□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 転換 □

 「新メンバー、ですって?冗談にしても有り得ませんよ」
 メルセデスベンツS600の運転席から、駐車場と成り果てた高速を見回して携帯に吐き捨てる。電話口の相手は高らかに笑った。
 少しも可笑しくはない。心中で舌を打つ。
 何事も成功したかったら、作戦が成立するまで、事業が軌道に乗るまで、企画が承認を得るまで、全てを秘匿しておくに限る。計画が大きければ大きい程、兵隊の数は多く、計画の核を知る者の数は少なくせねばならない。物事を成就させるのが人ならば、計画の全てをドブに捨てるのも人の仕業に他ならないからだ。
 計画が頓挫する原因は二つだけ。失敗と、裏切りだ。特に後者は、計画の秘匿性が守られたかどうかの指標になる。
 人間は容易く掌を返す。些細な条件が変わるだけで、味方が敵になる。
 雑魚は裏切っても切り捨てれば良い。兵などはそのクチだ。だが幹部はそうは行かぬ。幹部が寝返った場合、そこから漏れる情報は致命傷になりかねない。致命的な秘密の漏洩は、それすなわち計画の終了を意味する。全てが無に帰すのだ。だから。敵になりえる人間の数は可能な限り少ない方が良いのだ。
 「どうせ、そんな事を言い出したのは冬馬君でしょう。貴方には失礼だが、彼はあらゆる意味で規格外です。彼の意見を取り上げる必要性を感じませんね」
 電話口の男が笑う。よく笑う男だ。この笑顔と声が、民衆の警戒心を解き、深い信頼を集める武器となるのだから、軽んじる気は無いが、それでも冷める。民衆の目は節穴だ。人の良さそうな笑顔だの、大きな声で笑う人に悪人はいないだの、何の根拠もない「シンボル」に良くそこまで無防備になれるものだ。
 『私もそう思うが、会う度毎、何かにつけて言われる私の身にもなってくれ。私一人では断わり切れないから、参謀殿やスポンサー殿の"却下"が欲しいんだよ。君らに言われた事をそのまま冬馬に伝えれば、さしものあいつも諦めるだろう。それで問題解決だ』
 それはどうだろう。水上冬馬と言う青年は良くも悪くも野生児だ。自らの価値観や観念を正しいと信じて疑わない。それで生き残れたと本気で信じ、そんな物は単なる偶然だと言う他者の声には断じて耳を貸さない。今回も恐らくは同じだ。
 『まずは、冬馬の言葉をそのまま伝えるよ』
 「どうぞ、お気の済むように」
 徐々に、前方の車が動き出す。直ぐに携帯は切らねばならない。会話の途中で切ってしまっても、許される状況が有り難かった。どう聞いても時間の無駄にしかならない不毛な会話は、言い訳と共にあっさり打ち切るのに相応しい。
 『長沢啓輔と言う男をブレイン兼ネゴシエータとして迎えたい、との事だ。男の素性は全く不明…』
 「…元、新都銀行本社営業部一係長」
 車の列が移動を始める。電話の向こうで相手が頓狂な声を上げる。
 『おお!? 何だ、知り合いかね大貫君。流石、君は顔が広いね』
 「申し訳ない。代議士、車列が動き始めましたので切ります。後ほどこちらからおかけします。ええ、失礼します」
 殆どクロストークに近いタイミングで詫びて携帯を切る。
 切った携帯を扱いかねて、助手席に叩きつける。思わず小さな怒号が零れていた。
 ステアリングホイールを握りなおす。何年ぶりに聞く名だろう。同姓同名の別人だろうか。いや、恐らくそれはないだろう。「あの」、長沢 啓輔だ。他でもない、あの、長沢啓輔に違いない。
 どう言うきっかけでどういう理由で、異邦人ゲリラの水上冬馬と関連を持ったのか想像も着かぬが、ややこしい話に自ら乗り込んでくるような輩はそうはいない。
 思えば、事情に通じているとは言い難いあの若者が、新しいキャストを引っ張ってくる事自体不自然だったのだ。子供の理由で、何の考えもなしに近所の人間を引きずりこんだのだと腹も立ったが、どうもそうではないらしい。恐らくは新キャスト自身が希望したのだ。新キャストが。大方、相当強引に。
 −− 貴方の手は煩わせない。もう、放っておいて下されば良い…! −−
 胸の奥が鈍い音をたてた。身体の奥底に埋め込んだ感情と言う器を、鈍器で殴られた気がした。大抵の事では動かぬまでに鍛えた筈の心が疼いた。
 同姓同名の別人とは思えない。間違いない。あいつだ。
 「啓輔。懲りてない。全く……懲りない愚か者だな…」
 
 

