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*** 父と息子 2 ***


 父代わりの人物はペルーには居なかったのか。そう聞いてから面を伏せる。何と言う、自分は間が抜けている。
 目の前の青年は、実の父親を「司令官」と呼んで違和感を感じない男なのだ。「父」と言う単語を純粋に「血筋の繋がり」として解している。その上で、財力、権力、知力を兼ね備えた父親の庇護に感謝しているのだ。
 経済的な援助と引き換えに父親の「兵隊」になる事を是とし、何の痛痒も感じない精神は、よく言えば、非常に合理的だ。ドライで冷静な対応と言えるだろう。だが極々一般的な感覚では、これを冷静とは言わない。「欠落」だ。欠落しているのだ。青年には。恐らくは家族の「情」とか言うものが。
 長沢は頭を振った。
 四歳の冬馬少年が迷い込んだリマの街。母を奪われ、たった一人放り出された子供が、日本に帰り着くまで生き延びるには、「情」などと言う物は邪魔だったのだろう。現状にひたすら順応し、過酷な障害を乗り越えて生き延びるには、当然失うものも多かったろう。同情こそすれ、責める気には微塵もなれない。が。
 やはりその欠落を、長沢は切なく思うのだ。
 四歳の冬馬少年が辿り着いたのは、アヤクチョの教会だったと言う。今でさえ、リマからアヤクチョに行くには陸路で10時間近くかかると言う。その距離を、少年がどうやって辿り着いたのか想像に難い。
 「最初に潜り込んだのはアヤクチョの教会だって言ってたよな?リマからの距離はハンパじゃないが、何故そこに辿り着いたんだ?そこにはお前を守ってくれる存在がいたのか?」
 青年がかすかに笑う。不似合いな笑みに長沢が眉をひそめると、なお笑いを深める。
 「相変わらず、啓輔は細かい事を良く覚えている」
 忘れられる訳がない。日本に「元MRTA」などと言う肩書きを持つ者などまずいない。少なくとも長沢は初めてだ。その強烈な話を忘れる訳がない。
 青年が俯く。考える時、青年は俯く。長い前髪が目許を隠し、シャープな鼻のラインが輪郭を作る。整った顔立ちは、頬に落ちる影も綺麗に整っているなとふと思う。
 「――うん。正確には少し違う。最初に泊まった場所はリマだが、その後両親に連れられてあちこち観光した。当時は分からなかったが、madreと別れた場所は恐らくクスコ県だ。必死に遠くに逃げたつもりだが、アヤクチョの教会につくまでの間は数日だ。それ程移動出来るとも思えないからな。
 教会に辿り着くまでは、自分の足じゃ追いつかれるのは分かっていたから、トラックでも馬でも、利用出来そうな物は何でも利用した。乗せてと言って乗れるものでもなかったから、荷物の隙間に潜り込んだ。小さかったから、人に気づかれずに逃げられた。荷物が止まった這い出して逃げた。そこがたまたま高地のアヤクチョだった。それだけだ。誰かを頼って行く知恵もない。逃げただけだ。今思えば、最悪のルートを辿ったのかもしれない」
 「最悪のルート……」
 言葉の意味の予測はついた。
 アヤクチョ県プーティスは、ペルー軍による大虐殺があった土地だ。
 住民が凡て殺された事から、当初はゲリラによる殺戮だと思われた。センデロ・ルミノソ。通った後には草木一つ残らぬと言われる過激ゲリラ。彼らによる虐殺だと囁かれた。現場は荒れ、屠られた人々の死体は120以上にも上った。女性は強姦され、引き裂かれている遺体も多く、その残虐さがその名を表していると思われたのだ。
 だが直ぐに、疑惑が持ち上がった。山奥の僻地に、その時変わった客人が居たのだ。軍による蛮行を追っていた外国人記者。軍に都合の悪い証言を集めている記者が、たまたま大虐殺の現場に居合わせると言う不自然な偶然に、疑惑の目が集まった。そんな偶然は有り得ない。有るとしたらそれは仕組まれた必然だ。
 ペルーのエル・コルメシオ紙が取り上げた葬送の列の写真は、今では動画となってネットの片隅に転がっている。
 アヤクチョの虐殺事件の真相は、未だ完全に解き明かされた訳ではないが、陸軍のコリーナ小隊の関与は確認されている。また、場所が高地であった事から、なかなか目撃者が見つからなかったが、今では幾人ぶんもの目撃証言が集まっている。証言は声を合わせる。すなわち、軍による村人の殲滅だと。証拠隠滅と言う名の大虐殺だと。
 冬馬が住み着いたのは、まだ事件の傷もいえぬ頃。依然、ゲリラは点在し、彼らによって引き起こされる惨劇も、減ったとは言え、無くなった訳ではない。
