□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 のたのたと階段を上がって六畳の居間兼寝室によいしょ、としゃがみこむ。楢岡は先程から、低く笑いっぱなしだ。恨めしげに下から睨め上げると、とうとう小さく吹き出した。
 「Kちゃん、爺様みたいだぞ」
 「爺様なんだって。労わってくれよ。背中中痛くて、後ろに腕が回らない。頼むから後ろ、それ貼ってくれ」
 はいはい、と小さく呟いて、楢岡は長沢の傍らに膝をついた。エプロンの後ろの結び目を解き、長沢がのたのたとシャツをデニムから引き抜くのを待つ。
 「寝転がって、Kちゃん。触って場所確かめてからのが貼り易い」
 素直に頷いて、またもよいしょと寝転がる姿は決して格好の良い物ではない。無いのだが、愛おしいと感じてしまう程度には、楢岡は重症なのだ。
 最後に会った木曜日の夜、俺のカミサン、と妙齢の婦人を紹介され、その後に丁寧な振られ方をして、楢岡なりに相当失望した。
 フラれてしまえば本来関係ない筈の男が、その後"カミサン"とどうなったのか気になって仕方なかったし、SOMETHING CAFEの珈琲無しの珈琲ブレイクは物足りなくて仕方なかった。気まずくて顔が見られないと、SOMETHING CAFEに足を向けるのを止めたのだが、どうにも何かが欠落している感が拭い去れなかった。足しげく通い過ぎたのだと、自分を叱り付けても過ぎた時間は戻せない。中っ腹で神田署の食堂にいると、鷲津がやって来たのだ。
 長沢さんに渡すモンが有ったんだが、今日はSOMETHING CAFE、休みなんだな。行ったら閉まってたよ。
 それを言い訳に、今日はここまで来てしまった。扉を開けた後は、前述の通りだ。
 滑らかな背中に掌を這わせる。確かに凝っている気もするが、もともと筋肉が発達していない身体なのだ、筋張っていて良く分からない。
 「痛てて、そこ、らに貼ってくれる?」
 言われるままに大判の湿布薬を貼る。寝転がったままの身体が、冷たさにびくりとした後低く呻く。憎らしくなった。
 「大体、あんた昨日は奥さんと会ってた筈でしょうよ。何したらこんな破目に…。…―― え、まさか。何?じゃ、久々に夫婦で燃えた訳か?」
 「いや、フラれた」
 そこ、と指示された場所に手を置く。透明フィルムを剥がしながら簡潔な言葉に固まると、同じ喉が離婚届に判を押した、と続けた。
 「……え」
 「離婚した。厳密には届けが受理されて離婚だから、月曜以降になるけど、まあ、遅くとも今週中には俺は独り身の仲間入りだ。バツ1って奴。何だかどうにも頼りないモンだね」
 フラれた楢岡にとって、それはどうでも言い事の筈だ。この男が独り身だろうがどうだろうが、自分と結びつく未来の無い男なのだ。誰かと結ばれようが、それは楢岡の与り知らぬ事だ、どうしようも出来ない事だ。それでも。
 やはり、この男が他の誰かと幸せそうに肩を並べる姿を見なくて済んだと、心のどこかが安堵するのは止められなかった。
 「そりゃ……残念だったね」
 「うん、本当に残念だ。後悔しきりだ。でも自業自得だから仕方ないよ。楢岡君の言った通りだ」
 穏やかな口調に、妙な罪悪感が湧き上がる。フラれる辛さをリアルタイムで教えた相手だからと言って、相手もフラれて良かったと純粋に喜ぶ程、心は単純には出来ていない。曲りなりにでも愛おしい人間の不幸を願った心を、やましいと感じない人間はいない。
 罪悪感に沈む心を振り切るために、わざとおどけた口調で混ぜ返す。別段、見た目には変化の無い背中の皮膚に指を置いて、意味ありげに辿って見せた。
 「で? じゃ、この筋肉痛は何。自棄になって外堀ジョギングでもした。いや、違うな。おお、ここにキスマークあるぞ」

 えっ。

