□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 慕情 □

 長沢が爛天堂大学病院から退院して一週間。徐々にSOMETHING CAFEは通常営業に落ち着きつつあった。
 常連客は一通り来て、店主兼マスターが変わらないのに安心し、通りすがりの客もその場所に小さな異変を認めなくなれば、僅かな休業は店の長い歴史から消し去られる。
 猿楽町近辺も実はなかなかの飲食店激戦区で、店の新陳代謝は激しいのだ。古ぼけたCAFEがつぶれずに続くには、幾つもの幸運とプラスアルファの魅力が必要だ。在り来たりが看板のSOMETHING CAFEの「それ」が何なのか、実のところ長沢には良く分からない。経営努力はしているが、それが合い相応しいのか正しいのか、分からぬままに10年が経った。最近では、続いている限りはそれで良いと腹をくくることにしていた。
 先代の竹下翁からこの店を居抜きで受け継いで10年。変わらぬ常連客も居れば、全く新しい常連客も大分出来た。プラスマイナスで全体に先代時代よりは客層は若返り、長沢と共に年を取っていく。
 こうしてあと何年続くのか分からない未来を、取り合えず一日一日、一月一年をSOMETHING CAFEと共に一生懸命過ごしていくのだ。
 穏やかで変わり栄えしない日々は、徐々に長沢の傷を癒して行く。体調も回復し、食欲も戻って来た。何より、しみじみと珈琲を美味いと思えるようになったのが、回復の証だと自身で感じた。
 非日常は去り、日常が戻って来たのだ。短い期間のイレギュラーは、これで終わったのだ。そう感じた日の午後だった。

 
 「あ、いらっしゃあい」
 看板娘が、酷く華やいだ声を戸口にかける。
 珈琲ミルの音で戸口のベルが聞こえなかった長沢は、中挽きにしたコロンビア・エキセルソを小売袋に詰め込みながら顔を上げた。
 「いらっしゃいま……」
 言葉が止まる。
 それは、正規従業員の北村も同じだった。
 二度と見たくないと願ったホワイトグレイの頭の持ち主が、目の前で微笑んでいた。
 思えば、冬馬がこの店で不審人物認定をされたその時、看板娘は居なかったのだ。居たのは北村と、アルバイタの寺崎と店主の長沢だけで、不審人物警報を全員に行き渡らせる前に長沢本人がこの店から消えてしまったのだ。看板娘が不審人物を連れて来ても、彼女に責めはない。
 「どうしたのぉ? やだあマスター、冬馬さんじっと見ちゃって。やーらし」
 責めは無いが溜め息が出た。深々と溜め息を吐いて、小売袋を真空パックする。受け取った客が怪訝な表情を向けるのへ、いつも以上に丁寧にお礼を言った。
 北村が店主にどうすべきかを視線で尋ねるが、長沢はそれに静かに首を振るだけにとどめた。現段階で北村が冬馬を追い出すのは、大抵の者の目から見て不自然だ。
 看板娘は弾む声で冬馬を迎え入れた。彼に好意を抱いているのは明らかだった。誰にでも公平に接する看板娘はそこにはおらず、店の隅に腰掛ける冬馬の許へ、鼻歌交じりで注文をとりに行く奥田早紀と言う正直な少女が居るだけだった。
 「何にしますか、冬馬さん」
 「店のお奨めは何だろ」
 「マスターの珈琲はどれもお奨めですよ。でも今日はこの、グアテマラ・アンティグアか、こっちのエスプレッソ系。ブレンドをちょっと変えてみたんですって。」
 「じゃあ、これ」
 「はぁい、マスター、カプチーノね、凄く美味しいやつ!」
 いつだって美味しく淹れているつもりだけど。口に出すのはやめてエスプレッソマシンに向かう。複雑な心境だった。
 若い者同士が恋に落ちるのは一向に構わない。大概の障害は恋を燃え立たせる物になり得るだろうし、それで恋が終わっても一つの経験として乗り越えて行く事が出来る物だ。だから冬馬と奥田早紀が恋愛をするのは結構だ。ただし、本当にそれが恋愛なら、だ。心配になる。