 「ただ、アヤクチョだけが特別な地と言うわけじゃない。どこででも大量の死者は出た。軍の居る所にはゲリラも居る。当然、巻き込まれる一般貧民は多い。教会も例外じゃない。牧師は巻き込まれて死んだ。教会には当時、俺の他にも10数人の子供が暮らしていた。さかしい奴は生き延びた。」
 では、さかしくない子供は死んだと言う事だ。日本人からすれば酸鼻を極める事件も、冬馬にとってはごく普通の遠い日常だ。語る口調は淡々としていた。
 その牧師は。長沢の言葉に灰色の瞳が持ち上がる。
 「その……牧師はどんな人だった。短い間だったかもしれないが、お前を助けて、庇ってくれたんだよな。お前を諭し、導いてくれたか」
 共に居たと言う子供の幾人かは、冬馬と似たような境遇の子だろう。教会で育てていたのだとしたら、それはそれで擬似家族のようなものではあるまいか。だとすれば、牧師は父だ。
 長沢の期待の目線に、青年は小さく息を吐いた。
 「そうだな。諭して導いたと言うのはある。教会に居た子供は、信徒もいたが大概は孤児や、行くあての無い浮浪児だった。それを牧師が囲ってたんだ。パンと服とねぐらをくれて、キリストの神の教えをたれた。これらは凡て神と神の子が与えてくれた物だから、感謝して受け取ればいいと。俺は言われた通りにした。最初は怖かった気もするが、おかげで生き延びた」
 頷きながら聞いていた長沢は途中でがちりと動きを止めた。冬馬の言い回しには違和感があった。
 神と神の子云々までは良い。感謝も分かる。だが言う通りにしたとは何を指すのだ。怖かったとは一体何が。
 「俺は牧師の気に入った。覚えがいいと褒められたよ。その後、幾度と無く教えを受けた。おかげで、わずかの間に、ほぼ覚えた。牧師が死んだのは俺が潜り込んで六ヶ月足らずだったから、そのころにはほぼ困らなくなっていた。字も、言葉も、――SEXも」
 長沢の体が、びくりと動いて固まった。ぎょっとして見上げる顔の血の気が引き、元々大きな目が見開かれる。心底驚いているようだ。冬馬にとって複雑怪奇な長沢は、こんな時はあからさまに分かりやすい。
 別に驚く事ではないのに。
 「見返りだ、啓輔。世の中の基本は需要と供給。買うものと売るもの。俺はその時、何一つ持っちゃいなかった。体以外は。
 だが、牧師はたった一つの俺の持ち物がいたく気に入った。それ迄のお気に入りは10歳上の女だったが、俺に乗り換えた。それと引き換えに俺に色々と施しをくれ…」
 「なんて奴だ!それでも聖職者か!」
 言葉をちぎって長沢が叫ぶ。白かった顔色は一気に赤くなった。
 「ご、ごご、五歳児だぞ!五歳の子供だぞ!やっと口をきくようになった赤ん坊みたいなもんじゃないか!そ、そんな子供に劣情を抱いたのかその牧師は!気が狂ってるのか、いや狂ってるだろ!鬼畜だ鬼畜!人間じゃない!しかもその前は15歳の女の子を乱暴してたって言うのか!な、なんって奴だ!
 十数人も孤児を囲って居たのは、よ、よもやその為か!? その子供たちは皆牧師の……―― そ、そんな奴、殺されて当然だ!!!!!」
 言葉の途中にも、どんどん長沢のボルテージが上がっていくのを、青年は呆れて見ていた。言葉の区切り毎に卓袱台に手を叩きおろす。どしんどしんと響くほどに強く叩く。子供達の殆どが牧師のお手つきだったのは事実だから、長沢の言葉に頷くと、それは一際強くなった。
 体のつくりがやわに出来ているのだから、そんなに机を叩くのは止めた方が良いと冬馬は思う。後から痣になって、痛むのが関の山なのに。
 だが、長沢の怒りは心地良い。鈍感な冬馬にも、一つだけは伝わるから。長沢の怒りは「正義」とか「規範」とか名のつく物では有るのだが、同時に彼は冬馬の為に怒っているのだ。それが伝わるから心地良い。
 つい、笑いそうになるがそれは控える。長沢の拳の痣を増やさない為にも。
 
 * * * * * * * * * * * * 

 
 「駄目だぞ、冬馬。駄目だ駄目だ、そんなのは!幾らパンとねぐらをくれようが、そんな奴の教えなど聞く価値はない。父親のサンプルになんぞ、断じてならん!もっと他に居た筈だ。お前を導いてくれた人物が」
 ひとしきり机を叩いて怒鳴った後、息を切らしながら長沢が言う。冬馬は首を傾げた。
 長沢はつまり、冬馬より年上で、現地で彼を導いた人物を挙げろと言っているようだが、何故そんな物が必要なのだろう。年上と言えば、当時4歳の冬馬にとっては周り中ほぼ凡てが年上だ。つまり全員が当てはまる。しかし、導いた云々と言う方は当てはまるものは皆無だ。命からがら逃げ出した異国の浮浪児を導く義理など誰にもない。
 首を傾げて沈黙する冬馬を見つめながら、次の答えを長沢は待った。会話の途中の待ち時間というのは、五秒でも長い。それが、十秒になり、三十秒が過ぎ、三分経つ頃には長沢が折れた。
