□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 お前は優し過ぎるんだよ。
 遠い声がそんな事を言った。優し過ぎる、弱過ぎる。相反する事も言われた。強すぎる、強情過ぎる、頑固も過ぎる。いつも何かしら過ぎている。何事も過ぎてはいけないのだ。
 最初に覚醒したのは痛みだった。鈍くて重い痛みを頭に感じて、ゆっくりと目を開ける。
 予想と現実が違っていた。
 時の頃は恐らく5時。いつもの起床時間だ。まだ薄闇に包まれる視界に、白い天井が見えた。本来そこにあるべきものは、見慣れた木の天井と経年で黒ずんだ蛍光灯である筈だ。予想と現実は色も質感も全く異なっていた。
 状況が良く飲み込めずに首をかしげる。ここは何処だろう。昨夜、成瀬巳喜男の「驟雨」を見て、それから呑みに行ったのは覚えている。それから一体…?身を起こし、右手の先に温もりを感じて見下ろす。息を呑んだ。
 見慣れた常連が、見慣れない素肌を晒して寝入っていた。慌てて自分を見る。
 こちらは予感の通りだった。自らも全裸で、明らかにそれと分かる赤紫の斑点が胸に散っていた。思わず面を覆う。何も思い出せなかった。
 映画の後、居酒屋に入ったのははっきり覚えている。場所も覚えているし、店名も分かる。料理は並だったが、久々に口にするアルコールが妙に美味かった。口当たりがよくて、つい量を超した気はする。だが、何をどの程度呑んだかはさっぱり記憶にはない。兎に角、そこで呑んで、店を出た気がする。気がするが……そこから記憶は霧の中だ。
 この状況を素直に理解すれば、やった、と言う事だ。常連客と店主が男同士でSEXしたと言う事だ。
 何故だ。どうして。女好きの常連客と、男性との経験は10年以上も前になる店主が、どこでどうして共に一夜を過ごす事になるのだ。ただ恐らくは。
 俺が誘ったんだろうなぁ……。
 長沢は深く溜息を吐いた。
 女好きの楢岡が好き好んで男と寝るとは思えない。強引に身体を開かれてからこっち、モヤモヤと思い悩んでいた所為もあって、酔って常連客を引きずり込んだと考えるのが自然だろう。もしそうなら。どう取り繕おうが自分は最低最悪の男だ。女に逃げる事も出来ずに、征服された痛みを、別の征服を楽しむ事で帳消しにしたのだ。しかもそのアテ馬に、手近な常連の男を選ぶ辺りが何より許し難い。
 ぼやけた視界の中で眼鏡を探す。幸い、長沢の視力でもかろうじて識別できるベッド脇の椅子に、それは乗せられていた。鼻の上に落として改めて室内を見回し、深々と溜息を吐く。ラブホテルだ。紛れも無く。
 そうっとベッドを出る。考えがまとまらないまま、床に落ちた服を身に着ける。土下座して詫びるにしても誤魔化すにしても開き直るにしても、考えを纏めてからそうしたい。兎に角今はこの場を逃げ出したかった。
 「ん…Kちゃん、目を醒ましたのか」
 背中から声を掛けられて飛び上がる。振り向くと、ベッドの中で見慣れた顔が笑っていた。
 「髪の毛、寝癖でぐちゃぐちゃだぞ。それも可愛いけど」
 反射的に頭に手をやる。手櫛で適当に梳いて、慌てて頭を下げる。
 「すまん、楢岡君。俺その、何でこうなったのか良く分からないけど、君にその…妙な事したみたいだ。御免なさい」
 常連の顔に奇妙な表情が宿る。ベッドの上に起き上がって、何か言おうとするのを、長沢は遮った。
 「と、兎に角、詫びるにしても何にしても、日を改めて。その、今は急いでパンの仕入れに帰らなきゃならな…ええっと…その……すまん!」
 言いながら部屋を走り出ようとした所で、がっちりと腕を掴まれる。その反応の速さに、若さかなあと妙な感心をしている長沢に、楢岡が大きく首を振った。
 「落ち着けKちゃん。言ってる事が妙だ。分かってる?」
 分かっている。店主が常連を襲ったんだろう。
 「俺、昨日、Kちゃんに好きだって告白したんだ」
 「……は?」
