが」
 渡されたのは、備え付けのコンドームだった。
 素直に封を切る。手にとって、楢岡の腹の下に潜り込む。裸眼では良く見えないので、手で探って探し当てる。熱い体温を辿って指を絡ませる。自らの体に最も深く関わる場所に覆いを纏わせる。互いの体を守る為に、これからも安全に睦み合う為に。耳の中に美也の声が蘇った。
 備品の避妊具など一切使わずに、4時間余りも睦みあったと、そう言っていた。―― あいつめ。
 唇で絡み合う。肉の厚い唇は好きだ。器用な舌も好きだ。悪戯のように絡めあう。唇を、舌を。睦み合う。
 睦み合ったのか。4時間も。この部屋で。ここで?
 厚い掌が、膝裏を持ち上げる。局部に接し易くするように、太股に手を滑らせて持ち上げる。開かれた場所に楢岡が触れ、ゆっくりと体重をかける。
 「…う……」
 ゆっくりと。圧迫感が増す。熱い拘りが、長沢の中を切り拓く。濡れと共に掻き分ける。
 ここで?縁だけ黒い灰色の瞳が蘇る。あの日。
 睦み合った匂いと熱を纏ったままの瞳を間近でみた。ステラミラービルの入り口で、榊と多くの信者と怒号の中で、青年を見た。見慣れた同志としてではなく、見慣れぬ敵としての青年をみた。精悍で、冷酷で、野卑で。強烈な雄の匂いを纏った青年を、みた。
 「ん、ああっ……!」
 体の中を、楢岡が犯す。体の中心に突き入られる。熱さと圧迫感に肚の中を掻き混ぜられる。背筋を快感が駆け上った。
 この快感は楢岡の物だ。かつてこの快感を覚えこませた人物は別に居た。初めは酷く強引に、いつか不器用な優しさを持って、同じこの体に入り込んだ人間がいた。
 若くて乱暴で、自分勝手で。己の快感が先で、後始末をすれば問題ないと言い切る、おおよそ無骨で滅茶苦茶な人物だった。だが、快感は。
 広げられて潜り込まれる。満たされて、抜かれる。快楽の場所を擦られる。抉られる。熱が湧き上がった。
 「ふ……!」
 頬を掠る顔に手を伸ばす。口づけを求めて首を掴む。厚い唇が近づいて、鼻の頭に吸い付いた。
 「"先輩"とはこんな所来なかったでしょ」
 黒い瞳が、楢岡を射た。
 一瞬は驚いて。その次は責めるように。それに合わせて深く嵌まり込む。怒りに開いた口が吐き出したのは、甘えるような吐息だった。
 「……は!」
 「性悪」
 たたきつける。深くまで動かして引き抜く。抗議をこめて絡む腕を無視して、また嵌まり込む。体の接点が濡れた音を立て始める。尻を掴み、被ねって捻り込む。びくりと揺れる腰がここだ、と知らせていた。
 「気持ちよく、なって来た…?」
 体の中に熱が点る。腹の奥に。頭の中に。混じる。
 銀色の髪。紅い瞳。冷酷で高慢な神。一度だけ交じり合った時は、余りにも悪かったのだ。タイミングも状況も何もかも。体だけが感じて弾けても、長沢には全く理解が出来なかった。
 崇めていた存在が。見上げていただけの存在が。完璧無比の存在が、何故自分に触れるのか、それは長沢の理解を遥かに超えていたのだ。
 その人の為に、自分が提供出来る全ての物をビジネスの道具に使った。その程度の存在だから、それで良いと納得していた。だがその同じ方法をその人が求めるとは、長沢には想像だに出来なかったのだ。
 罰なのかも知れぬ。体の中に高ぶりを感じながら、喜ぶ体に嫌悪しか覚えなかった。その時だけ。たった一夜だけだった。その人と深く繋がれたのは。
 その後は、何も言えなかった。ただ報いたかったからやったのだ。認められたかったからやったのだ。自分への嫌悪は感じても、その人への嫌悪など感じた事はなかった。欲していた見返りが愛情などとは考えなかった。ただ。
 認められれば充分だった。有用だと思って貰うだけで満足だった。その全てが見返りだった。そう思う自らの心の理由など考えた事は無かった。
 今になって。今頃になって分らない。本当に自分が欲しかった物は何だったのか。渇望したのは何だったのか。
 自らも確りと分らない事柄を、人にどう伝えれば良かったのだ。その人に。その人に何と言うべきだったと言うのだ。
 「気持……ち、イ……っ、ん、ん、そこっ……!」
 自分の上の身体に縋りつく。両脚で引き寄せる。穿たれる熱が、もっと欲しい。もっと深く、もっと全身で。全てで存在を感じたい。両腕で掻き抱く。求める。勢い余って背中に爪を立てる。大きく腰が引かれた。
 「やだっ、離れない、……っ、ふ、ぁあっ、んん!」
 深くまで貫かれる。突き入る物が、途中の器官をごりごりと擦って過ぎ、奥を突いて留まる。自らの体が、快感にびくびくと揺れるのがどうしようもなかった。
 大きな掌が、尻を掴んで固定させ、その中に欲望を突き動かす。押して、引く。擦れる。乱される。奥まで拓かれる。
 「……Kちゃん」
 「あっ、…は、あ、あ、……うぁ」
 快感に押し流される。飲み込まれる。与えられる刺激に、快感に、溺れる。
 混じる。嫌悪と快感が。かつて求めて得られなかった物と、今与えられている物が。混じる。
 腰を引き寄せる。もっと深く、もっと強く穿ってくれと招き入れる。
 「あぁ、はっ、もっと……もっ……」
 「うん」
 混じる。快感が。全てが。過去に得たものと、今得ているものが。
 黒髪から滴る雫に身悶えて腕を伸ばす。厚い胸板を両手で辿る。逞しい体に満たされる。
 睫毛の厚い、褐色の目。人懐こくて人好きのする顔。聡明で、タフで、曲者の公安刑事。突き入れられる熱い愛に掻き混ぜられる。肉厚の体に縋る。もっと強く。激しく。そう求めて腰を押し付ける。応えてくれる、この体が愛おしい。
 褐色の瞳。縁だけ黒い灰色の瞳。紅い瞳。
 「Kちゃん」
 声に、目を開ける。ぼやけた視界を認めて、初めて目を瞑っていたのだと自覚する。熱い手が頬から頤へ下りて掴み寄せる。
 「見てくれよ。俺を」
 混じる。
 「俺だけを」
 ずん、と深く打ち込まれる。びり、と背筋に衝撃が走った。包み込まれた掌の上から自らのものを掴む。この快感は。
 彼の物だ。
 この腕の持ち主、体の中の熱の正体は。憎らしくも愛おしい、いずれ敵になる男なのだ。
 「楢岡……く……んぁ、ああっ、…ん!」
 快感が身を貫く。体の奥で、心の奥で交じり合う。現と幻と。現在と昔と…大昔と。
 混じる。
 混じる。
  

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