□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 播種 □

 

 選挙の目的とは何かと問えば、決まっている。
 決してそれは、正しい政治を執る事でも、良き政治家を送り出す事でも、ましてや国家を守る事でもない。選挙の目的は、ただ。
 勝つ事だ。
 与党と言えば自明党。日本人の誰もがそう承知しているのは、与党に相応しいと認めているからではなく、厳然とした歴史による結果に過ぎない。1955年、昭和30年結党以来、与党の座から下りたのは一度きりで、それすら恥も外聞もかなぐり捨て「連立政権」と言う形で早々に与党の一角に返り咲いたのだから、認めるしかない。
 日本の政党で、力量的にも人材的にも「与党」足りえるのは、一つだけしか存在しない。それまさしく、自明党。悲しいかな、これが歴史の語る現実だ。
 結党当時、日本国憲法改正を党是として成り立った保守党、自明党に、結党半世紀以上も過ぎた現在、その名残はない。
 与党である為には、全く志を異とする社会党の党首を頭に立てて連立を組み、票田を確保する為にはカルトによってなる党とも連立を組む。そこに政治理念や国防や安全保障の概念が入り込む隙は無い。今や自明党の党是は「与党で有ること」それだけなのだ。
 日本を真に守ろうと思うなら。
 狡猾にも、身中に巣くう敵の手から、この大和の国の国體を、志を守ろうと思うなら、この国の魂を残そうと思うなら。
 一番消さねばならぬのは、この、醜い与党に違いない。だが同時に。
 これを消してしまったら、立ち行かないのも、大和の国の現実なのだ。

 

 
 始発の半蔵門線に転がり込む。
 一月の終わり。大寒と言われる時期だけに、文字通り寒い。
 恋人をホテルの温まった寝床に捨て、まだ明けやらぬ青山の街にまろび出てまだ数分。寒気が服のありとあらゆる隙間から忍び入る。四十の坂を転がりだした頃から、大層厚着になったものの、それすら足りない。呼気が頭の周りに雲を作るのを、掻き分けて走りだす。潔い寒さだと少し可笑しくなった。
 こんな取り留めも無い事が可笑しいとは。長沢は苦笑する。自分は満たされているのだ。
 まったくもって。この年になって、乙女のようなこの充実感は何だ。気恥ずかしいやら、くすぐったいやらで、結局は少しばかり幸せだ。
 寝床をそっと這い出そうとして逞しい腕に抱きいれられ、捨てないでと言われた事を思い出す。俺は君より仕事場を取ると振り払うと、楽しげに笑われた。行ってらっしゃいと呟く滑らかな声や、その時の恋人の笑顔や体温や、そんな物を思い出して、少しばかりにやけてしまう自分が居る。まったくもって。五十路も近い今になって、しなびたおっさんが気持ちが悪い。
 かつての自分では想像も出来ない現状だ。男性と情を結ぶ事も、それにこれ程に満たされる事も。いや、それどころか。また再び誰かにときめく事など。かつての自分からは想像も出来ぬ事だったのに。
 時が経ったのだとしみじみ思う。あの時から。思えば既に十数年の月日が流れたのだ。
 死に場所を求めて得られず、迷い込んだ先で、代わりに隠れ家をくれてやろうと無骨な店主に言われた。結局はあの日があって、あの人が居たからその先の年月がある。十数年の時を経て、今こうして。自分はここに生きている。生かされているのだと、長沢は思う。
 欺瞞も煩悶も身の内に数え切れないが、それでも。生きる実感に満たされている今の自分はどうだ。
 家族も仕事も責任も放り出し、信頼に背を向けて死に飛び込もうと思ったのは、自らに価値を見い出せなかったからだ。生きている自分と無と、どちらがより重要かと自らに問うて、明らかに無が重かった。あがいてあがいて、無が勝るなら、選択肢は死しかなかった。だが今は。