 大きな瞳が、眼鏡の奥から楢岡を見上げる。昨夜の、赤くけぶった瞳はそこにはなかった。
 「何でだ。楢岡君には時ちゃんがいるし、そもそも俺、男だし」
 そこから説明しなおしか。たった一晩で掻き消えるカミングアウトに、昨夜は決死の覚悟をしたのか。取り繕ってはいたが、かなり必死な告白だったのに、目の前の男にきょとんとして問われて力が抜けた。昨夜、睦み合った筈の男は、どうにも時々憎らしい。
 「昨夜言ったろーよ。俺は7:3で女が好きなバイセクシャルだって。で、Kちゃんをずっと好きだったって。Kちゃんが欲しかったから身分詐称したんだって。忘れちゃったのかよ?」
 ああ、と髭に包まれた口許がうわ言のように呟く。言ってから改めて大きくなる瞳が、リアルタイムの驚愕を知らせる。
 「俺が誘った。Kちゃんを抱いた。Kちゃんだって受け止めてくれたろ。だからあんなに…」
 弾かれたように、掴まれた手を引き剥がす。そのままの動きで戸口まで走って振り返る。追いすがろうとする楢岡を、片手を上げて制する。楢岡はびくりとしてそれに従った。どうにも気まずい空気が部屋の中を満たしていた。
 「分かった、そこまで。じ、じゃ、お互い納得づくの事なんだな。合意の下に楽しんだんだな。そりゃ良かった。大人同士クールに行こう。俺は兎に角仕入れがあるから、今日はここで失礼します。
 楢岡君、昨夜は君のおごりって約束だったし、取り敢えずここも頼みます。委細後日。−−じゃ!」
 

 言うだけ言って着衣もそこそこにホテルから駆け出し、JR線に飛び乗ってから鼓動の酷さに気づいた。鼓動にあわせてずきずきと痛む頭が厄介だ。
 JRの座席に落ち着いた途端、思考は急に明瞭になった。ぼやけていた記憶は、泥の中から噴出するメタンガスのようにぼこぼこと湧き上がり、弾け、やがて一つに繋がった。
 改めて座席で面を覆う。蘇った記憶に身悶える。一体、俺は、何だ。
 やりたい盛りでも有るまいに、酒の力に任せて常連客の、しかも男と一晩中楽しむなぞ、少しでも良識のある店主なら絶対にしない。流されたとは言え、積極的に楽しんだ。自ら求めた。身体を浸す熱を進んで迎え入れ、快感に耽った。正気に戻って一気に羞恥心が目覚めるのと同時に、自分自身に腹が立った。
 何をやっているのだ。運命に流されるのと、色恋沙汰や性欲、金欲に溺れるのとでは訳が違う。腹の奥底に疼く快感が、苛立ちを煽った。
 何か得体の知れぬ物の脈動を、この半月余り長沢は確かに感じていた。正体の知れない漠然とした脅威に、本能がけたたましく警報を鳴り響かせ、それに耳を塞ぐ事が出来なかった。気に入らない、そんな曖昧な言葉で処理をしたのは、そうするしか術がなかったからだ。
 漠然とした脅威。或いは亡羊とした期待は姿が見えず、手に掴む事も出来なかった。しかし、そこにある何かを自分は畏れ、同時にどうしようもなく惹かれているのだ。得体の知れぬ存在に。唯一つだけ確かなのは。
 それが確かにあると言う事。そう遠くないどこかに。或いは目の前に。
 興奮した。ブランクが空いて錆びた脳をフル回転して戸口に縋りつこうとした。日々を動かす動力になりつつあった。
 だと言うのに俺は。常連とSEX三昧か。しかも男と、だ。何だってこの年になって、改めて色気づいてやがるんだ。
 一頻り自らに毒づいてJRを降りる。夜明け間近の、薄闇に沈む御茶ノ水駅に降り立つ。冷たい風が巻き上がった。熱されたように疼く頭を風が叩いて過ぎる。切るような冷気がむしろ心地よかった。
 オレンジ色の光に目を上げる。目の前に日の出の街があった。

 風が頬を叩く。半端に伸びた髪を弄び、頬の髭を踊らせる。風が、吹いていた。
 若い頃にはそれなりに色々とあった。人並みの色恋沙汰も経験したし、仕事に没頭する日々も、血道を上げた企画を叩き潰される思いも幾度と無く経験した。切磋琢磨しあった友人も、宿敵もいた。祝杯を上げ、懺悔の酒を煽り、必死に泳ぎ続けた日々だった。
 そしてその結果。