 予想外に頓狂な大声を上げて、楢岡が指し示した場所を手で隠されて、言った楢岡の方が身を固める。長沢は長沢で、大仰な反応をしてしまった自分に驚いたのか、瞬く間に赤くなって改めてうつ伏せに横たわる。間があった。
 「マジかよKちゃん!俺、冗談で言ったのに!! 相手誰よ。そもそも初めに男?女?商売?素人?」
 「う、うるさい。そこまで楢岡君に言う必要ないだろ。大体、商売だったら俺、逮捕すんのか」
 「……ああ、商売なんだ」
 本気でうろたえて言った言葉が、思わぬ説得力を持ったのか、楢岡の追求はそこで止んだ。妙に納得した様子で、何度も頷く。長沢は肯定も否定も出来なかった。
 やや暫く一人で頷いた後、楢岡は悪戯っ子のような笑みを浮かべてぐいと長沢の視界に割り込んでく来る。これ見よがしな笑みが憎々しいが、どう反応すべきなのか良く分からなかった。
 「商売ね。じゃ女だ、風俗だ。あのさー。40代の男が、女一人抱いてへばってちゃしょうがないじゃん。どうせあれだろ?風俗の梯子とか出来るタイプじゃないだろKちゃん」
 「………う、はぁ。……多分、はい。」
 「じゃ、相手はやっぱ一人だな。相手が幾らパワフルだろうがそりゃまずいわKちゃん。爺様だって言うけど、あんたまだ40代なんだから。これから一花咲かせる為には、少し身体鍛えた方が良いよ」
 「……はい」
 「で、どこの店?」
 「秋葉原のバニーピンク……」
 「選球眼はまずまず」
 それはそうだ。楢岡自身がつい一月ほど前にあそこは良いと散々吹聴した場所なのだから。
 誤解は有り難かった。無難に話を合わせるだけで誤魔化せるのは、非常に有り難かった。相手が誰であれ、自らの子供にも等しい年齢の青年と、今居るこの場所で抱き合っていたなどとは口が裂けても言えない。家族と言う大きな存在を失って、同志とか言う名の存在に縋りついたなどとはとても言えない。
 そうか、と不意に思う。
 自分は昨日大きな物を失って、からっぽになった腕に何かを抱き込みたかったのか。それで冬馬に抱きついた。
 背後に漂う死と不可思議の匂いと、先の見えない未来にしがみ付いた。その仲介役がたまたま冬馬だっただけだ。自分の子供程の年齢の、青年だっただけの事だ。
 そう自覚すると改めてどうしようもなく恥ずかしくなった。取り縋ったにせよ憂さ晴らしにせよ、自分は昨夜、子供程の年齢の青年に全てを任せて癒しを求めたのだ。すがり付いてしがみ付いて、俺にぽっかり空いた穴を埋めてくれと求めたのか。泣きついて支えられて、そのお陰で、今日もこうしてSOMETHING CAFEに居る。SOMETHIING CAFEを続けていられるのか。
 自覚すると、どうしようもない羞恥が襲って来た。顔が熱くて上げられない。
 「そんなに照れる事無いってKちゃん。男なら大概誰だって行くんだから。俺ばっかそう言うの晒してたんだから、たまにはKちゃんも無いと。安心してよ、俺黙ってるから」
 「勘弁、してくれ……」
 うつ伏せに面を伏せる長沢の背に、改めて楢岡が手を置く。貼った湿布薬を上から押えつけ、ついでのように軽く親指で筋肉の流れを圧していく。それが思いの他心地よかった。
 思えば警察官は何らかの武道を心得ているはずだ。多くは剣道か柔術だが、楢岡からそんな話を聞いた覚えが無いために忘れていた。武道をやっていれば、素人よりは遥かに怪我の扱いは上手い。特に痛む場所を、程よい力で圧す親指に、妙に感心する。そう言えば今朝方の冬馬もそうだった。生きる術を体得したゲリラも同じようなノウハウを持っているのかも知れぬ。
 「うわキク。気持ちいー……。ああそこ。イイ……」
 「別の状況で聞きたい台詞だよね」
 俯いたままの顔が浮かべている表情の想像がつく。何時もどおりの穏やかな笑顔。楢岡に見せる顔の殆どは店で万人に見せている表情と何一つ違わない。この十年あまりずっとそうだった。そしてずっと変わらないと諦めていた。諦めていた筈なのに。