 自らの命も、そして死も全て重い。存在は無よりも思いと、確信出来る。意義は有るのだと、素直にそう思えるのだ。
 一つしか持ち合わせのない「命」は、やはり使えるのだ。それどころか。タイミングと方法次第では、とてつもない武器になると今は思う。その武器を持つ自分が、無に勝らぬ訳は無いではないか。
 命は敵を撃つ弾丸になる。誰かを守る盾にもなる。上手く使えば、何人もの大事な人の命を救い、幾人もの敵を狩れるのだ。使い方次第では。やり方次第では。
 上手く死のうと考えた時に、皮肉にもそれが生き甲斐になった。自らの命など捨てても良いと覚悟したら、それが喜びを連れて来た。皮肉な物だ。死を覚悟した今、自分は満たされている。
 自らの生命の価値を、今ほど感じている事はかつて無い。死を見据えた今。生命の醍醐味に酔っているのだ。
 地下鉄の、暗闇に鏡になった窓に自らの笑顔が映り込んで驚く。慌てて顔を引き締める。まったくもって自分は。まったくもって俺という奴は。
 いや、人生と言うのは厄介だ。厄介で、面白い。

 
 SOMETHING CAFEの裏口に辿り着いた瞬間に、CUBEのおおらかなクラクションが降り注いだ。振り返ると、Zocca店主がこれ見よがしに運転席から顔を突き出し、お帰りなさいと笑っている。長沢は素直にただいまと応えた。
 「おやおや?啓ちゃん、隅におけないじゃないの。朝帰りだなんて青春だね。今度彼女紹介してよ」
 「俺も紹介したいけど、残念ながら彼女はいません」
 嘘ではない。
 殉徒総会とモメている最中の長沢には、言い訳のネタは幾通りもある。誤解を解いて同情まで勝ち得る言い訳など、幾らでも出来るのだ。Zoccaの店主が、大変だなとパンを手づから運び入れ、軽く肩を揉んで去って行くまで数分とかからなかった。商売仲間と上手くやるのは基本だが、詮索は無用に願いたい。それは古今東西、誰もが思う真理だ。
 狭い調理場の定位置にパンを配置しながら確認する。モーニング用にスライスされたパンドミと、同じくモーニング用のコッペにクロワッサン。後はこれにモーニング用の下準備を施せば、後から出勤してくる北村が腕を振るってくれる算段だ。
 慣れた作業に大脳はいらない。パンドミにマーガリンを塗りながら、思考は「話」を手繰り寄せていた。

 ―――― 恐らくは。
 長沢は考える。恐らくは、ピースは揃っている。
 殉徒総会の基礎知識も、公正党の基礎知識も、付け焼き刃ではあるが手に入れた。
 今の政情も、支持母体にカルト宗教を持つ政党の夢も、取り敢えずは掴んだ。与党の現状は、もとより腸が煮えくり返る程度には理解している。GHQに骨抜きにされた保守と、支那のプロパガンダに歪められた革新が作る、自称「保守本流」の政党自明党。日本人ですらない数々の政治家の存在も、良く分かっている。
 日本に存在する凡ての政党の理念に、今や日本はない。日本の為にと言う言葉に真実はない。
 そして、この現状下での秋津だ。
 日本が消え去らんとする時代に、歴史の必然として現れた秋津が今をどう見るか。どう図るか。恐らくは同じ怒りを抱く者として長沢は考える。
 秋津のキャストには、国家の中枢の人物が少なくとも数人は存在する。官僚、政治家、自衛隊員、公安。その内の二人は名も分かっている。
 元大蔵官僚の大貫宥吏、現衆議院議員、自明党の羽和泉基。両者とも極めて優秀で、良くも悪くも底の知れぬ人物だ。露クウォータのサラブレッドの大貫と、自明党裏のフィクサー岐萄友充の妾腹の子羽和泉。彼らが、秋津の中枢に居る事だけは間違いない。
 秋津の意志決定がどのような形でなされるか、長沢は知らない。長沢だけでなく、恐らくは組織内にいる冬馬も、そこは知らぬだろう。実働隊が知る必要のない事柄だからだ。
