夜も更けた。胃に優しい物が良いだろうと、長沢がカフェ・ラテを入れた。大き目のカップになみなみとついで注いでテーブルに置く。 冬馬はそれを受け取って椅子に座りなおした。木製の椅子に腰を落ち着け、同じ高さの椅子に足を置く。すっかり興奮も冷め、足先の傷が疼いて来た所為で、高さが同じ方が楽だったのだ。今度は長沢の方が机に腰掛ける。冬馬から一つ離れた机に、冬馬の方へ顔を向けて座る。先程までの渋面はそこには無かった。 「多少、無礼な言い方になるが勘弁してくれよ。不満があったら言ってくれれば良いし、言いたくなかったり聞かれたくなかったりする事は、言ってくれれば……可能な限り希望にお答えする。さてと、まず。 驚いたよ。冬馬、お前は凄く頭が良いんだな。ゲリラなんて何ぼの物だと思ったが、どっこい。お前さんは利口だ。利口で狡賢くて、でも少し若い。 冬馬、お前はお母さんの事を"madre"と呼んだ。それはつまり、"お母さん"という意味だよな。俺はスペイン語は全く知らないが、それでも凄く暖かくて良い響きだと思う。今までずっと続いて来たお前の生活や想いが良く分かる。でもお前はさ。 "お父さん"と呼ぶんだよな。父親の事は。それはお前の4歳の時の呼び名だろ。或いはずっと飛んで、……今の」 ぴり。冬馬は耳許で空気が音をたてたと思った。 長沢の目論見が伝わる。この男は、冬馬の事を知りたいと言いながら、全ての情報を要求したのだ。 お前の事が全て知りたい。お前の後ろに居るそいつの事も、上に居るそいつの事も、全て知りたい。 警報が鳴り響く。目の前の穏やかな表情の男は危険だと、本能が叫ぶ。目の前の男は優しい言葉で、冬馬の頭の中に押し入ろうとしているのだ。冬馬が知らせたくない、他人が知ってはならない裏側まで。 身体は正直に警報に引き締まる。しかし、頭のどこかがまだ笑っていた。 ちっぽけな日本のCAFEの店主に何が分かる。セルバに入った事もない、銃の一つも使った事のない弱々しい男に。出来るのは劣情を掻き立て、心を奪う位のものだ。敵ではない。 「20年前の一連の事件は本当に気の毒だと思うし、怒りも感じる。お母さんが殺されて、一人彷徨ったお前の事を考えると、…言葉が見つからない。 ただ、91年のJICAの研究者三人がセンデロに殺されたニュースは入って来たのに、お前のニュースは俺は一切覚えていない。20年前といえば、仕事柄、俺が一番ニュースを読み込んでいた時期だ。世界情勢にも触れていたから、そんなニュースが有ればカケラでも覚えている筈なんだ。それは間違いない。 となれば、多分、俺の記憶力が悪いんじゃなく、そのニュースは初めから日本に入って来なかったんだ。事件が嘘だと言うんじゃない。事件はあった。でも日本には入らなかった。何故だ。日本人がゲリラに殺されたなんてのは大ニュースだ。しかも、子供が行方不明になっているんだ。JICAの時より大きく扱われて良い筈だ。いや、扱われるべきだ。では何故。 理由はたった一つだ。情報を握りつぶした人間が居るんだよ」 息を呑む。冬馬は考えた事もなかった。 ちっぽけな、たった二人の日本人が世界の片隅で殺された事実が、日本にとってどれ程の価値を持つ情報となるのか。どう扱われ、知らしめられるのか、そんな事は考えたこともなかった。自分の母の死と、それをめぐる冬馬も知らない日本での画策が、ちっぽけなCAFEの店主の手で解かれていく。 「なぁ冬馬。これは並大抵の事じゃない。情報を握り潰すには幾つかの理由と方法があるが、逆に言えば幾つかしかないんだよ。 まず一。相手国に対する配慮。 これは中国に対する日本の報道規制と同じだ。近隣諸国条項だの日中記者交換協定と言うのがあって、相手国に不利な事は報道しない事になってる。でもこれはペルーに関しては当てはまらない。 二。スポンサーの意向。 日本だと最大はトヨタだな。トヨタ社員の不祥事は全くメディアに上らなかったりするあれだ。ペルーに関してもこれは例外じゃない。ペルーでの日本企業トップ3は松下、トヨタ、三井だから、強ちとっぴな話じゃない。 でも、犯人がセンデロと分かっているなら、これも根拠が弱い。いくらセンデロが毛沢東共産の一派だとしても中国の市場と直に繋がる訳じゃない。社員の家族が殺されて黙っているのは利点が無い。むしろテロを許さないと言う企業イメージを作る方が宣伝効果があるだろう。だからこれも理由として適当じゃない。 三。政治的配慮。俺はこれだと思う」 カフェラテを流し込む。味は分からなかった。 「俺はさっき、お前に聞いたな。何故日本に来た。お前は答えた。"ビジネス"。 今の話でお前がついた、唯一の嘘だ」 穏やかな表情は変わらない。口調は至って静かで、相手を責める物でもない。だが、冬馬の中に込み上げる物は、慕情や劣情以外の何かだった。フィールドの隅に、否応無く追い込まれて行く。無い筈の壁に背中が当たる気さえした。 「嘘だけじゃない。お前さん、器用にたった一つの事柄だけを省いて話した。登場人物の多くにお前は名をつけて語ったのに、一人だけ全く触れられていない人物が居るんだ。 お前は、MRTA崩壊後、日本大使館に行ったと言った。懸命だと思うよ。