 長沢は負けたのだ。
 仕事に敗れ、手に入れた筈の家庭も失い、味方も敵も消えて、気付けば一人きりになっていた。あちこちに深手を負い、一歩たりとも前に進む事が出来ずにその場に蹲った。自らの膝を抱えもせず、地べたで泣いた。恥も外聞もなくみっともなく泣きじゃくった。
 必死過ぎて、選択肢が殆ど無かったあの時代。自分にとっての激動の時代だったあの時を、今になって時折振り返る。あれが"盛り"であり、"青春"だった。そう、しみじみ思う。
 敗走の兵がいつか見つけた新天地で十年を過ごした。平穏な十年だった。静かで穏やかで、争いのない十年。傷を癒し、世間からかくまってくれた十年を過ごして今。
 自分は何故風の中にいるのか。
 頬に風を受けながら、上り来る太陽を見る。ささくれ立った心に染み入るオレンジ色の光に目を細める。いつだったろう。こんな日の出を見たのは。
 二度と自分に風は吹かぬと思っていた。順風も向かい風も二度と自分には訪れないと思っていた。このまま穏やかに、花々がしおれるように枯れて行くのだと、自然に忘れ去られてただ土に帰すのだと、そう思っていた。それで良いと、思っていた。
 −−思い込もうと、していた。
 俺はまだ死んでいないと叫んだ日々はいつだったのか。何も残らなかった両腕を抱えて、地べたを這い蹲った日はいつだったのか。あの敗北感と満たされぬ思いは、一体何処に消えてしまったのか。平穏な十年は、何と引き換えに手に入れたものだったのか。俺は。
 俺はまだ、生きているのか。
 

 SOMETHING CAFEに辿り着く。
 猿楽町の入り組んだ坂の途中の、古ぼけたレンガの建物に辿り着く。自分の最後の砦と決め、終の棲家と決めたそこに辿り着く。
 人の気配が有った。
 「冬馬だろ」
 いつの間に回りこんだのか、恐らくは長沢が来るまではCAFEの一角に潜んでいた筈の人影が、背後で物音を立てる。長沢は振り返らなかった。
 深呼吸する。体に残る睦事の残渣を払いのける。甘ったるい快感を吐き捨てる。
 冬馬は、長沢の呼びかけにゆっくりと近づいた。周囲を見下ろせる階段の踊り場が、夜中の冬馬の守備位置だった。常日頃は施錠された非常階段で、SOMETHING CAFEから距離僅か35。街灯のおかげで闇に沈まぬ街を見張るには充分過ぎる場所だった。大通りからゆっくりと上ってくる姿を見つけ、坂の中程からは背後に着いた。
 声はかけなかった。正確には掛けられなかった。彼の姿を認めた途端、冬馬の目的は消えたのだ。恨み言を言うつもりだった。叶わぬと知っても口説こうと思っていた。SOMETHING CAFEの店主を。ちっぽけな街の片隅の喫茶店のマスターを。だが、現れたのはそのどちらでもなかった。今目の前にいるのは。
 「お前を、恨むよ」
 溜息交じりの声が言う。
 「お前は、俺を巻き込んだ。得体の知れない事件に。いや、事件と言うものとは少し違う。お前はそれを何と呼んでいるんだ」
 目の前にいるのは、今まで見た事のない男だ。世捨て人ではない、喫茶店と言う砦に逃げ込んだ否戦闘員ではない、一人の男だ。
 「何と、呼ぶ。冬馬」
 「……革命」
 朝日の中に細い身体が振り返る。輪郭にオレンジ色の光がはねる。驚愕の表情が、ゆるゆると苦笑に変わる。小さく吹き出して、腹を抱える。オレンジ色の笑顔を、冬馬は身動きできずにただ見つめていた。
 笑い過ぎたのか、目尻に溜まった涙を払う指先に、同時に引き締まる頬に、冬馬は魅了されていた。
 「とんでもないよ、お前は。今の日本でそんな言葉を聞くとは思わなかった。お前は、お前の意思に関係なく、俺を"革命"に巻き込んだ訳か。
 巻き込まれて、俺はそれを看過できなかった。お前言ったよな、俺の中の死の匂いに惹かれたと。冗談じゃないと思ったが、俺も同じだ。俺はただの被害者でいられなかった。お前の事を拒否しながら、お前の纏う死の匂いに惹かれた。得体の知れないバックグラウンドに。お前の言う"革命"の気配に。皮肉なもんだな。俺はただ死なない程度に生きていたのに。過去を捨て、未来に蓋をして、死ぬまでの時をただ穏やかに過ごしていたのにな。
