□ SOMETHING CAFE □
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*** 父と息子 3 ***


 冬馬より年上の、導いてくれる庇護者。長沢が求める存在がそれだとしたら、ペルー時代の冬馬の記憶から導き出そうなど、所詮無理だ。冬馬自身はそれを知っているが、長沢には通じない。長沢は奇妙に信じているのだ。人が人として育つ為には、必ず導いてくれた大人がいると。
 そんなものなどいなくとも子は育つ。その子にそれだけの生命力があれば。泥水をすすっても生きて行くだけの強靭さが有れば。幸か不幸か、冬馬にはそれだけの力が有った。それだけの事なのだ。それだけの事なのに。長沢は尚も思うのだ。それでも誰かはいただろう。
 長沢啓輔という男は、それがちっぽけな疑問であっても、自分なりの納得が出来ない限り追及をやめられない。彼の特性であり、同時に悪い癖だ。
 青年も今ではその特性を理解している。
 「ロリ・ロハス。俺が盗みに入った一軒に彼が居た。家主ではなく、女の家だったらしい。
 その時はおっさんに見えたが、多分まだ二十代。俺が9歳の時だった。捕まってこっぴどく殴られて、もっともらしい説教をされた。殴られるのより、その説教がウザくて逃げた。馬鹿だと思った。金持ちの説教は分かる。清貧だの正しい努力だの、そいつは本当に信じているから言ってるんだ。金が有って腹が一杯なら、そう言う考えもするだろう。だが、そいつはどう見ても貧民だった。
 薄汚いバンダナと汚れたシャツと、貧民街に馴染んではみ出さない奴だったのに、夢みたいな説教をした。盗みをするな、正しく生きろ。その為の努力をしろ。そう言った。
 俺は呆れた。それが出来ないから盗みをやってる。生きる為に奪う。選択肢はない。貧民でそれが分からない奴は居ない。良く分かっていてそんな事を口走るのは、宗教者か馬鹿だけだ」
 恵まれた日本に生きていては分からない常識もあるだろう。冬馬の語る常識は、彼の生きてきた異国の街の常識だ。過酷で、冷たい。
 長沢は妙に納得した。
 「そうか……それがお前をMRTAに入れた、ロハスか。そのロハスは例の大使公邸占拠事件の時にいたロハスと同一人物か?」
 青年が苦笑する。長沢はまったく、何でもかんでも良く覚えている。かつて語った言葉の断片をつなぎ合わせ、情報の足りない部分は補正を行い、正解に辿り着く。必ず正解に辿り着くから不思議だ。
 「そうだ」
 長沢は心中で拍手喝采を送った。そうした答えを待っていたのだ。
 MRTA晩期のトップ集団の一人ともなれば知能の方でも問題はない。青年を導く年上の存在と言うのにふさわしい存在ではないか。
 貧しさゆえのゲリラ化、反政府活動。貧民層でぎりぎり生きてきた過去が今の青年を作っている。日本人には有り得ないルートで物を考える個性。強靭な肉体とそれに見合う精神。長沢には時折全く理解できない価値観。だが、青年は十二分に知的で理性的なのだ。
 彼を形作った過去に彼を導いて押し上げた存在がないとは思えない。だとすれば、それが存在した可能性があるのは一箇所。
 MRTAではないか。
 そう考えた所で、冬馬にぴしゃりと先手を打たれた。
 「啓輔。ゲリラは吹き溜めだ。お前が思うような場所じゃない」
 驚いて顔を見上げる。青年がこれ見よがしに溜息をついた。
 「いいか啓輔。日本と同じに考えるな。ペルーではまず貧しさがある。それゆえの政治だ。ゲリラの8割は食い詰めたから流れて来ただけのクズだ。字も読めない。当然ながら彼らに小難しい理想は無い。
