□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 頭にぶつかって散った飛沫が、頬を叩いて流れ落ちる。塩素の匂いの強い、殺菌済みの水。日本の水だ。
 全ての方面がごくごく高い平均点で整った日本の生活。この平和な暖さに浸って随分経つ。異邦人と言う感覚は相変わらずあるものの、いつしか酷い疎外感は消えて、それが時折不安になる。いつも置き去られて生きて来た人生で、何をしても生きて行ける自信があった。だが今は。その度に否定する。
 いや、多分、今もそれは変わらない。
 この一ト月余りと言うもの、司令官(コマンダンテ)からも教師(マエストロ)からも言われ放題だった。我侭だ、自分勝手だ。スケジュールを何だと思っている、約束は破るために有るのではない。良い加減にしろ馬鹿者。
 罵詈雑言の嵐は気分のいい物ではないが、思い悩む程の物でもない。嵐は必ず終わるのだ。これも直ぐ通り過ぎる。怒りの元となる問題が、じきに終わるからだ。いくつかの懸念事項を処理した後は、日本に来てから数年以上も続けて来た生活に戻る。ここ数年の日常に帰るのだ。形式上、であるが、何も文句はあるまい
 冬馬はシャワーの飛沫に頭を打たせたまま深呼吸をした。
 野生児、異邦人、ゲリラ崩れ、学生、男娼、殺し屋、革命家。彼を形容する言葉は幾らでもある。下卑た物から高尚な物まで。それらはいずれも正解で、同時に不正解でもある。
 日本に来て7年間。冬馬は表向き、品行方正な一般市民を貫いて来た。近所とのトラブルも一切無いし、警察の世話になった事も一度も無い。握り潰したのでも揉み消したのでもなく、実際に一度も無いのだ。内情を知っている周囲の者は口々に警察の網にかからないのは不思議だと言うが、冬馬にとっては至極当然の事だった。
 日本の警察の機動性は言う程ではない。彼らが自ら煙草を吸い終わってから出動すると言う通り、この狭い国土で所轄が細かく分かれているにしてはレスポンスタイムが長い。初めに適切な準備さえしておけば、警察の現場到着までに充分逃げおおせる。
 また、武器の携帯が腰に下げているニューナンブしか許されていない所為か、非常に臆病で押しが弱い。パトカーを強引に横付けして通路を完全に塞ぐ事もしなければ、唯一の飛び道具で犯人を射殺など更に無い。使用すら滅多に無く、有っても空に向けての威嚇射撃止まりが殆どだ。これでは犯人は死なない。唯一、よく使われる武器は警棒だが、これとて接近戦に慣れている者ならさして怖い武器ではない。いずれにしても、冬馬にとって多勢に無勢でさえなければ、日本の警察組織は充分いなせる存在なのだ。裕福で上品で優しい、被略奪国家、日本。その国の警察組織に抑えられて仕舞う程、俺は抜けてもいないしトロくもない。それは冬馬にとっては自明の理にも等しい真実だったのだ。
 水栓を閉めて反芻する。まず懸念事項を済ませる。その後、日常に戻ろう。そして。
 そして彼と伴に革命の道へ進むのだ。彼を守り、彼とともに生きるのだ。憎しみも怒りも、彼の物は凡て享受して。

