□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 反応が出来なかった。
 一瞬は言葉の意味が呑み込めなかった。呑み込めてからは受け入れられなかった。
 恐らくは長沢の想像力が足りなかったのだ。ペルーと言う国名は出ていたし、青年の極端な行動も思い知って知っていた。だから予想していて然るべきだったのだ。南米ペルーに暮らした青年は、恐らくはゲリラであると。その可能性があると予想出来て然るべきだったに違いない。
 そう思い込もうとして失敗する。どう考えても無理だ。隣人がゲリラだと言う感覚は日本人にはない。第一。
 ゲリラとは何かと問われて、明確にリアルな説明を出来る日本人が一体どれだけいると言うのだ。
 「14歳までそこにいた。AKとマカレフとナイフを2本持ってた。全部、年上のゲリラが持ってた物だ。俺は名手だった。
 フジモリが大統領で、俺達はフジモリとDINCOTE(ペルー国家警察テロ対策局)と戦っていた。貧しくて、ゲリラにならなきゃ生きていけなかったし、選択肢なんか無かった。糞を固めて作った家より、セルバ(ジャングル)の方が俺に向いていたから、俺はセルバでターゲットを捕らえる役を買って出た。
 狙った獲物に逃げられた事はないし、獲物を殺した事も無い。日本人を人質にとって殺し、その後で金を取るような奴等もいるが俺達は違う。生活の為に武器を持って、信義の為に使った。
 上手い交渉係が居て、俺はずっとそいつと組んでいた。俺達は狙った宝は必ず手に入れた。失敗は無かった。何だって、手に入れたよ。金も食料も身体も愛も。
 当局に捕らえられた事なんか無い。捕らえられる前に敵は殺した。躊躇なんかしない。迷えば殺される。殺した後で後悔もしない。そいつは俺の敵だった。敵だったそいつが悪いんだ。
 7年前に日本に来た。日本はペルーと全然違った。街も人も匂いも心も、愛も違う。違うと分かった。分かったつもりだった。でも、分かっていなかったのかも知れない。
 啓輔。お前は俺が嫌いか」
 遠い遠い異国の話から、一瞬で目睫の距離に話を寄せられて長沢は面食らった。反応が追いつかない。脳が急激な転換を飲み込めなかった。
 掌を額の位置に広げる。待て、という代わりの合図だった。
 冬馬は、木製の椅子の上で片膝を抱える格好で座ったまま、じっと長沢を見つめていた。軍用犬が命令を待つかのように、神経を研ぎ澄ましたままなのが伝わる。それが冬馬の待機のデフォルトなのだと想像は着くが、行間を読み、慮る習慣が有る日本人には気疲れする。
 「あんたの話になかなか着いて行けないんだ。ちょっと待ってくれ、整理する」
 「いくらでも待つ。何日でも待てる」
 そんなに居座られてたまるか。長沢は深呼吸をした。
 「いくつか知ってる言葉が出てきた。ペルー、国家警察、フジモリ、ゲリラ。それに7年前。
 お前さん、フジモリ政権が壊れた直後に日本に来たんじゃない?」
 冬馬の瞳に驚愕が走った。穏やかというよりは、沈んでいた灰色の瞳に緊張が走る。ぴりっとした空気が流れて、その空気に身構えたのは長沢の方だった。
 「あんたが一歩でも動いたら、俺は外に出る。動くなよ」
 冬馬は慌てて首を振った。自らの動揺を相手の動揺で知る。長沢の反応は、まるで肉食獣の動きに飛び上がる小動物のようだった。現在の肉食獣に攻撃の予定は無いのに、おびえた小動物が総毛立つ。冬馬は苦笑した。
 「凄いな啓輔。何でそれだけでそんな答えが出るんだ。当たっているけど……日本に来てから、そんな事言われた事ない」
 そりゃ、お前の周囲の人間が疎いだけだろう。あるいはレベルが低いんだ。その言葉を飲み込む。余計な事には余り触れたくなかった。
