□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 身体が痛い。
 長沢は朝の第一陣繁忙期をやり過ごすと、居住スペースに戻って身体を伸ばした。寛いでいる訳ではない。ただ、こうでもせねば全身の筋肉痛に、今日一日堪えることすら難しい。
 這うように階段を上って畳に寝転がる。背筋を伸ばして、強張った手脚を精一杯伸ばす。自らの手が届く範囲の筋肉を揉み解し、ぎしぎしと痛みを訴える腰をさする。まったく。自らの不甲斐なさに、出るのは溜息ばかりだった。

 いつもどおり五時に目覚めたまでは良かったのだ。
 有り難い事に長年かけて身に沁み込んだ習慣は、何時に寝ようが寝なかろうが、一定の時間に脳に再起動を掛けてくれる。眠りから放り出されるように目を覚まし、何時もどおりZOCCAのパンを受け取ろうと身を起こし……かけて全身痛に息を呑んだ。
 驚いた。人間は身を起こすだけでこれだけあちこちの筋肉を使うのだと、初めて思い知らされた気がした。腹直筋と広背筋が痛い。三角筋と下腿三頭筋が痛い。たかが上半身を起こすのに、脚の筋肉を使うとは思わなかった。
 痛みに起き上がれずに、そっと寝返りを打つ。脇に眠る男に背を向け、ゆっくりと腕を突く。腹筋だけで起き上がるのを諦めて、腕の力を借りて起き上がる。横に眠る男に触らぬように起き上がったつもりが、そこでがっちりと腕をつかまれて引き倒され、本気で悲鳴が出た。
 「………啓輔?」
 きょとんとした灰色の瞳が、長沢を覗き込む。少しの疲れも残さぬ、むしろ晴れやかな青年の顔色が恨めしい。比して、自らの身体の衰えが身に沁みた。現役ゲリラと比較しては無理が有るが、それにしても情けなさ過ぎると言う物だ。
 「何でもない。おはよう。放してくれ、仕事、しないと」
 長沢の言葉に安心したのか、見慣れた彫像に、見慣れない笑みが広がった。
 かつて長沢を踏み躙った獣は、今やすっかり従順なペットだ。飼い主の小さな指令に細かく従って尻尾を振る。"放せ"と言う長沢の言葉にも素直に従って手を放し、思い直して改めて強く握った。
 力関係が変わった訳ではないのだ。ペットの牙も爪も相変わらず鋭いままだし、飼い主が逞しく成ろう訳もない。掴んだ腕をそのままに胸に抱き入れられ、胸板で呼吸を塞がれれば、長沢に出来るのは精々が慌てて首を伸ばして気道を確保するくらいの物だ。
 楽しげな表情と甘えた仕種で、身体をこすり付けてくる大きな身体の青年は、不意に無邪気だ。子供が親にしがみ付くようなニュアンスを感じて、日頃は意識しない父性本能が頭をもたげるが、密着した下半身に確かな感触を感じて、その思いを払い退ける。
 「放してくれ、冬馬。CAFEの朝は早いんだ」
 「一回くらい、やる時間無いか」
 呆れる。
 いくら運動不足とは言え、並大抵ではない筋肉痛を引き起こす程度の事は、確かに昨夜したのだ。受身であった長沢より、細身とは言え男一人の体重を支えた冬馬の方が、遥かに負担は大きい筈である。だと言うのに、朝から一戦とは。迎え酒ならぬ…兎に角冗談ではない。
 朝立ちの処理の仕方は万国共通だ。トイレに行って用を足せば、それで普通は終了だ。
 「体中痛いです、俺。一回やったら確実に死にますが。放、せ」
 驚いた表情のまま、冬馬は渋々と手を放した。
 朝は忙しいのだ。CAFEの機器のスイッチを入れ、下準備をし、ZOCCAのパンを受け取り、客に備える。
 モーニングはAセットとBセットの二種類。本日は日曜日なので、スパイシーチキンのホットサンドか、BLTと付け合せ。下準備は大体終了しているが、こまごました用意はそれなりに時間が要る。十年間繰り返した筈の動作がぎこちないのは、何をしようにも体中のあちこちの筋肉が反乱を起こすからだ。
 朝は忙しいと言いながら、とても素早いとは言えぬ動きで諸所の用意を済ませる長沢を眺めて、さっさと身支度を整えた冬馬が零した。
 「筋肉痛、か。啓輔。SEXしただけでそうなるのかお前は。…お前は本当に、弱すぎる」