 諦めきれずにぶち当たって、結果、綺麗に砕けた訳だがそれにしても。
 先程の情けない姿やら慌てた表情やら、イレギュラーに楢岡だけに晒される一面に、まだ希望を捨てきれずにいる自分が情けない。
 本来自分は女々しい方では無かった筈だ。相手に受け入れられれば大事にもするし、目一杯思いもするが、相手にその気が無いのなら。
 あばよとばかり踵を返して生きて来たのだ。無理なものはさっさと諦めて次に行くのが御互いの為と、存外綺麗に思い切れて、振り返る事も無かったのに。なのに。何を今更良い年をして、奇妙な未練を持て余しているのだ。
 「ああ、そうそう、これ、届けに来たんだ」
 楢岡の指に恍惚としていた頭に、厄介な言語が忍び入る。はっきりと反応を返す前に、うつ伏せになった肩に何かがそれなりの重量を持ってぼふん、と乗った。
 角2サイズの茶封筒。面は無地のままの素っ気無い封筒。長沢は、もぞもぞと腕を伸ばした。
 中身の一部を引き出すと、丁寧な字で書かれたメモのコピーが出て来た。簡潔に、項目別に必要事項が書き込まれた半頁ほどのメモ。それをめくると、その下にはPCからプリントアウトしたと思われる、新聞やら週刊誌やらの記事と、明らかに警察の内部文書の、いずれもコピーが続いた。
 ぼうっとした頭が急激に引き締まる。
 「楢岡君!! う。…これ!」
 声を出したタイミングで背筋を圧されて、覚えず呻き声が出る。楢岡がにやりと笑った。
 「予想外の驚キだろ?鷲津が昨日、ソレ持ってここに来たんだとさ。SOMETHING CAFE閉まってたって持って帰って来たから、代わりに俺が持って来てやったワケだ。感謝して」
 鷲津が言う「一連の事件」のレポートだ。長沢は慌てて、茶封筒にぶっきらぼうにまとめて入れただけの紙の束を引き出した。
 あからさまに単独調査の賜物だ。内部文書の少なさからそれは明白だった。殆どのデータはネットや図書館から引き出したもので、丁寧な字のメモは鷲津が書いたもの、時折出てくるワープロ文字の文書だけが、恐らくは警察機構の範疇だ。門外不出の、内部文書。
 「感謝する。感謝でも何でもする。でも……。うっわ――。よく、俺に見せる気になったなぁ」
 「奴さんもどんヅマっているらしいよ」
 ぱらぱらと頁を繰るだけでわくわくした。鷲津の手製のレポートは、恐らくはこの世でたった一つの、冬馬のバックに息づく「革命」の「関連文書」なのだ。
 「凄ぇ。…凄いよ、凄い。これは凄い」
 楢岡が背中で低く笑う。
 「近いうちに鷲津が来ると思うからさ、それまでに読んどけば」
 「ああ、うん。そうする。有り難う楢岡君」
 背中から指が離れる。替わりに降りて来た暖かい二つの掌が、ぽん、と背中を叩き、捲り上げていたシャツをひき下ろす。ため息混じりに立ち上がる人の気配に、長沢は慌ててレポートを封筒に戻して振り返った。
 その動作に痛みを感じなかった事に、心底驚いた。
 「凄いな! 信じられないくらい楽になったよ、有り難う楢岡君」
 「どういたしまして」
 派手なシャツと仕立ての良いスーツ。普通なら下品になりかねない組み合わせを自然に着こなしている厚みの有る身体が、綺麗とはいえない部屋をぐるりと見回した。
 ほんの少し、気まずく思う。
 思えば、楢岡をここに上げたのは初めてだ。楢岡だけではない。常連と個人的な付き合いを持たない長沢は、誰一人として他人をプライベートスペースに立ち入らせた事はない。常連だけではなく従業員も、この十年以上、誰も、だ。
 楢岡が小さくため息をついた。
 想像はしていたが、殺風景な部屋だと思う。TVとオーディオ、ノートパソコンと本、珈琲関連の道具類。タオルや時計や身の回りのこまごまとしたもの。それ以外に何も無い部屋は、店主に似ていた。穏やかで普通で飾り気が無く、少しばかり素っ気無い。