 「当時、日本でもペルーは何かと話題になっていた頃だったから、常識だよ。フジモリが大統領になった時は、初の日系の大統領だの、ツナミ現象だの、日本でも相当騒がれた。その後、ゲリラを一掃して、インフレを劇的に解決した所までは良かったけどな、最後には軍部暴走、収賄疑惑で逮捕、フジモリ逃走って言うお粗末なラストだろ。それくらいなら、まあリアルタイムで新聞読んでたし、知ってる」
 「凄いな。俺の周り、誰も知らなかったのに」
 「40代…30代以上なら誰でも知ってる」
 冬馬の付き合う世代が若いのか、あるいは世事に疎いか外れているかのどれかだ。あるいは全部に合致しているのかもしれない。
 「センデロ・ルミノソ…」
 ぼそりと呟くと、冬馬が首を振った。
 「JICAの日本人三人が殺される事件が有った。犯人はセンデロ・ルミノソだった。残虐非道なゲリラで、通った後には草も生えないって言われていた団体だ。お前さんが言った酷い団体っての、それだろ?そうなるとお前さんは、えっと……ツバルだかツパクだか…」
 「Movimiento Revolucionario Tupac Amaru……」
 「ああ、そうだ。ツパクアマル。MRTAとか言われてた……」
 言い切って、言葉を呑んだ。
 目の前の青年はゲリラだった。つい先ほどの青年の告白が、徐々に現実味を帯びてくる。同時に幾つもの疑問が湧き出た。
 ペルーでのゲリラ活動の歴史は長い。ペルーの国の始まりが、そもそもスペインによる略奪と支配だったから、反骨精神がDNAの根元に刻み込まれているのだ。アンデス山脈が国土の多くを占め、人類の繁栄に適した土地が少なく、貧富の差が激しい国だけに、反骨精神には火が点く。圧制や貧困がゲリラ活動を育てた。
 前述のゲリラの全盛期は1990年代所頭まで有った。出会えば殺すという極端なやり方で、ペルー人自体が数多くゲリラの手に掛かった。そんな折だった、フジモリが「ゲリラの殲滅」と「経済の回復」を改革の二本柱に大統領になったのは。時は1990年、ゲリラ全盛の時代だった。以降、ゲリラの数は激減する事になる。
 ゲリラの大きな恣意行動が見られたのは、1997年12月17日に起きた日本大使公邸占拠事件が最後だ。日本でも有名なこの事件がスマートに、しかし残酷な形で解決を見た後、ゲリラの起こす事件は影を潜める事になる。
 青年が現在24歳でペルーを出たのが9年前、日本に帰って来たのが7年前だとすると、活動期にペルーに居たのは確かだが、大きな疑問が残る。
 冬馬はMRTAだったと言った。MRTAは全員フジモリ政権に殺されたと聞いている。
 「啓輔は、俺が嫌いか」
 思考をちぎられて、青年に目を戻す。灰色の真摯な瞳が見つめていた。
 「俺は、啓輔が好きだ。好きで好きで、しょうが無い。好きだから、俺がどれだけ啓輔の事を知っているか言いに行った。強引に自分の物にした。何日か通えば、手に入ると思った。身体だけじゃなく、心も。俺がこれだけ真剣なのも感じてくれるし、俺に一目置いてくれると思った。今迄はこれで上手く行ってた。俺が欲しいと思った相手は、俺を欲しいと思ってくれた。
 でも、お前には、通じないみたいだ」
 呆れて言葉が出なかった。
 好きだと言う告白は以前に聞いた。そんな言葉など、欲望の前では人間はいくらでも使う。性交の為の呪文の一つに過ぎず、何の意味も無い。しかも、強姦してからその呪文を使っても効力は無いし、使用法を誤っている。
 長沢の個人データの羅列も不気味なだけだった。脅迫なのかと訝り、事実その後の強姦で、脅迫だと決定した。青年が長沢に与えたのは苦痛と恐怖だけだ。それ以外の要素は何一つ無い。