 普通のSEXならこうはならない、と言う言葉を呑み込む。
 自身でも充分、自らの衰えは自覚している。現実は現実として受け止めるが、仮にも自ら誘った行為で、事後に相手に"弱い"と言われて弁解するのは悲し過ぎるではないか。
 無言で用意を整え、悠然とCAFEに佇む冬馬の手にカプチーノを押し込む。あと30分もせずに、まずは看板娘の奥田 早紀が来るだろう。冬馬のSOMETHING CAFEでのタイムリミットはすぐそこだ。
 疲労の色の濃い長沢と対照的に、つやつやとした青年の満足げな笑みが恨めしい。タイムリミット迄、精々虚勢を張ってやろうではないか。
 背筋を伸ばしてカウンタに戻ろうとすると、カウンタにカップを置いた青年が背後からそっと長沢の背を包んだ。それに抗う事すら出来ぬ鈍い身体の胴を、大きな掌が両脇から挟む。掌で支えて背筋に親指を押し込む。痛いだけだと思ったそれは、予想外に心地が良かった。
 「…うん。それ程酷くない。バランスは悪くないのに、お前、筋肉が無さ過ぎる。少し鍛えろ啓輔。……何なら毎晩、俺が鍛えてやる。昨夜みたいに……」
 肩口から、耳に顔を寄せて囁かれる言葉に徐々に熱が篭る。青年の若さにとても着いて行けない。
 「いい。昨夜で10年分やった。大体この10年余り、殆どご無沙汰だったんだ。次は10年後で良い」
 手は休めぬままに、背後の存在が息を呑む。肩口からそっと覗くと、本気で愕然としている姿がそこにあった。
 「それは…困る。駄目だ。……駄目だよ。……うん。無理。啓輔、俺は絶対嫌だ。」
 呆れる。
 「俺の同志は、馬鹿だ」
 灰色の瞳は相変わらず無表情で、整った顔立ちはともすれば冷たい陰気な彫像に見えるのに、いつしかそこに暖かい血潮を感じるようになった。恐ろしいとしか思えなかった獣に、一風変わった知性を見出し、不器用過ぎる青年の感情表現に、幼い一途さを感じるようになった。世間に対し、青年自身の親に対し、彼が抱く様々な思いに、奇妙なシンパシーを覚えるようになった。
 思わず、笑みが零れる。青年はその表情を不意に真摯な瞳で見つめ、ゆっくりと俯いた。
 「今日、"会議"が有る」
 単純な報告の筈の言葉に、思いつめた響きが宿る。らしくも無く伏せられる瞳が青年の中の逡巡を漂わせる。穏やかな朝の空気が、ぴりりと引き締まった。同時にぴり、と背筋に痛みが走る。
 会議、とは。青年の言う会議、とは。恐らく一つしかあるまい。
 冬馬曰く「革命」の、その志士達の会合だ。長沢は静かに頷いた。
 「今日の"会議"で、お前の事を上に改めて伝える。本当に、良いか、啓輔」
 「ああ」
 「今なら、ぎりぎり戻れるぞ。後悔は無いか」
 「ああ」
 「……きっと、俺も……」
 そのまま、言葉は途切れる。青年の思いはストレートだ。"きっと俺も"の後に続く言葉は、長沢でなくとも容易く辿る事が出来る。
 ―― "諦められる"。
 呑み込まれたたった一節の音声。余りにもストレート過ぎて呑み込む意味が無い音声。言い掛けて、その可能性を消したくて、口に出来ずに飲み込んだ。そんな感情までストレートに読み取れる。その思いは、言葉は。耳ではない器官からはっきりと伝わった。
 背を青年に預けたまま深呼吸する。背後の人間は動かなかった。
 「ああ。よろしく頼むよ冬馬。後悔なら、この10年以上、ずっとして来たんだ。そろそろ決着をつける頃だ。安心しろ冬馬。もう俺の気は変わらない」
 肩口の頭に手をかける。軽くぽんと叩くと、背後の大きな身体がその腕ごときつく抱きしめた。その動きに、痛みに固まる身体から素早く腕を解き、カウンタのカプチーノを飲み干すと踵を返す。年相応な、明るい笑顔がそこに有った。
 日本語ではない小さな呟きを残して、しなやかな身体がCAFEから滑り出て行く。それは本当に滑る様で、物音もしなければ、空気すら動かない。裏口のドアが、ガチャリと音を立てて閉じて初めて、青年が出て行った事を長沢は納得した。
 Gracias.Lo amo.
