□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 学生街の神保町近辺に置いて、外食産業が定休日を決めるなら土日が良い。SOMETHING CAFEに定休日は無いが、常々長沢はそう思っている。だから、土曜日の逢瀬は有り難かった。
 待ち合わせ場所は瞳美のたっての希望で、ミッドタウンの喫茶店「パティスリー SaSaNo」となった。もっとも、そこはあくまでも待ち合わせ場所で、狙いの店は他に有るのだそうだ。
 久々に会うのだから、それなりにめかし込もうとは思ったのだが、せいぜい、ひざの抜けていない綺麗目のデニムと、外着になるシャツを買うくらいが長沢の関の山だった。レザージャケットは十数年前の物だし、ポケットに突っ込んだ財布も、ベルトから下げた懐中時計も、十年の坂はとうに越えた代物だ。
 有楽町もそうだが、乃木坂周辺もこの二三年で激変した。2000年まで防衛庁の有った跡地に洒落たショッピングモールが建つのだから、変わるのは当然だが、都会の秘境が年々消えて行ってしまうのは 、実に寂しいものだ。
 約束の時間の十分前に着いたと言うのに、待ち合わせ場所には既に比沙子が居た。窓際の席に座り、上から街を見下ろして、貴方が通るのも見ていたわよ、と笑う。
 娘の見立てだと言うベージュのロングカーディガンとパープルのストールの組み合わせのファッション性は良く分からないが、彼女には良く似合っていた。それだけだと肌と溶け込んでぼうっとした印象になりがちなベージュにパープルのストールが華やかさを穿ち、つややかな髪と肌の白さを綺麗に浮き立たせていた。なるほど、瞳美のファッションセンスは、どうやら父親には似なかったらしい。
 僅かの時、二人きりで語り合って驚いた。晴れて良かった、だの、今年の冬は寒くなりそうね、だのと言う他愛の無い会話が妙に楽しいのだ。つい先日の楢岡との会話を思い出した。

 十何年も前に放り出して、ずっと迎えに行かなかった癖に。諦めなさいって、潔く。
  俺はまだ多分、カミさんが好きだ。あれ以上の女は現れないと思うし、他の誰かに夢中になるの、もう面倒で嫌なんだ。

 かつて共に暮らした比沙子の笑顔をただ眺めている時間が、楽しかった。
 だから、本日の主役である瞳美が約束時間をかなり過ぎてから現れた事に文句は無かった。無かった、が。近づいてくる娘の姿に、目を剥いて席を立つ。反応したのは長沢だけだった。
 十数年の時を経て再会する娘は、一人ではなかった。一人の男を連れていたのだ。
 バランスの取れた長身、整った顔立ち、特徴的な瞳。年頃の娘を10人集めて尋ねれば、恐らくはその7、8割以上が好感を持つ外見の持ち主。そしてその内面は、日本の常識にはまず合わない異端児が、娘の横から長沢に片手を振った。
 「啓輔」
 「冬馬!これは一体どういう……!」
 青年は、輪郭だけが濃いプラチナの瞳でゆっくりと笑った。
 「瞳美さんが乃木坂の駅でお困りだったので、エスコートしました。それじゃ、ごゆっくり」
 言って、すばやく身を翻す冬馬に、少女が有難うございましたと声をかける。待て、と去り行く後姿に言いかけた所で、その背を見送ってくるりと振り返る娘の姿に息を呑む。
 若さにバラ色に輝く頬と、栗色を纏ったつややかな髪。半ば責めるような光を湛えてこちらに向けられる大きな瞳。冬馬に向かう筈だった呪詛の言葉は全て消えた。
 出会った頃の妻に似ていた。惜しげもなく晒された伸びやかな足や、下着なのか上着なのか分からないチュニックが無ければ、一瞬でも妻の再来だと思ったろう。
 瞳美はじっと長沢を見定めてから、小さな口許に笑みを浮かべた。
 「久しぶり"啓輔"さん」
 

 もう、二日前の事になる。長沢は、閉店後のSOMETHING CAFEに冬馬を招じ入れた。
 冬馬にタオルを投げ渡し、電源を落としていないエスプレッソマシンにコロンビアブレンドをセットする。素直に上着を椅子の背に掛け、髪を拭う青年の姿を横目に見る。不思議な感覚だった。
