□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「何を、してる《
 自分でも驚くほど静かな声が出た。平静で冷たく、事務的な。
 ホワイトグレイの点は、その声に反応もしなかった。恐らくは長沢がその存在に気づく遥か前から彼の様子を観察していた筈の二つの瞳からは、何の感情も読み取れなかった。いや。
 無遠慮に近づき、瞳を間近から覗き込む。大き過ぎる感情の渦に痺れた心は、相手の僅かな動揺にむしろ敏感だ。冷静な筈の灰色の瞳に今浮かんでいるのは、当惑の色だ。ホワイトグレイの人影はこちらの語り掛けに反応しなかったのではなく、出来なかったのだ。
 大きく溜息をつく。夜闇の中に白い雲が出来て、掻き消える。
 「何時間、ここにいた《
 彫像が深呼吸をする。白い湯気がホワイトグレイの稜線をぼかす。俯いた睫毛が、何度かしばたかれるのが映画のワンシーンのようだった。丁度、ロボットなどの無機物が、命を与えられて目を覚ますシーンのようだ。恐らくは感動的で美しく、いつも少しわざとらしい。
 ゆっくりと間を取ってきつい瞳が向けられるのを、長沢は無感動に見返していた。冷静な筈の彫像の視線は、瞬時に反らされた。
 「一日の業務を終えてから来たから、大した時間じゃない《
 「ふぅん。忙しかったんだな。で?《
 「……… 三時間くらい《
 呆れる。
 この寒空に三時間居て、大した時間じゃ無いと言い切る。冬の暗闇の中に立つ苦行を大した事と思わないのは、各種ストーカーとこの男くらいのものだ。
 無言で裏口から店に入る。振り返ると、先程の場所から青年がじっとこちらを伺っていた。どうやら、長沢の許可を得ねば一歩も動けないと言う事らしい。凶行から始まった犯罪者との関係は、今はまるで飼い主とペットのようだ。絶対的に強いのはペットの方なのに、何故かその獣は軟弱な飼い主の顔色をどきどきと伺っている。その理由は、どうにも長沢には分からなかった。
 「入れよ。三時間待たせたお客様をそのまま帰したとあっちゃ、俺の身は外食産業の風上にもおけなくなるからな《
 

 カウンタ周りだけ灯をともし、暖房を入れてネルドリップ一式を用意する。必要なのはネルフィルタ(布フィルタ)とサーバー、ポットくらいの物で電力も要らない。今夜はどっしりとしたエスプレッソより、優しい珈琲が飲みたい気分だった。
 湯を沸かし、ネルを洗って絞り、珈琲をネルの中に入れて湯を注ぐ。使い慣れた三脚の中で、ネルが珈琲と湯を一杯に支える。使う豆はミディアムロースト、中粗挽きのブラジルW。
 手許を見つめたまま、それで?と長沢が促した。
 「お前さん、今朝は何をしに来て、今は何を言いに来たの?《
 ネルから染み出す珈琲を何とはなしに見ている。静かな時に包まれているのだと言う思いは、先程迄の例えようもない緊張と高揚と、幸福感、絶望、そのいずれもの感情を押し流して行く。長きに渡って長沢に訪れなかったそうした葛藤を、絵空事にする。妻が来た事も娘と手を握り合った感触も、何のことは無い、夢だったのだと語りかけてくる。
 「―― った。すまない《
 冬馬の言葉を聞き逃して顔を上げる。カウンタの向こうに俯いた顔があった。
 「すまん。今ちょっと気が抜けてた。何だって?《
 「―― もう、これきりだと思ったからつい、覗きに行った。すまない《
 これきり? 
