□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「マスター、どうしたんですか、目、真っ赤ですよ」
 看板娘が無邪気に問う。我ながらその疑問には全く同意だ。
 若い時分ではないのだから、無理をすればそのダメージは素直に表面に現れる。だから、いつ頃からか自分なりの節制をするようになった。食べ過ぎないように、夜更かしを過ぎないように、ましてや。完徹などしないように。
 必死で欠伸をかみ殺す。一体何年ぶりだろうか、完徹などと言うものは。
 半分眠った頭で、モーニングに訪れる客の為の用意をてきぱきとこなす。手が覚えた習慣と言う物は有り難い。眠りかけた脳の部分が、昨夜のことを反芻した。

 
 半分は流されるように始まった一幕だが、長沢にもそれなりの覚悟があった。
 何しろ相手は長沢の想像からそれた反応のみで出来上がっている、水上冬馬と言う異邦人だ。直情型で大雑把で、長沢より遥かに生きる事に長けた野生児。知性の程は知れぬが、直感は動物のそれに等しいだろう。となれば。生半可なやり方では欲する情報は引き出せぬ。
 SOMETHING CAFEで彼の傷の手当をしながら、必死に話の組み立てをした。普段は使わぬ脳を使って、先行きのシミュレーションをした。幸いにして冬馬には話す準備が有ると言うが、危険を感じたら逃げ足が速いか、或いは牙をむくのが野生の常だ。覚悟と用意はしてし過ぎる事は無い。
 「初めから聞きたい。生まれたところから」
 今後の流れは全て今日決まるのだ。かといって、それを相手に気取られてはならない。どうすべきかと悩む自らの心の片隅に、この状況を少しばかり楽しむ部分を見つけて長沢は驚いた。
 感覚が20年昔に遡る。営業で飛び込みをやっていた時代、良くこんな思いを抱いて動いていた。様子見に行こう。しかし真剣勝負に。今日は下ごしらえ、明日は料理、数日中には仕上げ。自らにスケジュールとノルマを課して下町の工場を動き回った日々を思い出す。
 緊張と期待で一杯で、その上に掛けられる僅かばかりの恐怖に突き動かされて夢中で働いた。次から次へと求めて満たされる事は無く、眠るのも忘れて働いた。営業成績トップになるまでの、自らの負け星の多さと情けなさを思い出して苦笑が零れる。不意に肩から力が抜けた。
 「−−と、言っても本人にそれは酷か。生まれたのは日本だよな。ご両親は?」
 「その時は居た。もっとも、日本に生まれ育った時の事はそれほど記憶に無い。覚えているのは、オレンジ色の植木鉢に入った花を育てて、夏に毎日その絵を書いていた事くらいだ」
 「ああ、朝顔の観察日記だな。日本の子供の夏休みと言ったらそいつと相場は決まっている」
 「そうか……啓輔もやったのか」
 「やったね。小学生の時だったけど。おれはただの観察日記じゃつまらんと、そこに来る虫を書いた。もっとも。
 発想は良かったんだが子供の事で、すぐに花より虫が面白くなった、。途中から観察日記の内容は植物じゃなく、虫達の生態レポートになって……朝顔は枯れた。担任には困り顔で褒めて貰ったが、今思えばアレは無い。担任教師に同情するよ」
 冬馬の頬に柔らかい表情が広がる。長沢の語ったエピソードに小さく笑って、口火を切る。スムーズだった。
 「この国の記憶はそれぐらいで、他にはこれといって見当たらない。極普通の家庭の極普通の子供だったと思う。……ああ。当時ビックリマンチョコって言うのがあって、子供同士がシールのトレードを良くしてた。俺には取り替えてくれる相手が居なかったから、きっと暗くて地味な子供だったんだろう。
 そんなある日、何のきっかけだったか、旅行に行く事になった。遠い外国に行くからと、大き目の新しい鞄を買ってもらった。初めての飛行機に俺は大はしゃぎで、楽しい旅立ちだったよ。それでも、シートに座ったままじゃ、直ぐ飛行機に飽きちまう。飽きて、ごねにごねまくった頃、目的地に着いた。
 着いたのはペルー。その主都リマの空港だった。その時は、その国で暮らす事になるとは全然思わなかった。そうだ、−−最初の夜に。
 最初の夜の事で、今もはっきり覚えている事が一つだけ有る。