 だが、どう言う方法で決定が成されるにしろ、そこにはこの二人が居る。この二人の頭脳と機知と個性が生み出す要素が濃い事は間違いない。であるならば。
 この二人の考えを、部外者が読む事など可能なのか。自他共に凡人と認めるこの自分が、そこに辿り着く事など出来るのだろうか。
 恐らくは、ピースは揃っている。揃っている筈なのだ。だが、依然として分らない。
 白露に対して、秋津の考えは分ったなどと嘯いたが、半分はハッタリで、半分は丸きりの嘘だ。秋津の考えは掴みがたい。まだ、漠として、その全容を掴みかねる。
 勿論、総てが分らぬ訳ではない。秋津が殉徒総会に向けて刺客を放っているのは厳然たる事実で、その部分は最も理解しやすい。
 秋津は十年以上も前に、この計画の下工作を始めた。草を放ち、まず敵の一画に牙城を築かせた。ゆっくりと時をかけて信頼を得、権力を握る。その上で更に数年潜伏して足下を固めた。そして今。この政局を迎えて初めて、唯夏と朝人と言う実働隊を投入している。草の築いた牙城に、その庇護下に二人を投入している。彼らの役目は、間違いない。刺客だ。
 実働隊が受けた指令だけは非常にクリアだ。殉徒総会の教祖、里中汰作の暗殺。そこに間違いはあるまい。だがしかし。それは今ではない筈だ。
 教祖が消えれば、総会の総てが揺らぐ。真っ先にあおりを食らうのは下部組織だ。すなわち、公正党。それは余りにまずい考えだ。
 浅野慎一は言った。公正党を消す事は、暗い夜道で燈りを消すような物だ、と。殉徒総会を滅したいと願うなら、公正党を消してはならぬ。それは即ち、巨悪の姿を他人の目に触れぬようにした上で、野に放つ事に他ならぬ。それだけは絶対にしてはならない。しようと言う者が居たら、それこそが真の敵だ。
 カルトより政党が観察しやすいのは物の道理だ。セクトより政党が理解し易いのは至極当然なのだ。
 秋津が愚かとは思えない。であるなら、公正党を消す事は絶対にせぬだろう。決して生かさず、政権の表舞台には立たせず、国政の片隅に保存し続けるに違いない。
 だから、絶対に今、教祖を消す事はすまい。暗殺は恐らく最後の手だ。実働隊が動くのは、最後の瞬間だ。詰み。チェックメイト。
 そこに辿り着く迄には、幾つもの段階が有る筈だ。幾つもの複雑な手順を経て、そこに辿り着く筈なのだ。それが最後の一手であるならば。
 では初手は? 幕開けの一手は何だ。
 十年以上の月日を掛け、緻密な計算と計画を基に、種を撒き水をやり育て、恐らくはじきにその芽吹きを迎える。ではその芽吹きとは。
 いつだ。その芽が種を突き破る時は、そのきっかけは。一体、何だ。何なのだ。
 並大抵の物ではあるまい。ターゲットは一つのカルト宗教に過ぎぬが、規模は絶大だ。公証800万を越すとも言われる信徒数、その信徒が所属する公的機関、企業、支持政党への影響。その政党が連立を組む現与党。そして。将来的に組むと相手である所の民衆党。いわばこれは、日本政財界を揺るがすきっかけなのだ。
 小さくて、限りなく深い。そんなきっかけ。
 そんなきっかけなど、果たしてあるだろうか。
 溜息をつく。見えてこない。この期に及んでさっぱり、見えない。
 「おっはようございます!」
 北村が良く通る声とともに飛び込んで来て、思考が断ち切られた。弾んだ息と、季節に似つかわしくない大汗におや、と思う。
 各種パンの下準備は気づけば終わっていた。手を払って厨房から出る。時間はまだたっぷり有ると言うのに、何を慌てているのかと苦笑しながらエスプレッソマシンの暖気にかかる。昨日決めて置いた本日の珈琲をミルにかけ、鳩不在の鳩時計を見上げ……た所で息をのんだ。
 長針が真上まであと100度ほど。真上を指せば、それ即ち開店である。
