□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 着地を失敗して捻ったと思われていた右足は、古釘を踏み抜いた拍子に捻った物と分かった。丁度小指と薬指の間の位置に当たる靴の裏に釘の頭が残って、冬馬の足を靴に縫いとめていた。スニーカーの中に血が溜まっているのは何とか確認出来たが、足を抜く事も叶わない。
 やや青ざめて病院に行った方が良いんじゃないかと言う長沢に対して、冬馬はけろりとペンチと消毒薬だけあれば良いと言い放つ。放って置く訳にも行かず、長沢は考えられうる限りの治療薬を寄せ集めてきた。
 綺麗とは言いがたい釘を刺したままでは、時間に合わせて感染症の危険性が増えるだけだ。少々痛いし力技だが、刺さっている物は抜くしかない。
 誤って舌を噛まぬよう、タオルを口に咥えて刺さった釘を抜く。方向が悪くて自力で抜けきれず、長沢が引き抜く。靴の裏から、赤い雫が糸をひいた。
 店の水道で傷口を洗い、消毒薬をかける。長沢が情け容赦なくかけた消毒薬が思いの他染みて痛かったが、一生懸命手当をしてくれる長沢の姿が面白くも嬉しく、冬馬は何も言わずに従った。
 消毒を終えると、今度はその足を自らの太腿の上に乗せ、長沢が小器用に包帯を巻いてくれる。釘の傷にはリバノールガーゼを当て、捻った足首にはきちんと冷シップを張り、包帯で包んで端を二つに裂き、足の甲の上に結び目をあわせる。包帯の形まで整えているのが、いかにも細かい長沢らしくて、冬馬は感心して眺めていた。
 「痛むか?」
 太腿の上に包帯を巻いた足を乗せたまま、長沢が見上げる。その目線に気付いて、冬馬は慌てて首を振った。
 長沢に肩を貸して貰ってからこっち、長沢の手が触れている間は、痛みは全く感じていない。持て余しているのは、痛み以外のもっと熱い感覚だ。触れられた部分が全部ときめくような、疼くような。ずっと長い事忘れていた感覚だ。
 緑の傍らの都会で、つい先程まで冬馬は憔悴しきっていた。
 野次馬の群れの中にしゃがみ込んでいたのは、何も好き好んでした事ではない。怪我も手伝って、正直思うように動けなかったのだ。だから、仕方なく野次馬の群れに潜り込んだ。彼らが飽きて帰るのにあわせて現場を離れるしかないと決心した。それまでに足が動くようになれば良し、更に動けなくなった場合は別の方法を考えよう。疲れで上手く動かない頭で、ぼんやりとそう思いながら眺めていた人の波に、唐突に恩恵が持たらされたのだ。
 人ゴミの中に、見覚えのある不細工な眼鏡を見つけて己が目を疑った。白髪がちらほら混じり始めた柔らかそうな頭髪が、走るのにあわせて揺れている。こんなリアルな妄想を抱ける程の想像力は無い。これは現実なのだと思い至って、改めて息を呑んだ。
 信号を渡って、通りの向こうから足早に近づく姿を見つめていた。不安気に周囲を見回すさまから、誰かを探しているのだと分かる。一体誰を捜しているのか。ここには何の用で来たのか。人ごみの中の冬馬に全く気付いていない長沢の自然な動作が、冬馬の諦めた筈の希望に火を点す。期待が胸の中で鎌首をもたげる。じっと見つめていると、間近に来た長沢が冬馬の視線を受け止めた。
 あの瞬間の感覚を、冬馬は恐らく忘れないだろう。
 自分を探しに来たのだと、瞬時に理解した。この身を案じて走って来たのだと、深く感じた。考えもしなかった救い主が、手を差し伸べてくれたのだ。疲れも痛みも一瞬で消し飛んだ。
 そして今、SOMETHING CAFEに居る。抱え切れない程の感謝と溢れ出る激情は、どう伝えればいいだろう。
 足を抱えたまま俯く長沢の顔を覗き込む。相変わらず深い眉根のしわが、彼の苦悩を表していた。
 「Muchas gracias 啓輔。感動だ。お前が来てくれるなんて思わなかった。俺は何……」
 「冬馬」
 思いつめた表情に、冬馬は押し黙る。
 「正直に答えてくれ。殺したのか」
 罪悪感に煽られて家を飛び出した。ホテル赤坂パーク、紀尾井町というキーワードだけで電車に飛び乗った。その場に行けばどうかなると思ったわけではない。ただ会おうと思ったのだ。自らをゲリラだと言った青年に会わねばならぬと思ったのだ。会って、全てを聞くのが己の責任だと、何故かそう思えて居ても立ってもいられなかったのだ。
 「初めて、名前を呼んでくれた」
 毒気を抜かれて青年の顔を見つめる。微かに上気した頬が、嬉しげに輝いていた。
