□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 過去 □

 比沙子。
 様々な思いをこめて、昔、彼女をそう呼んだ。彼女も愛おしげに憎さげに、啓輔と呼び返した。いつかその呼び名があなた、になり、お父さん、になった。
 そのどの呼び名も、その時々で気に入っていた。後から増えた、お父さんと呼ぶ別の声も小さな手も、その存在の全てを心の底から慈しんだ。比沙子と瞳美。生涯かけて守ろうと思っていたのに。
 いつ、二つの大事な宝を失ったのか。幸せな時は過去になってしまったのか。背を向けた彼女と、その背にすがる小さな存在が瞳の中に蘇る。悲しい背中が情景にかぶる。
 目の前のカウンタの僅か1メートル程先に佇む笑顔が、背中しか見えない灰色の情景をかき消していく。いつか遠くなった愛おしい人の姿を目の前に、長沢は動く事が出来なかった。
 思考が凍る。何も考えられなかった。
 「よろしいかしら?それとも…もう?」
 耳にその言葉が届くまで、ややかかった。やっと、言葉を理解した脳が何か言わねば、と思い至るとほぼ同時。再び扉のベルが鳴った。
 「いらっしゃい」
 その音には条件反射で声が出る。ただ、瞳は彼女から動かせなかった。
 「来たぞ、Kちゃん。今日はちゃんと話……」
 意気込んで走りこんで来た楢岡が歩を止める。カウンタ前の尋常ならぬ雰囲気に言葉を呑む。瞳をこちらに向けぬままの店主が、大きくため息をついた。
 「すまない……凄く、驚いて……」
 「そうみたい。驚かせて、ごめんなさい?」
 慌てて店主が首を振る。
 「いや、そんな事は。来てくれて、……嬉しいよ。こっちに、座って」
 店主に代わって、彼女の方が背後の客に視線を送る。改めて長沢に戻る視線が、こちらはいいの?と尋ねていた。
 「ああ、楢岡君。こちら、俺の……カミさん」
 カミさん。その言葉と、それを言う長沢の態度にも驚いて背筋を正す。長い付き合いになるが、長沢の過去の話は殆ど聞いた事が無い。妻と娘が一人、と言う言葉は聞いても、今はどうしているのか、そもそも単なる別居なのか別れたのか、捨てたのか捨てられたのか、それとも新しいカタチの物なのか、まるで楢岡は知らないのだ。
 「これは、失礼しました。常連客の楢岡です。奥様の事はかねがね。いやぁ、こんなに綺麗な方だって言うのは聞いてないなKちゃん」
 まあ。口中で軽く声が転がる。ふわりとした笑顔に、長沢の趣味はかなり良いと思う。本当なら色々聞きたい所だが、大人しくカウンタの指定席に蹲る。何時もと変わらぬ動作で、店主がカプチーノを出してくれた。
 「何にする? 珈琲、好きだったよな」
 「そうね。プロにお任せします。すっきりしたのが飲みたいな。ブラックで」
 オーケイ。サイフォンを引き寄せる。
 はるか昔。まだ長沢が「銀行員」と言う肩書きを持っていた頃。珈琲が好きだったのは妻の比沙子の方だった。長沢自身は無頓着で、甘いだけの缶珈琲もインスタントもレギュラーも、喉を潤す刺激と言う意味では変わりなく、抵抗も無く併用していた。美味い不味い、好き嫌い程度の感覚はあったが、豆の良し悪しやローストの加減、挽き具合を云々する人間の気が知れなかった。単なる苦いカフェイン飲料。水替わり、目覚まし替わり。その程度に考えていた。それがよもや十年後、自らを支える存在になろうとは、当の長沢すら想像しない事だ。
 サイフォンが加熱する間に、そっとカウンタに腰掛ける人影に目を遣る。少し、痩せたろうか。
 長沢と二つ違いの比沙子は、今は44歳の筈だ。白いものが混じったまま放置している長沢と違い、彼女の豊かな黒髪に変化は無い。昔と変わらずつやつやとした光が肩口を覆う髪に流れている。皺の無い顔立ちもまだ若々しく、面立ちにこれと言った変化も見られない。多少、肉が落ちて細くなったが、それとて大きな変化ではない。大きな変化が有るとしたら、そこに降り注いだ時という名の雨の数だけだ。
