□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 アメリカーノを両手に持ったSOMETHING CAFE店主が目の前に座る。
 鷲津はひったくるようにしてカップを受け取り、口をつけた。悔しいが美味いと思う。ほんの数秒で飲み下してしまった先ほどのグラスの中身も、異常に口が渇いていた所為で酷く美味かったのだ。
 「一体、どう言う心境の変化ですかね」
 目の前の男の、そろそろ見慣れた柔らかい笑みも、今日はまったく別物に見える。底意地が悪くて、醜悪だ。
 「心境? 僕が何を?貴方がしつこく、重要な事を知っている癖に隠していると僕に仰るから、何も知らないと言った迄ですよ」
 「わざわざあんたの"シンパ"を巻き込んで、衆人環視の前でですか」
 「……また、古い言葉を」
 噛み締めるようにゆっくりと唱えられる言葉が、呪文じみて耳にこびりつく。どうしても読めなかった。
 その余裕の理由は何なのだ。その変化の訳は何だ。前回まで、自らの傷に怯えておどおど牽制に回っていた店主と、この男は一体全体本当に同一人物なのか。
 状況は何も変わっていない筈だ。どころか、またひとつ事件を重ねた。それをこの男が知っているのかいないのか分からぬが、状況は不利に転ずる事があっても決して彼にとって好転しない。店主の穏やかな余裕は全く理解が出来なかった。
 自然、睨み付ける事になった対象がゆっくりと口を開く。
 「鷲津さん……岳時さんと仰るそうですね。楢岡君と仲がよいと聞きました。ソーロー、タッキーとでも呼び合うのかな。ちょっと…想像しがたいですが」
 「…普通に、楢岡、鷲津、ですよ。長沢さん、それが何か」
 いいえ。俯いて小さく答えながら店主はカップに口をつける。鷲津は大きく溜息を吐いた。
 「……分からないな」
 カップから目だけ上げる店主は、いつも通りの穏やかな男だ。
 「私が前回お邪魔してから僅か一週間足らず。一体何が起きたんでしょうね、貴方はまるで別人だ」
 そうですか? そう言わんばかりに腕を広げてみせる。掌をこちらに向け、何も変わっていません、何の武器も持っていませんと開いてみせる。外見は当然変わらない。人格だの社会的状況だのも、僅か一週間で変わりようがない。その手の中に喫茶店で必要な物以外の何物もある筈がない。
 ……まだ今は。
 「そうかなあ。一週間分年を食った以外の変化は有りませんが。……まぁ、警察に協力をお願いしようと腹を決めた…って言うのは有るかな」
 一瞬、その意図を測りかねる。
 鷲津が事件以降執拗に尋ねた事、また先程、目の前の男自身が客達の前できっぱり否定した事をあっさりと蒸し返されて対応に困る。周囲の耳を気にしてか、店主がかすかに身を屈めた。
 「貴方の仰る事を全部認めます。暴行は有った。貴方の想像しておられる事は全部事実だ」
 「では…」
 「でも、被害届の類は一切出しません。そこはご理解頂きたい、鷲津さん。僕にだって男としてのプライドは有る。恥としか思えない事を記録に残したくは無いんです。"事件"としてのご協力はきっぱり断らせて貰います。ただ、犯人を捕まえる事に協力は惜しみません。」
 事件にはしない。被害届も告訴状も出さない。ただ、事件の目撃者、関係者としての協力は惜しまぬと言うスタンスか。悪くは無い。
 ただ。長沢の言葉は続く。
 「それには、鷲津さんの捜査の方向性は多少変えて頂かないと」
 「は?」
 己が耳を疑った。一般人が警察官の捜査方針に異を唱えると言うのか、ちっぽけな事件の単純な被害者が。
 「ああ、そんな大それた事を言うつもりはありません。捜査のプロの刑事さんに捜査方針を云々する気はまるでありません。そうじゃなく、僕が言いたいのは一般的な意見で」
 鷲津の顔色を読んだのか、店主は愛想を崩した。人懐こい笑みを浮かべて客を持ち上げるやり方は、いかにも客商売に慣れたやり方だ。
 「勝手な想像ですが、僕は貴方が僕の弱みに付け込んで来るんじゃないかと感じていたんですよ。僕は一応、横の繋がりの多い外食産業の片隅にいるし、貴方のくれた雑誌に載っていた件の事件現場の近くにいる店主だ。情報係にくらいなら使えるんじゃないか、そう貴方が考えて僕を何度も訪ねて来るのかなと、正直怯えていました。