 挙句、分かってくれないだの、通じないだのと言う感想は、お門違いも良い所だ。
 「好きにしろと言われたから、病院の、あの廊下で、ずっと待ってた。お前がいつか来ると思って」
 呆れるということに限界は無いのか。強姦した場所で待っていたと言うのか。発想自体が、想像不可能だ。
 「でも、来なかったろ。だから、嫌われているのかもしれないと思って話がしたかった。俺の気持ちを説明しようと思った。だからずっと待ってたんだ」
 長沢は深呼吸した。全てが驚きだった。国民性の差とは言わない。ペルー人を良く知っている訳では無いが、これが標準だと思うのは、余りにも相手に失礼だ。しかし、この個性が日本には在り得ないのもまた事実だろう。
 強姦した後に告白をする、強姦した場所で愛おしい人が来るのを待つ。その後に相手に嫌われているのかも知れないと思い悩む。おまけに、説明すれば分かって貰えると思っている。全ての順序が逆で罪悪感が無く、おまけに判断が甘過ぎる。一体どういう環境で育つとこういう個性が出来上がるのか。いや、それはこの際問題ではない。
 ここまで行った後で、相手の意思を確かめる必要などない。既に全てが手遅れだ。感情は非可逆だ。その事を分かっていないのが問題なのだ。
 「啓輔は、俺が嫌いか」
 「確認するまでも無い。当然だろ。嫌いだ」
 間髪をおかず、簡潔に明瞭に答えてやった。
 正確には好き嫌いではない。軽蔑だ。恐怖だ。理解が出来ない。人間の種類が違うのだ。食う者と食われる者。食われるのはもう沢山だ。
 「どうして……?」
 また、想像不可能の行動だ。どっと疲労感が押し寄せた。
 「もう、無茶はしない。本当にしない。絶対しない。俺が間違っていたと分かった。だから…」
 「嫌いかと聞かれたから答えたんだ。もう良いだろ」
 「俺、嫌われたくない…」
 疲労感がピークに達する。時間はまだ20分程度だったが、長沢は席を立った。シャッターを開けて外に飛び出す。つられるように冬馬も席を立った。
 「悪いが、帰ってくれ。今日は本当に疲れてる。もう限界だ。明日も有るし、直ぐ眠りたい。帰ってくれ」
 「啓輔……」
 「殺すんじゃなきゃ、帰れ」
 とぼとぼと、大きな身体が歩道に歩み出る。壁に寄りかかる長沢を、心配気に見やる。帰れ、と小さく繰り返す唇を見つめて視線を落とす。
 「殺さない。他の誰を殺せても、俺はお前は殺せない。お前は同じ匂いがする。善良で優しいお前から、同じ死の匂いがした。だから……」
 言葉を途中で飲み込んで、大きな身体が遠ざかる。悄然と肩を落とし、街の灯に溶け込んで行く。長沢は溜め息を吐いた。
 粘度の高い疲労に、足下から飲み込まれそうになりながら店に戻る。シャッターを下ろすのさえ苦痛だった。全て下ろして灯りを消し、後ろも見ずに店を出る。疲れた。本当に疲れた。階段を上る一歩一歩が酷く重かった。
 二階の自分の寝床に倒れこむ。服のままで布団を引き寄せる。布団が体温で温まり始めるのと、意識が途切れるのはほぼ同時だった。

 夢を見た。
 雨にぬれるジャングルの中だった。熱帯性の植物の深い森と、霧の向こうに聳える山が、その世界の全てだった。
 木々の間を走り抜け、銃を携えて蹲る影がそこに棲んでいた。セードロの根元に屈みこみ、AKを突き出しているのは、まだ幼い顔立ちの少年だった。
 輪郭だけがはっきりした灰色の瞳が、雨の中で遠くを見つめていた。生き残る為に迷わない勁い瞳がそこにあった。
 啓輔、俺が嫌いか。
 理解が、…出来ない。
 

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