 看板娘が、今日は帰らせて下さい、と言ったのは、長沢が朝帰りしたその日の内だった。
 具合でも悪いのかと長沢が気遣うと、大きな目を真っ赤にして呟く。
 「失恋したんです。一人で家で泣きまくって来ます」
 それ以上、何もいえずに、精一杯の労わりの言葉と共に看板娘を送り出す。こうなる事は読めていたが、やはりどうにも腹立たしい。
 「巻き込むのなら、きちんと"革命"にまで巻き込め。そう言った」
 確かにそう言ったのは当の長沢だ。相手は冬馬。水上 冬馬。看板娘の奥田早紀が熱を上げている相手だ。
 冬馬は命に代えて長沢を守ると答えた。そこまでは良い。正解だ。合っている。だが。
 それは革命と彼が呼ぶものと、その関連の行動についてであって、色恋沙汰とはまったくの別問題だ。守れと言ったのは「命」であって、それ以外の何物でもない。どうせそこいらを冬馬は分かっていないのだ。共に革命へ進まんとは言ったが、それは厳密には冬馬とは関係ない。長沢が引っかかって、強く惹かれたのは冬馬の背後であって彼本人ではない。つまり。
 冬馬と奥田早紀が気まずくなる要素は何一つないのだ。だと言うのに。
 どうせあの馬鹿は。心中で毒づく。決まっている。
 有り得ないと言っているのに、お前が憎いと言っているのに。また俺の態度に、よからぬ期待をしているのだ。聞かなくても分かる。どうせあいつは看板娘にこう言い放ったのだ。好きな人がいるから、君とは付き合えない。或いは最悪の場合、好きな人と付き合う事になったから、君とは……
 「マスター、それ……!」
 従業員の北村が、間近から叫ぶ。大きい声では無いが鋭い口調に、一瞬意味を計りかね、はっとしてミルから手を離す。時既に遅かりし、すっかり細密とも言える細挽になったコロンビア・エキセルソ100gが手の中に有った。長沢は溜息を吐いた。
 「ごめんなさい、坂本さん。やり直しますので、ちょっとだけ待って下さい。中挽ですよね」
 「構わないけど……珍しいねマスター」
 注文を間違えないのは基礎の基礎だ。記憶にある限り、客からの注文を長沢自身が違えた事など無いのに、今日は全くどうかしている。それもこれも…。考えかけて思いを打ち消す。
 手早く中挽きのコロンビア・エキセルソ100gを真空パックして、客に手渡す。侘びと言う名目で、お試し用の15gパックを三つ入れ、その後はスムーズに会計を終える。客が扉に手を伸ばすとほぼ同時に、ドアベルが鳴った。
 細密挽きにしてしまったコロンビアの100gを手にしたまま、その音に目を上げる。
 ここまで細かいとエスプレッソかイヴリック抽出にするしかない。無駄にはしたくないのでその手で行ってみよう。かろうじてフルシティローストにしておいて良かった。用途にも合う。
 「いらっしゃいませ、鷲津さん」
 それもこれも、たて続いている手違いの所為だ。手違いには手違いを。プラスマイナスで0に出来れば少しは溜飲も下がるかも知れぬ。長沢は手の中にパックを持ったまま、ゆっくりと開かれる戸口に微笑みかけた。
 グレーの背広と、同系色のコートをきっちりと着込んだ姿、何時もどおりの無表情が黙ってそこに佇んでいた。
 