 泊まったのはリマの市街地のホテルだった。街を一望できる高層ビルで、部屋の電気を全部消して夜景を見下ろした。すると、思ったより近くに山が見えたんだ。アンデスの山々じゃない。もっと小さくて暗くて、不思議な形をしていた。所々に明かりが見えるんだが、それが歪んで動いて、俺は怖くなって窓の外を見るのを止めた。止めただけじゃない、泣いて暴れて眠った。何だか物凄く……おっかなかったんだ。
 朝になって、その正体を知ったよ。
 pueblo joven(プエブロ・ホベン:若い町)と言う名の街。土と廃材で作ったバラックが集まって出来た集落。吹き溜まりの街。歪んで見えた明かりは、住人が煮炊きする焚き火の火だった。
 高層ビルから、通りを一つ挟むだけで、平気でバラックの街になる。それがリマだ」
 長沢は黙って頷いた。話を促す為に、余計な言葉は要らなくなっていた。
 「madre(母さん)は俺とずっと一緒だった。黒い髪と大きな目が綺麗ないい女で、梓と言った。俺は大好きだった。…でも、覚えているのはそれだけだ。夢に出て来てくれなくなって15年以上。もう顔もはっきりしない。写真も何も無いから、こうして忘れていくんだろう。
 旅行では、父さんが後からリマのホテルに来た。何日か一緒に居た。恐らくNASCA(地上絵)だのMACHU PICHUだのCUZCOだの、色々見たんだが、楽しかった覚えはない。多分子供にはキツい、大人向けの観光だったから、苦しかったり寒かったりして面白くなかったんだ。それに。
 全部すぐに帳消しになった。 madreが死んだのはリマだった。二人でさらわれて、 madreだけ死んだんだ」
 長沢は思わず青年の瞳を見上げた。
 冬馬は、手当ての為に机に腰掛けている。足の処置を行う為には、高さの差が有った方が行い易いやすから、長沢の判断で冬馬を机に座らせ、自らは椅子に座ったのだ。
 青年の瞳は先程からずっと長沢を見下ろしている。だが、そこにあるのは瞳だけだ。彼の心も想いも、今は遠い昔に居る。そこにあるのは静かで動揺の色の微塵も無い、がらんどうの瞳だった。
 「場所も時期も悪かった。父さんが帰った後、女子供が二人で歩き回る事がどれ程の"エサ"であるかをその時知った。女子供なら確実に捉えられるし、害も無い。男だけを社会に残しておけば、その男は女子供のために働いて金を払う。リッチな日本人なら確実だ。俺達は捕まった。相手はペルー共産党だった。…ああ、そう名乗るのは連中だけで、他の人間は違う呼び方をする。Sendero Luminoso(センデロ・ルミノソ:輝ける小径)と。
 madreは俺を放り出して言った。振り向いちゃ駄目。貴方はどこまでも走って逃げなさい。だから走った。全力で、力尽きるまで。後ろに銃声と女の悲鳴が響いた。事情はしっかり理解できた。でも、madreに言われたんだ。貴方はどこまでも走って逃げなさい。……俺の頭の中に、今もその声は続いてる。俺にとっては絶対の言葉だ」
 参った。
 長沢は面を覆った。
 冬馬は本当に正直に話している。彼の言葉には嘘がない。装飾もなければ誇張も無い。だがそれだけに。
 ストレートに突き出される身の上話に翻弄される。話し出して間がないのに、既にどう対処して良いか長沢は分からなくなった。安っぽい慰めの言葉は勿論、相槌さえ打ち方が分からなくなる。わずか4歳の子供が母と共にゲリラにさらわれ、母親を殺され、命からがら逃げるのはどれ程残酷な事だろう。それを訥々と語る迄に、どれ程の時がこの青年に降り注いだのか。どれ程の思いと苦難を乗り越えて来たのか。平和な日本に暮らす長沢には想像すら出来ない。
 そんな長沢の動揺を他所に、冬馬は小さく笑った。
 「Senderoは思ったより馬鹿だった。セルバ(ジャングル)にも高原にも詳しくも無い子供を取り逃がしたんだ。
 奴らが最初に居たのはアヤクチョの側だった。俺が逃げ出したのもそこだ。足場が悪くて、山道にも慣れていなかったから、逃げると言うよりは恐らく滑落したんだと思う。なのに別に怪我もしないし、普通に側にある寺院に辿り着いた。俺は丈夫に出来ていたし、悪運が強かったんだ。