 遠慮がちに花柄を散らせた白いカップにサイフォンの中身を半分注ぐ。差し出されたカップを軽く両手で包んで、彼女はその香りを吸い込んだ。
 「華やかな香りね」
 笑うと目許に現れる皺が、雨の数を知らせていた。
 「美味しいわ」
 「エチオピア・シダモ。で、これはオマケ。いつもは売り切れる"今日のケーキ"なんだが、今日は追加した所為で余っててさ。良ければお土産に持って帰ってくれよ」
 「あら嬉しい。瞳美も喜ぶわ」
 懐かしい名に胸が疼く。一瞬たりとも忘れた事など無いが、面と向かって会えたのは、一体何年前になるだろう。
 「瞳美、元気か」
 「元気よ〜〜。誰に似たのか凄く気が強くてお転婆で。就職も決まって一安心している所。ああ、成人式のお祝い、有難う。あの子、貸衣装は嫌って振袖作ったもんだから、本当に助かったわ」
 瞳美は21歳。もう直ぐ22歳になる。
 二年前の成人式には、こっそり長沢も参加した。昔に比べて会場が小さくなったお陰で、娘の姿を見つける事が出来た。弾けるような笑顔と茜色の振袖が一際目を引いて、我が娘に暫く見とれていた。その時の長沢の「精一杯」が、あの笑顔と振袖になったのだとしたら大満足だった。
 名乗りもせず、堂々と挨拶にも行かなかった長沢に、会場で会えなかった比沙子から直ぐに礼状が届いた。中には娘の写真が入っており、娘のメッセージが直に書かれていた。ハートつきのサンキュ。その写真は大切にアルバムに入れてある。長沢から返事は送らなかった。
 「あの子ね。今度こっちで一人暮らしをするの。就職先が乃木坂だから横浜から通うのは嫌なんですって。でも本当は、そういう言い訳で親元を離れて自由になりたくて仕方ないのよ」
 「そうなのか。じゃ、また一人になっちゃうな、比沙子……さんは」
 当然のように名を呼びかけて、慌てて取り繕う。一瞬間をおいて、紅色の唇がくすりと笑った。
 名を呼びかけて動揺した長沢に笑ったのか、その前の言葉に笑ったのかは分からない。ただ、翳りの無い笑みが、長沢の胸に迫ったのは確かだ。
 「それでね。明後日の土曜日、二人で下見に来るつもりなの。あの子が住むのは来年の3月からだけど、今年の内に色々見ておきたいんですって。その第一弾。付き合って貰えないかしら。貴方だったら東京は詳しいでしょうし」
 東京に詳しいと言うのは、彼女の優しさだ。そう言えば長沢が引き受け易かろうと言う彼女の気遣いだ。彼女とて、長沢と伴に暮らしていた十数年前は都心に住んで居たのだ。彼女が詳しくない訳がない。本当なら、長沢など居なくても充分なのに。
 一緒に居た時も、いつもこんな小さな気遣いをする女(ひと)だった。細やかで優しく、控えめな気遣いに後から気づいて、礼を言わぬまま過ごした事は数え切れない。そんな感覚すら懐かしい。
 「良いのかな、俺で」
 「勿論。お願いできる?」
 「喜んで」

 時間がゆるゆると経過して8時を過ぎる。
 承知している常連客は時間前に引き上げ、最後に残ったカップルも8時10分を回った頃には席を立った。手持ち無沙汰の楢岡は、モップを握ることにした。
 夫婦の情というものが特別で、独り身の人間には分からないとは思わない。元を正せば結局は男女の情で、生活や寝起きを伴にしたかどうかと言う程度の差ではないか。法的な手続きなど、感情に何の影響も無い筈だ。その筈だ。
 勿論、部外者が不用意に踏み込むものではない事ぐらい理解している。自分の恋愛感情の在り方が、一般とは微妙に違う事も自覚している。何と理屈付けようが、自分の思い人の伴侶を目の当たりにすると言うのは非常に複雑だ。