 従業員に注文をとらせ、店の奥に座った彼の許に運ばせる。そのまま三十分も放置すると、鷲津はカウンタにやって来た。席をこちらに移して欲しいと従業員に告げながら、手ずからカップを持ってカウンタの一角に腰を落ち着ける。長沢はいつも通りの笑みで迎え入れた。
 だがそのままだった。四方に気を遣う筈の店主は、全く刑事を構わない。どころか、ほぼ空のカップを見ても「おかわりなさいますか」の一言も無い。平然と他の客の注文をこなし、馴染んだ様子で談笑している。鷲津としては次の手を打つしか無かった。
 「えぇえ!? マスタ、この間の入院って病気かと思ったら違ったの?強盗だったって本当かよ?」
 唐突に鷲津の二つ隣に座っていた常連の青年が頓狂な声を上げた。
 虚を突かれて目を上げる長沢の視界に、身を乗り出す常連の青年と、その後ろで、口許に会心の笑みを湛える刑事が飛び込んできた。
 分かり易い。常連客の情報源は見え透いていた。鷲津だ。この刑事が、カウンタの連続性を良い事に、二つ隣の席の青年にサプライズを囁いたのだ。楢岡の言葉を思い出す。
 俺の知る限りでは最も紳士な刑事の部類だ。金輪際、楢岡の目は信用するまい。
 「おやおや、いきなり。でも情報が違ってますね。強姦です」
 カウンタの逆サイドに座っていた女性が、スペシャルブレンドを噴き出す。長沢は慌ててタオルとお絞りを差し出した。
 カウンタの小さな騒動は、瞬く間に店中に広がる。もとよりそれ程広い店内ではないのだから、澄ました女性が思い切り珈琲を噴き出せばクラクションとしては十分だ。その後に同じ女性の金切り声が続けば完璧と言う物だ。
 「ご、ご強姦って、誰が!」
 「そりゃあ、俺しかいませんよね。あ、犯人の方じゃありませんよ」
 店中が息を呑んだ。さらりと言い放って、新しい珈琲をサイフォンにかけるマスターの動きに店中が息を呑む。
 これには鷲津本人も驚いた。動揺が行き渡る間をたっぷりとって、店主がぴたりと彼に視線を合わせた。
 「−−って、この刑事さんが言ってるんです。洒落にしても頂けないと俺はずっと申し上げてるんだけども」
 この野郎!
 暴行致傷と銘打てば別だが、強姦自体は親告罪である。被害者本人が否定するのであれば、刑事が云々すべき物では本来、無い。それを逆手にとって鷲津は長沢から情報を得ようとしたのだが、公言されてしまうと話は別だ。刑事に執拗に証言を強要された挙句の個人情報漏洩とでもなれば、痛いのは刑事の方だ。
 店内に、安堵の溜息とも笑いとも、その反動の怒号ともいえぬ奇妙な呼吸と囁きが溢れる。一等先に不平の声を漏らしたのは、珈琲を噴いた女性だった。
 「洒落だったら頂けないわよ。でも、真実だったらもっと頂けないわマスター。風邪こじらせて肺炎になったって聞いてたけど……冗談じゃない。本当にもう大丈夫なの?」
 「で、実際どっちよ、マスタ。マジで強盗?それとも…強…。……。ねーよなー、それは幾らなんでもねーよなー」
 「え〜?でも荒らされた様子は無かったよなSOMETHING CAFE。マスターが退院した次の日から営業してたし。強盗が入ったら荒らされて、それ所じゃないだろ。そりゃねーよ」
 「じゃ、ゴーカンのがありそうだって?」
 「マスターが色っぽい年増女ならそれも有るかも知れんが、オヤジじゃなあ。無いだろ」
 「単純に肺炎で入院したんだろ。もうマスター爺いだから」
 「ゴーカンだったら怪我入院くらい有るかもしれないぞ」
 「まあ、無くは無い…かもなぁ」
 「で、実際どうなのよ」
 常連客がその後に続く。一頻り様々な憶測が飛び交う中、当の長沢は一切それに反応もせず、手早くカップを整えて次の準備に掛かる。どうなの、と幾人めかの客に問われて、やれやれと顔を上げる。そこにあるのはいつも通りの柔らかな笑みで、一切の動揺は見られなかった。
 「さあ?俺に聞かれても分かりませぇん。刑事さん、皆さんのリクエストです。後、よろしくお願いしますよ」
 ぐるり。幾つもの好奇の視線が鷲津を取り囲む。鷲津は内心で大きく舌を打った。罠に掛かった。
 鷲津が仕掛けた筈の二つとなり席の常連が、逆に鷲津に挑みかかる。同じカウンタの男女がそれに被さる。答えようがなかった。ここでyesなどと言おうものなら、店主の思う壺だ。
 前回までは確かに鷲津が攻勢だったのだ。
 目の前で微笑む男は、自らの傷におののいて証言を拒み、少し攻めただけで鼻血まで出した負け犬だった筈だ。弱みを刑事に掴まれた、御し易い弱者。料理の仕方で情報屋にでも何でも仕立てられた。下ごしらえは終わっていた筈だったのに。カウンタの中にいるのは、その男とはまるで別人だった。一体、この短い間に何が有ったというのか。
 立場は完全に逆転している。もしここで不用意な事を言えば、業務妨害だの守秘義務の放棄だの公安委員経由できっちり説諭の音沙汰を貰える。そうでなくとも。被害者本人が認めていない強姦事件の有無を、その本人の目の前で一警察官がつまびらかに出来るわけが無い。しかも。
 それはこの男の思う壺だ。それだけは本能が感じた。
 わざわざ長々と店内に鷲津を放置したのは、衆人環視の中でじれた鷲津に先手を打たせる為と、それを逆手にとって最悪のタイミングで「刑事さん」と呼びかける為だったのだ。「お客さん」でも、「鷲津さん」でもなく、「刑事さん」と。
 この状況でその言葉が大衆にどんな感情を沸き起こさせるか、承知しつくした上での選択だ。警察権力下の刑事。この場合の枕詞は「横暴」だ。
 「………こちらも、通報されたら調べるのが仕事なので」
 歯噛みする思いで言葉を搾り出す。常連客が恐らくは承知しているであろう事柄を行動の理由にするしかなかった。
 「おお、そういえば早紀ちゃんが通報したって言ってた」
 「そうそう。朝、マスターがいなくて店も開いて無いし、何かあったんじゃないかって慌てちゃって!ってな」
 「ああ、それであんた来たんだ。そりゃご苦労さんだ」
 「それで実際どうだったのよ」
 「長えなあ、もう一月近いだろあれから。まだ調べてんの。で、結果は」
 店主に目を合わせる。しっかりとあわせたまま言葉を搾り出す。
 まだ、調査中で。
 一言を言うのが精一杯だった。カウンタの奥で、長沢が会心の笑みを浮かべたからだ。
 空のカップを下げ、ライムの香りのするグラスを差し出される。
 「一市民として協力は惜しみませんよ。よろしければ刑事さん、奥の席にどうぞ」

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