□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 オフホワイトに静まるスイートの一室で、一瞬、言葉が耳の中で空回りした。
 目の前の男は何と言ったのだろう。違和感のある響きが耳の中に残っていた。
 悪い事は言わない。そう言った。そうだ、この男なりの助言をくれたのだ。尊大で傲慢な男ではあるが、その言葉の正当性だけは冬馬はいつも認めている。悪い事は言わない、それから。

 「悪い事は言わない。啓輔は止めて置け。ろくな物じゃない。保障するよ、何しろ。
 ……… 私の使い古しだ」

 ああ。
 妙に納得した。男の言葉の中に織り込まれた所有権の意味を知る。
 手の中の長沢に目を落とす。まだ冬馬がほんの子供で、ペルーのアヤクチョの教会に居た頃の、長沢の姿に目を落とす。その時代。
 目の前の男は、長沢と共に居たのだ。新都銀行営業部長と言う肩書きを持つ長沢と。
 ああ。
 「―― そうか、気の毒に」
 息を吐くのと同時に、静かに言葉を吐き出す。眉間に皺を刻んで、尊大な瞳が持ち上がった。
 整った白い顔に怪訝の色が浮かぶ。白い睫毛がしばたかれる。北極熊の瞬きもこんなだろうかと青年は思った。
 「あんたは啓輔を逃してしまったんだな。残念なことだ。
 大丈夫だ。今も啓輔は元気でやっている。この写真よりは幾分か老けて、今は髭を生やしているが、それ以外恐らく、大して変化は無い。頭は相変わらず良く動くみたいだし、細くて非力だ。優しくて、細かくて、頑固だ。弱い癖に厄介事に乗り込んで来て不安だろうが、大丈夫だ。
 俺が守るから、安心していてくれ」
 いつも険のある表情から、険しさが掻き消える。深く刻まれた眉間の皺も、きつく引き結ばれた口許も、全ての造作から緊張が失せる。そこに有るのは純粋に驚きだった。
 脇に座っていた桐江の方がいたたまれずに身を固める。大貫は大きく息をついた。
 「……その、発想は無かった」
 奇妙な声が聞こえて、ワゴンの周りで寛いでいた人々が振り返る。自然、静まる部屋の中に、くつくつと笑いをもてます大貫の息が広がって、全員が奇妙な音の正体を知る。ワゴンの前は即席の視線交換会となった。
 辛辣な批評家でスピーカである大貫の役目は、広範な知識を使った解説や分析と、その場の雰囲気の破壊だ。皮肉で場の雰囲気を壊す事はあっても、笑いで空気を和らげる事などは有り得ない。
 畔柳に渡されたカナッペを羽和泉が口に入れたタイミングで、堪え切れなくなった大貫が吹き出す。弾けるような笑い声がスイート中に響く。同じタイミングで、ソファから桐江がやって来た。
 バスバリトンの笑い声が広がる。広い胸郭に似合いの良く響く笑い声は、思いの他朗らかだった。余りに可笑しそうに笑うので、事情を知らない人々がその声に思わず笑顔を貰う。傍で全ての会話を聞いていた桐江だけが複雑な表情だった。
 「…へぇ。大貫君もああ言う風に笑うんだねぇ。彼が大笑いするのなんて初めて見たけれど、笑っていれば普通の人だぁ。楽しそうだけど何があったの?僕にも事情を教えてくれよ」
 カナッペを噛み砕きながら、呑気な声で羽和泉が言う。何人かが、教えてと言う言葉に頷く。興味深げな瞳が何セットか桐江に向けられる。
 空の珈琲カップを片手に、苦笑を浮かべながらポットに手をかけた桐江の動作を、畔柳がしなやかに奪い取る。私が致します、と言う変わりに小さく首を振り、珈琲を注いでカップの縁を拭う。
 八分目まで珈琲を注いだカップと一緒に捧げられた注視に対する桐江の答えは、小さく首を振る事だけだった。
 「さて」
 まだ笑いを収めきらないバスバリトンが言って語尾を吸い込む。
 呼吸一つで空気が変わる。ここまでは雑談、ここからは本番だと、その呼吸が言っていた。
 ワゴンの周りの人間が、誰からとも無く振り返り、まるでその呼吸を号令にバラバラと各自のスタンスに戻る。紅い双眸はたった今までの笑を忘れたようにぴしゃりと元の光を取り戻し、冬馬の上に落ち着いた。
 「私の皮肉は君には効かないようだ。本題に入ろう。次の"話"だ」