 司令官の指令で、冬馬は日本に来てからずっと学校だの塾だのと呼ばれる物に通っている。日本には義務教育という物があるから、取り敢えず学べと最初の二年は家庭教師をつけられた。
 本を読むだの、細かい計算をするだのと言う習慣がまったく無かった為、逆に新鮮で面白かった。漢字は苦手だったが、数式は面白くて馴染んだし、英語は元々それなりに使えたので苦労は無かった。地学は体で知っていたし、戦いの歴史を学ぶのは興奮した。初めの二年で教師は全員変わり、同じ年の内に高校受験資格を得ると、カリキュラムは一変した。
 それまでの個人授業は全て終了し、「外見に追いついた」との認証で一般の高校に通った時期もある。効率が悪いという冬馬本人からの強力な希望で通学は僅か半年で終了したが、それ以降も教育は続いた。いくら義務教育課程が終わったとは言え、一般学生との溝は埋めるべくも無いし、冬馬の常識と一般日本人の常識とは違い過ぎる。その意識の違いを埋めるための学習だった。
 現在24歳の冬馬の肩書きは私大の学生だ。
 ただ、その大学で彼の姿を見たものは誰一人としていない。名前と番号だけの存在で、四年もすれば自然に大卒の肩書きを得る事になる。大学は彼にとって日本に順応するための道具以外ではありえなかった。
 いくつかの懸念事項をまず片付ける。口中で呟いて確認する。
 まず、その一は奥田早紀だ。SOMETHING CAFEに入りこみたいが為に利用した女性だが、長沢との直接交渉が出来る今となっては必要が無い。今朝早々に出勤前の彼女に端的に事情を話し、別れを告げてきた。こちらはこれでほぼ解決で、何も禍根は残さぬだろう。
 その二は司令官への報告。これはいささか問題だ。長沢啓輔と言う存在を「上」に上げると言う事は、幾人もの審査を受けると言う事だ。審査の段階で撥ねられることも充分有り得る。その場合、自分はどうするべきなのか。使命は全うする。それは確実に。だが長沢と伴に生きると言うのは決定事項なのだ。これは動かせない。絶対に。
 その三、四。全てそこに集約される。
 携帯のボタンに指を滑らせる。盗難の場合を考えて、番号登録はしていない。コール音三回の後、回線が切り替わり、秘書に繋がる。聞きなれた「かけ直します」の言葉の直ぐ後に通信が切れた。ほんの数分後に呼び出し音が鳴る。ワンコールで出ると、電話口で朗らかな笑い声が響いた。
 「相変わらず機敏だな冬馬。ワンコール鳴り切ってない」
 「司令官」
 コマンダンテ。
 この、冬馬のお決まりの最初の一声を聞いたなら、長沢はどういう反応をするのだろう。不意に思考にそんな意識が入り込む。
 冬馬は心底驚いたのだ。触れられたくない真実は全てネグり、触りだけを的確に、情感に迫る要素もきちんと入れて述べた自らの略歴から、たかが一喫茶店主に奥底まで踏み入られた事に。こちらが上手く地ならしをした筈の道の下に、核心とも言える痕跡を見つけられて突き付けられ、本当に冬馬は困惑したのだ。
 その男を憎いと思った。恐ろしいとも思った。だがそう思うと同時に、自分さえ明確に意識していなかった慕情に涙した長沢を、心の底から愛おしいと思ったのだ。
 あの男が。人の心の裏を読む事に長けたあの男が、冬馬の一言を聞いたらどう反応するのか。さまざまな思いの入り混じった一言に、どんな反応を見せてくれるのか。不覚にも笑みが零れた。受話器の向こうで怪訝な声が上がる。
 「どうした。何だか今日は楽しそうだ」
 いいえ。短く否定する。
 「お願いがあります。いや……お願いじゃない。司令官、一つ決めたことがあります」
 電話口に苦笑が広がる。おいおい、と制そうとする言葉を引き裂いて進むと、先方が黙り込んだ。
 「俺の相棒を作戦に入れます。名は長沢啓輔。日本人。一般市民です。俺のネゴシエータ兼ブレインです。これは決定事項なのでメンバーには俺から通達しますか。それとも司令官が?」
 