そのリングが身分証になった。素晴らしい幸運で、お前のお母さんの機転に俺でさえ感謝したい気分だ。書かれている名が身分を証明したんだよな。母さんとお前の。お前さんが意識的にネグったのはここだ。 どういう事情で作られたリングにせよ、子供の名があって母親の名しかないリングがあるか。しかも話の流れでは、そのリングはお前さんの父親が贈った物だ。自分の名を書かずに渡し、それが後々身分証になったと言うのか?」 「俺が嘘をついたというのか」 冬馬の言葉に、長沢が止まる。 「リングには俺と母親の名が書かれているだけだ。何なら見て見るが良い」 冬馬を見つめて、溜息混じりに首を振る。その動作が何故か胃に響いた。口の中が苦くなる。 「消したんだろ? 消した名はもう見られない」 心臓が喘いだ。その通りだった。日本に帰りついた7年前、その人の目の前で名前を削り取ったのだ。今はもう跡形も無い。 沈んだような穏やかな瞳に吸い込まれる。カフェラテの入っていた器を握る指に、白く骨が浮く。鼓動のリズムが上がるのが分かる。踏み込まれる。俺の頭の中に。 「纏めよう。 お前さんは子供の頃、お母さんと暮らしていた。お母さんはいわゆる…愛人で、お父さんは通っていた。だからペルーにも後から来た。 ペルーでセンデロの被害に遭い、お母さんは亡くなり、お前は逃げた。恐らくお父さんはセンデロと交渉したが徒労に終わり、報道はされなかった。 お前は生き延びてMRTAになり、MRTA壊滅後日本に来た。恐らく、ここにもお父さんの助力が有った」 「勝手に……!」 言葉が詰まる。喉が渇いて単語が上手く吐き出せなかった。 「決め付けるな。それは皆お前の想像だ」 「そうかなぁ。じゃあ、説明してくれ。俺を納得させてくれ。どういう行程を踏んでお前さんの素性は割れたんだろう。日本人だと名乗るゲリラの言う事を、日本大使館は素直に信じたかな?MRTAとして活動していたのに、DINCOTE(ペルー国家警察テロ対策局)の手はお前に迫らなかったのは何故だろう。二年、コロンビアに居たと言ったよな。認証から三年とも言った。つまり、最大限期間を見ても、一年足らずでお前さんはペルーを出てる。フジモリ政権のペルーからな。 袖の下一つで終身刑が釈放になるお国柄の土地に、四歳の子供が母親と二人で入った。パスポートはない。子供の事だから、行方不明になった年代もはっきりとは分からない。けれどほぼ十年後、少年は無傷でペルーを出た。ニュースにもならずにコロンビアに逃げ延び、そこで暮らした。本当は認証の期間はどれくらいだった? 珈琲ベルトって知っているか冬馬。赤道をはさんだ北緯南緯25度のラインを言うんだ。その中で珈琲は育ち、輸出される。ペルー、ブラジル、コロンビア、エクアドル、メキシコ、ケニア、タンザニア。ぎりぎりかすって、ラオス、カンボジア。覚えが有るだろ、コカインベルトも大体同じだ。 政府が潰した得意先は、幾らでも安全な隠れ蓑として使える。麻薬を撲滅したペルーには無い筈の、地下組織とのラインを使って、人も物も容易く出し入れ出来る。そう、きっと偶然だ。偶然、お前さんはコカインと同じルートで日本に来たんだ。 さっきの仮定に戻ろう。ニュース価値の非常に高い事件を握り潰した理由は"政治的配慮"だ。 被害者は、父の名前を消されたリングで身分証明を果たせた子供で、日本人。元ペルーのゲリラ。MRTA。コカインルートを利用して何者かの案内を受けて日本に帰ってきた。これはどう取るべきだろう。闇の勢力が官吏を出し抜いて彼を入れたと見るべきか。或いはこうも考えられる。彼らが、特定の政治勢力の下請けだと言う事。それは恐らく強大な地盤を持つ古参だ。だから彼は日本にすんなり戻って来た。 ビジネス、と言う名目でね」 長沢から目が放せなかった。この男を敵だと思った事など無かったのに。否。敵だと思わねばならぬ程の器の持ち主だと思った事など無かったのに。ちっぽけなCAFEの店主など、うらぶれた日本人など、取るに足らない存在だと、軽く見ていた自分自身を思い知る。 「俺が知る限り、殺されたのは民衆等議員と経済連合副理事だ。この二人が死んで、利益を得る者は誰だろう。多すぎて全く絞れないので、罠にはまる事を前提に、シンプルに考える事にしたよ。所詮は情報不足で、辿る道が限られている。だからこれは俺の妄想だ」 軽く見ていた。たったこれだけの情報で、ここまで入り込まれるとは思わなかった。目の前の男は妄想だと言いながら、レッドゾーンに踏み入ってくる。 「毛沢東的極左センデロとの交渉に失敗したが、ペルー政府をまがりなりにも多少は動かせる。素直に考えてこれは外務省だね。日本大使公邸占拠事件の時、散々痴態を曝した外務省だからこそ、官僚との繋がりが深まった。つまり。元自明党の成蹊会議員富士野忠明が邪魔で、経済総合連体の副理事も邪魔だと考える人材が、その指輪に居た人間だ」 踏み入るな。 「誰だろう。お前さんの"ビジネス"の元凶」 それ以上、踏み入るな。 「例えば」 ……! 「自明党の岐……」 言うな。 一瞬だった。
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