 普通でも他人が立ち入るべきでないこの関係には、楢岡自身、絶対不可侵を決めている。社会的には同性愛者の立場は弱いし、そうでなくとも、法的に認められた関係を断ち切る「権利」が自分には無いと分かっているからだ。
 今までにも、先の見えない関係に嫌気が差して、結婚を選んだパートナーはいた。楢岡もその決心に反対はしなかった。抵抗はしたが、相手が選んだ道を否定する事は出来なかったからだ。
 他人同士の関係など、断ち切ってしまえば脆い物で、安易な幸せは存外簡単に手に入る。かつてのパートナーも、今は二人の子持ちとなり、楽しく暮らしていると風の噂に聞いた。楢岡との修羅場など遠い昔で、いまや笑い話にも上らぬ筈だ。
 そうだ。断ち切った関係の筈だ。遠い昔の男と女の話だ。
 ぼんやりと長沢からはそんなニュアンスを感じていた。はるか昔に家族が居て、大事にしていたが壊してしまった。全て自分が悪い。彼から聞いたプライベートはそれくらいで、彼方にある壊れた家庭の事など、楢岡は正直、気にした事も無かったのだ。
 だが、今目の前にあるその関係は、決して断ち切られたものには見えなかった。少なくとも。
 長沢の気持ちの方は昔と変わらない。
 酷く緊張している表情の隙間に、客に見せた事の無い安堵の表情が覗く。ちょっとした仕草に慣れを感じる。何より、楢岡の知るSOMETHING CAFEの店主は、あそこまで無遠慮に客の顔を凝視したりはしないのだ。
 恋女房、などと言う古い言葉が脳裏をよぎる。その空気から逃れたくて、楢岡はモップを握った。
 「駅まで送るよ。直ぐそこだ」
 「いいわ。直ぐそこだから」
 その後に声を潜めて、お客さんに掃除をさせちゃ駄目よ、と囁く。困り顔で楢岡を振り返る長沢に、比沙子は笑った。
 「来て見て良かった。実は凄く迷ったんだけど。貴方………元気そうで」
 言葉少なに選ばれた単語が、長沢の胸を塞ぐ。
 伝えたい事は山ほど有るのに、頭の中に言葉が見当たらなかった。胸だけが妙に一杯で、頭の中はぱんぱんで引き出しすら全く開かない。零れて来るのはあの頃の記憶のかけらばかりで、まともな単語が見つからない。
 迷っていたのは自分の方だ。何度も会いに行こうと思いつつ、とうとうそれすら出来なかったのは自分の方なのだ。最初の数年は会いに行こうとすらせず、次の数年は会いに行っては挫けて帰って来た。不甲斐ない自分がやれなかった事を、彼女がやってくれたのだ。謝るべきなのか、礼を言うべきなのかも分からない。強いて言えば、両方なのだろう。
 何も言えずに頷く。彼女が了解したと言わんばかりに頷き返す。傘たての傘を引き抜く指に、指輪は無かった。
 「それじゃ、明後日」
 明後日。そこだけを繰り返して送り出す。雨の街に消える背中を、扉に寄りかかったまま見送る。曲がり角で振り向き、小さく手を上げる仕種に、嘘のようにときめく。失った十数年を飛び越えて、気持ちは愛おしくも辛かったあの頃に舞い戻る。寂しげな妻の背中を、どうしてやる事も出来ずに見ていたあの頃に舞い戻る。思わず大きく手を振って、彼女が背を向けるのに凍りつく。
 雨。いつの間にか夜に細い線を引く程には降り出した雨。長沢は雨の向こうに消えた背中に、溜息をついた。
 何やってるんだ、俺。―― まったく、しょうもない。
 一人ごちて扉から身を引き剥がす。SOMETHING CAFEの中に入ってシャッターを下ろし、振り返ると、目の前に楢岡が待ち構えていた。
 「んっ……!」
 様々な思いが氾濫して、自分が考えている事が良く分からない。ただ、習慣でシャッターを下ろして立ち上がり、ほぼ同時に目の前に現れた人影に抱きすくめられた。そのまま唇を覆われ、扉に押さえつけられる。生暖かい舌が押し込まれてはじめて、頭に疑問符が浮かんだ。反射的に払おうとした腕を押さえ込まれる。無遠慮に舌が口中を徘徊する。長沢はゆっくりと歯に力をこめた。