 でも、楢岡君に言われましたよ。貴方は刑事の中で最も品行方正な方だと」
 言葉の最後に人懐こい笑顔がついてい来る。その笑顔が人の好さそうで有れば有るほど、今は居心地が悪かった。先の読めなさに変わりは無い。しかも、真綿で首を絞めるよりははっきりと、首輪の感触が迫ってくる。店主の口が人懐こく、有無を言わせない口調で鷲津の名を呼んだ時、眉根に皺を寄せずにはいられなかった。
 「多分、僕から重要な証言が出て来るとは思えないんですよ。それよりは鷲津さんがご存知の事を僕に教えて下さった方が良いんじゃないかと思うんです」
 「何……?」
 「と、言うのもですね。僕は自分の情報の価値が分からないんです。つまり、何を言えば鷲津さんのお役に立てるか分からない。
 鷲津さんの求めているものが僕の頭の中に有ったとしても、それは埋もれていて、僕自身何の意識もしていない。多分そうなんだと思うんですね。だったら、鷲津さんのお考えを先に聞かせて貰えば、"そう言えば"が有るじゃないですか。こうした方が有効だと思いませんか。後から鷲津さんが僕の情報を取捨選択して、御自分のと繋げて処理して下さるでしょうし。その方が絶対マシな答えにたどり着くと思うんですけど。
 ……やっぱ、駄目ですかね、こう言うのは」
 一瞬、微妙な単語にかっとした頭が一気に冷える。言葉を変えれば、情報をやるのは吝かではないが、情報が欲しいなら先にお前が寄越せという意味だ。だが、穏やかな口調で上目遣いに言われるそれらの言葉は、微塵も高圧的なものを感じさせない。申し入れの内容は、決して鷲津の気に入るものではないのだが、確かに言っている事には一理有るのだ。考え込んだ鷲津に、否定的な意図を感じ取ったのか、店主は頭を下げた。
 「すみません。やっぱ素人の考えは甘いですかね…」
 「いや、そんな事は無い…」
 反射的に言いかけて、思う。なるほど、これがこいつの狙いか。情報が欲しいのは警察だけじゃない、と、そう言う訳か。
 「貴方のおっしゃる事は……異例だが、尤もだ。事件にしたくないと仰るなら、こちらもこれ以上の無理強いは出来ません。……が、分からないな。貴方が私から何らかの情報を聞き出す事に何の意味があるんです」
 「ああ……。そりゃ酷い、鷲津さん」
 店主の瞳が見上げる。楽しげな視線だった。
 「先に予備知識をくれたのはそちらですよ。中途半端に情報をくれておいてしらんぷりは無いでしょう。僕にだって好奇心が有ります。しかも、この近辺の事となれば、非常〜〜〜〜に興味があります。是非知りたいですよ。それによってはこの店も用心しなきゃならないし」
 用心。その響きがおかしかった。最初にレイプされた癖に、それで尚且つ用心をしていないなら、この男はよほどの馬鹿か物好きだ。
 戸口でベルが鳴る。店主がいらっしゃいと振り返ると、楢岡が半身だけドアに差し入れて固まっていた。
 「ああ、いらっしゃい楢岡君、丁度良かった。こっちに。今カプチーノ淹れます」

 
 予想外の事だった。
 今朝早く、ホテルに置き去りにされた身としては、出来るだけ早急に、尚、さりげなく長沢に再会を果たしたかった。例え何言かでも言葉を交わし、自分と店主の関係が悪い方向に転じていない事をそっと確かめたかったのだ。だから、SOMETHING CAFEが一番空く時間に合わせて休憩を取った。昨夜と同じ程度には決死の覚悟でここに駆けつけたのだ。余裕があれば相手の気持ちを聞けるかも知れぬ。お互いに心通わせる事が出来るかも知れぬ。これは楢岡にとっては重大事件だ。
 ―― ただし、あくまでもプライベートで。
 まさか、愛おしい人を尋ねた先で、同僚に出くわすとは思わぬでは無いか。しかも、当の本人に蟠りの無い笑顔で丁度良かったなどと迎え入れられるとは。
 予想外の事だった。そして非常に不本意な。
 「今、話していたんですけどね。事件の"関連"で、僕は鷲津さんにご協力しようと」
 飲み慣れたカプチーノを口に含んだ所で、愛おしい口許がとんでもない事を言う。楢岡は慌てて口の中のものを飲み下した。
 「まっ…Kちゃん、事件にするのは恥だから嫌だってあれほど…」
 「お前、この人の事Kちゃんって呼ぶのか!…ははぁ、だからさっき呼び名がどうだと妙な事を…」