 「…は。……なしを逸らすな」
 「逸らしてない。俺はずっと啓輔の事を言ってる。俺が無理やり言わせたのとは違う。啓輔、今初めて俺の名を呼んでくれた。もう一度呼んでくれ。凄く良い感じだ」
 「冬馬、殺したのか」
 「良いね。嫌いだと言いながら、お前は俺を心配してくれる。あんなに側に寄られるのを恐れていたのに、怪我の手当てまでしてくれる。本当にお前は優しくて……」
 「答えろよ、殺したのか!?」
 「お前は自分の身も守れない」
 ぴしゃりと言い切られて長沢は息を呑んだ。
 目の前には、冴えた灰色の瞳があった。輪郭だけくっきりと黒い、灰色の瞳。冷徹で沈んだ強い瞳。
 背筋に寒気が走った。一言もない。全くその通りだった。青年はゲリラだと言った。殺しのプロでは無く、特殊な訓練を受けた兵隊で無く、自らの身を守り、生き抜く術に長けたゲリラだと。だから日本に住み、順応し、潜り込み、何らかの"ビジネス"を負っている。生き抜くTPOを利用したビジネスだ。長沢にその力はない。
 力は無くとも。大人しく全てを受け流せばならぬと誰が決めた。そんな事など、出来ない人間も居る。
 「聞いてどうする。聞いたら、お前を巻き込む。巻き込みたくない。最初に聞かせたのは俺だけど、それは分かると思わなかったからだ。お前は賢い。一つ聞けば、お前はもっと知り、きっと直ぐに全てを理解する。理解して、どうする?」
 どうする? 問われて初めて気付く。驚いた事にそこは考えていなかった。
 「手遅れだと言ったろう」
 青年を睨み付ける。情動と直感で動く野生生物の奇妙な目を見つめる。
 「巻き込みたくないだって?お前はオライアンズ駿河台で人を殺した直後に、ここへ来て俺をねじ伏せた。その時から俺はもう巻き込まれている。
 入院して通報されて、刑事が来た。あの刑事は俺に言った、"貴方は何かを知っている"。その通り、何かを知っている。でもそこどまりだ。俺が知っているのは、唐突に俺の生活に土足で入り込んで来た得体の知れない男に思い知らされた自分の不甲斐なさだけだ。
 その男は日本人で、ペルーのゲリラだ。ツパクアマル。インカ帝国の最後の皇帝の名を冠した解放戦線だ。そいつは言ったよ。理想の為に武器を持ち、信義の為に使うと。その為に生き残る、敵を殺す。正しいのかもしれないが、純粋でイッちまってる、多分人殺しだ。
 俺は、そいつにかかされた恥を誰にも言いたくなくて、そいつの存在を隠している。そして今日、また人が一人死んだ。そいつが殺したのかもしれない。いや多分、きっとそうだ。
 俺は、殺人に気付きながら、そいつの事を黙ってるんだ。ただ、恥を曝したくないと言う理由でだ。俺が言わないと言う事は、そいつを庇う事になるのか?そいつは、こらからも殺人を繰り返していくのか?俺はこれからずっと、死亡記事にビクついて、一人死ぬ度に、俺の所為なのかと罪悪感を抱いて行くのか? もう、
 もう人の死なんか沢山なんだよ !!」
 長い台詞の途中で、そっと太腿の上から足を引く。じっと瞳を逸らさぬまま、徐々に激していく言葉を聴く。もっともだ。言われる言葉はどれ一つとっても至極尤もで、それが却って痛々しかった。
 青年なら考えぬ奥底まで、この日本人は考える。日本人に総じて言える事だが、小さい事で思い悩む。自らが納得できるように理屈をつけて、その理屈にまた悩む。そんな無限ループは止めたら良いのに。
 青年に比べて貧弱な身体を抱きしめる。病から復帰しきらない身体を抱きしめる。腕の中で硬直するのも構わず、呼吸を腕に封じ込める。まだ言い募ろうとしていた口が、声ともつかない声を漏らした。
 「お前の所為じゃない。全て俺の責任だから、お前は余計な事は忘れれば良い」
 納得はしないだろう。冬馬が何万言尽くそうが、長沢を説得する事は叶わない。価値観が違って細かさが違う。恐らくは長沢の方が細かく全部合っていて、一番大きい所が一つだけ間違っている。冬馬は細かい項目は何もなくて、大きい所だけは決して間違えない。設問の作り方が違えば、答えが違ってくるのは必至だ。
 「そんなに器用に出来てない。お前はお前の意思で動き、それを知っちまった俺は気に病んでいるだけだ。言ったろう、非可逆なんだ。聞いた事は忘れられない」
 「啓輔…」
 暖かい背中をなぞる。引き寄せようとする寸前、長沢は腕を跳ね除けて立ち上がった。
