□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 この頃、新聞を数紙読むようになった。店番の隙に読めるように、朝刊を数紙取って店に持ち込む。三面記事から斜めに東京近辺の事件と死亡記事を確かめ、それでようやっと息をつく。自分でもこの行動の理由は分かっていた。
 罪悪感だ。殺人者に関して口を閉ざしている事への罪悪感なのだ。
 ネットで新聞のバックナンバーの死亡記事を引いてみた。場所を東京に特定し、この半年余りの自然死を引いて見る。年を取れば、人間自然に病死が増える。梗塞やら癌やら心不全やら。そうした病死はこれすなわち自然死と断定して死亡記事を引いた。十万単位の検索結果が転がり出て、膨大な数に眩暈がした。
 鷲津が関連あると感じた死は一体幾つ有ったのだろう。間を空けて行われていると言ったからには、毎日毎週のペースで事件が起きている訳ではない。一月から数ヶ月単位で起きた事件を、何らかの理由で関連付けているのだ。
 その「何らかの理由」とは何だ。鷲津を一連の捜査に向かわせるだけの「理由」とは何なのだ。想像も着かない。
 長沢は、卓袱台で見ていたノートPCをそのままに床に転がった。
 鷲津の理由は分からなくとも、自分の行動の理由は分かっている。たった一つ。罪悪感だ。
 冬馬が初めて長沢を力づくで抱いた夜。あれはオライアンズ駿河台というマンションで人が死んだ夜だった。
 その日の事を思い出すと、どうしても生々しい屈辱と痛みを伴う感覚に苛まれるので避けてきたが、日が経って冷静になるにつれ、自分の沈黙がどんどん罪悪に思えて来た。あの日、殺人を犯した人間を自分は知っている。しかし、同じ犯人にされた行いの所為で、自分はその事を封印しようとしている。この封印は。
 今後、幾人もの死に繋がるかも知れぬと言うのに。
 天井を見上げる。
 自らは何もしていない。事件と関係すらない。別件の被害者でしか無く、殺人との関連は一切無い。水上冬馬という要素さえ同じでなければ。
 その要素の所為で罪悪感に苛まれる。一体どう晴らすのが正しいのか。
 オライアンズ駿河台の死が事件であると知ってから、長沢もその事件を調べて見た。鷲津以外の警察とメディアはこの死亡に疑問は感じていないらしく、死亡記事はどれも叙情的で、死の事実は至ってあっさりと取り上げられていた。7時ごろ死亡、と言うアバウトな物に始まり、一番細かく書かれている記事でも7時20分に救急車が到着し、その時点で既に死亡していた事、蘇生術を施したが無駄だった事が書かれている程度だ。
 冬馬がSOMETHING CAFEを訪れたのは、忘れもしない7時25分頃。駿河台からなら歩いて数分で着くのだから、その点矛盾は無い。ではこう言う事か。
 冬馬は人の命を一つ奪ったその直ぐ後、欲望を晴らしに来た。もっと直截な表現をすれば、男を殺った直後に男を犯りたくなったのだ。その手の話はよく耳にする。殺しと言うエキサイティングなイベントが、性的興奮を刺激するのだと。
 そこまで考えて思わず面を覆った。唐突にあの夜の事が蘇る。
 客と二人きりの閉店後のフロア。強引に行われた交合は、十数年前に職場で体験した物とは全く違っていた。獣が内臓から食うのは本当なのだと、床に押さえつけられながら妙な納得をした。後門から腹の奥まで凶器に掻き回され、揺すり上げられた。痛みと言う単純な物ではなかった。耐えられず、幾度と無く懇願した。やめてくれ、もう抜いて、抜いてくれ、頼む。熱い物が腹の中に吐き出されるたびに上げた自らの悲鳴が耳の中に蘇る。人を殺して来た男にとって、あれは仕事完遂後の打ち上げのようなものだったのだと思うと吐き気がする。
 痛みと恐怖と嫌悪はよく自覚している。万人が理解する事柄だし、理屈にあっている。だが、それ程感覚は単純ではなかった。
 最中は純粋に苦痛だけだった筈だ。だが、記憶の中で繰り返される行いに、今は雑音が紛れ込む。色濃い苦痛の奥のその裏側に、否定しきれない感覚が息づく。理屈に合わない。長沢自身認められない、許しがたい感覚。それは快感だった。