 僅か一月ばかり前、陵辱されたと同じ場所に同じ青年と居る。つい先日までは無条件に身体の芯が震えた状況だと言うのに、今はそうした恐怖は無い。この青年の「もうしない」と言う小さな言葉を、信じている自分に少なからず驚いた。
 おかしな話だ。決して青年の理性を信じた訳では無いし、純愛だの誠意だのは言葉のアヤだと思っている。目的を一つとする人間が意識を一つに出来る筈も無く、同志の全てが善人などと言う夢物語などさらさら信じてなど居ない。どちらかと言えば、目的の為には手段を選ばない世界に生きて来たし、その価値観自体は今も正しいと思っている。
 青年も、自分も。善人ではなく、誠実だとも思わないのに、何故自分はその青年のちっぽけな言葉を信じているのか。
 おかしな思想だ。心境だ。
 使い終わったタオルを、軽く手に持ってつき出したまま、こちらを見ている青年に目を合わせる。そこで初めて、青年の無表情に意味が有る事に気づいた。
 「タオルはそこらにでも置けば?何だ、言いたい事が有るみたいだな。早く言えばいいじゃないか」
 長沢の言葉に暫し俯く。言われた通りにカウンタにタオルを置くと、口を開きかけてまた閉じる。明らさまな躊躇が、むしろ滑稽な程だ。
 「何だ?」
 「……いい。俺の道は決まってる。戯言を言っても無駄だ。今日は報告に来ただけだ」
 報告。長沢が繰り返すと、冬馬は無言でカウンタ席に腰を落ち着ける。ほぼ同時に差し出された珈琲に素直に口をつけ、僅かに首を傾げる仕種が、無邪気な子供のように見えた。
 「俺は…いつものが好きだ」
 「おお、凄いな冬馬。差が分かるのか」
 「…俺だって、味くらい分かる」
 不満気に見上げる瞳に不意に納得する。
 恐らくは彼の年齢だ。彼の年齢はほぼ娘と同じ。思えば、あの恐怖が消えたのは、冬馬を日本に呼び寄せた人間の存在を知ってからだ。冬馬を人の子と認識した途端、不思議に恐怖心が消えたのだ。幼い頃に外国に一人きり取り残され、ゲリラになるしか生きる術の無かった少年。その少年が新天地で求めた一つが親の愛情だった事が、長沢の感覚を変えたのだ。あの時から、どうしてもほんの少し、冬馬と言う存在が娘と重なる。自分が庇護すべき人物と重なってしまう。娘の言葉を信じない親は居ない。
 「いやなかなか。珈琲の味の差は、分からない人の方が断然多い。お前は舌が肥えているんだな」
 長沢の言葉に首をかしげ、またカップに口をつける。
 「俺からも報告…まあ、報告だな、がある。今日、刑事が来た。鷲津と言う神田署の一係の巡査長。お前さんの殺しを"一連の"事件と呼ぶ刑事だ」
 ああ、カップの中に生返事が零れる。鷲津と言う名に、冬馬が微かに眉根を寄せるのが伝わる。彼の反感は長沢も知っていた。
 あの時。
 鼻血を出した長沢を体よくあしらって帰る鷲津の背中に向けられた冬馬の瞳は、端で見る長沢がぞっとする程冷たかった。背筋を走り降りる悪寒に、人を殺せる目と言うのはこう言う物かとぼんやり考えたのを覚えている。
 「酷く不思議でな。知りたかったんだ。鷲津が自然死とも思えるお前の幾つかの"仕事"を、"一連の事件"として取り扱う理由をね。
 普通だったら事件の関連性なんて、容易く他人に読み取られる事なんて無い。慣れないド素人の不恰好な事件なら兎も角、お前さん、その点はプロなんだ。プロの仕事が優秀とは言い難い現在日本の警察に容易く裏読みされるには理由がある筈だ。無きゃいけない。
 で。お前さんが教えるとも思えないんで、鷲津に直接取り入ってみた。今日の所はまあ上手く行った。今後も立ち回りようによっては神田署の情報は聞き出せそうだ。それで。
 分かったぞ、"一連の事件"と彼が言い切れた理由。お前、ハンカチ…布を置いていくらしいな。赤と白のツートンの。」
