□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 日常 □

 気分は最悪だった。
 頭痛と腹痛で目を覚まし、トイレに駆け込もうとして下半身の鈍痛に動きを阻まれる。身体を引きずるようにして廊下を進み、トイレに辿り着いた途端、腹の中のものを全て吐き出した。
 とは言え、夕食抜きのため吐く物もなく、出てきたのは苦い水だけだ。
 訳が分からない。気分が悪い。すこぶる悪い。その場にへたり込んで初めて、自分が全裸だと気づく。一体、何が有った?
 霞がかかった頭はなかなか動かない。顔を触ると、指先に乾いた血液のかけらがついて、慌てて顔を探る。
 「痛っ…」
 唇が何箇所も切れていた。顎も腫れているし、顔と言わず身体と言わず、あちこちに細かい擦過傷もある。爪が割れて血が滲んでいるわ、縛られたような青あざは有るわ。じりじりと立ち上がって鏡を覗き込んだ途端、全ての記憶がよみがえった。そのまま蹲る。
 嘘だろう。
 犯られた。自分の店で、客にレイプされた。ほんの数度現れた、自分の半分程の年齢の青年に。しおれたおっさんが青年に。強姦された。冷や汗が噴き出した。思わず顔を両手で覆う。
 今まで、強盗にあった事も、空き巣被害にあった事も無いのが「SOMETHING CAFE」の小さな自慢だった。それは今も変わらないが、中年のおっさん店長が強姦されるなどと言う被害は、一体誰が考えるのだ。しかも悪ふざけとか悪戯とか言うレベルではない。長沢はこれで死ぬのだと覚悟を決めたのだ。抗いも叶わず、恐怖と苦痛に力任せに沈められ、理不尽に殺されて終わる人生なのだ。ろくな人生じゃなかったと、自分を哀れんだのをはっきり思い出した。
 力を振り絞って、店の中を逃げ回った気がする。逃げては押さえ込まれて犯された。おい、冗談じゃないぞ。
 痛む身体を引きずり上げて階段を下りる。下のホールに千切れたTシャツとコットンシャツが丁寧にたたんでおかれていたが、そんな物は無理やり無視して店の扉を開く。血や精液の汚れだの匂いだのは、時間がたてば経つほど染み込む。落とすのは容易ではない。
 全裸で店に飛び込み、その様子に息を呑む。
 清浄な香り、整えられた机と椅子の列。きれいに磨かれたフローリングが長沢を迎えた。
 一気に萎えた。全裸のまましゃがみこむ。朝方の冷気にくしゃみが出る。初めて寒さを感じた。
 一体、これは何だ?
 あの青年は一体何がしたかったのだ。口を利いた事もない珈琲店の店主を手篭めにして、その店を磨いて帰ったのか。一体、何が望みだ。一体全体。
 あれは何者だ?
 

 SOMETHING CAFEの一日は、「ZOCCA」から届くパンを受け取る事で始まる。
 モーニングセットは、これにスクランブルエッグか目玉焼き、ベーコンにグリーンサラダ、珈琲一品がついて700円。仕込みはしてあるので用意は簡単だが、体中の痛みがそれを阻む。
 裏口にZOCCAのCUBEが停まるのに合わせて店を出ると、配達に来たZOCCAの店長が息を呑んだ。
 「どうしたんだよ啓ちゃん。喧嘩かよ、いい年をして」
 ぎこちなく、木箱を受け取る。
 「喧嘩、なもんか。一方的にやられたからこのザマなんだ」
 「はあ、酒類扱うとカフェでもそうかい。大変だな。あ、俺が中まで運んでやる。良いから、貸しな貸しな」
 好意に甘えて運んで貰う。威勢の良い主人が去るのを見送って裏口を閉め、大きくため息をつく。下半身が自分の物ではないようだった。腰が重くてだるい。動かない。
 男同士の体験は初めてではなかった。
 遥か昔、自分が勤め人だった頃、職場の先輩とほんの数回だがそうした経験がある。だから別段ウブぶる気も、しおらしく構える気もない。だが、昨日のあれは、そうした物とはまったく違った。
 職場の先輩との関係は、何もかも失って自暴自棄の時、流されて結んだ。生も死もどうでも良くて、導かれるままに身体を開いた。しかし皮肉にも、その関係が、彼に生を気づかせたのだ。
 それから紆余曲折あってここにいる。だから、経験を後悔もしないし、恥とも思わない。誰かに打ち明けるつもりは無いが、自分の過去の一つとして消化している。
 以来、特定の女との関係も持たず、当然男との経験はそれっきりで、誰とも深い関わりを持たずに暮らしてきた。にこやかに穏やかに、極々表面的に周りと折り合って過ごしてきた。平穏に、平和に。それで何の不都合もないし、葛藤も無かった。満足していた。だと言うのに。
 昨日のあれは暴力だ。睦事ではないし、セックスですらない。欲望を叩きつけただけの、純粋な暴力だ。相手の反応も見ず、己の快感だけを追った残酷な自慰行為だ。ただ、その生贄が自分だった事に納得がいかなかった。いや、納得がいかなかったのはそれだけではない。他にいくつも…
 「おはようございまぁす!」
 看板娘の明るい声に、思考をちぎられる。長沢は顔を上げた。
 「おはよう早紀ちゃん、今日もよろしく」
 その時上げた看板娘の奇妙な悲鳴の意味は、暫く長沢には分からなかった。
 