 快感、と言うべき物かどうか分からない。自分を強引に曝け出された苦痛に、こびりついた残渣のような物。紙一重の快楽。思い出すと背筋を駆け上るのは、悪寒だけではないのだ。
 納得できず、結局は長沢は口を閉じる事に決めたのだ。
 溜息を吐いて、思考をあの夜から引き剥がす。冬馬にとって殺しはビジネスだ。同じく、彼にとってレイプは肉体を使った告白に過ぎない。そんな男にされた事を黙っている自分は、その男の行いに力を貸した事になるのだろうか。自分の恥を残らず警察に話し、だから多分犯人はこいつだと言えば、事件は解決するのだろうか。
 この罪悪感は晴れるのだろうか。長沢には良くわからなかった。
 起き上がってもう一度PCを叩く。この数日、どうにも胸騒ぎがおさまらないのだ。
 オライアンズ駿河台の事件から、早くも二十日余りが経つ。この期間が長いのか短いのか、明確には判断出来かねる。決して長くはないと思えるが、病院の廊下で次を催促していたあの日から既に半月経っているのだ。次の予定が例え決まっても、不思議は無い。
 ネットのニュース速報を眺める。全く面識のない、興味の無い死亡記事を辿る。紀尾井町、と言う文字が目に引っかかった。
 心臓がばくん、となった。

 紀尾井町1−b、ホテル赤坂パーク13階の男性浴場にて、横井孝道さん(71)が死亡。死亡原因は不明だが、ペースメーカーを使用していた事より……

 ニュース速報。共同。更新時間は一時間前。長沢はその場から飛び出した。
 ジーンズの尻ポケットに財布を捻りこみ、椅子に引っ掛けてあったジャケットを掴む。裏口に放り投げたままのトレッキングシューズの踵が潰れるのも構わずに引っ掛けてまろび出る。自分の行動にもはや理屈をつけている暇は無かった。ただ、見つけ出して会わねばならないと思った。
 冬馬に。ビジネスで人の息の根を止め、長沢を陵辱し、俺はゲリラだと言ったあの青年に、会わねばならないと思った。たった今、すぐに。
 関わりたくないと思っていた。拒絶して、触れぬようにすれば遠ざけられると思っていた。過ぎた事に蓋をして、現在とは関係ない、未来とは更に関係など無いと、思い込めば終わると思っていた。だが、無理だ。痛みはそんな事で去りはしない。納得できない現実は、蓋をするだけでは鎮まらない。矛盾だらけだ。己自身の矛盾にも、冬馬を取り巻く矛盾にも、ただ黙って蓋など出来ない。
 怒りと恐怖に目が曇っていた。彼はゲリラだったと言ったのだ。ペルーのゲリラ、MRTAだったと。
 ゲリラは人殺しではない筈だ。彼らの能力はサバイバルだ。恣意的行動をする為に生き残る術を身に着けたのがゲリラで、彼らはあくまでも私兵だ。資金の無い自営業のレンジャー部隊のようなもので、統率の取れた軍ではない。人殺しのプロではありえないのだ。
 彼は言った。狙った獲物に逃げられた事はないし、獲物を殺した事も無いと。生活の為に武器を持ち、信義の為に使ったと。そう言った。それならば何故。
 その同じ男が、わざわざ日本に移り住み、日本人を殺すのだ。
 敵は殺すと彼は言った。だが異邦人である彼の敵になる日本人など、そう居る筈が無い。ましてや。日本に暮らして僅か数年の彼にとって、民衆党の富士野忠明が敵足りえる筈も無いではないか。
 神保町から半蔵門線に乗る。永田町で降りて紀尾井町に走る。闇雲に出て来た自分の計画性の無さを呪うが、他に術も無かった。
 皇居と迎賓館に挟まれたこの地域は緑が多く、夜の空に黒い小山を描いている。皇居の外堀と平行に走る首都高の足下を、長沢は黒い小山を見ながら闇雲に走った。直ぐに限界が来る。運動不足はいかんともしがたかった。
 せわしない夜の街で、色とりどりの人影が動き回る。ホテル赤坂パークの周りは既に規制線が引かれ、あたりには白黒ツートンの見慣れた車が大挙していた。
 荒い息の下から喧騒を見やる。野次馬と警察官と報道陣。ホテル赤坂パークの敷地内は既に小さなパニックだった。もしこれが犯罪で、殺人であるのなら、とうに犯人は逃走している。この場にとどまっているのは余程の馬鹿だ。
