□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 針路 □

 SOMETHING CAFEを始めて十年、無事にこなしてきた事が過去になりつつある。
 店を続けて行きたいなら、客と客以上の関係にはならん事だ。一緒になるならそれもええ。それが出来ないなら、客のプライバシーには絶対関わらん事だ。かつて、先代の竹下翁に言われた言葉だ。何たる至言であるかと今は思う。
 明らかに今の自分は客のプライバシーに引きずり込まれつつある。色恋沙汰とは全く関係ない。めっぽう迷惑だが、このままにしておくには真義にもとる行為を目の前にして黙っていられないのだ。理性でも感情でも看過できないのだ。否応無く巻き込まれた現実に、目を閉じ耳を塞ぐ事は長沢には出来ない。例え相手が自らを性の道具に使った人間でも、だ。
 人の親としてのモラルを語る気などは無い、その部分で同情したのは確かだが、一番長沢を突き動かしたのはそこではなかった。
 気に入らない。
 すこぶる気に入らなかったのだ。この青年と自分を出会わせた運命とか言う奴が。そして、結果的にはそのフィクサーとなった"自明党"の一政治家が。青年のバックボーンが。
 それが理由のメインで、八割だった。
 …… 厄介な気性だ。てんで弱虫の割に、妙な所が頑固でモラリストで…しつこい。しみじみ思うがどうしようもない。諦めて深呼吸し、肚をすえるしかなかった。
 決める時に来ているのだ。自らの針路を。

 
 「な。だからKちゃん、今日。今日だけなんだから今日な。はい決まり」
 注文をこなした後の静寂の中、つい取りとめも無い考えに半ばウトウトした瞬間を捕らえて楢岡が言う。
 先日の詫びもかねてマスターを俺特製映画コースにご招待。今日は俺が完璧にもてなすから、ただボーっとしているだけで充分だからさ。先程から、なぜか楢岡は一人でテンションが高いのだ。寝ぼけたまま、長沢は首を振った。
 「だからさ。侘びなんて気にしなくていいから、時子ちゃんと行きなよ。俺、別に教養も高尚な趣味も無いもん。どういう発想で俺に文芸作品を見せようと思うのか、全く分からないよ」
 時子とは楢岡の三年越しの彼女で、同じくSOMETHING CAFEの常連の一人だ。知性派美人のしっかり者で、クリスマスケーキも過ぎちゃったわと笑うが、店の常連には彼女の隠れファンも多い。常連客からもっぱら、何故時子ちゃんのような優良物件が、遊び人気質の楢岡等と言う不良債権に引っかかるのかと、怒号に近い疑問が出されてやまない。
 「駄目駄目。時ちゃん出張だもん。だからKちゃん誘うんじゃないか。
 ほら、元みゆき座があった所一帯、再開発されちゃったじゃない。有楽町イトシアとその御近所みたいになっちゃってさ。で、その事でずっと文句言ってたの、俺ら映画の本当の魅力を探る会の勇士達で。で、この度その活動が実を結び、レイトショウで文芸作品をやってくれる事とあいなりました〜〜。
 今日から一週間は成瀬巳喜男です。今日は"驟雨"。原節子の魅力に酔いしれる夜です」 
 「うわー……。よりによって邦画の白黒スタンダードフィルムかよ〜。駄目。成瀬は確実に寝るし俺。悪いんだけど楢岡君さぁ、俺この所ちょっと悩みが多くて、じっくり考え事したいんで……」
 「大丈夫。俺が相談乗るよKちゃん」
 満面の笑みで言い切られて、もう、長沢には断る言葉が無かった。
 