 窓の外に雲が流れる。影の色が変わる。全員が小さく頷いた。
 「その先は僕がお話いたしましょうかね」
 料理の皿をすっかり終えた垣水第一部長が、ゆっくりと椅子から立ち上がる。集団の真ん中へ進み出る。ほぼ同時に冬馬と唯夏が二人並んで壁に寄りかかる。いつ頃からか、これが習慣になっていた。
 このチームでの「実働隊」は二人きりだ。理屈ではない、互いの呼吸を合わせる必要性が有る。傍に寄って、互いの呼吸を肌で感じる必要性を、いつ頃からか互いに感じた。会話でも、相互理解でもなく、ましてや深く触れ合うセックスでなく、こうして同じ空間にただ住まう。共に呼吸をする。吸って、吐く。そんな単純な事が、互いを近づけていた。そんな単純な事なのに、何故か深く繋がった。
 冷たい瞳同士を投げ合う。一瞬絡め、お互いに解く。
 今の段階では。世間話をする口調の垣水が言う。無駄な緊張も誇張もない、静かな話の始まりだった。その場の全員が聞き耳を立てた。
 「ターゲットの細かいデータはまだ申し上げられません。ただ、今回は僕からの動議だと言う事は申し上げて置かないとね。何故なら今回のターゲットは僕に…公安調査庁に深い関係を持つ人物なものですから。そう。――法曹会の人間です。
 その関係で、今回は厳密に期限を切らせて頂く必要が有ります。何しろ、"公判"と言う物が有りますのでね。この"話"の期限は12月25日13時丁度。それ迄にきっちり終わらせねばなりません。
 諸所の事情から、今回は、お二人共に動いて頂く。よろしいかな」
 冬馬と唯夏。二人が同時に頷いた。
 
 会議の時間は三時間弱で終了した。
 終了すると三々五々解散となる。決して肩を並べて出る事はせず、それぞれが時間を空けてバラバラに出て行くのだ。
 小手先の技かも知れぬ。メンバーの中の誰か一人がマークされ、辿ろうとする勢力が現れれば、容易く尻尾をつかまれてしまうかも知れぬ。だがそれも皆覚悟した上で、メンバーは集まり、立ち去るのだ。
 最後に残るのは、いつも害の無い畔柳と決まっている。メンバーの中では一番目立たず、肩書きも容易く隠す事が出来、しかも幹事等の役目にふさわしい外見と雰囲気を持ち、ホテル等の一室を借りても印象に残らない。畔柳は極秘裏の会合の後始末には格好の人材なのだ。
 肩書きだけで言えば、白紙に近いのは冬馬と唯夏だ。だが、二人は前述の最後の項目に引っかかってしまう。ドラッグパーティを主催しても違和感の無い冬馬と、若いホテルスタッフが思わず記憶してしまいそうな唯夏では、この役目に相応しくない。
 だから。全員が部屋から去るまで、畔柳はゆっくりとカップを傾けている。
 最初に羽和泉が去り、その次に垣水が去る。桐江一等陸佐が去り、四番目に唯夏が身を翻した。
 「冬馬」
 クールなアルトが名を呼ぶ。冬馬は目を上げた。
 肩を覆うまでに伸びたつややかな黒髪が、視界の中で軽く踊る。つややかで量の多いストレートの黒髪を、男達がどうしたいのか良く知っている冷静な面の双眸が、ワゴンの端に軽く腰をかけたままの冬馬に注がれる。美しい女だと思う。整っていて、理知的で、冷静で、おまけに有能だ。彫像のようで、出来すぎていて、少しも面白くない。
 「新キャスト参入には誰もが反対だ。許される事じゃない。なのに何故強引に推し進める?」
 「俺には必要な事だからだ。決めた事だ。マイナスにならない。プラスになるなら使わない道理が無い」
 呆れた、と言わんばかりの溜息。
 「私はお前と組む。次の"話"ではそうなる。それは全然構わない。お前の力は知っているし、買っている。だが、私はその男と組むつもりは無い」
 言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、大丈夫だと被せられて、唯夏は口をつぐむ。その言葉の意図が知れなかった。いつも無表情な青年の、楽しげな笑みの意味は更に分からなかった。
 「お前も直ぐに俺の言っている意味が分かる。安心しろ。啓輔は役に立つ」
 再び溜息。一つ分かるのは、この男に今、何を言っても無駄と言うことだけだ。