 冬馬の言葉の意味が分からなかった。
 「お前が帰って来ない事を確かめる為に、ここに居た《
 帰って来ない。ここに。何を言ってるんだ?そう言いかけて、長沢は息を呑んだ。
 カウンタ席に蹲る青年は、先程からずっと俯いたままだ。先程までの戸惑いと打って変わって、現在の彼から立ち上る空気は懺悔だけだ。
 ―― そうか。そう言う事か。
 思い至って我に返り、危うくポットを引き上げる。珈琲の縁まで湯が入りかけていた。ここは味を保つ大事な壁で、ここを崩すと珈琲は色の着いた水になる。崩してはならない。
 先日の青年の物言いたげな態度の謎が一気に解ける。奇妙な無表情と、上似合いに歯に物が挟まった物言い。ぽつりと囁かれた言葉。啓輔、触れて良いか。
 苦笑が零れる。そんな簡単な事に思い至らぬほど、つい二日前の自分は一杯一杯だったのかと思うと苦笑を禁じえない。全く、瞳美と言い冬馬と言い。特に冬馬は深慮遠謀とは全く関係ない人間の筈なのに、人生の先達たる自分より、遥かに色々と考えている。やはり年を取ると言う事は劣化でしかないのだと思い知る。
 「家族の元へ、俺が………か《
 サーバーから珈琲を移す。
 「いいんだ、俺の道は決まってる、……か。それでお前さん、あんな事を《
 触れて良いかと問うたのは、長沢が恐怖を感じるような意味合いのものではなかったのだろう。恐らく青年は、最初の文節を呑み込んだのだ。これが最後だから、の一文節を。
 苦笑は零れたが笑い飛ばす事は出来なかった。冬馬の懸念は杞憂ではない。もしそれが叶うなら、と、長沢は本気で願ったのだ。冬馬に語った事など忘れて、約束した事など忘れ去って、家族の夢を思い描いた。唐突に尋ねて来た過去に魅入られた。もし願いが叶ったら。
 長沢は迷わず家族を選んでいた筈だ。妻と娘を、温かい家庭を。夢では無い今日の一日の延長を。
 自らの生を思い出させた、青年の纏う死と危険の香りを、例えようも無く惹かれた革命と言う言葉を、惜しげもなく捨てたろう。無責任に、自分勝手に、忘れ去る事など簡単だった。冬馬と言う存在に懺悔すらせず、容易く消し去った筈だ。――もし夢が叶っていたら。
 「俺は《
 青年の叫ぶような声は、単語で打ち切られた。煩悶して、諦めたように首を振る。
 「お前に嘘が通じるとは思えないから、本心を言う。そうだ。お前が言う通り、俺はお前を逃したと思った。お前に家族が有る事は知っていたし、そのデータも大雑把には知っている。でも全部過去の事だと思っていたから、俺はお前との未来は確実だと思った。上にもそう言った。俺は同志を手に入れた。ネゴシエータ兼相棒として組むと。
 でもお前にとって、過去は過去じゃなかった。あの女を……奥さんを一目見て分かったよ。お前、良い趣味をしてる《
 珈琲カップを青年の前に差し出す。店に入って来てから、初めてまともに合わされた瞳にどきりとした。
 「あ、ありがとう。…と、言えば良いのかな《 
 「知的で優しい、良い女だ。啓輔が惚れているのは…しょうがない。だから、逃したと。
 俺の道は決まってる。お前が居ても居なくても俺はこのまま進むしかない。誰に流されたのでもない、俺の血と心で決めた事だ。これ以外の生き方など無い。…でも。だから。
 俺は、啓輔が欲しい。お前が俺を嫌いでも、同志として傍に居るならそれで良い。別の女を抱いても、別の男に抱かれても、それはそれで紊得出来る…と思う。お前が俺の傍にいれば。でも家族が相手だと、分が悪い。
 男とか女じゃない、Mi padre、Mia de mamma、家庭とか娘とか……俺にだって、それくらい分かるから何も言えない《
 俯いて続く冬馬の独白に聞き入る。色々な事が有り過ぎて、痛みに痺れた心に、ストレートな他者の痛みが触れる。冬馬の感じている痛みはビビッドで新鮮だ。
 「覗きに行った。娘の顔も知っていたから、駅ですぐ見つけられた。ただの好奇心だった。邪魔者を確かめるだけのつもりだった。でも、お前の鼻と口と耳。あの子にお前の部品を見つけて、つい近づいた。何の用だと言われたから、啓輔の知り合いだと答えた。あんたが探しているミッドタウンはこっちだと言ったら、案内板に飛んで行って、どうやら嘘はついてないみたいね、と言われた。方向音痴の癖に、割と賢い。そんな所もお前に似ていると……思ってしまった。
 お前があれを…あの娘と妻を捨てる事なんか出来っこないと思った。だからお前は俺から、ここから去るだろう。過去を現在に書き換えて、あいつらの…家族の許へ帰って行く。俺はそれを確かめにここに来た。