 SOMETHING CAFEが終わるのを待って楢岡がやってくる。映画の後は酒を飲みたいので車はやめて電車となる。
 神保町から都営三田線で日比谷へ、小旅行にしても短かすぎる距離を移動する。地下鉄の真っ暗な窓の外を見ながら、長沢は冬馬の事を考えた。いや、正確には冬馬の事ではない。自分を含む、彼の周りの状況を考えた。
 情報がまだまだ不足していた。冬馬の口から聞けたのは、彼の歴史と現代への流れのみなのだ。今現在、どこで何が起きているのか、そして彼がどうそれに加担しているのか、どういう役目を負っているのか、肝心な部分はさっぱり分かっていないのだ。勿論、彼が守秘義務の角で隠している情報もあるだろうが、現実的に考えて青年の口から聞き出す情報には限界がある。
 冬馬は若い。若い上に日本を殆ど知らず、日本の政治的な部分への興味も殆ど無いと言っていい。彼の「雇い主」が、そこをきちんと把握した上で彼を使っているのは確実だ。となれば、冬馬に与えられるのは必要最低限の情報に過ぎず、彼の知らされていない部分にこそ、問題の真相がある筈なのだ。情報が足りない。情報「源」が全く不足しているのだ。
 だが。長沢は溜息を吐く。何も情報源は青年だけではない。個人の限界が近いなら、次に頼るのは団体だ。目下の所、一番利用できそうな団体が一つだけ有る。身近な国家権力。そう、警察だ。
 横に居る楢岡の所属する組織。ただし、長沢の標的として一番好ましいのは、楢岡の生活安全課でも、鷲津の刑事課一係でもない。東京内一区域の警察署の刑事部の捜査員などではなく、「警視庁」の「公安課」の捜査員だ。
 一足飛びに独立部門の「公安課」まで行くのはまず無理だ。事件の表層は「殺人事件」なのだから、まずは所轄署の一係から辿るのが順当だろう。所轄署から警視庁へ。そこから公安課へ。一係から公安課への道のりは要一考だが、取り敢えずの足がかりとしては、所轄署の一係は有効だ。足がかり。神田署刑事課一係の鷲津が足がかりだ。鷲津……名前はなんと言ったか。
 「Kちゃん、鷲津に苛められたって?」
 電子改札に財布の中のパスモを押し当てながら楢岡に言われて、長沢は驚いて顔を上げた。まるで考えを読まれたようなタイミングに、思わず訝しい表情になる。目の前に楢岡の勝ち誇ったような笑みが有った。
 「聞いたよ〜。って言うかさ、正確には早紀ちゃんに怒られたんだけどね。
 Kちゃん、店頭で鷲津に責められて鼻血出したって?あの刑事さん、物凄くマスターに意地悪なんですよ、楢岡さんからちゃんと言っといて下さいよ!って、Kちゃんの味方の早紀ちゃんがぷんぷん怒ってたよ。早紀ちゃんは相変わらずKちゃんのファンだなあ」
 「ファンじゃない。俺はからかうと楽しいおじさんらしい」
 「だからファンなんじゃない。まぁ、早紀ちゃんが怒るのももっともだけどね、何しろKちゃんは被害者なんだから。あいつのやり方も問題ありだよな。もっと親切にソフトにやらないと警察への苦情がさ、」
 「…鷲津さんって……、下の名前何て言ったっけ?」
 言い募る楢岡の言葉を長沢が遮る。聞き上手な長沢にあるまじき行為に、楢岡は驚いて振り返った。見慣れた笑みはそこには無く、思考に沈んだうつろな表情が迎える。納得だ。つまりはこの一瞬で俺の、鷲津を悪く言って長沢の機嫌を取ろうという目論見は無に帰したと言う事だ。
 「え?…あ、っと。鷲津…岳時だよ確か」
 「たけとき…ね。鷲津岳時さん、と。」
 邦画旧作上映館も、一回きりのレイトショーとなればそれなりに混む。行列の最後尾についてゲートをくぐりながら呟かれた声に、あからさまに楢岡が舌を打った。
 「荘太郎」
 「んあ?」
 「荘太郎、は、俺の名前。Kちゃん知ってた?」
 「ああ、うん。知ってるよ。学生時代、一文字だけ抜いてソーローって仇名で呼ばれてたんだろ。聞いた」
 そう言う事は覚えているのか。楢岡は再び舌を打った。
 「何だなぁ。Kちゃんが悩んでいるの、鷲津関連だと思ったからさぁ。俺、今日は同じ公僕として奴の悪口にとことん付き合う気で来たんだぜ。なのにKちゃん全然クールだなあ。どころか下の名前までチェックしちゃって、実は鷲津が気に入ったか?Mの気有りかよKちゃん。なら今日の方針変えるけど」