 悩んだ。いや、違うな。多分、悩んでいるつもりだった。目指す進路はとうに決まって、そっちに進んでいたくせに、自分の心に気付いてなかった。間抜けな話だ」
 真っ直ぐな瞳が冬馬を捕らえる。いつものように穏やかで暖かい瞳に、いつものような疲れた陰りはなかった。オレンジ色に煌めく迷いのない瞳に、何も言えずにただ見入る。
 「お前を恨むよ。お前は、俺が生きていない事を気付かせた。死んでいないだけだと、思い知らせた。十年だぞ、十年。十年上手くやって来たのに。周りと合わせて穏やかに、幸せにこなして来たのに。それもこれで終わりだ。お前の所為だ。責任を取れ、冬馬。
 俺を、お前の"革命"の……闘士に加えろ」
 息を呑む。言葉が耳で空回りした。
 何処の世界に、こんな話があるのだ。本当に欲しい物が、求めずに得られる等という調子の良い話が。そんな話は現実に有りはしない。有るのは絵空事の世界にだけだ。書き捨てられる下らない物語と、都合のいい妄想以外に有り得ない。
 「今……何と…?」
 「巻き込むのなら、きちんと"革命"にまで巻き込め。そう言った」
 わめいた。胸の中で心臓が。頭の中で血流が。風で街の木々がざわめくように、わめいた。
 日本と言う世界の果てに辿り着いて七年。平和という毒に沈んだ国に、馴染めぬまま暮らした。平穏な孤独の中で、予想もしていなかった宝を見つけた。死の匂いを纏う宝を見守り、見つめる内に手に入れたくてどうしようもなくなった。恐らくは、孤独に耐えかねて、宝に縋りついたのだ。最も乱暴とも言えるやり方で、温もりと癒しを求めたのだ。
 同意が必要な事すら知らず、ただ本能に任せて強引に奪った。奪いさえすれば自分の物になると信じていた。
 血を分け合った仲間は死に絶えた。同志も親友も全て去った。全てが自分を置いて去って行った。日本などと言う世界の果てに、何も求めてはいなかった。期待してはいなかった。そんな地で見つけた宝だから。自分の物になったら、ただひたすら愛でよう。大事に仕舞い込んで、時々引っ張り出して磨ければそれでいい。それ以上は望まない。望まない。
 最も欲しかったものは求めなかった。宝で、同志で仲間で。そんな都合の良い事は求めなかった。
 ペルーにはなかった。コロンビアにも、マニラにも。ましてや。平和に痺れた日本などに、そんな物が有る筈がない。いる筈がない。だから求めてはいなかった。これっぽっちも、恐らくは。
 目の前には穏やかな表情があった。今や天空を駆け上って、オレンジから白にその色を変えていく太陽を背に、逞しいとはとても言い難い男が、穏やかに佇んでいた。死の匂いを纏った、かつての宝。
 何も言わぬ冬馬の心を探り、小さな手がかりから、今や核心に駆け寄ろうとしている男。長沢 啓輔。
 冬馬の思いを長沢は一つ一つ砕いて行く。
 「お前は……弱過ぎる」
 「守る者が側にいれば良いと言ったのはお前だ」
 「お前は…俺が憎いと」
 「それは今も変わらない。お前は俺に最低の事をした最低の男だ。最低だと守れないか」
 求めなかったなど、嘘だ。欲していた。いつだって。心の底から欲していた。だが諦めてもいたから、口に出しはしなかったし、積極的に求める事もしなかっただけだ。
 求めもしなかったものが手に入るなぞ、嘘だ。絵空事だ。有り得ない。それでも。
 「−−−守る。
 お前が言うなら、俺は全てを賭けてお前を守る。啓輔。お前が俺を憎んでも、俺は、お前がどうしようもなく好きだ。命に替えても、守る」
 その嘘を信じたいと、冬馬は本気で思った。
 「De la bienvenida que soy mi amigo?」
 ようこそ、俺の仲間。
 

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