 「…きっ、北村君、何やってたんだよ!つか俺何やってたの、ち、遅刻遅刻!」
 「やっぱすか!マスターが落ち着いてるから俺、勘違いしたかと!」
 慌ててシャッターを上げる。ライトボックスを蹴り出す。準備中の札だけは外さずに、玄関周りを整える。北村が頭からタオルを被って厨房に駆け込むのを横目に見ながらカウンタに潜り込む。思考の追いつかぬ遠大な計画より、今問題なのは目前のモーニングラッシュだ。
 バンダナを被って縛り上げる。いつもより少しだけきつく、縛る事にした。

 
 「今日一日は、私の事、様つきで呼んで下さいね。今日の私は偉いんです」
 看板娘はすこぶる上機嫌だ。何しろ朝、店の扉を開けるなり、男二人に救世主様、天使様、と迎えられたのであるから。
 とは言え、その天使は数秒後には厨房要員として、彼女にとっては労働時間外の早朝に働かされただけだから大した物ではない。彼女もそれを重々承知の上で、期限付きの「様」なのだ。
 「駄目だね、大の男二人してさ。たるんでんじゃね?」
 朝のラッシュが終わる頃、ご近所さんの常連がやってくる。ラジオ体操を終え、家の雑事を終え、8時半の声を聞いてから我が家をでてSOMETHING CAFEのモーニング。それが習慣になっている、年季の入った大先輩の常連達だ。その多くが先代の竹下翁の時代からと言うのだから恐れ入る。
 孫よりも若い看板娘の笑顔に愛想を崩しながら、そう言う事もあらぁな、と応える常連の中で、事情を一番良く知っている常連が軽口を叩く。長沢はむっとおし黙った。
 つい何時間か前まで抱き合って眠って居た筈の常連は、今はその香りもない。新しいシャツに身をくるみ、折り目も正しいスーツ姿は精気に溢れている。浮ついたり、思い悩んだりで疲れが来ている自分とはまるで違う。少しばかり眩しいが、その倍も妬ましかった。
 「そそ。北村さんなんかー、彼女さんとラブラブでそりゃもう弛み切ってるんですよー」
 面目ないと厨房要員が声をかける。むしろその声が嬉しそうで、カウンタ客のブーイングを貰う。
 俺は違う。心中で大弁論大会を催す長沢に、常連はまっすぐに視線を向けて、あ、と呟いた。
 「そうだ。俺今日はこうしてられないのよ。Kちゃん、これに今日の珈琲ブチこんで」
 「え」
 いつぞや、「お泊まりセット」などと自慢げに見せびらかしていたバッグから、楢岡は何かを取り出して放り投げた。かろうじて掴んだ物の、予想外の重さに危うく取り落としかける。長さ40センチは有ろうかと言う銀色の水筒だった。
 「え、っと。カプチーノじゃなくて、今日の珈琲でいいの?コロンビアサントスだけど。これに一杯入れるの?」
 SOMETHING CAFEの珈琲カップは大きめで、アメリカンで250、ブレンドでも220は入る。大きさも人気の一因ではあるが、それにしても。1Lサイズの水筒に入れるには、何倍分も必要だ。
 「うん。今日の珈琲で。目一杯入れて。砂糖とクリームは多めに頂戴」
 「え、なになに。楢岡さん出張ですか〜?」
 ナイス早紀ちゃん。長沢は心中で叫ぶ。プライベートな話題になかなか切り込みづらいのが客商売の常だが、特にこの相手は性質が悪い。その障壁を難なく越えてくれた看板娘の屈託のない個性に感謝する。今日一日は有り難く「様」付けで呼ぼう。
 新たに今日の珈琲をドリップする。長時間持ち歩くと言う事になれば、少しでも新しい方がいい。マシンに新しいサーバをセットする。
 「出張…じゃないけど似たようなモンかな。暫く早紀ちゃんの顔見に来られないかも知れないの〜、僕ちん」
 「え〜〜、寂しい〜〜」
 脳内にストップが掛かる。「暫く」が明確に何日を指すかは分からぬが、数日は身動きが取れなくなると言う情報だ。
 身動きが取れなくなる?