 「…分かった。河岸を変えよう。アヤクチョの後はどこへ行った?」
 「さぁ……。 暫くは、農家に潜り込んでそこを手伝ったり、盗みに入ったり、土産物を作って売ったりして生きてたが……。アンデスの高地では荷物さえ運べりゃ使えるから、住まわしてくれる所もあって、教会を出た後も長々と高地に居た」
 長沢が指を突き出す。言いたい事は伝わった。その農家や行商の主人なら、と言いたいのだ。
 「勿論、俺は家畜よりは下の扱いだ」
 指がしなしなと引っ込む。希望に添えなかったとその動作で伝わった。
 長沢は頭の切れる男だと冬馬は思っている。実際、その機転に救われた事も幾度となくあるし、一目置いているのだ。が。クリアな筈のその頭脳には、とかく余分なものが入り込む。夢や期待。いわゆる希望的観測と言う奴だ。不思議にこれが功を奏するときも有るのだが、今は煩わしい。
 「農家の一つに小奇麗な娘がいて、手を出した所を親父に見つかって追われた。その頃は俺もまだ女にうぶだったから未遂だったが、親父は怒った。そりゃ怒った。殴る蹴るされて逃げ出した。戻れないから北に逃げた。
 逃げて、辿り着いたのはチンチャ郡だ。こちらは海岸沿いで、アヤクチョに比べて都会だった。貧民街だろうが何だろうが、人が多ければ物は増えるから、俺の稼ぎ口は増えた。盗める物は凡て盗んだ。掠め取れるものは何だって奪った。それなりに楽に食って行けた。俺は抜け目のない盗人で、ゴミだった。不自由はそれ程感じなかったが、当然誰も守ってはくれないし、導いてくれる存在など居ない」
 言葉の一つ一つに、長沢が反応するのがおかしかった。娘に手を出したと言えば眉を顰めるし、暴行されたと言えば俯く。話の区切りには、大きな溜息をつく。導く存在、とやらを否定されてがっかりしていると伝わった。幾ら探しても、そんな物、いる筈ないのに。
 ストリートチルドレン物語だ。長沢は思う。年端の行かない少年が、たった一人で生きて行くには、選べる方法は少なかろう。出来る事は凡てする。その言葉通りに違いない。考えると憂鬱になった。
 5歳からの数箇月か、あるいは数年なのか。いずれにしても日本なら、それは無垢な子供の時代だ。食べる事、寝る事、育つ事が仕事の凡てで、親の庇護下に居ればいい時代。おなじその時代を目の前の青年は。
 盗みと暴力と逃亡と放浪で生き延びた。彼自身の力で。
 盗みも暴力も、生きる為の本能。生きる為の略奪。救いの手を伸ばした者以外誰も、彼を責める事など出来ぬ。そして恐らくは。
 牧師に仕込まれた手練手管は、彼を生き延びさせる一助になった。牧師の暴挙が彼を救った事になるのだとしたら、皮肉としか言いようがない。
 目の前の青年の冷たく整った顔に、少年時代の面影を見る事は出来ないが、ただ、胸が痛んだ。
 「そうして移り住んだ先に、MRTA残党がいて、―― ロハスがいた」
 聞いた事のある有る名だ。
 「ロハス……」
 長沢の呟きに、うん、うん、と青年が頷いた。俯くと同時に青年の口からこぼれたのは、聞き慣れない言葉だった。
 「Fil?sofo del ?rea del centro de la ciudad.Rojas. Estaba en la casa en d?nde……」
 同じ声で語られる異国の響き。驚いた長沢の表情に、青年は口を閉じた。
 「ああ、いや、ロハスの呼び名だ。下町の哲学者、と言われてた。弁が立って、理屈っぽかった」
 「うん、そうか」
 「……何で、笑った?啓輔」
 髭面がきょとんと青年を見つめて、笑ったか?と尋ねる。笑っていた。確かに嬉しそうに笑ったのを、青年は見たのだ。
 「ああ。お前の話は話で聞きたいが、こういう何気ない言葉とか、仕草とかな、今のスペイン語みたいな。そう言うのに、お前の本当が零れる気がしてさ。今ちょっと思ったんだ。
 俺の知らない昔のお前は、こうして話してたんだろうってな。それを垣間見せて貰った気がしたんだ。何と言うか……、微笑ましかった」
 この男は。冬馬は思う。
 何気ない話から本当が零れると言うなら、この男もそうだ。冷え切った胸の奥に、ふいに暖かな火がともる。それはいつもこの男のこうした何気ない一言や、取るに足らないちっぽけな動作の所為だ。この男の振りまくちっぽけな本当が、いつも冬馬を戸惑わせる。喜ばせる。不思議な気持ちにさせるのだ。
 「さ、続けて。やっとそれらしいのが出てきたしさ」
 黒縁の眼鏡の奥で微笑む目に促される。冬馬は頷いた。
 
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