□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

*** 父と息子 1 ***


 
 「そんな物はない」
 軽く組んだ腕の上で冬馬が呟く。
 元々ハスキーな声が、膝の上に組まれた腕の所為でくぐもっていて、拗ねているように響く。長い手脚を持て余すように組んだ姿と、その口調が相まって子供のようだった。不貞腐れた、不機嫌で、暗い子供。
 予想外の反応に、長沢は虚を突かれた。目の前の青年は良くも悪くも普段は反応の薄い方だ。熱くなると手をつけられないが、日頃は至ってクールなのだ。
 その青年がこんな反応をする、一体、自分は今何を言ったのだっけ?

 "話"の隙間の平凡な日常だった。
 長沢も冬馬もそれぞれにそれぞれの日常をこなして、夜の一時を持ち寄った夕餉を共に食べながら過ごした。その際に交わされた、何と言う事の無い会話だった。恐らくは気候の話から、食の好みの話から、職場や家の近所の話から。そんなたわいも無い事柄から、自然に繋がった話題だったに違いない。
 親子の記憶。キイワードはそんなところだ。
 話の始まりは覚えていないが、長沢には、我が娘の優秀さと可愛らしさと優しさを、とうとうと語った記憶はある。
 初めてお父さんと呼ばれた時、驚きの余り怖くなって家から飛び出した。もう一度帰宅からやり直した。玄関をあけ、娘が同じようにお父さんと呼べば受け入れられる。今となれば馬鹿馬鹿しいが、その時はそう思うくらいの驚きだったのだ。リセット帰宅で、娘の小さい口が舌足らずに、とうたん、と動いたのは、今もはっきりこの目の中に在る。
 親子、の一言で様々な記憶が蘇った。ピンク色のおねしょマットや、音のするサンダル、自分で膨らますと譲らなかった浮き輪。気に入って手放さなかった妻の扇子。バスタオルをドレスに見立て、舞を見せてくれたっけ。はしゃいでいたと思ったら急に黙り、39度の熱を出した事もあった。
 おしゃまで手がかかる、愛らしい娘。この子の為なら何でも出来ると、何でもしようと思ったものだ。だと言うのに気づけば。
 気づけば自分は、彼女の許からこんなに離れた街の片隅で、彼女と関係ない暮らしをしている。
 寂しい思いをさせた。辛い思いをさせた。もっと人間として親として、してやれる事は幾らでも有ったのに。
 楽しかった筈の思い出話は、いつしか長沢の愚痴になった。
 「でもな、良い娘なんだ。何一つ不平を言わない。俺みたいなデキの悪い親に、恨み言なんて山ほど有るだろうになぁ……」
 殆ど独白だったから、冬馬の熱い反応などは期待してはいなかった。時折頷いたり、相槌を打ったり、その程度で満足だったし、それが至極妥当だった。だがその時は。冬馬はまるでフクロウのように、ぐいと首を傾げたのだ。
 一回かしげ、しばし考え。また傾げる。その様が余りにも不似合いだったから、何かの準備体操かと思ったほどだ。
 「そんな物は、ない」
 長沢は口をつけかけたマグから顔を上げた。
 