 激情家の筈の青年は、普段は殆ど無表情だ。無表情の彫像のような顔立ちは酷く陰気にすら見えて、彼の活動性を感じさせない。今もまた陰気なその顔が、何のてらいも無く真っ直ぐに長沢を見つめる。まるで、当然だろうと言わんばかりだった。
 呆れる。
 「どうかしてるよ、お前さん。人殺しとは思われない完璧な殺し方をしておいて、堂々と証拠を置いてくる。しかもそれは、お前のポリシーときた。しかしそれは矛盾だ。お前はどちらかを選ぶべきだ。自然死を装う方法で仕事をするか、ポリシーを選ぶか、そのどちらかにな」
 「……ポリシー?」
 小さく、しかし強く長沢が頷くと、初めて冬馬は表情を変えた。皮肉な笑み。年に似合わぬ表情だった。
 「お前にはその意味が分かるのか、啓輔?」
 異邦人からの小さな挑戦状だ。長沢は苦笑した。
 「日本人をそう甘く見るなよ。俺だってお前がMRTAに居たと知ってからそれなりに勉強してる。
 MRTAの旗は赤と白のツートンにツパク・アマルの顔を模した物だろ。ツパク・アマルは団体の名にもなっているから省くが、問題はその"赤と白"だ。お前が置いた布の理由。その意味は"血と革命"。
 お前、言ったよな。理想の為に武器を持ち、信義の為に使うと。お前の今の仕事は全て革命の為だから、それを言わねば真義にもとるんだろ。赤と白の印はお前のアピールで免罪符で、お前だけの秘密。おそらくはね。……違うか」
 無表情な口許に笑みが宿る。冷たかった陰気な表情にぽっと灯がともる。 まるで頬を染めて嬉しげに微笑みながら、違わない、と呟く。
 「お前には負けるよ、啓輔。……矛盾か。止めねば駄目か」
 「まあ。お前さんの"司令官"が知ったら、確実に怒って止めるな。ただまあ、お前さんのアピールは分かるし、認めたい所だから俺なら…そう、やり方を変える。アピールは現場と同じ部屋でやる必要は無い。むしろもっと大っぴらにやった方が気づかれない。どこかの看板に赤白広告を出すとか、シネビジョンに映してしまうとかな。現場では駄目だ」
 灰色の瞳が驚きに広がり、そのまま細められる。無言の青年に残ったのは笑みだった。笑っていれば好感度の高い外見なのだ。これで常識と良識が揃っていれば文句は無いのだが。長沢は思いながら、冬馬の空けたマグカップに手をかけた。
 「そう言えば、お前さんの"報告"ってのは」
 柔らかい表情の中で、笑っていない瞳がじっと長沢を見つめていた。忘れかけていた悪寒が背筋に忍び寄る。
 人間で、少年。純真で、凶暴な。気の毒で、人殺しの。恨むべき、しかし同志。子供に罪が無いと言い切るには、長沢の中の本能は恐怖を忘れていない。複雑だった。
 ああ。整った口許が開かれた。
 「お前の名を上に通した。俺の報告はそれだけだ。答えは出ていない。後日だ」
 真摯な瞳。縁だけが黒く、その中は奇妙なグレイの瞳。目線を逸らせない長沢の目の前で、瞳を突きつけたままの整った唇が言う。
 「……啓輔。触れていいか」
 ぞくり。
 答えずにマグカップを奪ってカウンタに戻る。長沢の微妙な変化を読み取ったのか、冬馬は席を立った。降ろされたシャッターを横目に見て、階段ホールに歩を進める。カウンタから戸口を見守っている長沢を確かめた表情は、彫像のようだった。
 じゃあな。
 言う変わりに小さく頷いて、ホワイトグレイの頭が階段ホールに消えた。
 「お…」
 何を言おうとしたのか。長沢は、すばやく戸口から消えた長身に声をかけかけて止める。
 階段ホールに続く扉が静かな音を立てて閉まり、僅かの間をおいて裏口の扉が閉まる音が響く。扉が動いたと言う証拠を、その余韻だけが物語っていた。他には足音も、においも、体温の余韻も無かった。人が居たという証拠は、エスプレッソマシンのホルダーカップの中に有る搾りかすだけだった。
 ホルダーカップをダストボックスに叩き付ける。詰め込まれたコロンビアブレンドが、ころりと落ちた。
 

 啓輔さん。
 その響きに胸が詰まる。娘に何と呼びかければいいのか、ずっと悩んでいた。