 「だから、教えろ。全部。正直に言ってくれ。何をやって来たのか、何故やって来たのか。何も知らずに罪悪感に潰されるのは真っ平なんだ。
 俺は自分の弱さを良く知ってる。大体想像より2ランク下だと思うと丁度良い。お前の言う通り、自分の身も満足に守れない不甲斐ない人間だ。」
 腕の中に有った筈の温もりは、今はいらいらとカウンタの側を歩き回っている。自虐的な言葉を並べるが、判断としては適格だ。冬馬が思ったより日本人の…長沢啓輔の身体は華奢で頼りなかった。サバイバルには到底向かない。
 「お前を巻き込む気は無い」
 「なら何故、巻き込んだ!お前が、あの夜俺を巻き込んだんだぞ」
 「巻き込んでない。抱きに来ただけだ」
 「何故、俺で、何故、あの夜…」
 「ずっとお前の事、考えてたから。お前の所為だ」
 ぐっ、と息を呑むのが分かった。男の罪悪感に真っ直ぐに言葉が刺さったのだと、冬馬にも分かった。
 「あの日昼間からお前の事考えてた。もっと早くここに来るつもりだった。予定が決まったのは直前で、だから来るのが遅れた。でもお前が店に入れてくれて、笑って、閉店後も居ていいと言った。辿り着いたと思った。やっと辿り着いたと」
 冬馬の中で記憶が蘇る。
 日本に来てから7年。この手の仕事は初めてではない。ペルーに居た時からやって来た事で、ずっと続いている作業の一つだ。迷いはなかった。ずっと。
 日本に来て、何かが変わるまで。そうだ、何かが変わるまで。一体何が変わったのだろう。
 「そう言えば何故だろうな。この所ずっと重い。犬も山羊も人間も、生きて動いている物は、皆等しく殺せば死ぬ。そう言うものだ。同じ物だと思う。…思っていた。でも何故だろうな。日本では重い。なぁ啓輔。人の…重さと言う物は、場所や土地で変わる。日本では重くてうざったくて、面倒だ。だからここに何度か来た。
 濃い珈琲と、珈琲を淹れてくれるお前の匂い。日本にも、あちこちに死の匂いが転がっている。お前もその一つだ。それで…ここに来るようになった。」
 冬馬が無意識に消している言葉が長沢の中で引っかかる。死と言う言葉は容易く出せるのに、命と言う言葉は出ない。それが冬馬なのだ。
 「何も言わない俺に、お前は笑って接してくれて、時に"疲れた顔してんねぇ"なんてサンドイッチくれた事も有った。お前がくれた傘、今も持ってる。多分返さない」
 サンドイッチ?緊張の中にいきなり日常を挟まれて力が抜ける。そんな事が有ったろうか。あったような気もするが、しょっちゅうやっている事なので明確には思い出せない。青年の顔に浮かぶ、らしくない微笑は、むしろ青年を年相応に見せる。
 「巻き込んだんじゃない。最初からここに来るつもりだった。多分、ただ珈琲飲んで帰るつもりで。でも予定が変わったから。お前が気にする事じゃない」
 ゆっくりと椅子に座る。所在無くぶら下げられている、包帯に巻かれた片足に、スリッパを乗せてやる。
 「でも結局、お前が俺を巻き込んだ」
 「……そうだな」
 「なら、全部教えてくれ。何も知らずに済ませられればと思ったが、俺には無理だ。矛盾と疑問に蓋が出来ない。自分の人生を曖昧に出来ない。なら、とことん解くまでだ。お前の状況を全部知りたい。教えてくれ」
 「俺の事を、全部…?」
 冬馬の顔色が変わる。その変化があからさまで、長沢は溜息を吐いた。
 強姦してから告白する情動的な男は、どうやら希望を捨てていない。どころか今日の僅かな時間で、すっかり、差し伸べられた手に載せられているのは愛情だと思い込み始めている。長沢の真意を、自分への愛情だと信じ始めている。
 嫌いだとはっきり伝えた。憎いし決して許せないとも伝えた。それでも青年は数日後にはけろりとしてSOMETHING CAFEにやって来たのだ。何が有っても生き残る為の強靭な精神は、その分大雑把に出来ている。
 「勘違いするな。お前の為じゃない。自分の為にやるんだ。自分が助かる為だったら、人を売る事だってするぞ。俺は、お前の共犯者にはならない」
 長沢の言葉に、細かく冬馬が頷く。上気した頬を笑みに持ち上げて、分かってる、と繰り返す。否定的な言葉のいずれにも、弾んだそれは変わらなかった。とうとう言葉が尽きて黙り込むと、冬馬はそれでも全然OKだと笑った。
 「俺の事を全部聞くまで、啓輔は俺と離れられない。これ以上最高の事なんてない」
 

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