前を見たまま黙って歩く瞳美の横、やや後ろについて伴に歩む。 角まで来た所で、そこ真っ直ぐ、と呟くと、どこ向かってるのよと鋭い声がかぶった。 「いやあ、さっきの所で書類書いたら、東京駅に送ろうと思ってたんだけどね。お姫様が歩きたいと仰るもんだから」 「東京駅じゃなかったらどこに送ってくれるの」 「神田でも秋葉原でも。メトロも走りまくってるから、二重橋でも大手町でも神保町でも、どこなりとご希望の所へお連れしますよ。歩いてだけども」 「神保町までどれくらい…?」 「さあ、三四十分…かな」 「お父さんの喫茶店までそれくらいってこと…?」 お父さん、と言う単語に、口まで心臓が出掛かった。 先程、瞳美は比沙子の帰りを待つパートナーの事を称してお父さん、と言った。恐らくその存在はフィクションではない筈だ。 付き合いの深さや長さは分からぬが、比沙子には、瞳美が"お父さん"と読んでも不自然では無い相手が居ると言う事だ。その人物は彼女にそう呼ばれる事を望み、彼女もそれを是とした相手で、恐らくはその存在のために現在、必要な書類の作成に向かっている途中なのだ。 なのに。彼女は今、確かに長沢に向かって言ったのだ。 かつては舌足らずに囁かれたと同じ言葉。きらきらした瞳とピンク色の柔らかな頬で言われた声が耳に蘇る。お父しゃん。語尾は違ってもイントネーションもリズムも同じだった。 後ろ姿から目が離せない。ネオンを纏うシルエットを凝視していると、ヘッドライトの中で悪戯っぽい笑顔が不意に振り返った。 「こっちも色々気を使う訳よ」 言って舌を出し、大きく背伸びをする。桃色の頬を一瞬、真っ白な呼気が綿のように包んで消える。笑みに弓になる目許は比沙子にとても良く似ていると思った。 「お母さんが真剣に付き合ってる人が居たら、そりゃ昔の男よりそっちを優先するわ。失敗した過去よりも、これから上手く行って欲しいもんね。あの女(ひと)まじめだし、今まで浮いた話も無かったし、まだ若いんだから一人きりで枯れるのは勿体ない。だからね、相手が上手く盛り上がってくれるように、時々はお父さんって呼んで上げる。 例えばちょっと……かなりダサくて、お腹が出てて、頭のてっぺんが薄〜〜くなってて、個人的には何だかなぁと思っても、お母さんの事大事に思ってくれる人ならそれが一番良い。でしょ?私、それなりに良い娘だと思うんだけどなあ」 夜を掻き分ける伸びやかな脚が、コンクリの道を軽やかに進む。僅かに後ろを歩く長沢を振り返り振り返り進む頬に、かすかに色を纏った栗色の髪がかかっては、風に解かれて行く。長沢は苦笑した。娘の声も言葉もその心情も、全てが愛らしかった。 「"それなり"どころか。物凄く良い娘だ。それに、苦労人だな」 でしょでしょ!良く通る明るい声で言った後、急に黙り込む。短いコートの裾が風に膨らんで、しぼむ。私ってね、夜に縁取られた横顔が言った。 「あんたなんか父親でも何でもない!って怒ったり憎んだりしても良い立場に居るでしょう。でもね、全然そうでもない。それってね、全部お母さんの影響。何故ってね。私、一度もお母さんから、貴方の悪口聞いたこと無い」 ぎゅう、胸の奥が音を立てる。穏やかな表情は崩さぬ代わりに、きつく掌を握り締める。 「そりゃね。恨み言くらい聞いた事あるわよ。一生懸命になり過ぎて、すぐ周りが見えなくなる人なんだから!とか、意気地なしとか、意地っ張りとか。でも、その後に必ずフォローが入るんだ。その必死さにやられちゃったのよね、とか。意気地なしなのが放っておけない!とか。で、私がお父さんってどんな人って聞くと、いっつも。にんまり笑って 格好良い人。でも全然完璧じゃなくて、危なっかしくて、ちょっと情け無いの。