 何年かはそこで暮らした。神父がいて言葉を教えてくれた。キリスト教を信じる迄は行かなかったが、それなりに理解した。何よりも、食い物をくれるのは神らしいから、感謝してそこに居た。飢えなかったし満足していた。でもそれも僅か数年。名の通りそこは直ぐアヤクチョ(死の谷)になった。
 Senderoがそこを制圧したとか、通る人間を全て殺したとか他所じゃ言う。啓輔も言ったな、"通った後には何も残らない"と。だが、それは間違っている。
 Senderoが残忍な人殺し集団なのは本当だ。だが本当に大虐殺を行ったのはゲリラじゃない。ペルー軍だ。ゲリラが出ると聞いた軍が、ゲリラでもない村人を殺しまくったんだ。しかも、大虐殺事件が起きたとメディアが来ると、広められるのを恐れてそいつらも殺した。
 死の谷を作ったのは軍だ。ペルー国家が死を広めたんだ。Senderoは村人と軍を殺し、軍は全てを殺す。俺は逃げた。
 逃げて、チンボテで会ったロリ・ロハスにMRTA(ムルタ)に入れて貰った。
 だってそうだろう啓輔。村人としてただ殺されるか、ゲリラとして闘って生き残るか、どちらかを選べと言われたら、生き残る方を選ぶだろう。」
 長沢は無言で頷いた。
 輪郭だけ黒い灰色の瞳が燃えているようだった。薄暗い室内灯の光を全て集めたかのように青白く輝く瞳は、冷めたプラチナのようだ。丁度、彼の髪の色のようで、彼の耳に光るリングのようだと長沢は思った。
 「ゲリラでの事は、聞きたければ話すが特に変わった事はない。
 毛沢東主義極左共産党Sendero Luminosoと違って、MRTAは穏やかだったよ。俺は議論に加わった事は無いが、ロリ・ロハスもセルパも夢のような思想を語ってた。勿論、語るだけじゃなく行動もした。刑務所を爆破したり、銀行を襲ったり、軍と闘ったりした。必要がある活動だったからだ。俺はそうした活動に育てられた。
 破壊や殺しを頭ごなしに否定する人間が居る。生きて行く上で、自分は他者の命を一つも犠牲にしてなど居ないと信じる馬鹿供だ。俺はそいつらに俺たちの現場を、正しいだの間違っているだのとは言わせない。俺はその中で生かされた。MRTAに命を貰った。俺の糧だった。誰にも否定はさせない。
 俺の心は今でもMRTAにいる。コンドルカンキのアベジャネーダの一人だ。ゲリラの血は消えない。
 ……でも。それも、やがて終わった。全て奪われた。そこらは啓輔も知ってるな」
 頷く。1990年から始まった、アルベルト・謙也・藤森の「ゲリラ殲滅政策」だ。
 インフレ年率7600%、失業率70%と言う絶望的な状況下、経済復興とゲリラ殲滅を二本柱の政策にして大統領になったフジモリは、実際この公約を守ったのだ。
 彼が最初に行ったのはアウトゴルペ(自作自演のクーデター)。彼に従わぬ議会を解散させ、軍、警察を従え、ペルー全土を統制下に置き、徹底的に政策を実行した。汚職官吏追放、麻薬密売の禁止、犯罪集団の撲滅、憲法改正。彼の力技は数え切れない。
 国策は彼の指一本で動くのだ。彼はまず、公約の二本柱に着手した。
 ゲリラ殲滅の為に「反テロリスト法」を制定した。これは、立憲から判決まで僅か24時間でテロリストを処罰できる法案で、現代の魔女裁判の側面を持ち合わせていた。細かい物象や目撃者を紐解くのではなく、テロリストだからテロリストだ、と言う結論の下に多くの人間が処罰された。
 また、経済ではマクロ経済が取り入れられ、外資が大幅に導入された。輸出産業振興に重きを置き、国営企業を片っ端から民営化した。これは、公共料金の引き下げと事業の民間委託という意味では人民に富をもたらしたが、一方で公務員の大量解雇、増税という、弱者切捨ての政策でもあった。
 結果、フジモリの政策は、7600%であったインフレ率を10%に落ち着かせ、ゲリラを壊滅させると言う劇的な効果を得た。
 だがそれを喜んだのは、主に富裕層の人々であり、元々彼を強烈に支持した貧困層の人々ではなかった。ペルーは確かに安全で豊かにはなった。だがそれは、一面では貧富の差を広げたと言う事に過ぎないのだ。
 「俺達は殲滅された。害虫のように?