 「違うよ楢岡君、俺の一件は事件にしない。それ以外の点で鷲津さんが気になっている事は協力できるってそう言ってたんだ。ああ、そうですよ鷲津さん。楢岡君の事だから、貴方の事ももう少し違った名で呼ぶのかな、と」
 奇妙なクロストークに全員が黙る。最初に口火を切ったのは楢岡だった。
 「…分かった。こいつの疑問に答えてくれるって言うなら、それは一警察官としてとっても有り難いよ。是非、お願いする。鷲津、お手柔らかにな。この人、一般市民だから」
 それはどうかな。頷きながらそっと楢岡の指し示す店主を見る。
 食えない親父だ。楢岡はすっかりこの男に飼い慣らされている。この穏やかな仮面を本当の顔だと信じて親しんでいる。だが鷲津はそれに乗る気にはなれなかった。
 違和感が有った。犯罪者とは言わぬ。凶悪な人間とは違う。だが、あくまでも穏やかで低姿勢の静かな表情にどうしても裏を感じる。疑問だった。目の前の男はか弱い一般市民に属するのか、それとも弱者の仮面をかぶった別の何物なのか。この一週間ほどの変化を見ると、彼に今出来る評価はたった一つだった。
 食えない親父だ。胡散臭い。
 「勿論だ。協力頂ける市民に手荒な事なんざする訳が無い」
 「それで、早速ですけど、一つだけ。鷲津さんは何で"一連の事件"と括られるんです? 鷲津さんに頂いた本は読みましたけど、外国人犯罪って言う以外の関連性を僕は見つけられなかったなあ。僕の一件なんて尚更です。僕は生きてますしね。何の関係も無いように見える。それを貴方は、一年くらい続いてる事件の中に加えてる。全く訳が分からない。どんな共通点があるんですか」
 いきなり核心か。思わず黙り込む鷲津の代わりに、楢岡が話を引き継いだ。
 「ああ、それは微妙に違う。他の事件は兎も角、Kちゃんの事持ち出したのは俺。俺、事件の後にさ、オライアンズ駿河台から考え事しいしい歩いてたら、丁度5分でここに着いたんだ。そしたら、早紀ちゃんの書いたお休み通知が張ってあってさ。思わず周りに聞き込んだ。昨夜騒ぐ声が聞こえたって証言があるわ、時間的にもあんまりぴったりだわで、それで鷲津に言ったんだ。ミョーにこいつが反応したのが逆に不思議なくらいだった」
 長沢は内心、舌を打つ。楢岡め、余計なことを。
 「犯人の顔は?」
 「残念ながら…。普通に閉店時間まで営業して、シャッターを下ろしてレジを閉めたりしてる時だったので、どこから入って来たのかも分かりませんでしたね…」
 嘘だ。きちんと会話もしたし、安全だとも思ったから居残りを許したのだ。顔も、名も知っている。冬馬だ。水上冬馬。
 「同一人物が事件を起こしたと思うんですか?」
 「事件は同一人物だ。ただ貴方の一件との関連性は一番薄い。そこは正直、私の見込みが入っています。ただ、妙に確信してはいるんですがね。
 恐らくは一撃で相手を死なせる力を持った犯人が、静かで時間のかかる爽快感0の殺人をすればフラストレーションが溜まる。それを性的な方法で晴らしたと考えると実に丁度いい。ああ…失礼」
 「いえ。静かで時間のかかる爽快感0の殺人……?て?」
 「バーキングです。ご存知ですか」
 知っている。人の呼気に合わせて肺に加重をかけて行く殺し方だ。単純に胸に加重をかけて行くだけだが、肺が吸気を取り入れられずに窒息死となる。広範囲に胸を押さえれば良いので圧迫痕も残らず、縊頚程急激ではないので目の点状出血も殆ど無い。肋骨などを折る事無く、肺が潰れる程の加重を避けてうまく行えば、ほぼ自然死として認知される。完璧な殺し方とも言えるだろう。
 実際、オライアンズ駿河台下の一件では、公式の死因は心不全だ。バーキングによる死亡等とは、どこにも書いていない。恐らくは警察の内部情報―それもごく一部がそう思っているだけの―に違いあるまい。恐らくはそれは正解だが。
 となればそれを行った者は使命を完遂した事になる。方法としてはまずまず完璧だが、鷲津の言うとおり「静かで時間のかかる爽快感0」の殺し方に違いは有るまい。
 「公式には…心不全。なのにそう言い切れる理由は?」
 「そうとしか思えない他の状況が有ったから…だな」
 それだ。鷲津の言う"一連の事件"の"関連性"。その"そうとしか思えない他の状況"とは何だ。
 固唾を呑んで見守る長沢の視線の先で、鷲津は胸ポケットから布を抜いてテーブルに放り出した。
 ハンカチ…?