 自分にしたと同じ乱暴を、よもや少女に働いたりはしないだろうか。もしその気なら、予めそれを少女に告げるべきだろうか。いや、何を。どうやって。長沢は大きく溜め息を吐いた。
 銀の盆にカプチーノのカップを置く。同じタイミングで戸口のベルがりんと鳴った。
 「いらっしゃいませ。……おや」
 いかつい鷲鼻と、きっちりと着込まれたグレーのスーツとダークコート。神田署刑事課一係の鷲津がそこに立っていた。

 鷲津にエスプレッソ・アメリカーノ(エスプレッソのお湯割り)を運び、そのまま向かいの席に腰掛ける。刑事が小さくお辞儀をした。
 「お仕事中に申し訳ない。警察署に来て頂くよりは、貴方の邪魔にならないと思いましたのでご容赦ください」
 丁寧で硬い男だと思う。
 「お気遣い恐れ入ります。今の時間は比較的空いてますから少しなら。でも僕には何もお話すべき事はありませんが」
 「良い声だ」
 鷲津がカップに口をつける。呼吸と一緒に吐き出された言葉の響きは自然だった。
 「病院にお邪魔した時の声は痛々しかったですからね。私も随分遠慮した。しかし、今のその声なら、多少多く語って頂いても、こちらの心は痛みませんな」
 眼窩の底から冷徹な瞳が見上げる。そう言う事か、と長沢は納得した。この男は、やんわりとした表現で、話させるから覚悟をしろと言っているのだ。しかし、何を?長沢に語らねばならない事などは無い筈だ。
 「最近、この界隈で妙な事件が起きていましてね。勿論、この界隈といっても交通手段が発達していますから、どこからどこまでと言うくくりは無いんですがね。特定の外国人が悪質な犯罪を繰り返しているんですよ」
 「はぁ。頂いた雑誌や新聞で、その情報は読ませて貰いました。あ、有難う御座いました本や雑誌。おかげで時間潰しが出来ました」
 「そうですか、そりゃ良かった」
 鷲津の態度に淀みは無い。長沢がどんな受け答えをしても、恐らくはこの男の話の道筋は変える事は出来ないだろう。
 「それが起こり出したのは昨年の11月。今から丁度一年程前です。静かに、じっくりと間を置いて進められている事が有るんです。多分、中心はこの界隈でね」
 「すみませんが、鷲津さんの仰る事も分からないし、僕に何の関連が有るのかは、さっぱり分かりません。鷲津さんは一体、僕に何をお聞きになりたいんです?」
 「先日の強盗傷害事件の顛末を詳しく」
 「強盗傷害なんて有りませんでした。例えば有ったとして、それが鷲津さんの仰る"妙な事件"と何の関連が?」
 「さっぱり、分かりません」
 長沢は驚いて男の顔を見つめた。深い眼窩から、瞳が挑むように見つめていた。
 「私にもさっぱりそこが分からない。教えて頂けませんか、長沢さん」
 ぞっ、とした。この男の言う"分からない"の意味の深さが不快だった。
 幾つかの事件が有って、それらの関連をこの男は確信している。確信はしているが、確たる証拠が見つけられないか、証拠の意味が分からないか。或いは、その証拠の存在をここでは明らかに出来ない。だからこの男は「分からない」等と言う言葉を使うのだ。曖昧に水を手向ければ、獲物がそこに踏み入るかもしれない。自分から深みにはまるかもしれない。彼はそれをただ、見守って居ればいいのだ。 恐ろしいのは。
 この男が、正解の直ぐ側に居ると言う事だ。
 事件の何が彼の気を惹いたのか、幾つの、どう言った事件を関連付けて道を辿ったのか、その「一連の事件」の裏には何があるのか、何故それらと長沢を結び付けたのか。彼が何をどこまで辿り、掴んでいるのかは全く分からない。ただ。恐らくは彼は間違っていない。真っ直ぐに、正解の数歩手前まで辿り着いているのだ。
 この男の追う「一連の事件」の先に居るのは、恐らくは冬馬だ。あるいはその先に居る−−誰かだ。
 落ち窪んだ眼窩の底から、冷え切っった瞳がじっと長沢を観察していた。彼が狼狽し、思考に落ち込むさまを、陰気に、傲慢に見つめていた。何もかもお見通しだと言わんばかりの瞳に、背筋に泡が立つ。冗談じゃない。俺が一体何をした?