 夕刻の繁忙期が終了を迎える。
 看板娘が抜けた分、やや客を待たせた局面もあったが、まあまあ無難に切り抜けた。
 何より一つ、鷲津から情報を引き出せるよう持ち込めたのは収穫だ。プライドが高い割りに、根の深いコンプレックスも持ち合わせている輩はくすぐりが難しく、一歩間違えば尤も邪魔な敵になりかねない。そうならずに済んだのは、まずはラッキーだ。
 鷲津は、もっとも一般的なタイプだ。適度にプライドが高く、それなりに自分は優秀だと言う自負心もあり、尚且つ同量のコンプレックスを抱えている。警察官に有りがちな地方公務員か国家公務員か、キャリアかノンキャリかと言うコンプレックスを、ごくごく普通に抱えているスタンダードな人間だ。ノンキャリの地方公務員。しかし優秀だと言う、コンプレックスとプライドのブレンド。下手に出れば小利口にこちらを利用しようとし、高圧的に出れば徹底的に敵対する。そうした普通の人間なのだ。
 普通の人間に取り入るには普通に接すれば良い。この男は多少厄介だが、俺には頭が上がらない。そう思わせるのが最良だ。その為にはまず、多少は「厄介だ」「曲者だ」と思わせることがポイントだ。これが無いと、ただ利用されるだけになり、目的は果たせない。長沢は思う。
 今日のあれは、上手く行ったのだろうか?
 窓の外の街が、夕暮れから夜に沈み込んで行く。ネオンサインが窓に撥ね、車のライトが路面に光の玉を描いて過ぎる。喫茶店からレストランに客が流れていく時間だ。長沢は北村にお疲れ様と声をかけた。閉店まで一時間を切って、客は数人。この状況なら店を一人で切り回すのは苦ではない。看板娘の穴を埋めてもらった分、労う意味で早く上がって良いと言うと北村は破願した。
 「何だ? 嬉しそうだなぁ、デートかな?」
 「ま、そんな所です!上手く行ったら、ココ連れて来ますんで、うんと美味しい珈琲たのんます」
 「勿論。それまでに北村君がいかに最高の人柄の持ち主かのスピーチも考えとくから。楽しみにしてるよ」
 喜びに染まる若い頬の持ち主を、お疲れ様と送り出す。自分もああだったのだと思うと面映い。何とあけすけな欲望と、あっけらかんとした情熱だろう。一人の女を大事だと心が思い、体が欲望を抱く。そんなストレートさを、昔はともすれば醜悪だと思ったのに、今は純粋で愛おしいと思う。自分にも、あんな頃が有った。
 一人の女を心から愛おしいと思い、大事にしたいと掻き抱いた。欲望をぶつけ合い、奪い合い、その結晶が可愛らしい女の子になった。
 ………遠い、昔の話だ。
 空は灰色に染まっていた。厚い雲が天蓋を覆い、ぽつりぽつりと地面に模様を広げていく。窓の外を、頭をかばうように手をかざした人影が駆け抜けていく。店内に残る数組の客を見回して、長沢は階段ホールから置き傘の束を引き出した。通常は一本三百円、今回は5本千円で購入出来た黄色いビニール傘。持ち手が木目調で、一見安っぽく見えないのが気に入っている。

 貸してもらった傘、まだ持っている。――多分、返さない。

 不意に、そう言った冬馬の声が耳に蘇る。一本200円の傘が彼の心を動かしたのだとしたら安いものだ。お陰で自分はていの良い用心棒を手に入れた事になる。だが、あの凶行の原因になったのだとしたら皮肉だ。全てはあそこから始まったのだ。
 雨が窓にストライプを描く。静かさを増す店内で、長沢は小さく笑った。笑う自分が滑稽で面を伏せる。
 考えたのだ。この世界が変わるのだろうかと。珈琲とパンとケーキと常連。バイトと常勤、腹を減らした学生と商談中のサラリーマン。穏やかで暖かなこの空気が、10年間漬かり切った平穏が、本当に変わるのだろうか。心地よいこのぬるま湯から自分は抜け出そうとしているのか、抜け出せるのか。想像が出来なかった。
 10年間繰り返された分かりきった日常の、明日、明後日が変わるなら。
 ぞくぞくする。
 そう思ったら笑みが零れていた。
 変化が恐ろしくてSOMETHING CAFEに逃げ込んだ癖に。予想のつかない翌日が怖くて、平穏の中に閉じこもった癖に。十数年前と同じように、見えない明日にときめいている自分が奇妙でおかしかった。
 玄関のベルが鳴る。
 「いらっしゃい」
 閉店40分前。ラストオーダー15分前ですが、よろしいですか。客に告げる事を整理しながら顔を上げ………
 息を呑んだ。
 すらりとした肢体がゆっくりと近づく。小花模様の傘を閉じて軽くホックを止め、傘たてに入れる指に指輪は無かった。
 心から愛おしいと思い、大事にしたいと掻き抱いたその人が。
 いつか黙って背を向けたその人が、穏やかな笑みをたたえて立っていた。
 

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