 「どの事件現場にも必ず、ちっぽけな布が有った。勿論、一般家庭で起きる死なんだから、布なんてそこ等中に有りますがね。不自然な物が一つ。私のその考えに同意してくれる人間は、この楢岡くらいしかいなかった訳だが。いつもあったんですよ。そこらの百円ショップで買えるような布切れが一つ。
 赤と白のツートンの布がね」
 赤と白のツートンの布。百円ショップで買えるような安っぽい。ハンカチのような布切れ。
 「その意図は分かりませんが、これ見よがしにぽとりと落ちている。ある時は枕元に、ある時は玄関に、ベランダに、キッチンに。無造作に落として行く。それを見る度にまたか、と私は思う訳だ。それが一年程続いている。この店に赤白ツートンの布は有りませんでしたか」
 「………っは」
 息を止めたつもりだった。だが、僅かに判断が遅かった。吸い込んだ息は、そのまま笑い声として零れてしまう。鷲津と楢岡がびくりと息を呑んだのが分かった。
 「あははは、ははっ…し、失礼。ははは、あ、貴方が真顔で赤白ハンカチなどと仰るもんだから、くくっ。…す、すみません。紅白が、つい紅白帽のイメージに繋がって…」
 赤と白。ツートンの布。その意図は長沢には直ぐ分かった。それを置いたのは確実に冬馬だ。わざわざ赤と白の布を買って、わざわざそこにおいたのだ。さりげなく、しかし恣意的に。彼にとってはそれこそが目的なのだ。物自体は百円ショップで買える安物で十分だ。その価値は彼にとって、100億円以上の物だから。
 あの、馬鹿。
 戸口のベルが鳴る。
 数人の学生がどやどやと雪崩れ込んでくる。そろそろ午後の繁忙期が始まる。長沢は笑いの所為で潤んだ目許をぬぐって立ち上がった。
 「申し訳ありません。そろそろカウンタに戻らないと。続きはまた後日お願いします。何か思いついたら電話でもよろしければご連絡します」
 楢岡は、鷲津がすばやく出した名刺を受け取る長沢を見ていた。いつも通り穏やかに、他の客と平等に自分に接するSOMETHING CAFEの店主を。視線の先の男は入って来た客を気にして、席からすばやく離れる。瞬間、瞳が合った。
 いつも通りの、やや下から見上げる視線。蟲惑的な癖に冷静で、人懐こい癖に必要以上には人を近づけない瞳。告白して、半ば強引に抱いた男のいつも通りの瞳。反射的に、去りかける腕を掴む。バランスを崩した店主が慌ててテーブルに手を突いた。
 「あ、危ないよ楢岡君、びっくりした。な、何?」
 「Kちゃん、後で話有る。閉店前にもう一度来るから、時間とって。頼む」
 曖昧に頷きながら店主が踵を返す。いらっしゃいませと唱えながらカウンタに消える姿を見送る。学生達が二つのテーブルに分かれて座る仕種が、彼らも常連だと言っていた。穏やかな笑みで接客する店主に全く変わりは無かった。
 「帰るぞ、ソーロー」
 「何それ」
 仏頂面のままで言われた台詞に驚いた。日頃冗談などほぼ言わぬ同僚に、一度も使った事の無い呼び名で語りかけられて、笑える状況でもなかった。
 「お前、俺をそう呼んだ事無いでしょ。村野や西司がそう呼んでただけで、俺がそう呼ばれている間、ほっとんど鷲津君と口きいた事無かったけど」
 「あのマスターの頭の中じゃそうなっているらしいんでな。帰るぞ。長居に意味は無い」
 「俺は……」
 「お前には尚更無い。さっさと仕事に戻っとけ」
 レシートを浚って鷲津が立つ。仕方なく楢岡もそれに従う事にした。

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