 だが虫なんて、たまり水か動物の死骸一つで繁殖する物だ。俺達も同じだ。
 ロリ・ロハスもセルパも死んだ。サルバドーレもメリサも殺された。だが、息子たちは生き延びた。俺も、ウェルタスも生き延びた。ウェルタスは恐らくエクアドル、コロンビアからキューバに向かったろう。俺は、真っ直ぐ日本大使館に行った」
 右耳に手を添える。初めから、そこにあるのが髪に良く溶け込む銀色のリングだと言うのは気付いていたが、その行動の意味は分からなかった。
 「指輪だ。今は、髪の色を同じにしているから、余り目立たない。身体につけていないと盗まれるから、これが一番良い方法だった。
 これは俺のパスポートだ。madreの名と俺の名が入っている。Sendero Luminosoにつかまった時、多分madreは考えたんだろう。パスポートや金は役には立たない。役に立つのはこの世に一つしかない物だと。だから俺に飲み込ませて逃げさせた。身体の中を通ったこれを、俺は次の日には再び手に入れた。俺が再びゲリラから日本人になる事が出来たのは、これが有ったからだ。
 認証には随分時間も手間もかかったが、認証されてから三年後、俺は日本に着いた。そして今、ここに居る」
 青年が大きく息をつく。
 現代に辿り着いたぞ、まだ話すのか?その動作がそう言っていた。
 長沢は眉間に皺を刻んだまま黙っている。青年の視線を受け止めたまましばし俯き、動かない。
 「……まっすぐ日本、じゃないよな。途中、何処に寄った?」
 長沢の意図が知れない。そんな細かい事が重要とはとても思えない。
 「コロンビア」
 「コロンビアから直で?」
 「マニラ。別にトランジットした訳じゃない。コロンビアには二年住んでいた」
 「分かってる。日本からの案内人がコロンビアに行くから待てと言われたんだろ」
 冬馬は驚いた。その通りだった。
 「日本には何で来た?方法じゃない。目的だ。」
 「ビジネス」
 「殺しか」
 「……そうだな」
 「何人殺した?」
 「言う訳がない」
 「……だよねぇ」
 口許にやった手で、髭を悪戯する長沢の仕草を見下ろす。髪の毛以上に柔らかかった感触を思い出し、体が正直に疼く。青年の変化に長沢は気付く様子も無かった。
 「でも、前回の民衆党の富士野忠明と、今日の経済総合連体の副理事、横井孝道は認めるんだな?」
 長沢の台詞で一気に冷める。どうやら冬馬以上に犠牲者のプロフィールに関しては強そうだ。黙っていると長沢が溜息交じりに目を閉じた。
 俯いて、一瞬動きを止めてから、大きく太腿を打って立ち上がる。
 「大体分かったよ。でも、俺は飲み込みが悪くて、何箇所か疑問がある。纏めて見るから、聞いて、間違いが有ったら教えてくれるか」
 言いながらカウンタの扉を開けて中に入り込む。エスプレッソブレンドを取り出して、エスプレッソマシンの電源を入れる。冬馬は押されるように頷いた。
 「有難う。まずは珈琲ブレイクだな。その後でゆっくり聞かせて貰うよ」
 仏頂面で頷く青年を前に、長沢は人知れず零した。
 長い夜になりそうだ。
 

− 17 −
 
NEXT⇒