 SOMETHING CAFEの看板娘、奥田 早紀は大学生。洋大ラグビー部のマネージャだそうだ。
 頓狂な悲鳴をあげて店主に驚かれるのも構わず、携帯用の応急キットを取り出し、慣れたしぐさで処置を始めた。膿んでしまうので放っておいては駄目。傷を全部消毒し、えぐれた傷にはゲンタシン軟膏をすり込み、腫れあがった顎には湿布をつける。これで良しと言うまで、わずか五分の素早さだった。
 他に傷はありませんよね、と強い調子で問われ、有りませんと目線を外して答える。傷は体中にあり、特に深いのは人に見せられぬ部分なのだから答えられる訳が無い。
 手厚い処置のおかげで大層な面相になり、来る客来る客に傷の訳を問われ、長沢は仕方なくZOCCAの店長にしたと同じ言い訳をする。肝心の生臭い部分は隠し、一方的にブチのめされたとだけ答える。正確な描写とは言い難いが、嘘ではない。同情や見舞いの言葉には素直に頷けなかったが、売り上げが無事だったのは不幸中の幸いだね、と客が笑うのにだけは心底同意できた。
 血気盛んなアルバイトと唯一の正規店員が、警察に届けようだの、いいや俺が捕まえるから詳しい状況を教えろだのと言い出して、長沢は冷や汗をかいた。店員達の気持ちはうれしいが、それだけは、お断りだ。
 ちょっとした動きで疼く部分が、昨夜のことをまざまざと思い起こさせる。押さえつけられ、強引にされた行為の痛みと屈辱と恐怖が蘇る。陵辱の恐怖から、自分が懇願した内容に胸が悪くなる。少し思い出すだけで吐き気がこみ上げるこれらの事を、細かく思い出すなど耐えられない。絶対、お断りだ。
 曖昧に答える長沢に、また来たらどうするんですかと店員がぼやく。まさしくそれだけが、今の長沢の恐怖だが、だからと言って積極的な解決に踏み出す気にはなれなかった。
 まさかあそこまでの行いをして、再び来る事も無いだろう。もし来たら、その時に警察に通報すればいい。そう考えて恐怖を飲み込む。それが、今の長沢に出来る精一杯の事だったのだ。