 チケットは、「映画の本当の魅力を探る会」会員の楢岡が一括して出してくれた。最近はやりのシネマックス方式の所為で、レイトショウまで全席指定の無粋さだが、開演時間ギリギリの滑り込みの身にはそれが有り難かった。難なく、程良い席に潜り込める。長沢は楢岡の膝の上に、耐熱ポットを置いた。
 「ないない。苛められて喜ぶ趣味は無い。それにさぁ。鷲津さんの友達の君に悪口を言えっての? それ、まんま本人にツーカーだろ。俺、陰口は上手く叩く主義なんだ。それ、中身ラテね。ノンシュガー。」
 「おお、気が利くなぁサンキュー……って、友達って、え?何それ。俺、そんなん言ったっけ?」
 「俺の恥、君が真っ先に話した相手が友達じゃないって言うなら、俺、人を見る目が無い。君の見方も変えないと駄目だ。二人とももしかして同い年じゃないのか?同期?それとも同級生とか」
 楢岡は、眠そうに目許を擦る男の横顔を驚いて見つめた。こう言う部分には、心底舌を巻く。
 初めは、元営業マンと言うのは目端の利くものなのだなと思ったのだが、直ぐに違うと分かった。営業マンだの、喫茶店店主だのと言うジャンル特有の物ではない。これは長沢の個性なのだ。日常の小さな言葉の端や、その人の仕草から奥に潜む必然を読み取る。それは決して大きな事ではなくて、むしろ瑣末の事なのだが、時折心を見透かされたようでぎくりとする。一を聞いて十を知ると言う諺が、正に当てはまる。今もまさしくその瞬間だった。
 「…う、うん、そうね。確かに友達…と言っても良いかな。大学の時の同級。ただ、大学では口聞いた事もロクになかったんだよね。職場来たら、あいつが居て、お互いそれで何となく…」
 耐熱ポットから、キャップと中蓋にそれぞれ中身を注いで長沢が配る。右手から差し出されるラテ入りのキャップを受け取るとほぼ同時、上映が始まった。
 映画ファンにとって、上映中の私語が厳禁なのは当然、荷物の立てる音も10db以上は禁止である。音をたてぬよう、熱いラテを啜りながら、スタンダードフィルムの微妙に掠れてとんだ白黒画像に見入る。
 近年ではデジタルリマスターで画像が保護、保存されるようになり、青味がかった黒い画面が主流になったが、以前は白黒映画は総じて赤茶けた物だった。それでも、全編が見られる物は状態が良い。ぶつぶつと切れて不細工に繋いだフィルムなどざらだった。Aの映画館では90分、Bの映画館では88分と、上映時間に違いが出るほど、切れては修正を繰り返したフィルムも珍しくなかったのだ。
 今宵の「驟雨」は当然デジタルリマスター済み。フィルムの切れを心配すること無く、堪能する事が出来る。
 物語りも佳境に差し掛かる頃、右肩に重みがのしかかった。映画鑑賞中の雑事には一切我関せず主義の楢岡は、いつもの習慣で払いかけて動きを止める。そうっと肩口を見ると、長沢が寄りかかって眠っていた。
 徹夜で保たない、成瀬は寝ちまうと公言していた事もあるし、無理やり引っ張り出した身としては、払えずに身を固める。半端に伸びた髪が、首筋にかすかにかかるのがくすぐったい。不細工な眼鏡は半ばずり落ちて、長い睫毛の目許がレンズ越しでは無く、覗いている。居心地が悪かった。
 SOMETHING CAFEで身分詐称をした訳を、女にモテないと嫌だからと楢岡は言った。
 勿論それは本心だし、キャバクラやらクラブやらではその意味でTPOに合わせ、器用に身分を詐称している。しかし、行く先が喫茶店となればそれは微妙だ。クラブで女を引っ掛けるのは普通だが、明るい陽の光と珈琲、疲れたサラリーマンや青臭い学生だらけの喫茶店でナンパと言うのは、おおよそ不似合いだ。"女にモテないと嫌"は、メインの理由ではありえない。
 本当の訳を店主は知らない。立ち寄る先々全てで、身分を詐称するような面倒を背負い込むほど、楢岡は繊細ではない。身分詐称をしたのは、そこがSOMETHING CAFEだからだ。今、楢岡の肩に寄りかかって眠る、長沢の居る、場所だからだ。

 上映が終わる迄約十分。寝顔と画面を6:4で鑑賞し終わって、灯りが点くのと同時に肩を揺すると、長沢が飛び上がった。誇張ではなく、大袈裟と思える程に身を引き剥がして辺りを見渡し、映画館と楢岡を認めて大きく溜息を吐く。溜息と共に吐きだされる小さな謝罪の声が、狼狽を良く表していた。
 「御免……、俺、凄ぇよく寝ちまった……」

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