 「タイム」
 言いながら楢岡がゆっくりと舌を引き抜く。殆ど同時に、長沢の口の中で歯がかちりと小さな音を立てた。
 「それは、卑怯」
 「どっちが」
 楢岡の手からモップを奪い取って床を磨き始める店主に、諦めてカウンタに座る。先程までとは違って、今や目の前に居るのはすっかりいつものSOMETHING CAFEの店主だ。柔和だがクールで、隙が無い。
 「邪魔するつもりは無いよ。無いけど……妬けるモンだなあKちゃん。あんたまだ奥さんに未練たっぷり。まだ愛してる訳だ」
 長沢の沈黙が何よりもの肯定だ。黙って質問をやり過ごせるタイプではないから、恐らくはその質問に対する上手い答えを必死に探しているのだ。答えなど一つしかないのに。素直にうん、という以外の答えなどありはしないのに。
 「……… 子供が、いるから…な……」
 「十何年も前に放り出した癖に」
 「違う…! 俺の方が見限られたんだ」
 搾り出すような低い声は、紛れも無い長沢の本心だ。本当に、憎々しい。
 「同じ事じゃない?それから十何年も迎えに行かなかったのはKちゃんだ。諦めなさいって、潔く」
 無言のまま、モップが床を磨く。トイレスペースの横のモップシンクに消え、一分ほどで帰って来て黙々と作業を続ける。
 「…ごめん。余計なお世話だよな。でも、俺も必死なんだKちゃん」
 モップを洗って用具入れにしまいながら、長沢が溜息をつく。いくつかの台拭きを持って戻ってくると、中の一つを楢岡の掌に押し付ける。
 「立ってるものは親でも使え、ってね。どうせだから手伝ってくれよ、楢岡君」
 いつもの笑みに救われた思いで台拭きを受け取る。体良くあしらわれていると充分に自覚するが、そこは惚れた弱みで仕方が無い。台を粗方拭き終わる頃になって、ようやっと長沢が呟く。
 「…うん。俺こそごめん。俺、朝方、委細後日、って逃げて来たんだよな。楢岡君にどうこう言えた義理じゃ無いって良く分かってるよ。でもさ…俺の答えって、さっき君が言った通りじゃないか」
 電源を落としていなかったエスプレッソマシンに、細挽きのコロンビアブレンドをセットする。昼間、誤ってコロンビア・エキセルソを細挽きにしてしまったので、同じくコロンビアのスプレモ・ナリーニョを加えてブレンドにした。これならシングルオリジンのエスプレッソとして深い味わいを楽しめるだろう。
 「言った通り…って?」
 「うん、俺はまだ多分、カミさんが好きだ。楢岡君の言った通りとんと恋愛ともSEXともご無沙汰なのは、俺が不器用なのと、結局未練があるからだと思うよ。あれ以上の女は現れないと思うし、俺、他の誰かに夢中になるの、もう面倒で嫌なんだ。それにその…申し訳ないけど、楢岡君が正直に言ってくれたから俺もぶっちゃけて言わせてもらうけど。
 俺、男を好きになった事、無い。多分これからも無いと思う」
 随分とぶっちゃけた物だ。言葉に嘘が無いのが、なかなかに残酷だ。
 いつもとは味わいの違うカプチーノが出される。これはこれで美味い。長沢も覚悟を決めたのか、カップを片手にカウンター席に着く。
 「だってKちゃん、男の恋人いただろ?そうとしか思えなかったけど…」
 「ああ、それは……。うーん、説明しづらいんだけど、恋人、って言うんじゃ無いんだな。何と言うか、短い間だったけど確かに男とそう言う関係になった事はある。俺も若かったし、状況が状況だったからのめり込んだと言うか縋り付いたと言うか。相手が経験豊富で、それなりに新しい世界は知ったけど。
 でもそこにはビジネスが有ったし、俺にあったのはコンプレックスと言うか反撥心と言うか、この人に認めて貰いたいとか負けたくないとかで…。愛おしい、迄辿りつかなかった。それで、結局は意地の張り合いというか、勝負というかになっちまって終わった。…最近まで思い出す事も無かった」