憎らしくって、可愛くって庇わずに居られない人。 そんなのしょっちゅう聞かされていたら、嫌うとか憎むとか無理でしょう。しょうがない人だなあって思っちゃう」 何も言えなかった。昔良く比沙子が言っていた"可愛い"は、単に当時の流行言葉だと思っていた。今も良くからかうように言われるその言葉に、そんな意味があったとは知らなかった。 「だからね、私はお父さんが割りと好き。おじさんだけど、ハゲてないし、お腹も出てないし、それなりに格好いい。でもねぇ。 あんなに貴方の事好きなお母さんを放って置きっぱで、お母さんからけじめを付けに来たら、戻って来てくれは酷い。お母さんをこれ以上振り回すなら、流石に私だって許さない」 一言も無かった。 身勝手は重々承知している。自ら迎えに行く事すらせず、彼女がけじめを付けに来るまで放置したのは、他でもない自分だ。養育費を送るだけで責任を果たせていると言う言い訳に、過不足を感じずに十数年。悪いのは全て自分だ。無責任で臆病で、卑怯な男だ。 自らは何もせず、目の前に現れた人の手を、強引に絡め取ろうとした。その自らの行いを正当化するには、十数年という月日は長過ぎる。これが20代の数年の事であれば、若気の至りとか勢いとか言い訳がついた筈なのに。不惑の年となった今では全てが遅過ぎる。全てが時効を過ぎている。愛も想いも、その心の全てが。 頷く。俯く。 娘の言葉に深くうなづく。娘の言う事は全くその通りだ。彼女の目から情けない自分を隠したくて俯く。自らの不甲斐なさは重々自覚しているが、今日一日だけは取り繕いたかったのに、底が知れている。それでも最低限の格好はつけたかった。表情を取り繕って顔を上げると、間近に覗き込む娘の視線とぶつかった。 ごめんね? ピンク色の唇が言う。 「ブーツ買って貰ったのにね、私。言い過ぎちゃったかな?」 頭を振る。怒りのままに足蹴にされても一言も無い状況なのに、娘の目の中にあるのは労わりと罪悪感だった。はっきりと物を言う子だが、その分含みが無くてストレートだ。比沙子は娘を寛容で優しい娘に育てたくれたのだと実感する。 「駄目だぞ」 長沢の唐突な強い口調に驚き、瞳美はきょとんとしている。大きな目の前に、一本指を突き出して左右に振ってみせる。娘の目は正直にその指を目線で追った。 「そう言う所はお母さんの教育を信じちゃいけない。いいか、情けない男に優しくするべからず。 近づくなよ、構うなよ。意気地なしはすぐ調子に乗るし、甘える。すがりつく。しかも甘えさせてくれる人にはどんどん傲慢になる。そんなに優しくしてると、お母さんみたいに苦労する。言い過ぎは当たり前。というかむしろ全然足りないんだ。跳ね除けなさい。そして断固、付き合いはしない。それが無理だったら半径10m以上近づかない。いいね」 「なにそれぇ」 驚いた顔が苦笑になる。自虐ネタでも何でも、今は笑顔が救いになった。 「そうだ。そうだよな。あの小さかったミーがこんなに大きくなるんだもんな。時が経ち過ぎた。馬鹿だなあ、気がつかなかったよ」 レザージャケットのポケットに手を突っ込んだまま歩く長沢の左の肘に、瞳美が指を絡ませる。躊躇しながらも、そのまま肘の内側に掌を置く。 「それじゃ冷たい」 長沢は娘の手を掴んで、ポケットの中に押し込んだ。二人の掌を受け入れてもまだ余裕のある大きなポケットの中で、娘が掌を握りなおす。細長い指の感覚は、子供の頃とは違っていた。 大手町を過ぎ、神田駅に近づく。幾つめのコンビニになるのか、道なりに着いたコンビニで判子とペンを買い、イートスペースで書類に必要事項を書き入れた。住所、氏名、本籍、二人の関係を終わらせる為に必要な情報は到って僅かだ。 