 モーニングをこなし、二時間の休憩のあとにランチを終え、3時〜5時のブレイクタイムに入る。
 この時間の売りは二種類のパフェと、「今日のケーキ」だ。ケーキは猿楽町二丁目にある"プティ・オレンジ"から毎日運ばれてくる。350円から420円までの数種類のケーキの中から、その日の店長のお奨めが、毎日2ホール納入される。販売率は90%、安定高値と言うところだろう。
 ぎしぎし痛む腰が限界に来た頃、ケーキが終わる。長沢は店を店員に任せて二階に上がり、ほんの数分、落ちるように眠り込んだ。
 靄がかかった室内。恐らくはどこかの会社の応接室。そこに、かつての仕事仲間が、いた。
 お前は優しすぎるよ。かつて、何度と無く言われた言葉をまた聞く。
 この世が金で回っている事くらい、誰だって分かってる。俺もお前も、クライアントも皆分ってる。お前の仕事は金を貸す事だ。俺の仕事はそのお前に融通する事。重要な仕事だ。自己資金だけで立ち行く企業なんて有りはしない、銀行やローン会社が裏支えしている訳だ。資金を貸す、営業をする、製造販売をする。儲けの中から借りた金を返す。これが世の中の仕組みだ。借りた物は返すのが当たり前。人としてのルールだ。どこに不都合がある?
 返した後、相手がどうなろうが、それはお前の責任じゃない。お前は仕事をしているだけだ。気に病む必要はない。無いさ。
 …それより、なぁそれより。足を開け。楽しませてやる。ここ、だろ?
 慣れた愛撫に身を任せる。ねっとりした口に包まれ、絶頂を迎え、その後に少しの屈辱と痛みときつい抱擁。お前は悪くない、優し過ぎるだけだ。そんな呪文に包まれる。一時、ほんの一時だが、確かに自分はそんなまやかしの呪文に癒されたのだ。嘘っぱちの、話に。

 話は、ない。
 灰色の、輪郭のきつい瞳が目睫の距離からじっと長沢を見つめる。

 胸を突かれて飛び起きる。
 一瞬、状況を図りかねて周りを見渡し、自分の腕時計に目を落とす。心臓が早鐘のように鳴っていた。
 ここは店の二階、自分の家だ。経った時間は僅か五分。今のはただの、夢だ。
 青年の瞳を見た。冷淡な、瞳。全てを見透かしているような、何も見ていないような、薄色の瞳。頭を振る。それだけでは嫌悪感は振り払えなかった。よいしょ、と唸って立ち上がり、階段を駆け下りて店に飛び込む。後ろ手に扉を閉じて目を上げる。
 店を、夕暮れが包んでいた。
 二人のバイト。見慣れた数人の客と幾人かのOLにマダム。建物の隙間に見える、人通りの多い交差点。暮れかける猿楽町の空。高層ビルが増えて、幾分狭くなった空。
 店の配色は赤みがかった茶一色だ。正確には、グレイッシュベージュからマホガニーまで色の幅があるのだが、夕暮れ時の光の下では全て同じトーンに染まる。レンガと木の奏でる、穏やかな赤の協奏曲だ。珈琲の香りと、低く高く流れる客のおしゃべり。渋いとは言い難い有線放送、通りのクラクション。慣れた日常に、長沢はそっと深呼吸をした。
 ここに有るのは日常だ。大丈夫。俺の日常は、何も変わらない。何も壊れていない。昨夜がただ、おかしかっただけだ。
 戸口のベルが鳴る。扉につけられた小型のカウベルが振動に鳴る。
 「いらっしゃいませ」
 茜色の光を零す戸口に顔を向ける。いつもの笑みを投げかけ、そこで息を呑んだ。
 