 * * * * * * * * * * * * 

 
 「え」
 「そんな物、ない」
 「そんな物って……」
 「うらみ言」
 思考をめぐらして追いつかず、冬馬の言葉にやっと納得する。同時に苦笑がこぼれた。
 「ああ、そうか。お前に気を遣わせたか。愚痴になってすまんな。俺はただ…」
 違う。一言の下に否定される。無表情な暗い瞳がこちらをじっと見ていた。長沢を慮っての言葉と言う訳ではないらしい。青年が違うと言うなら確かに違うのだ。
 「啓輔、お前はずっと昔に娘を捨てた」
 ぎょっとする。事実だ。事実だがしかし。
 「娘の生活はそれで少しは変わったろう。共に暮らす家族が一人減り、お前の担っていた役割に穴が開いた。しかし、給料は暫くは振り込まれていたし、その後には母親が働いて、生活は保てたのだろう?だったら。
 不満は無い。うらみ言など、無いだろう」
 飲みかけていたマグカップをテーブルに戻す。今度は長沢が首を傾げる番だった。
 共に暮らす人間が一人減っただけ。収入源が減っただけ。不都合はそれだけだと言うのか。その二点さえ解決されれば不満は無いと言うのか。不満が無いと言う事は即ち、必要ないと言う事だ。長沢の存在価値は、家族や子供にとってその程度だと言う事か。
 不満があるのはこちらだ。確かに長沢自身、決して出来の良い親とは思わない。家族を捨てて逃げ出すような男なのだから、出来が良い筈など無い。それは良く分かっている。分かっているが、金と人数以外の価値くらいは有るだろう。
 不満を表す上手い言葉を見つけあぐねていると、青年が再び首を傾げた。こちらの反応が解せぬと言う意味だろう。
 「お言葉だがね、冬馬君。不満は有るのが普通だ。いきなり片親が消えると言うのは尋常な事じゃない。経済面は勿論、残された親は動揺するし、その動揺に子供も不安になる。心配もするし、寂しくもなるだろうし……」
 言いながら再認識する。本当に酷な事を、自分はしたのだ。
 青年が頷く。驚いたように、確認するように。
 「そうなのか、お前は」
 目の前の青年には、長沢の実感は伝わらない。恐らくは一般的であろう、家族の情は伝わらない。
 「そうなのか、お前たちは」
 ふと、突っかかった。
 お前「たち」と言うのは、誰を指すのか。長沢と、その家族を指すのは当然だが、その他にもっと多くの人々を含むのか。恐らくは。青年は言っているのだ。
 お前達、日本人は。
 「なぁ冬馬。お前はどうなの」
 灰色の瞳が持ち上がる。長い前髪の影で、俯いていた瞳が持ち上がる。睫毛が長い所為で光の入りこまない灰色の瞳はいつも暗くて冷たい。冬は夜空のようだと思い、夏は深い海のようだと長沢は思う。冷たくて深い。
 「俺の"親子関係"も綻びが有るが、お前の"親子関係"の方が複雑だ。――ああいや、お母さんとの関係の方は、感覚的に良く分かるんだ。お母さんもご苦労は有ったろうが、日本に暮らし、子供に愛情を注いで育てていた極々普通のお母さんだろう。だから、そこまでのお前の事も想像がつく。でもそこからは………俺に取っても、多分普通の一般日本人にとっても未知の領域だ。
 今のお前にとって、父親との関係はどうなんだ。お前は、うらみ言、ないのか」
 水上冬馬。5歳までは日本で育ち、ペルーへの旅行をきっかけに孤児となり、ゲリラ、MRTAを経て、日本に帰りついた、自明党、羽和泉基の長庶子。
 ごく普通の日本の5歳児だった彼は、11年後に暗殺者となって母国に帰り着いたのだ。それを迎え入れた実の父は、我が子の生還を喜び、成長を喜び、彼の特性を賞賛した。特性とは、その優れた体力と運動性と知性と、――暗殺者としての才能だ。
 本来ならば青年は、この恵まれた日本という国家で、有力者の父親の庇護の許に穏やかな生活を送れた筈だ。元々回転の良い頭脳を持ち、眉目秀麗な青年だから、幸せな人生が保証されていた筈だ。だが現実は。十年以上にも渡る、遠い異国での放浪と逃亡とサバイバル。母国に帰り着いた今も、彼は同じ事を求められているのだ。他でもない、彼の実の父親に。
 うらみ言などと言うのも生ぬるい。彼には、誰よりも権利がある筈だ。自らを顧みなかった父親に罵詈雑言を叩きつけ、呪詛を撒き散らす権利が、青年にはある筈なのだ。
 青年は首を振る。当たり前だと言う表情だった。
 「ない」
 「なんで?」
 溜息をつく。呆れた、と言う意思表示だった。
 「俺の今の命は司令官(コマンダンテ)に貰った。その名と力が無ければ、俺はあの時DINCOTEに殺されていた。俺がペルーを生きて出られたのも、日本に来られたのも自明党の代議士の名が有ったからだ。今の俺は綺麗な家に住み、ぬくぬくと教育を受け、餓える事も無しに生きていられる。昔からは考えられない。感謝こそすれ、何のうらみ言があるんだ」
 長沢は黙る。思わずその灰色の慧眼を見つめる。逸らそうともしないその瞳が訴えているのは、純粋な疑問だけだ。
 エイリアンだ。青年の事を良くそう思う。長沢とは価値観が違う。物の見方が違う。相容れないと。だが納得もする。それはそうだ。見てきた物が違う。環境が、苛酷さが違う。恵まれた日本と、命からがら生き残ったペルーの貧民とでは。
 かつて、酒井医師の愛娘の美也が言った。目の前の青年を称し、日本でも、日本以外の何処でも、同じ涼しい顔で同じように生きていける人だと。比して自分は。自分だけではない、殆どの日本人が違うと言った。甘やかされて、弱い。その弱さに気づいても居ないと。まさにその通りだ。
 「なぁ冬馬、聞いてもいいか」
 疑問をこめた目。好きにしろと言っている。
 「俺は今まで、お前の来し方を、お前の価値観の基となった今までの経験を、聞いた事が無かった。だから少し聞いてもいいか」
 驚きと、笑み。苦笑交じりの照れ笑いのように見えた。
 「お前が俺に興味を持つのに、俺が駄目と言うわけが無い」
 こちらも苦笑する。直裁だ。青年の言い分もその心持ちも、大概直裁だ。こちらがいつも余分に気を回しすぎる。
 「ありがと」
 膝の上で両腕を組む。アサルトライフルを持つには長い腕は向くだろう。
 長沢は卓袱台の上のマグカップに手をつけた。
 
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