 彼女と暮らしたのはもう13年近くも前の事で、成長を直ぐそばで見つめられたのも彼女が僅か9歳たらずの時までだ。
 昔は赤と黒しかなかったランドセルが、パステルカラーに増殖して選択肢が増えたと言うのに、金色じゃなきゃ嫌だと売り場でごねた子だった。いろがみにはちゃんと金と銀があるでしょう。どうしてランドセルだけ無いの。変じゃないの。売り場で地団太を踏み、変だ変だと泣き喚いた頑固な子供だった。
 母親に一日がかりで説得された後はすっかり心が変わったのか、目にもまぶしいオレンジ色を嬉しげに抱えていた。絶対に自分が持って帰ると言い張り、彼女の小さな身体にはやや嵩張る箱を抱えていた絵が目の中に蘇る。
 まだ本当に赤ん坊の頃から、おしゃまな小学二年生までの彼女は、長沢の中に深々と刻まれている。だがその先は。
 子供が少女になり、反抗期を迎えて徐々に大人になっていく過程を、長沢はよく知らない。飛び飛びで遠くから眺めていただけだ。それを果たして知っていると言って良い物かどうか、彼には分からない。
 あの頃の彼女は長沢を舌ったらずに「お父しゃん」と呼んだ。それがいつしか「お父さん」になり、今は。
 "啓輔さん"と、名を呼ぶのか。
 「やぁ。…久しぶりだ……ミー……」
 子供の頃のままの呼び名に、瞳美は目を丸くする。当の長沢も、言ってしまってから息を呑んだ。
 悩んでいたのだ。何と呼ぶか。昔は"瞳美"とごくごく普通に呼んでいた。バリエーションは幾つかあったが、大概呼び捨てだったから、そこに悩んだ。瞳美"さん"か、"ちゃん"か呼び捨てか。
 まさか、彼女がまだほんの子供の頃の"ミー"が、口をついて出るとは思わなかった。
 ぷ、と目の前の席の比沙子が小さく噴出す。驚く長沢の様子にくすくすと笑い続ける。瞳美は自らの失態に動けぬ長沢の向かいに回ると、比沙子の右隣にちょんと腰掛けて、母の肩に頬を寄せた。軽い身のこなしが楽しげだ。
 「凄――い。母さん当たり。さすが元夫婦。まさかと思ったのに」
 「ふふふ。年季が違います」
 さざめき合う二人の笑い声に、毒気を抜かれたまま立ちすくむ。笑顔の比沙子から助け舟がやってきた。
 「ごめんなさい。昨日ね、話していたのよ。瞳美が"お父さん"と呼ばずに違う呼び方したら、きっとパニックしちゃうって。恋人の名前とか、子供の頃の呼び名とかが出ちゃうかもって、言ってたの。冗談半分だったんだけど、当たっちゃったみたい。
 さ。いつまでも鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してないで、河岸を変えましょ。お昼、瞳美と昨日熱い会議をして一番行ってみたい所をピックアップしたの。混むかもしれないから早く移動しなきゃ。貴方はそれ飲んじゃって。そしたら出ましょう。」
 おなかへったぁ、と瞳美が言う。長沢は言われるがまま席に着くと、慌ててカップに口をつけた。
 「……てか。別にこれ、残して出てもいいんじゃないか」
 昔の呼び名は失態だったが、娘に対して恋人の名前を呼ぶ事は有り得ない。第一、恋人などいない。それより。何故娘は冬馬と伴に来たのか。様々な思いで娘に目をやると、大きな目が長沢の視線を待ち構えてにたりと笑った。
 「さっきの人、私が方向音痴でキョドってたら助けてくれたの。瞳美さんですか、ご案内します、って。
 ねぇ、あの人って"啓輔さん"の何?同僚でも部下でも友達でも無いって言ってた。私、理解有るんだ。って言うか興味があるって言うの?あの人ってまさか、恋人?」
 有り得ない。
 長い時を経て、久しぶりに会う娘にそんな深い理解も、怪しい興味も持って欲しくはない。しかも、なまじっか見当違いとも言い切れぬのがたまらない。思い切りカップを呷って中身を飲み干す。空のカップがソーサーに当たってチン、と悲鳴を上げた。
 「勘弁してくれ。……ミー」

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