 長沢は喧騒を横目に見ながら迎賓館の方へ歩いた。日本人なら必ず街の方角、赤坂見附に向かうだろう。だが、冬馬は違う気がしたのだ。緑を深める都会の一角へ、誘い込まれたのではないか。何故かそう思って人ごみの中を抜ける。走れずに、早足で歩く。せめてもう少し息が整ったら、迎賓館まで走って見よう。そう思って瞳をめぐらした。
 と。居並ぶ人の頭の一つに、目が引き寄せられた。
 幾人かの野次馬と共に、それはのほほんと地面に座り、成り行きを見守っていた。周りと溶け込んで、少しも目立たないホワイトグレーの頭。
 思わず立ち止まる。一瞬見てしまってから、ゆっくりと目をそらす。
 雰囲気から、冬馬の方は遥か遠くから長沢を認めていたと分かった。長沢が行き過ぎた後で、ゆっくりと立ち上がって後を着いてきた。ほんの十数メートル先で人知れず合流する。言葉の代わりの小さな笑いが頭上から降ってきた。
 「怪我、してるのか」
 長沢の小声に冬馬が頷く。飛び降りた時に右足を傷めた。バランスを崩して捻ったらしい。微かでは有るがはっきり足を引きずる様に、長沢がそっと冬馬の右に着いた。
 「肩を貸す。俺のほうが低いから丁度いい筈だ。四ッ谷駅が直ぐそこだ。そこまで歩けるか」
 冬馬が頷く。頷いて、そろそろと肩に手を回す。ゆっくりかけられる体重の奥底に、震えがあった。
 不意に最初の夜の事を思い出す。あの日の冬馬を思い出す。
 あの日。冬馬は、疲れ切って沈んでいた。やっとオアシスに辿り着いた旅人のようにボロボロで、何が有ったのか酷く落ち込んで見えて、気の毒に思えたから。だから長沢は店に入れた。時間はラストオーダーギリギリだったが、それが30分後でも恐らく迎え入れたろう。それ程に疲れ切って見えたのだ。
 常連客でもない彼を閉店になっても追い出さなかったのは、それが有ったからだ。今、思い出した。
 冬馬の腰に腕を回して支える。芯の震えが、ゆっくりと伝わって来た。

 JR四ッ谷駅から中央線に乗ってほんの数分、御茶ノ水で電車を降り、その後はタクシーでSOMETHING CAFEに辿り着く。
 その間、長沢はむっつりと黙り込んで口を開けなかった。いつもの穏やかな笑顔は微塵もなく、眉根に深い皺を寄せ、伏し目がちに思いに沈んだまま俯いて居る。中央線では、冬馬だけを椅子に座らせ、自身は手摺に身を凭せ掛けて外を見ていた。タクシーでもその姿勢は変わらず、一向に冬馬に顔を向ける事はなかった。
 それでも、冬馬にとっては至福の時だった。
 激情に駆られて長沢を犯した自分を、彼は絶対許さない。半ばそう覚悟していた。これからの自分がどれ程の誠意や愛を捧げようが、感情は非可逆で憎む気持ちは消える事はない。そう説明されて拒絶され、酷く落ち込んだ。
 それでもどうしても思い切れなかった。そもそも、他人から言われた事で自らの意思が変えられる訳など、冬馬にとっては、無い。拒絶され、否定され、その人間を冬馬自身が嫌いになる以外、意思は変わらない。ただ拒絶されただけでは諦める理由には到底ならないのだ。
 開き直って看板娘に取り入った。彼女の好意を得て、SOMETHING CAFEに再び客として入り込んだ。そう決心するまでに五日。五日間も思い悩んだと言う記憶など、冬馬は生まれてこの方一度も無い。それだけに。思いもしなかった。
 長沢が自ら冬馬を受け入れに来てくれるなど。
 夢のようだった。タクシーのシートの上で、振り返らぬ長沢を他所に笑みがこぼれた。見ているのは精々運転手だけだ。笑みを消す理由も無い。
 長沢がこうした行動に出るまでには、恐らくは全て彼ならではの理屈があるのだ。全ての辻褄があっていて、冬馬が感心する程の細やかな事情があるのだろう。だがそれは冬馬にはどうでも良かった。どうであれ長沢が自分の為に動いてくれた、その事実で十分満たされていた。
 タクシーが二人を下ろして去ると、長沢は大きく溜息を吐いた。
 「悪いがお前を上に上げる気にはなれないんだ。店で良いか」
 長沢の言葉に、冬馬は一も二も無く頷いた。
 

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