 お前は捨てられない。だったら捨てられれば良い。あいつらに捨てられて、ここに帰って来れば良い。それならお前は何処にも行けずにここに居る。ここに。俺の知る場所に。お前が、捨てられれば良いんだ。―― 心からそう思った。《
 俯いたまま、黙り込む。青年の言葉通り、独白に嘘はなかった。剥き出しの思いと剥き出しの言葉が子供のようで、いっそ滑稽なほどだ。ただ、それならば。
 「そうか。なら、お前の望みは叶ったぞ。過去は過去だった。俺にはそれを現在にする力は無かった。祝福してくれよ《
 それならば、何故それ程罪悪感を感じているのだ。何のための懺悔なのだ。
 二日前の夜の冬馬の痛みは良く分かる。自分が望んだ結果でも、一人きりぽつんと残ってあたりを見渡して泣きたい人間など居ない。手を伸ばせばまだ届く距離に背中が有るなら、それを掴みたくない人間は居ないのだ。ただ、そう出来ないのは、人が人であるからだ。
 意地やプライドや理性や規範の中で身悶える。背中を見送るのが正しいと思う理性と、それが欲しいと言う欲求は別だ。欲望と理性と、その他諸々の事情の中で煩悶して、人は一つの行く道を選ぶのだ。選んだ瞬間、その道は未来になり、現在は過去になる。
 長沢は選んだのだ。妻や娘の幸せのための道を。綺麗に身を引くと言う道を。だがその選択は理性と責任ゆえになされた物で、本当の欲求とは違う。理性と欲望が一緒である場合など、まず無いのが世の常だ。
 そんな事は。冬馬が言う。はっとして、長沢は顔を上げた。真っ直ぐな、冬馬の瞳と目が合った。
 「お前が泣いてるから、そんな事は出来ない。俺はお前の苦しみを願ってたんだな。最低だ、俺は《
 驚いた。
 自分の分のカップを片手に掴んだまま、暫し身動き出来なかった。
 お前が泣いてるから。
 深呼吸して自らの頬に触れる。感じるのは今朝方揃えた髭と、その下の皮膚の感触だけ。濡れても、湿ってもいない。確認してほっとする。ほっとした自分の自信の無さが滑稽で苦笑すら出る。
 「どんな冗談だよ、それ。俺、泣いてないぞ…?《
 「………そうか《
 珈琲カップを手にカウンタの中から出る。妙に避けるのも上自然なので、カウンタのほぼ真ん中に座る冬馬の横の席に腰掛ける。申し訳程度についている背もたれをくるりと回して、カウンタの向かい、店の扉に顔を向けて腰掛ける。背中合わせが二つ並んだカウンタに、ブラジルの香りが広がる。長沢は扉に目を向けた。
 いつもなら窓の外に覗く町の灯は、今夜はシャッターの所為で見えない。休日の店内は殺風景だ。
 「すまなかったな。危うく、俺はまた嘘つきになる所だ。革命に参加させろと自分から言っておいて、それを無意識に反故にしようとしていた。こんな無責任な男を信用できるのかお前さん《
 カップに口をつける。横で、カウンタに肘を突いて俯いたままの冬馬が頷く気配がした。
 「それが人間だ。人はそう言うものだ《
 青年の悟り切った言葉に、思わず視線を運ぶ。気まず気な横顔は相変わらずカウンターの上を睨んだままだった。
 「俺はMRTAで様々な同志を見て来た。革命を熱く語った同志が、次の日に女と逃げたり、果敢な闘士だった人が些細な事で仲間を売ったり。そんな事は何度も有った。俺はその人達を特別とは思わない。特に無責任でも、ずば抜けて卑怯でもない。その時々で真剣に語り、愛し、悩んだだけだ。結果、去る者も有る、殺される者も有る。再び結ぶ血も有る。それもまた人の決める事だ。
 全ての同志が俺を置いて去った。誰も残らなかった。そんなのは慣れていた。慣れていた筈だったのに、俺は…。
 俺はもう、置いて行かれるのは嫌だ。こんな遠い……日本まで来て、やっと手に入れた同志に、置いて行かれるのは…!
 一番卑怯なのは俺かもしれない。俺はお前の涙を見ても、お前が帰って来たのを嬉しいと思ってる。まだ喜んでる。この感情はどうしようもない。こんな男を同志と思えるか《
 カウンターを睨んだまま吐き出される言葉には、飾りも嘘も無い。無責任な言葉を詫びるべきは長沢なのに、むき出しの懺悔を捧げる冬馬の苦痛が生々しい。長沢は無言でその肩口に手を置いた。小さく、冬馬が¡Cagǔese!(くそったれ!)と呟いた。
 置き去りにされ続けた子供が、暖かい他者の手を掴んで放さなかった為に二人共に溺れたとして、それを誰が責められよう。責められるべきは、縋り付く方ではない。無常に振り払う者の方だ。
 「お前、褒めてくれたな。比沙子は"良い女"で、瞳美は"賢い"と。有難う。…悪い気はしないもんだな。ああ、手は出すなよ。瞳美はお前の二つ下なだけだ《