 「よく覚えておきなさい。お前を私の相棒として認めても、その男は認めない」
 冬馬の反応を待たずに踵を返す。軽い靴音だけ残して、整った肢体がスイートから消える。部屋の中に残っているのは、冬馬と大貫、そして畔柳だけだった。
 ソファに沈んだままの大きな身体に、冬馬はゆっくりと目を運ぶ。こうしてみると、日本人の骨格と言うのは小さいのだと改めて思う。決して太っている訳ではないのに、大貫と自分では身幅が違うのだ。肩幅が、違うのだ。
 横幅の狭い、奥行きの深い頭が持ち上がる。深く沈んだ姿勢から、一気に立ち上がる。一ゆすりしてスーツのポジションを直し、扉が開いたままのクローゼットからコートを掬い取る。
 「さっき、何故笑ったんだ?」
 コートに腕を突っ込んだタイミングで青年が問う。大貫はそちらに目を運んだ。
 水上冬馬。羽和泉基の妾腹の子。
 羽和泉自身も妾腹の子で、おくびにも出さないがそれなりの苦労は有ったと思われる。それをして、全く同じ事を繰り返し、挙句まんまと海外でテロリストに取り上げられ、命からがら帰ってきたら今度は刺客に使おうと言うのだから、政治家と言う存在は何処までも邪悪だ。朗らかな笑顔と情に厚そうな振る舞いで、平然と民衆を騙す、悪魔もはだしの存在だ。
 だが、それでなくては何も出来ない。大貫はそう思っている。そう言う意味では羽和泉は合格だ。
 また、その父に従って痛痒を感じていないこの青年も、非常に面白い存在である事は確かなのだ。
 「何故? 可笑しければ笑う。それだけの事だ」
 「何が可笑しかったのかと聞いた」
 決まっている。
 言わずに、口の端だけ持ち上げて笑う。青年があからさまに不機嫌な顔をするのが可笑しかった。
 何が可笑しい?決まっている。すっかり恋に逆上せ上がっている表情が、判断基準が、その全てが余りにも開けっ広げなのが滑稽で可笑しいのだ。
 余りにも滑稽だから、恐らくは一番傷つくであろうと思われる言葉を投げかけて見た。驚き、疑い、嫉妬する様を見るのも一興と思って仕掛けたのに、逆に元気を出せと励まされたのは新鮮な経験だった。自分の言葉も青年の不思議なフォローも滑稽だった、それに。
 普段はおよそ常識的な反応をする"あれ"が、この青年をどう見ているか、どう振り回されているか、不意にあの瞬間透けて見えた気がして滑稽だったのだ。そうだ。"あれ"が。
 青年の肩に掌を置く。
 「分かっていると思うが……」
 「分かっている。この場で話し合った事は口外無用。例えそれが親であれ子であれ伴侶であれ。……啓輔には言わない」
 一拍の呼吸を置く。
 「―― 今は。」
 苦笑が漏れる。青年は必死だ。良くも悪くも、純粋で必死で、滑稽だ。何もかも滑稽だ。滑稽だから。
 崩してみたくなる。
 「― ― ―」
 「え?」
 青年の耳に、短い一言を注ぎ込んで行き過ぎる。コートを翻してスイートを抜ける。
 「それだけ伝える事だ。それで充分だ」
 扉を閉める。大股で廊下を進む。背後の困惑の気配と、纏いつく過去が遠ざかった。
 

 
 展望エレベータを降り、瀟洒なロビーを抜け、地下駐車場に入る。電子キィで扉を開けると同時に、背後で人影が動いた。
 「桐江だろう。乗っていけ」
 「お言葉に甘えます」
 鍛えられて均整の取れた身体が、軽い靴音と共に駐車場を進む。部屋で散会しても、駐車場で待っていては元も子もないのだが、そこ らは慣れた物だ。相当に気を使って周りを見渡した大貫の目にも、ドアを開けるまで桐江の姿は何処にも見つけられなかった。
 慣れた仕種で、大貫のベンツS600の助手席に滑り込む。磨かれたインパネ、ミラー、フロントグラス。大貫の車にはいつも塵一つ無い 。それが心地よかった。
 普通の官僚なら。特にキャリアともなれば秘書の運転するベンツの後部座席にふんぞり返っているのが普通だ。車に愛着など無いから 適当に汚れているし、車の汚れは秘書の責任であって官僚の知った事ではない。彼らの興味の対象は女と力と金で、高い志を持つ者など、まず居ない。
 その点、大貫はまるで違っていた。
 辛辣な批評家で皮肉ばかり言っている男だが、国を愛し、誇りを尊び、自らを自らの戒律で律する男だ。