 踵を返して階段ホールへ向かう。と、店主が声をかけて来た。
 「楢岡君、あの」
 階段を二三段下りた所で立ち止まり、首を出す。奇妙な表情の店主が、茶封筒を片手に握ったままこちらを見つめていた。
 「その、もしかしてこれが無いと、君、SOMETHING CAFEに来辛かった?」
 ご明察。
 いつもの楢岡なら、間違いなくそう答えておどけていたろう。今日はその余裕は無かった。図らずも触れ合えた為に無理矢理テンションを上げた反動が徐々にやって来る。罪悪感と、小さなときめきと、その何倍もの空虚な想いが頭の中に渦巻いて、軽口を叩く余裕が無い。
 大体、答える必要もさして無いのだ。長沢のこうした言葉は大概、嫌と言うほど的を射ている。図星だ。まさしくその通り。ほぼ外れは無いから訊ねる必要も無い。楢岡はそのレポートを言い訳にして、何とかここを訪れたのだ。
 流石に肯定するのも躊躇われて、曖昧に長沢を見ていると、店主は大きく息を吐いた。
 「―― そっか。そうだよな。まったく、その。俺の不徳の致す所で。君には色々嫌な目見せちまっただろうけど、その……。
 こんな爺様気にせずに、またSOMETHING CAFEに来てくれよ。精一杯美味いカプチーノ、淹れるつもりだからさ」
 茶封筒を卓袱台の上に置き、ゆっくりと立ち上がる。今度はよいしょ、の掛け声は無かった。
 階段ホールの戸口に手をかけたまま、楢岡はじっと固まっていた。何時もどおりの穏やかな笑みを浮かべ、近づく姿を凝視する。まあその、君さえ気にしなければだけどな。気まずげにそう付け足されて、楢岡は深々とため息をついた。
 「もう最悪、あんた」
 「そ、そうか、すまん」
 またため息。
 「何だろ。こんだけばっちりフラれてるのに、言葉じゃきっぱりお断りされてんのに。俺全然Kちゃんに拒否されてる感じしない。それが、参る。
 常連として嫌われてないのは知ってるよ。でも、あんたって抱けば答えてくれそうな気がするし、その先も有りそうな気がしちまう。でも、こう言うとそれは無いって言われるんだ。俺、本当にタチの悪い男に引っかかったなぁ。
 ほらまた、そう言う顔するだろ。勘弁して欲しいのはこっちだよ。……もう良い。兎に角カプチーノ淹れて。美味い奴」
 すばやく階段ホールを下りて行く人影に、直ぐ行く、と声をかけて卓袱台に戻る。
 ノートPCと数冊の本と、その上に置かれた茶封筒の元に戻る。
 茶封筒に指を這わせる。思わず笑みが零れた。
 素晴らしい宝が手に入った。これもひとえに警察という、国家の大いなる機構のおかげだ。その大きな縦社会の中満たされぬ、個人の野望のお陰だ。鷲津の、ひいては楢岡のお陰に違いあるまい。楢岡が鷲津の友達で、何やかやと長沢を引き合いに出さねば、このレポートの行き先候補に長沢の名が挙がる事は決してなかった筈なのだから。
 意識の端でちらりと思う。
 楢岡に欲望を抱いた事は無い。特別な感情も無い。話題が豊富で話していると面白い男で、常連の中では最も気安い存在だが―それだけだ。
 だが、こんな宝をくれるなら。新しい可能性へ導いてくれるなら、拒否と言う選択肢は無い。世の中、そう言うものじゃないか。
 思えば自分はいつも幾つもの選択肢を秤にかけて、素直に重い方を選んで来た。秤の片方にモラルや意地やプライドが乗る事もあったし、そちらが軽くなった時も有った。そんな時に重い皿を手にする理由は、幾らでも作れた。目的の為には自分を納得させる術など、幾らでもあった。自分ほど、容易く説得できる存在など他に無い。今も、多分そうだ。
 「先……ねぇ。こんな利己的な男の心が欲しいとさえ言わなけりゃ、何だって手に入るだろ。お宝次第でさ。
 ………確かに俺、最悪だ。楢岡君の言うとおり」
 

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