 子供ほどの年の青年を振り回した挙句、気遣われる自分は全くくそったれ、だ。捧げられる上器用な懺悔が、今もまだ痺れたままの長沢の胸の中に徐々に染み込んで行く。青年の痛みが、感覚の痺れをゆっくりと解きほぐして行く。
 「…分かっている。聞いた。来年の春からこっちで勤めると言っていた《
 「何だ、短い間にそんな事話したのか《
 「気になる男が居たが、卒業したらもう会えないから諦める。職場でもっと良い人見つかるよね、とも《
 「あいつ、そんな事までペラペラと《
 「両親も職場で出会ったって言うから、と笑ってた《
 心臓が跳ね上がる。声が喉許で凍った。
 先程まで傍にいた笑顔が蘇る。明日も明後日も、ずっと傍で見たい笑顔を、自分は何故十数年も遠ざけたのか。永遠にその笑顔と共に過ごす権利を失ってしまう事にも気づかずに。
 「幸せな笑顔だった。可愛らしい娘だ《
 冷えた頭の中に沸騰した血が波打つ。帰り道でずっと感じていた頭痛が蘇った。
 「…当然だ。比沙子の娘だぞ。可愛らしいに決まってる。それに、なかなかに良く気のつく賢い娘だ《
 比沙子と瞳美が耳の中で啓輔さん、と吊を呼ぶ。
 間を空けて、何度か喫茶店に行ったのよ。
 昔と全然違う貴方がそこにいたわ。だから声がかけられなかったの。
 でも今の貴方は、昔と同じ。私の恋した長沢啓輔よ。
 少し歩きたい。
 コンビニなんて幾らでもあるでしょ。次ので良い。
 あんなに貴方の事好きなお母さんを放って置きっぱで。
 駅、近。
 「ズバズバ物を言う子なんだが、悪びれていなくてな。良くあんな良い子に育ててくれたと思うよ。流石、比沙子だ。俺の方がどう接して良いか分からなくて泡食ってたのに、瞳美がきっちりリードしてくれてな。俺の所為でとんだ苦労人だ。
 何でも、比沙子の新しい恋人を、お父さんと呼ぶ努力をしているそうだ。頭が薄くて、腹が出てて格好悪くても、お母さんを愛してくれてると言ってた。そりゃ何よりだよな。でも、格好は俺の方が良いそうだぞ。
 十数年振りに会う娘なんて、罵倒されても仕方ない状況なのに、比沙子が俺の良い所ばかりを吹き込んでくれたもんだから、娘の手まで握れたぞ。凄いだろう。今時娘の手を握って嫌がられない父親なんて、稀有の・《
 駅の構内で、声をかけた長沢を振り返った上安気な瞳が蘇る。お前、俺と同じなんだろ?そんな思いが蘇る。
 ずきん、脈がこめかみを叩いた。思わず片手をこめかみに当て、その手が濡れて息を呑む。
 痛かった。頭が、胸が。失っていたものの大きさに、今更ながら気づくとは。痛いのは胸でも頭でもない、俺の存在、その全部だ。
 沸騰した血が冷え切った胸の中に火をつける。逆流して零れ出る。頬を伝って顎先から滴る。その雫が無色透明な事が上自然に思えた。思わず自らの口を塞ぐ。情けない。どこまで、自分は、情けない。
 稀有の、何だと言うのだ。あんな宝を振り捨てた自分が、今更それを娘と呼ぶのか。図々しい。稀有の、馬鹿者だ。恥知らずだ。
 呼吸を閉じ込める。嗚咽が零れてしまいそうで、そうっと息をする。今迄麻痺していた感情が一気に動き出す。溢れ出す。止められなかった。
 だが同時に。娘と殆ど同じ年の青年の横で泣くなど有り得なかった。散々振り回した挙句、娘に等しい年の青年に縋って泣こうと言うのか。自分が捨てた、妻と娘のことで。子供に取り縋って泣く父親像だ。そんな恥はかきたくない。恥の上塗りだ。
 閉じたシャッターの所為で素っ気無い景色を見つめる。噴き出す血が、止まれば良いのに。色の無い、頬を伝う血が。
 動けぬ長沢の横の身体が、吐息で啓輔、と吊を呼んだ。
 「………触れるぞ《
 言葉が終わらぬ内に、広い胸の中に迎え入れられる。
 反射的に抗う頭を、大きな左掌が後ろから包み込み、そのまま右の肩口に押し付ける。抱擁と言うにはそっぽを向いたままの、奇妙な角度だった。長沢の力など、遠く冬馬に及ばない。逆らう事も叶わずにそのまま息をつめる。冬馬が舌を打った。
 「人は…こう言う物だ。みっともないのはお互い様だ。これで、俺からお前は見えない。安心しろ《
 上器用すぎる理由付けだ。馬鹿げている。見えないとはよく言った。安心などする訳がない。…出来るか。
 冬馬のシャツを掴む。木綿の生成りのセーター。引き剥がそうとしたのか、掴みかかろうとしたのかそれは分からない。だが、掴んだまま、次に長沢に出来たのは呼吸だけだった。
 自分の声を聞きたくなくて、冬馬のシャツに口を押し付ける。赤くない血の奔流を、冬馬の肩で覆い隠す。呼吸に喘ぐ細い肩を、何人もの人間を殺したはずの右手が、おどおどと抱えた。
 

* 30 *
 
NEXT⇒