最後に判子を突いて書類を仕上げると、娘が小さくアリガト、と呟いた。 「本当に預けていいのか?俺が出さなくても?」 「うん、いい。お父さん、また忘れて十数年とかやりそうだから貰う」 にっ、と笑ってクリアケースを受け取る。ショルダーに詰め込んで席を立つ。外に出て見上げると、ネオンの向こうに星空があった。 神田の駅までは、歩いて僅か数分だった。今度は積極的にポケットに手を入れて来た娘の手を取って、構内に辿り着く。 もう少し。つい思う。 山の手の駅は駅間距離を伸ばすべきだ。そうすればほんの少し、この痛いほど穏やかで愛おしい時が続くのに。と、長沢が思った事を瞳美が簡略に口にした。 駅、近。 つい、小さく噴出して娘に見つめられる。親の贔屓目を差し引いても、充分愛らしい娘だと思う。その顔も、心も。 「元気でな。お母さんによろしく」 「うん」 「こっち来たら、連絡くれ」 「あ、そう言えば。昨日のケーキ、美味しかったよ。来ればああ言うの食べさせてくれる?」 「勿論」 「有料?」 「終生無料券、その時に差し上げます」 「お父さんは恋人居る?」 気遣わし気な瞳に、逆に事実を言えずに息を飲む。居ると答えれば心が休まるならそう答えたい。居ないと答えてSOMETHING CAFEに訪ね易くなるならそう答えよう。どちらか図りかねた。 「ご想像にお任せする」 「今朝の人は……」 「あれは家の常連で、近くの学生だよ。関係ない。大体、男じゃないか」 「え、でもあの人お父さんの事バリバリ好きだよね。私、理解あるよ」 答えに窮する長沢に、じゃ、と微笑んで踵を返す。慣れた仕草でパス入れをリーダー部分に押し付け、改札を潜り抜ける。長沢が手を振るのを、やや暫く進んでから振り返り、何かを言いかけて口をつぐむ。その後改めて笑顔を作って手を振る。その仕草に強烈にシンパシーを感じた。 「瞳美!」 娘がびくりと振り返る。笑顔では無かった。困惑したような、泣きそうな、不安気な少女が振り返る。幼かったあの頃の瞳美の泣き顔がカブった。 「用なんか無くていい! 口実も何もいらないから、いつでも来いよ。いや、来てくれよ! 俺、財布にだって食堂にだってなれるし、少しは役に立つから!!いつでも……」 お前。胸の中で娘に語りかける。俺と同じだったんじゃないのか。 十何年もの時を経て会う相手に、情け悪い所を見せるまいと肩肘張って、格好つけて虚勢張って。本当に言いたい事は空回りして、何が言いたいのか分からなくて。いや、同じじゃない。若い瞳美のほうが長沢より遥かに努力が要った筈だ。 思いが先走って言葉にならない。こんなのは自分だけの思い込みだ。独りで盛り上がっているだけで、現実は全く違うかもしれないのに。 きょとんとした娘の表情に声を落とす。生唾を飲み込む。 「……。…ご利用、下さいませ」 無理やり、微笑む。 自分の顔は歪んでいないか不安になる。きちんと微笑めているだろうか。毎日、店で使っている笑顔を、我ながら良い人そうに見える笑顔を、ちゃんと仮面として被れているだろうか。 瞳美の驚きの表情がゆるゆると緩み、最後に小さく噴出す。ぐいと両手で親指を出してエスカレータに飛び乗る娘に、同じように親指を突き出してやる。屈託の無い笑顔は、速やかに改札の天井へと消えていった。 動けなかった。消えた娘の残像を暫し見つめ、それからようやっと息をつく。 胸の中は壮絶だった。 頭を冷やす為にコンクリの道路に戻った。ゆっくり歩いても、20分で自分のテリトリーについてしまう。長沢は線路に沿った遠回りの帰途を選んだ。
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