 溜息交じりに微笑む。曖昧なジャパニーズスマイルは、一つの鎧で、武器だ。
 「禅問答みたいですね。お手上げです。降参だ。残念ながら僕にはトンチの才能は有りません。
 店の何も無くなってませんし、僕の怪我も大体治って来たのでこの件は終わらせてくれませんか。本当に僕には何も言う事がないんですよ」
 アメリカーノの余りを一気に流し込んで、鷲津は席を立つ。飲み終わってから初めて、美味かったようだと呟く。長沢はそのまま鷲津を玄関に導いた。お勘定、と言いかけるのへ頭を振る。
 「無駄足を踏ませてお勘定は頂けません」
 鷲津は静かに、レジのプレートに硬貨を並べる。エスプレッソ・アメリカーノ320円、その代金をきっちりと。
 「私は無駄足を踏むつもりはありませんよ長沢さん。貴方があの夜の事を私に話し辛いなら、楢岡に話して貰いましょう。それがいやなら婦警でも良い。貴方の傷が如何に早く癒えようが、その時の診断書は病院にきちんと残っている。貴方が隠し通したい事実も、そこには書いてあるでしょう。貴方はその事を女に話したいですか、それとも男に話したいですか。私はどちらでも一向に構わない。
 ただ、伺うまではずっと参りますよ。あの夜。オライアンズ駿河台で心不全患者が出たあの夜。あなたが知った事を全て話して貰うまでね」
 男が掌をゆっくりと伸ばす。格闘技に似合う分厚い掌が長沢の視界を遮り、ゆっくりと肩に辿り着いて掴み、叩いて離れる。
 つん、と鼻先に衝撃が来た。あっと思って鼻をつまむ。口の中に鉄の味が広がった。
 鷲津は一瞬驚いたように長沢を見た後、ポケットからティッシュを一掴み出して長沢の鼻に押し付けた。素直にそれで鼻から口を覆うと、白かったティッシュが瞬時に朱に染まった。鷲津ははっきりと破顔一笑した。
 「何よりも正直なお答えだ、長沢さん。貴方は何かを知っている。」
 首を振る。違う、と言うと口から血が溢れそうで、言葉に出来ず首を振る。
 思わず向けた視線の先に、鷲津の楽しげな笑顔があった。
 「貴方より、貴方の鼻は正直なようだ。こう言うのを、"嘘のつけない身体"と言うのかなぁ。長沢さん」
 頭にかぁっ、と血が上るのが分かった。男の揶揄に、怒りと羞恥が鎌首をもたげる。鼻血の所為で口を利けないのが、余計にその感情を煽った。長沢の反応に効果を確信した鷲津は、小さく会釈して踵を返した。
 「−−それでは、今日は有難う御座いました。また後日。伺います」
 軽い身のこなしで、コートの前を合わせながら11月の冷たい風の中に出て行く。最後には礼を尽くしてSOMETHING CAFEから去る後姿を、長沢は腹立たしく見送った。
 畜生。
 腹立たしかった。鼻先から手を離せぬままに毒づく。よく分かっていた。刑事は職務を果たしただけだ。忌々しい目つきも人を小馬鹿にした物言いも、職務の一環でそれ以上でもそれ以下でもない。理解できるし理解もする。許せないのは。
 自分だ。一介の地方公務員に、平の刑事如きに。ただの一言もまともに言い返せない不甲斐ない自分だ。一体何だ、俺は。
 言いたくない。長沢が口をつぐんだ理由は単純にそれだけだった。本来自分にしか関わらない不祥事を、しかも、男性としては相当に認めがたい不祥事を、吹聴する物好きは居ない。だから口をつぐんだのだ。だがそれさえも叶わない。大きくて厄介な事件が傷を掘り起こす。腹立たしかった。
 店長、と奥田早紀が肩越しに声をかけた。消毒済みのお絞りを、目の前に差し出してくれる。ティッシュを丸めて捨て、その代わりにお絞りで鼻面を覆う。冷たさが心地よかった。
 「有難う早紀ちゃん。気が利くなぁ。」
 流石、女の子は違う、と続ける前に彼女が困り顔で頭を振った。店の奥を指差す。
 思わずやった視線の先に冬馬が居た。不気味な程静かで冷たい灰色の目で、じっと店頭の長沢を見つめていた。熾き火を内に蓄えた瞳が、長沢を確かめてから去り行く刑事の背中に移される。背筋を冷たい物が滑り降りた。
 「冬馬さんなんです、気付いたの。刑事さんに苛められてマスターがパニックってるから、お絞り持ってって上げなって、冬馬さんが言ったから来たんです」
 

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