 青年の言った言葉の意味くらいは分かる。有り難う、愛してる。良くまあ、そんな歯の浮く台詞が朝っぱらから言えるものだ。長沢が居心地悪く頭を掻くのと同時に、裏口で看板娘の明るい声がおはよう御座います、と叫んだ。

 
 そろそろ限界だと思ったのは、ランチのラッシュが終わる頃だった。
 週末の神保町界隈は至って閑散としているものだ。だから、体中の筋肉痛も騙し騙しやり過ごせるだろうと思ったのが甘かった。皮肉なもので、何故かこう言う時だけは混むらしい。
 神保町古本祭りはとうに終わっているし、この界隈に新しいアトラクションが出来たと言う話も聞かない。ビッグエッグのカード次第ではここらまで混む事もあるが、時間帯が違う。理由が分からぬまま、客に対応するが、どうにも不思議だった。
 週末対応で仕入れたパンがランチでほぼ掃け、焙煎済みのスペシャルブレンドの残量が危なくなる頃、長沢の限界もやって来た。階段ホールに飛び込んで可能な限りのストレッチをして戻った物の、痛みはいかんともしがたい。
 気の利く看板娘が、筋肉痛にはこれですよ、と、匂いが殆どしないと言う湿布薬を買って来てくれたお陰で、腕や脚は随分と楽になった。だが、一番辛い腰には自力で貼る事が出来ないのが情けない。いつからこんなに身体が硬くなっていたのか、改めて年月の流れと自らの衰えを思い知る。
 皮肉な事に本日の従業員は看板娘とアルバイとのみ、店員の北村は日曜は休みである。北村がいれば業務の空きに軽く、"ちょっと湿布貼ってくれる?"と"頼めたのだが、アルバイトは先程からミスの連発で、自分の頭の上の蝿を追うのに手一杯だ。奥田 早紀は。長沢の方が構える。四十をとうに越した親父が、うら若き娘の前で上着を捲り上げて頼みごとをするのだ。
 セクハラです。そう言われたら大切な看板娘を失う事になりかねない。
 客に気取られないように取り繕う内に、じりじりと時は過ぎ、ランチのラッシュが穏やかに去っていく。粗方の席が埋まったまま新客が影を潜めた頃、玄関ベルを鳴らして常連の一人が現れた。いらっしゃいませ、と顔を上げて、長沢は思わず心中で拍手をした。
 「良い所に来た、楢岡君! ちょっと、頼みがあるんだけど良いかな?」
 縋るような思いで、長沢がそう口走ってしまったのも、そんな訳で仕方のない事だったのだ。

 流石に、階段ホールに入った辺りで気付く。
 待てよ。一番気安い常連の一人ではあるものの、楢岡には最近とんでもない条件が加わったのではなかったか。その所為で、長沢は兎も角先方は不愉快な思いをして、とうとう金曜は姿を見せぬまま、今日になったのではなかったか。
 状況を全部反芻してから、そうっと背後の人影を伺う。長沢に押し付けられた湿布薬の箱を手の中で放り投げながら、憮然とした表情の楢岡がそこに佇んでいた。まずい。遅まきながら、やっとそこまで思い至る。
 「ああ、えっ…と、ごめん楢岡くん、俺がやっている事、やっぱ変かな」
 大きな奥目が、ゆっくりと向けられる。表情豊かな貌に、驚きと笑いがごちゃ混ぜに宿った。
 「ああ、気づいてくれた?俺、どうしようかと思ってたんだよね。これからKちゃん、俺を部屋に連れ込んで、湿布貼ってくれって、服脱いでくれる訳でしょう。それって誘っているのかよって突っ込むべきなのか、紳士的に介護すべきなのかどっちなのかな」
 答えられずに首をかしげる。人選を誤ったのかもしれない。
 「ごめん、じゃ、早紀ちゃんに頼……」
 「あっそ。セクハラ親父って一喝されればいーよ。じゃ、俺用無しね?」
 これにも答えられずに俯く。本気でどうしたものか考えていると、楢岡が大きくため息をつき、その後に続いて低く笑った。その顔を見上げようとする動作にも、背中が痛む。たまりかねて、長沢は両手を合わせた。
 「お願いします。楢岡くん、紳士的に介護してくれ。俺ちょっと、限界」
 

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