 ノンキャリをお前とは呼ばず、机に靴を乗せてふんぞり返ったりなどはしない。公用車ではなく自分の愛用のベンツS600を自らが運転 し、公務もプライベートもこなす。自ら何処へでも赴く。車中での会合等、特別な事情でもなければそれは変わらず、秘書をプライベートに引き込む様な真似は決してしない。当然、今日のようなプライベートは、愛用のS600を手ずから転がして動くのだ。
 妻と二人の優秀な子を持ち、良き夫であり良き父であり、浮いた噂の一つも無い。当然ながら誘惑は多く、実際はそれなりの事態はあるのだが、事が表層に現れないのは大貫の人選が正しいのと、彼が人並み外れてふてぶてしいからだ。
 強請りたかりから脅迫事件に発展しそうな事態も、好きにしろと突っぱねられると人間は一瞬躊躇する。裏を疑う。その隙に大貫の優秀なスタッフがきっちり裏を塞ぐのであるから、殆どのトラブルはここで終わる。
 口は大きいが隙が無い。実績と実力を併せ持つキャリア。上から見ればどうにも目障りで、煙たい存在に違いないのに、誰も彼を失脚させるだけのネタを持たず、未だに彼は主計局と言う出世コースのど真ん中に居る。
 当然ながら、今まで何度も危機は有った。その度に彼を救って来たのは、部下やかつての敵だった。ふてぶてしく、優しいとはとても言えない個性の中心を貫く矜持に、多くの人が感じいる部分が有るのだ。
 人は誰でも強く、毅然とした己自身を夢見る。だが現実社会において、それを貫ける人材はまず居ない。その理想に近い人材を見つけると、思い切り拒否するか、存外その人に囚われるものなのかも知れぬ。
 桐江自身もそうだった。初めて大貫に会った時は、その尊大さと傲慢さに辟易した。だが驚いたのだ。その高慢な男が、主計官が。自ら基地に赴き施設の実地検分をしていったと言う事実に。キャリアでかつて、実地検分の為に基地を訪れた者など、ただの一人として居ない。
 シートベルトを締める。運転席に回る大貫の、しなやかな動きを眺める。官僚にしておくには惜しい。身のこなしは鍛えられたレンジャーのそれに近いのに。
 大貫はゆっくりと運転席に乗り込んだ。ドアを閉め、シートベルトを……締めずにそのまま助手席 に覆いかぶさる。
 「……んっ…」
 桐江の引き締まった首筋に手をくぐらせて引き寄せ、緩く閉じられた唇を乱暴に舌で割る。急激な動きにシートベルトががちりと音を 立てて、桐江が低く呻いた。
 深く舌を押し込むと、一拍遅れて桐江も自らのものを絡めて来る。両腕を大貫の頭に絡めて、頭髪の中を指で辿る。その仕種に余裕が 無かった。
 「抱きたい。やらせろ」
 口を離すや否や、バスバリトンが囁く。耳許に沈む声にぞくりとした。
 「ストレートですね。いつもなら"時間は有るか?"が最初なのに」
 「どうせお互い時間は無い。本当は聞かなくても良いくらいだ。私が来るまでお前はここで待っていた。それにお前ももう、ギリギリだろう」
 苦笑。短いキスをして、相手のネクタイを直してやる。それだけで充分だった。運転席についてシートベルトを締める。この後のコー スは決まっていた。
 いつもどおり、大貫の別宅に二人で行き、そこで時間を気にしながら束の間互いを貪り合う。欲望がはれたら、何事も無かったように 互いの社会に戻って行く。そのまま会わず、会話もしない。甘い言葉も、温い時も無い。どうしても相手が欲しくなれば、業務連絡の形で連絡を取り合い、同じ事を繰り返すだけだ。
 大貫に不満は無かった。桐江から不満を言われた事もなかった。互いに納得していた。
 413号線から外苑東通りに入る。この時間にしては渋滞も無く、緩やかに町並みを抜ける。冬馬の言葉が蘇った。
 何故、笑った。
 笑った理由か。大貫は思う。滑稽だったからだ。必死さが、不器用さが。
 まるで昔の自分の片鱗を見た気がして、それが余りに滑稽だったからだ。
 アクセルを踏む。S600、5.5lDOHCエンジンが軽やかに吹き上がった。
 

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