 勿論、上層部には極々少人数、政治思想や上昇志向を持つ人間もいる。だが本当に一部だ。八割以上の人間はそこで始めて触れる知性に驚き、酔い、やがてはそこで殺す悦びを知る。俺はそこの一員で、ただの下っ端だ。
 お前の知っている占拠事件は1996年。俺がMRTAに誘われて行ったのはまさにその年だ。確かにロハスとは何度か話した。だがそれだけだ。お前が期待するような間柄じゃない」
 識字率の話は知っている。大使公邸では日本人人質による日本語講座が開かれていて、ゲリラもそれに参加していたとの記述があった。
 勿論、主眼は日秘両国の人質同士の交流なのだが、ゲリラの何人かは講座に参加し、スペイン語の表記もともに教わっていたと言う。ゲリラの大多数は、教育を受ける機会など持たない貧民層の子供なのだ。
 冬馬の言葉は真実だ。期待するなと言うなら、恐らくはそうなのだろう。だが長沢は期待せずにはいられなかった。
 「俺がまず連れて行かれたのはアウグスティーノ地区。多くの新入りはそうだ。
 居心地の良い貧民街で、MRTAの拠点もいくつか有り、使えるようになる奴はここで銃やナイフの扱いを覚える。
 俺はそこに半年くらいいた。中古もいい所のM16を貰った。照準が右に4度ずれると言う素晴らしいシロモンだが、俺は扱えた。直ぐに狙撃手になったよ。それ迄P?rdida(クソガキ)やEnano(チビ)と呼んで俺を邪魔扱いしていた連中が、Francotirador(スナイパー)と呼んで俺に道を譲るようになった。何しろ狙撃手は金を生む。人質ビジネスに狙撃手はつき物で、簡単に金を稼ぐビジネスはそれだったからな。
 だから俺は、新入りの中では間違いなくロハスと頻繁に会ってるが、それでも多く見積もっても10回は会ってない。フジモリのゲリラ殲滅政策の後期だったから、数も全盛期に比べて減っていて、上層部は必死だった。周りをチョロチョロするガキに時間を割く余裕はそれ程なかった。
 確かに、ロハスの話は面白かった。ロハス、セルパ、ティト…そこらの面々が討論しているのを二度ほど聞いた。俺が思いつかない天上の理屈で延々やり合ってた。俺はただ感心して聞いていた。その時はただ、面白いと感心していただけだった。後から気づいたよ。俺が最初に馬鹿だと思ったのは、ロハスの"理想"って奴だとね。それこそずっと後になってだった。ロハスがフジモリに殺された、ずっと後だ。
 理想の世界では俺達は全員、自由の天地で生きられたが、そんな現実は来なかった。今も来ていない。それが当たり前だと俺は思うし、知ってもいた」
 奇妙な共感が有った。政治に対する期待と、それを裏切られた失望。理想と現実。ただ、程度がまるで違う。
 日本では政治に失望しても殺される事はない。飢えて死ぬ事も極稀だ。だがペルーでは。即ちそれは死に繋がる。
 「お前は期待するなというが……なぁ冬馬。お前はそのロハスが好きだろう?会う回数は少なかったとしても、ロハスはお前にゲリラの世界をくれた人間だ。俺が言う"父親的な人物"ではないにしても、お前の人生には重要な人じゃないか」
 銀色の双眸がしばし考え、意を決して向けられる。啓輔、と呼ぶ声が乾いていて、長沢は少しどきりとした。
 「お前は俺の父親に対する考えが間違いだと思ってるんだろ?俺が父親を司令官(コマンダンテ)と呼ぶのもおかしいし、俺の対応も間違いだと思ってる。親子と言うのはもっと濃密で、良くも悪くも理不尽に親密なものだと思ってる。頼ったり縋りつかれたり。だから、それとは全く違う俺の価値観の根本を探りたい。そこを掴んで、俺を説得したいんだろ? 