 客商売をしていると、自らの動揺を表に出さない訓練が出来てくる。
 死ぬ程驚いても、それを客に気取られぬよう飲み込む訓練が出来てくる物だ。が。
 「マスター?」
 俺は、まるきり失格だ。
 明らかに顔色が変わったのが彼自身、よく分った。馬鹿のように戸口の一点だけを見つめたし、凍りついた。顔色を変えないどころか、がくがく震え始める膝を押さえ込むので精一杯だった。
 そこに、非日常が立っていた。
 何度か見た、疲れきった陰気な印象は影を潜め、全身に殺気を纏った青年が、そこに立っていた。
 シルクのシャツ。ホワイトグレイの頭。茜色の空を背負った、190cm近い長身。細いが引き締まった体躯と、それにつながる引き締まった輪郭の暗い表情の中央で、両の瞳が強く輝いていた。
 「もしかして、あいつですか、その怪我?」
 唯一の正規店員、北村に問われて我に帰る。そうだ、と答えようとして声が出なかった。
 北村は、看板娘:奥田早紀の先輩で、元洋大ラグビー部の、現25歳だ。本人は目的があっての就職浪人だそうだが、その目的を長沢は知らない。ただ、そのがっちりとした体格通りに腕っ節が強く、SOMETHING CAFEの店員兼用心棒になっている。
 長沢は細かく頷いた。戸口に立った人間から、カウンタ内のジェスチャーは丸見えなので動きたくは無かったが、声が出ないのでは仕方が無い。
 店主のただならぬ様子は、アルバイトにもすぐ伝わった。戸口の一番傍にいたアルバイタが、対応に出る。
 一瞬、戸口の青年が光ったと見えたのは、夕日の中で身を翻した拍子に、耳に付けた金属片に陽がはねたからだ。
 大きな身体がしなやかに踵を返して消える。戸口に人影がいたことすら嘘のように、アルバイトが戸口につく頃にはその存在は消えていた。
 今更ながら平静を装う。何事も無かったように、エスプレッソマシンに近づき、その場に手を突いて大きな溜息を突く。冷や汗が背を伝うのをはっきりと感じた。
 「なんだぁ、あいつ。逃げやがって」
 アルバイトがカウンタに身を寄せて言う。北村がそれを継いだ。
 「だな。ま、何にせよ顔も分ったし、今度来たら俺がヤキ入れておきますから、安心して下さいよマスター。」
 北村がこれ程頼もしく見えたことは無い。口では軽く、頼むわと相槌を打ちながら、心底そう願う。長沢が太刀打ち出来ないのは、昨夜の事で身に染みて分った。情け無いが、自らでどうにもならない物は、他者の力に縋るしかない。
 「何度か来てた客ですよねぇ、あいつ。暗ぁく、珈琲だけ飲んで帰る客。大人しい奴だと思ってたのに、あいつ、酔うと乱暴なんだなぁ」
 頷きながら、心中で首を振る。酒の上の乱痴気騒ぎならまだ理解できた。問題なのは、青年が全くの素面だった事だ。素面の狂乱ほど、空恐ろしい物はない。
 青年の去った戸口を見つめる。そこにあるのはいつもの静かな日常だった。
 

 一日を無事に終えて、シャッターを下ろす。
 店を磨いて、翌日の用意を終え、一息をつく。悪夢が始まったのは、昨日の丁度今頃だ。そう考えて首を振る。
 先ほど戸口に青年の姿を認めた時は血の気が引いたが、今は戸締りもきちっと終え、安全圏にいるのだ。そう思うと力が抜けた。
 自分の為の珈琲を淹れる。ケニアAAのフレンチロースト、エスプレッソ。スチームドミルク多めでカプチーノを作る。カウンタの隅に腰掛けて、一緒に残り物のサンドイッチを頬張った。
 小腹が減ったが、外に出る気にもならない時は、余り物がありがたい。店には出せない天然酵母ブレッドの背中部分と、アルバイトが乱暴に扱ったために殻にひびの入った卵、大量に用意してある"裂き"ローストチキン。これで立派な一食になる。
 ゆっくりと口の中の物を租借する。どこでどう噛もうが、切れた唇と顎が痛かった。それなりに腹は減っているのだが、痛みの所為で噛むのが億劫になり、ある程度噛んではカプチーノで流し込む。ようやっとサンドイッチの半分を片付けた所で面倒になった。
 情けない。
 あんな若造に良いようにされて、ただ怯えているだけなのか、俺は。年上の貫禄とか、説得力とか、何か無いのか。何も無いのか。だが実際。
 体格的にも腕力でも、若さでも劣る相手に力で対抗など出来る訳が無い。生きてきた時間など、結局はマイナスにしかならないのだ。
 残ったサンドイッチをラッピングする。明日の朝にでも食おう、と片手に乗せて店の灯りを消す。狭い階段を上って冷蔵庫にそれを放り投げ、昨夜から敷きっぱなしの布団の上に倒れこむ。
 一度倒れこむと、動く気にもならなかった。台所の灯りが、足元から柔らかい光を投げかけている。目を閉じると、そのまま吸い込まれそうだった。
 駄目だ。今日はもう動けない。寝ちまおう。風呂は明日……
 ふっ、と光が何かに遮られた。閉じた瞼の上に注がれていた光が途切れる。
 瞼を持ち上げる。眠りに落ちかけたぼんやりした感覚のまま、光の方向を見る。
 影が立っていた。
 理解が追いつかなかった。
 そこに有り得ない大きな影が、こちらをむいてじっと立っていた。影の中の両の目がゆっくりと笑み、一歩、近寄る。ぎしり、と床が鳴った。
 「よう、啓輔」

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