 可愛そうに。会った事もない遠い昔の"大貫先輩"に同情する。その気のない若き日の長沢を一時はのめりこませたと言うならば、恐らく先方はかなり真剣だったに違いない。どうやって落としたのかは知れぬが、男に対して身体を開く所まで持って行った手腕にエールを送りたい程だ。
 「心が無理なら、まず身体から始めてみない?……って言うとKちゃん怒るだろうけど、本心。身体の相性良けりゃ心はついて来るモンよ。これ本当」
 眼鏡の奥の瞳が呆れた、と言わんばかりに広がる。
 「悪いけど、楢岡君頼む。俺、もう無理。今日…と言うかこの所ずっと、色々有り過ぎて頭ごちゃごちゃなんだ。常連の一人とどうかなるって時点で俺どうかしてるのに、その相手に真剣だって言われても本当、何も出来ない。それに俺…」
 「娘の顔がちらついてどうしようもない、だろ」
 上目遣いに見上げる瞳が、図星だと言っていた。白いものが混じる柔らかい髪も、半端に伸びた前髪と、不細工な黒縁眼鏡に覆われた瞳も、通った鼻筋も男にしては細い首筋も、いずれもが楢岡にとってはこれ以上も無い程蟲惑的なのに、先程触れ合ったばかりの口が愛おしいとは思わないと素っ気無い言葉を吐く。この後に続く言葉は幾通りも予想できる。そのどれもが大体同じ意味を持つ。良い友達になら、なれると思うんだけど。
 そんな物は、くそ食らえだ。
 「……うん。分かった。でもちょっとだけ聞いて。正直、悪いけど俺諦められてない。Kちゃんが好きで、欲しい気持ちは変わらないよ。思ってた期間が下手に長かったからな。
 ただその。本当そうだよな。Kちゃん、色々災難続きだ。俺もその災難の一つにならないように…もうなってるかも知れないけど……するからさ。……お休み」
 「すまない。……お休み」
 椅子の背に放り出したままのコートを着込んで、カウンタ奥の扉から裏の階段ホールに抜ける。勝手知ったる他人の家よろしく、手づから裏口を開けて去っていく常連客を送り出す。気をつけて、の声に振り返り、夜霧に変わり始めた雨の中を、コートの襟を立てて去っていく。
 大きく溜息を吐く。
 言葉に偽りは無い。頭の中はごちゃごちゃだ。限界だ。ただ厄介なのは、勘弁してくれと思う自分の片隅に居る、変化を喜ぶ自分だ。
 戸口が開けられる。これには正真正味参った。
 「頼むよ、楢岡君、俺本当に一杯一杯……」
 ホワイトグレイの頭が突き出される。長沢は息を呑んだ。
 頭一つ以上も大きい青年の、動きにゆれる髪や睫の上で、ビーズ状になった夜露が背後のネオンにきらきらと輝いていた。逆光になった灰色の瞳にはまったく光が入らないのが、不思議な絵のようだった。
 表情豊かな楢岡と対照的な無表情。間違いなく、長沢の現在と言う時間軸で最大級の厄介事がそこに居た。
 思わず苦笑が零れる。
 「悪いな、楢岡じゃない」
 「そうだな。痴話喧嘩の相手じゃないな」
 「痴話喧嘩? …それならお前の相手はあの男じゃないだろう。さっき表から帰った女のほうだ」
 思わず青年を凝視する。外から全ての情景を見ていたこと自体は今更驚かないが、情景だけから全てを正しく読み取っていることには驚いた。ペルーのセルバで鍛えられたゲリラはどうしてどうして目だけじゃなく回転もいい。長沢の視線を受け止めたまま逸らさぬ瞳は、不思議に澄んでいた。
 最大の厄介事。純真なる犯罪者。そして自分の相棒となる筈の知性を備えた獣。
 「入れ。濡れ鼠だ。そのままじゃ風邪を引く」
 無防備に背を向ける男に続いて、冬馬は後ろ手に部屋に入る。仲間は獲物ではないと、本能を叱りつけながら。

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