 お前には、きっとそれは大問題なんだろう。親子の関係は神聖な物なんだろう。だがな啓輔」
 ぐい、と額を寄せられる。
 「下らん。つまらん。どうでもいい。俺にとっては、そんな物は価値がない」
 鋭い双眸が、逸らしもせずに向けられる。
 少し前の長沢なら、これを恐ろしいと感じたろう。肉食獣に射すくめられ、動けぬ小動物のように。本能が警鐘を鳴らし、体の芯から震えて縮こまっていた事だろう。だが今は。
 彼からは怒りも感じない。指一本で自分を殺せる存在だが、目の前のこれは爪を仕舞った猫だ。他の誰にでも牙を向くが、自分には。牙は絶対に突き立てない。
 この安心を、人は信頼と呼ぶのだろう。
 その目を僅かに下から見上げる。
 「うん……、そうか。不愉快か?いやならこの話題、止めようか?」
 瞬き。
 「いや……嫌で言ってるんじゃない。期待するなと言ってるんだ。俺から啓輔の期待しているような過去は出てこないし、お前が説得しても俺の価値観は変わりっこない」
 ――お前には、悪いが。
 言外の意図を感じて苦笑する。何故この青年を荒削りな感情しか持ち合わせていない等と思ったのだろう。
 Made inペルーの元ゲリラは、行動は大胆で躊躇ないが、頭脳は繊細だ。長沢の感情の機微を読み取り、正確に意図を掴んで、それを慮ってさえいる。昔からこうだったろうか?いや、つい最近まではまるで違ったと思うのだ。
 「うん、だとしても、俺は聞きたい。……いいか?」
 それならかまわないぞ。灰色の双眸が瞬いた。
 
 * * * * * * * * * * * * 

 
 「例の大使公邸事件が4月に終わって。MRTAは実質上の終わりとなった。
 お上品なこの国ではどうせ全く報道されちゃいないだろうが、あれは我々にとっては屈辱この上ない終結だった。フジモリのテロへの勝利などと喜んでたらしいが、冗談じゃない。あれは公開処刑だ。
 DINOESは残虐だ。公邸を占拠したゲリラの全員を、むごたらしく殺した。日本人は殺されるだけでむごたらしいと言うが、違う。死は静寂だ。感覚からの解放だ。生からの昇華だ。だが。
 奴らのもたらした死は、静寂ではなかった。騒々しくて、禍々しい。血の匂いと精液の匂いと、殺す者の快楽。
 知ってるか啓輔。あいつらはゲリラの手足を切って、抵抗出来ないようにして輪姦した。腹を割いて臓器を引きずり出して殺した。手を落とし、膝を撃って這い回るゲリラを追い回して殺した。頭を潰して殺したゲリラの、頭部を引きちぎって廊下に転がした。そして、全員の死体をロビーに並べたんだ。これがDINOESのやった事だ。
 全世界へのDINOESの勝利宣言、俺達ゲリラへの見せしめ。そしてそれが、事実MRTAへの決定打となった」
 無表情に話す冬馬と対照的に、長沢は顔をしかめた。事件が解決したのは4月22日。南半球のペルーではまだ夏だ。遺体の傷みは早かろう。腐敗した血の匂いさえする気がした。
 冬馬の言う通り、日本ではゲリラへの対処は全く報道されていない。現地カメラ画像で、移動するフジモリの足下にゲリラの死体が写っている物が放送されたが、それが凡てだ。
 NHKも共同通信も、ゲリラに関する情報を凡てネグったのだ。当時現場にいた外交官や人質、人質家族の極一部が手記にしてはいるが、それにしても軍の処刑の描写は一切されていない。国外のメディアでは当たり前に報じられているゲリラ達の顛末は、日本では全く知られていないのだ。
 民族的に残虐性の薄い日本人には、軍の残虐行動が理解できない。特に戦後になってからは、日本帝国軍は凡て悪と言い切る左翼思想者達が、海外の軍の残虐性の輸入を全く許さない。悪いのは日本軍で、世界の他の軍属は凡て正義と言う、狂った理論がこの島国を覆っている。実際は。
 軍のこうした行いは各国にザラに見られる。日本だけが驚くほど無いのだ。世界中の軍で、ありていに言えば、これは「良くある事」なのだ。
 「DINOESの行動の半分は命令だ。ゲリラを殲滅せよ。全員殺せ。ここまでは命令だ。だが、殺し方の部分は連中の趣味だ。娯楽だ。楽しみだ。俺の同志はその楽しみの贄となった。MRTAはあの日、同志と供に引き裂かれた。輪姦されて殺された。
 それからも数年、MRTAの残党は活動してはいたが、実質の決定打はあの時だった。」
 鮮烈な話なのに、青年の声は淡々としていた。過去に未練はないと青年はよく言う。その時その時に精一杯だから、いつ死んでも悔いは無い、仕方の無い事だ。その言葉は恐らくは本当なのだろう。静かで冷静な語り口だった。
 だが。
 「DINOESが憎いか冬馬」
 「ああ」
 即答。
 「今もし、会えたら、どうする」
 DINOESの全員ではない、冬馬の記憶に残る特定のDINOESについて、長沢は尋ねた。灰色の瞳に動揺は無い。苛立ちも、何も現れてはいない。ただひたと見つめて、瞬いた。
 「"水上冬馬"は殺さない。誰も。――何者をも」
 ぞくり、とした。首筋があわ立つ。
 「それだけだ」
 ―3― 

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