 警視庁、公安部、総務課の刑事がか?
 それは一体、何事だ。
 楢岡の担当は反殉徒総会スピーカの監視と警護だ。主に健政会の代表、浅野慎一の担当だ。だが今、健政会に大きな動きはない。選挙を前に、これから活動は盛んにはなるものの、それとて特別な事ではない。通常運転の範疇なのだ。では一体。何が起きれば、公安総務が"つめる"事になるのだ。その状況とは何なのだ。
 「…何が、あった…?」
 つい雫れ出た疑問の声に、楢岡が面を上げる。朗らかな両目が不意に警戒に細められる。一瞬、空気が張り詰める。刑事が対象を観察する視線だった。やっぱりこいつ気になるんだ。目がそう言っていた。
 長沢は開き直る。当然だ。気になるに決まっている。長沢が楢岡の対象である事などもう知っている。監視など幾らして貰っても構わない。だから教えてくれ。楢岡の視界の真ん中に身を乗り出して主張する。勿体ぶらずに教えてくれ、さぁ教えてくれ。楢岡が小さく吹き出した。
 「Kちゃん、知りたいなら口でそう言いなさいよ。ん〜〜、そうね。まぁ、言ってもいいかなー。どうせあと小一時間もすりゃニュースになるしねー、言っちゃおうかなー」
 頷く。言うべきだ。必要以上に頷く。楢岡がわざとらしく大きく息を吸い込む。長沢は息を飲んだ。
 ちん、とサーバが出来上がりを告げた。
 「あ、出来たよKちゃん。早く頂戴」
 楽しげに笑いながら大きな体が身を翻す。バッグを肩にかけてレジに向かう。長沢は歯噛みした。
 他の客がいなければ叫んでいる所だ。慌ててサーバにとっつき、水筒に出来上がったばかりの今日の珈琲を流し込む。きっちり1L、目一杯注ぎ入れて、ポーションと砂糖を10個づつ紙袋に入れて突き出す。
 「あれ?安いよKちゃん、これ大分入ったでしょ」
 「ええ。刑事さん、日夜僕達を守ってくれて有難うの心をこめて割り引きです」
 水筒と紙袋を受け取る常連に、お気をつけて、の一言を掛けるのも忘れない。にこやかにバッグに放り入れると、楢岡は人差し指を一本口許にたてた。
 「秘密だぜ。つまり、亡くなったかも知れないわけよ。大者が」
 真っ先に思考は教祖を指した。里中汰作。殉徒総会の名誉会長。だが瞬時にそれを否定する。それは違う。まだ早い。例えば事実上、教祖が死んで居たとしても、その発表は今はすまい。既に秋津の草が入り込んでいるのだ。時の選択は誤るまい。となれば、誰が。
 「…兵庫の、アレね」
 耳を疑う。喉がごくりと奇妙な音を立てた。
 まさか。
 バッグを担いだ体が翻る。戸口に向かう。
 「……それって、まさか! 岐萄……」
 しっ。口許に人差し指を立てて、悪戯っぽい笑顔が振り返る。厚い睫毛に縁取られたて目が、肯定と制止の二つの意図をこめてウインクする。長沢は口を閉じた。
 かららん。
 ドアベルが軽やかな音を立てる。動けぬ長沢の前で、マホガニーの扉がことさらゆっくり開いて――――閉じた。
 鳴り響いていた。
 ドアベルと、得体の知れぬ鐘の音が。
 これだ。鐘の音がそう言っていた。
 これだ。
 これが初手だ。幕開けの一手だ。
 なるほど。申し分、ない。
 

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つづく